新宿西教会特別礼拝説教「信仰による第一歩」ヨシュア記3:9~17 佐々木良子牧師(4月までドイツケルンで日本人教会宣教師9年間:現在・京都復興教会協力牧師) 2025年7月27日(日)

ヘブル人への手紙4 章14-16 節         

 本日の聖書の箇所はヨシュア記だが、ヨシュアという人、そしてヨシュアに率いられるイスラエルの民も、一つの大きな時代の区切りに立っていた。彼らをエジプトから導き出したモーセという偉大な指導者は世を去った。神によって新しい指導者ヨシュアが立てられた。目指してきた約束の地は、ヨルダンの向こうに広がっていた。

 イスラエルの民の40年間の放浪の旅は終わり、いよいよ最後のクライマックス。一つの時代が終わり、新しい時代が始まろうとしていて、大きな決断が迫られていた。彼らはそこにおいて神からいったい何を聞いたか。彼はその言葉にどのように応えたのか。
私たちは毎週日曜日毎に聖書に耳を傾け、神の言葉を求めてここにいる。

復活して今も生きておられる主の御言葉を求めている。しかし、私たちが本当に「神の言葉」を求めているかどうかは、繰り返し自らに問わねばならない。神の言葉が、神の言葉として求められ、聞かれるところにおいて、神の御業が豊かに現わされる。

                                                                                                                                                                                          聖書の言葉を外から眺めるかのように宗教一般の話をしている限り、人間にとって無茶で不可能なことでしかない。しかし、イエス様に従おうとする者として、この「わたし」に語りかける言葉として、その中に身を置いて聞く時に、いろいろ見えてくることがある― その中に身を置かなかったら分からない。

自らの身を置かなければ分からない。外から眺めていても分からない。

しかし、その人が自分自身に関わる神の言葉として聴き始める時、他ならぬ私に対して語られている神の言葉として聴き始める時、事態は変わってくる。

自分の身を置いて、初めて見えてくることがある。

本日の箇所も、過去の旧約時代の出来事として外側から聞くのではなく、今日、この今、私たちにもどのような決断が迫られているのかを共に見てみたい。

私たちの人生もいつも、決断が迫られている。究極、私たちの人生は小さな決断から大きな決断の連続といえる。その時、どのように対応していくのか。


このヨシュア記は次のような言葉から始まる。1:1‐2(新共同訳)

「主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。『わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい』」

そのように、「ヨルダン川を渡れ」という主の命令から始まる。
それから彼らは三日をかけてヨルダン川を渡るための準備をした。ついに3

章に入り、ヨルダン川を渡るために彼らはシティムを出発する。

ところが3章の冒頭には次のように書かれている。

「ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した」(1節)。
 宿営地シティムからヨルダン川まで、10キロほどの道のり。朝早く出発したから、どんなにゆっくり歩いても午前中には到着したはず。しかし、彼らはその日のうちにヨルダン川を渡らなかった。そこには「野営した」と書かれている。その次に「三日たってから」と、三日間、ヨルダンの岸辺で野営していた。
  なぜそこに三日も留まっていたのか。渡りたくても渡れなかった。

15節には「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていた」と書かれている。春の刈り入れの時期というのは、遠いレバノン山の雪が解け、ヨルダンの水かさが増し、両側の低地に水が溢れる時。その濁流泡立つヨルダンを前にして、彼らはどうすることもできなかった。民の中のには老人たちや子供たちもいる。皆が渡ることは極めて困難なことだった。
 主は「ヨルダンを渡れ」と言われる。ヨシュアも民も従いたいと思っている。

しかし、現実にはそこに渡れない川が。

「ヨルダンを渡れ」と主が言われることがある。主が向こう岸を指し示しておられる。主が与えようとしているものを指し示しておられる。そのために従うことを求められる。御言葉に従いなさい。ハードルの高いヨルダンを渡りなさい、と。そして、私たちも分かっている。御言葉に従うことが最善であると。しかし、現実には、ヨルダンの川の水は堤を越えんばかりに満ちている。ヨルダンを渡ることは極めて困難に思える。

ヨルダンの岸辺に野営していた三日間。「現実」を前にした三日間。そこにおける心の葛藤。私たちにも覚えがある。もしかしたら、三日間ではなく、もう長い長い間ヨルダンを前にして野営している人がいるかもしれない。
 濁流泡立つヨルダンを前にすると、いろいろ言い訳したくもなる。

「聖書はそう言っているかもしれないけれど、現実にはそうはいかないよ」。

「説教で語られていることは分かるけれど、実社会ではそんなことばかり言っていられないですよ」。「時が悪いよ、時が。」 

そう言って従うことを後回しにし、先送りにしたくなる。

そして、やがては生ける神が語りかけられる言葉を求めなくなる。そうではなくて、自分の現状を肯定してくれる言葉ばかりを求めるようにもなることも起こる。

 自分自身を聖別せよ!
 三日経った時、ヨシュアは民にこう言った。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる」(5節)。

困難が目の前にある時こそ、神の驚くべき御業を見る時でもある。しかし、その前にヨシュアは言う。「自分自身を聖別せよ」と。
 自分自身を聖別するとは、元来神のために、神のものとして取り分けることを意味する。自分自身を完全に神のものと見なし、神に自らを捧げるということ。
 私たちはいったい何ものなのか。私たちは主のもの。

キリストの血によって贖われた私たちにとっては、なおはっきりと示されている。

そのように「自らを聖別する」こと。そのようにして自分自身が何ものであるのかをはっきりさせること。主の民であるということをはっきりさせること。

それこそが、ヨルダンを前にして立ち、決定的な時代の区切りに立った彼らに求められていたこと。それがあってこそ「主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる」という言葉も続く。それがあってこそ主の御業を見る。

そのように語ったヨシュアに、主はこう言われた。「あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい」(8節)。これは、ある意味で無茶苦茶な命令。

ヨルダン川の中に立ち止まれるくらいなら、とうの昔に皆渡っているはず。

水かさは増し、まさに水は堤を越えんばかりに満ちている。そのような中に入って行ったら、たちまちのうちに足をすくわれてしまう。しかも、これを契約の箱を担いで行えと言う。大事な契約の箱が流されてしまったらいったいどうするのか。

無謀に私たちだけで行けとはおっしゃらない

10節「生ける神があなたたちの間におられて・・・」

11節「主の契約の箱があなたたちの先に立って・・・」

それは、神が共にいてくださるから、踏み出すことができる。

本日の聖書箇所はもう一カ所、へブル書が読まれた  4:14‐16

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」

神の御子であるのに、弱さを身にまとう人間の一人として生きてくださった。そして自らは罪のない御方であるのに罪人と同じところに立ち、私たちと同じように死を免れぬ人間として生きてくださった。人間の一人として苦しみを味わってくださった。キリストは叫んだ。泣いた。父にすがりついた。

私たちが信仰によってキリストの復活に目を向けることができるなら、確かに希望を失うことはない。なお神様に信頼して従順であり続けることは時としてとても困難である。しかし、そのような私たちのために大祭司なるキリストがいてくださる、とヘブライ人への手紙は語る。わたしたちと同様に試練に遭われた。だから分かってくださる。私たちの苦しみも分かってくださる。私たちが無知で迷いやすい者であるということも分かってくださる。そして、この大祭司が分かってくださるならば、生きていける。耐え忍ぶことができる。苦しみの時を、従順を学ぶ時としても受けとめていくことができる。たとえ迷ったとしても、そのような大祭司が執り成してくださるから、今一度立ち返り、神に信頼して生き始めることができる。多くの苦しみによって従順を学ばれた御方と共に、父なる神に信頼し、従っていくことができる。


主はそこで、あえて信仰の一歩を踏み出すことを求められる。具体的に一歩

を踏み出すことを求められる。

ヨシュアは民にいった。13節「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう」。 ここにはっきりと語られている。「祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると」。言い換えるならば、祭司たちの足がヨルダン川に入るまでは何も起こらないということ。祭司たちが濁流の中に一歩を踏み出すまでは何も起こらない。決定的に重要なのは、神に信頼して踏み出すこの信仰の一歩だということ。この信仰の一歩を踏み出した時、人は神の御業を見る。それが人々に与えられた神の約束の言葉だった。


これを聞いて、イスラエルの民は14節に「ヨルダン川を渡るため、民が天幕を

後にしたとき」。感動的な言葉。確かにここには「ヨルダン川を渡るため」と書か

れている。どれほど困難に見えようが、どれほど不可能に見えようが、彼らは「ヨ

ルダンを渡るため」に川へと向かった。一部の祭司たちだけが向かったのでは

ない。皆、祭司たちと共に信じて、決断して、実際に立ち上がった。天幕を後に

してヨルダンへと向かった。祭司たちだけではなく、皆共に、ヨルダン川を渡る

ための信仰の一歩を踏み出した。

 朝日を背に受けた祭司たちの小さな行列が、ゆっくりとヨルダン川に近づく。

濁流が音を立てて流れるその川には何も起こらない。「驚くべきことを行われる」

とヨシュアは言った。しかし、何も起こらない。水が引く気配すら見えない。しか

し、祭司たちは立ち止まらない。人々も立ち止まらない。そして、ついにその足

が水際に浸った。すると驚くべきことが起こった。15節「川上から流れてくる水

は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った」


聖書の強調点は、その不思議な出来事そのものではない。

そうではなく、祭司の足が水の中に踏み出された時に起こった、ということ。信仰の一歩を踏み出した時、今までなかった道が開かれたということ。その結果「民はエリコに向かって渡ることができた」と書かれている。彼らは約束の地に入ることができた。

一つの時代が終わった。

主の言葉に従ったところから、イスラエルの民に新しい時代が始まった。
私たちが信仰の一歩を踏み出す時。その時に、私たちの前には今まで見え

なかった道が開け、新しい時代へと踏み出していくことになる。