「わたしは門である」と主イエスは語られました。素晴らし言葉ですね!
皆さんは「門」と言われるとどのようなイメージが浮かぶでしょうか?
わたしは「門」ということでさ~っと頭をかすめたのは、夏目漱石の小説「門」でした。この小説は、親友の奥さんを奪ってしまう過去の罪が主題。
創世記28:17のヤコブの驚き。「ここは、神の家、天の門だ!」と叫ぶ場面。ヤコブが長子の相続権をめぐる問題で兄の殺意を逃れ絶望の石を枕にした時の告白。自分の罪に気づき真っ暗闇から天を仰ぐ、そこが天国の入り口。
詩篇100:4「感謝しつつ主の門に入り、ほめたたえつつその大庭に入れ。」礼拝の喜びと開放。それは天国が開けるような神の臨在と将来への希望。
使徒行伝12:10 「門はひとりでに開いた」。ペテロの投獄と迫害の試練のただ中から、天使に導かれて、外に逃れるとき、牢獄の門はひとりで開いた。
黙示録4:1 「わたしが見ていると、見よ、開いた天にあった。」ヨハネはパトモス島で祈っていた時「天に開いた門」を見つけ、玉座に座る神を見た。などと、「門」に関するイメージがたくさん浮かびました。
【今日の聖書箇所の概説】
今日の礼拝で取り上げるヨハネ10章というところは、たいへん有名な箇所の一つでも、もありますねで、イメージの強い箇所です。主イエス様は、ご自分を「羊の門である」と語られました。そしてそれから、「わたしは羊飼いでである」とも語られました。詩編23編の新約篇のようなものですね。
一見すると、それは牧歌的なうららかな信仰の告白のように見えますが、しかし、この個所を丁寧に見ると、実は9章の「盲人の癒しの奇跡」とその盲人が迫害を受けて、ユダヤ人の共同体を追われる、という出来事、そして、主イエスとユダヤの宗教的なリーダーたちとの論争の結論のようになっています。主イエスが「本当の門」であり、「永遠の命を与える良き羊飼い」であり、ユダヤのリーダーたちが、「盗人、強盗」(1,8,10節)であると宣言され、彼らは怒って「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、石を取り上げた」(31節)と報告されている厳しいところです。この10章の概略は以下のよう。
1~6節 門から入るものが羊飼い。門から入らないのは盗人、強盗。
7~10節 主イエスは門。そこから入門すると「救いを得、豊かに得る」。
11~18節 主イエスは良き羊飼い。良き羊飼いは羊のために命を捨てる。
19~42節 これを聞いたユダヤ人は、主イエスを拒絶し、殺そうとする。
今回の説教は、このヨハネ福音書10章の主題の一つ、主イエスが「わたしは門である」と語られた内容をご一緒に考えてみたいと思います。
先週、先々週で、ヨハネ福音書には、「わたしは・・・である」と言う宣言が7回なされていることを学びました。イエスキリストこそが終末的な神から遣わされた救い主であることを示している表現と学びました。その7つ、皆さんと共に、声に出してお読みしてみましょうか。ここに聖書語る、神様の救いと愛の宣言があるからです。
「わたしは命のパンである」(6:48)、
「わたしは世の光である」(8:12)、
「わたしは門である」(10:9)、
「わたしはよい羊飼いである」(10:11)、
「わたしは甦りであり、命である」(11:25)、
「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)、
「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)。
今日は「わたしは門である」との内容を学びましょう。
【メッセージ・ポイント】
1)、1 よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。2 門からはいる者は、羊の羊飼である。3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。(1~3節)
⇒「門」から入る、まことの羊飼い。「盗人、強盗」についてゆくな!
この「羊の囲い」とか「羊の門」の理解は、ある程度の当時の羊たちが飼われていた状況とか、行動がわからないと混乱してしまいます。注解書などには、当時の牧羊の状況などが記されています。多くの羊を飼っている牧場は、「羊の囲い」が石などで作られており、夜になるとその囲いの中に羊を入れます。門番がいて、門の開け閉めをしてくれて、羊飼いが羊たちを連れてやってくると門を開き、中に入れる。そしてまた門を閉じます。羊飼いは羊たちの責任を負い、丁寧に愛をもって羊たちの健康や傷の有無や出産など、万般にわたって面倒を見ます。その責任のある羊飼いは、必ず門から出入りする。しかし、たまにやってくる、羊泥棒などは、門からではなく、隠れて、門以外の所から入ってくる。それはまさに「盗人であり、強盗なのですから、気をつけなさい」と語られています。
現代においても、「わたしは再臨のキリスト」とか「現代の預言者」とか言って、多くの人を惑わす人物がおります。数年前にいわゆる統一教会の教祖が亡くなり、組織が崩れて、多くの混乱があり、わたしたちの教会にも、それらの流れの中にあった集会から、誘いがありますので、気を付けましょう。
2)7 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。 (7-9節)
⇒ 主イエスこそ、「門」であることを知れ!
この箇所で、大事な主イエスの宣言があります。「わたしは門である」(9節)また、「わたしは羊の門である」(7節)との宣言です。
「門」というのは、入り口を意味します。羊の囲いの門のことです。主イエスを通って入るものは救われると聖書は宣言します。主イエスを信じ、その十字架の贖いの門から、入りなさいと語られています。自分の罪を赦され、贖われて、新しい人生に歩む。その人は門を出入りして、牧草を見つけるのです。
「門」( ギリシャの言葉ではthura = 英語ではdoor あるいは gate)」というのは、唯一の入り口を意味しています。羊の囲いの入り口のこと、「羊の囲い」というのは、羊が飛び越えられないように高く積み上げられた石垣、唯一の入口が門でした。ここでは二つのことが言われる。一つは、「真の牧者は、キリストという門を通って行かねばならない」。キリストの門から入らないのは、盗人であり、強盗である。これは暗にユダヤ教のパリサイ人をさしている。二つ目は「全ての人はキリストという門を通って救われるのである」ということです。即ち、主イエスの十字架の贖いのめぐみを知り、へりくだって、信仰の告白をもって、その門を通過するのである。それは狭き門なのです。自分がが罪人であることを認めねばならないし、おのれの醜さを十字架の上に見つめねばならない。それはキリストの十字架の門です。「この門を通って入るものは救われる」と聖書は宣言します。主イエスを信じ、その十字架の門から入る者、自分の罪を赦され、贖われて、新しい人生を発見する者、それを、「救われ、出入りし、牧草を見つける」と表現しているのです。
3)、わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(10節)
⇒ 主イエスの十字架の門を通って、神の永遠の命をの充実した生活を!
主イエスがこの地上に来られたのは、「羊が命を受け、しかも豊かに受けるためである」。この言葉は、アメリカのビル・ブライト師が主宰される、キャンパス・クルセードのパンフレットの最初の方に出てくるので印象に残っています。主イエスがこの世界に来られたのは、わたしどもが命を受け、それを豊かに受けるためであるというのです。
【まとめとして】
- 夏目漱石の小説「門」でした。この小説は、親友の奥さんを奪ってしまう過去の罪が主題。 ⇒ 罪の認識
- 創世記28:17のヤコブの驚き。「ここは、神の家、天の門だ!」と叫ぶ場面。ヤコブが長子の相続権をめぐる問題で兄の殺意を逃れ絶望の石を枕にした時の告白。自分の罪に気づき真っ暗闇から天を仰ぐ、そこが天国の入り口。 ⇒ 神からの一方的救いの光を知り受け入れる。
- 詩篇100:4「感謝しつつ主の門に入り、ほめたたえつつその大庭に入れ。」礼拝の喜びと開放。それは天国が開けるような神の臨在と将来への希望。 ⇒ 神を礼拝することの喜び。
- 使徒行伝12:10 「門はひとりでに開いた」。ペテロの投獄と迫害の試練のただ中から、天使に導かれて、外に逃れるとき、牢獄の門はひとりで開いた。 ⇒ 神様は、試練の中で脱出の道を備えたもう。
黙示録4:1 「わたしが見ていると、見よ、開いた天にあった。」ヨハネはパトモス島で祈っていた時「天に開いた門」を見つけ、玉座に座る神を見た。
⇒ 最後は、霊の目が開けて、天国の門を見る!
【祈祷】主よ、今日も、素晴らしい御言葉を感謝します。「わたしは門である」。主イエスの十字架の救いの正門から入って、救いの道をまっすぐに歩ませてください。恩寵充満の日々を歩ませてください。命をも捨てたもうほどに、われらを愛して下さる主イエス様よ。この週も導いてください。イエスよ、あなたはわたしたちの「救いの門」です!御名によって祈ります。アーメン
