小学生のころ、わたしはりんごをかじると時々、歯ぐきから血が出ました。当時、友人の誰かが言いました。「歯ぐきから血が出るのは白血病 といって恐ろしい病気なんだ。やがて血が止まらなくなって死ぬんだよ」。わたしは幼い心ながらとても不安になって、白いりんごのかじりかけの部分にうっすらと血がにじんでいるのを見て「ああ、ぼくはきっと恐ろしい病気で近いうちに死ぬんだ。恐いなー」。結局、深谷少年の場合は歯をあまり研かないために起こった軽い歯槽膿漏であって白血病ではなかったようです。しかし、あの幼い日の「死への恐怖」というのはこの年になっても忘れられません。
ここ数週間は、ヨハネ福音書にある「わたしは・・・である」と言う宣言が7回なされていることを学んでいます。声に出してお読みしてみましょうか。
「わたしは命のパンである」(6:48)、
「わたしは世の光である」(8:12)、
「わたしは門である」(10:9)、
「わたしはよい羊飼いである」(10:11)、
「わたしはよみがえりであり、命である」(11:25)、
「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)、
「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)。
これらの言葉は暗唱しましょう!
霊的な飢えや渇きを覚えたら、・・・・・⇒ キリストこそ命のパン!
人生の試練にあって、真っ暗な時・・・・⇒ キリストこそ世の光!
人生の荒野で地に迷った時・・・・・・・⇒ キリストこそ人生の門!
誰の声を聞いたらいいのかと思った時・・⇒ キリストこそが牧者!
人生で親しい人の死に出会ったら ・・・⇒ キリストこそ復活の命!
人生の生き方、真理、本当の命か?・・⇒キリストこそ 道、真理、命!
わたしのそばの命、成長、恵みの主は・・⇒キリストこそわがぶどうの幹
【聖書箇所の概説】
今日の聖書箇所は、「ラザロの復活」として、とても有名な箇所です。ヨハネはこの福音書の第一部としてまず「7つの奇跡物語」を記しています。2章で「カナの結婚式での水をぶどう酒に変える奇跡」から始まって、7つの奇跡が語られ、このラザロの復活はこの7つの奇跡物語のなかの最後に位置しており、福音書の前半のクライマックスとなっております。主イエスは人間の悲しみの世界、特にここでは死んで4日経って臭くなったラザロをよみがえらせたことを大胆に告白しています。
【メッセージのポイント】
1)、21 マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。(21節)
⇒ memento mori 死を覚えよ。
主イエスのなさったもっとも大きな奇跡のわざは「死人をよみがえらせることだった」とヨハネは叫んでいます。言うまでもなく、「死」は人生のもっとも大きな課題です。すべての人はこの死に立ち向かわなくてはなりません。わたしどもが地上で生きてゆくには、時間的な制限があります。memento moriという言葉はラテン語で「死を覚えよ」という意味です。中世の修道院では「合い言葉」のように、この言葉が使われたというのです。
台湾から来られた頼炳炯先生が、台湾の格言を教えてくださいました。「深谷先生。台湾には『7年8月9日』という言葉があるのですが、聞いたことありますか?」と先生は聞かれましたがわかりませんでした。先生はおもむろに教えてくださいました。「これは70歳代は一年のうちにいつ死ぬかわからない、80歳代は一ヶ月のうちにいつ死ぬかわからない、90歳代になると一日のうちにいつ死がやってくるかわかりません。いつでも神様に会う心の備えをしておくようにという教えですよ」と語られました。
わたし達は地上で永遠に生きることはできません。やがて、天の父のもとに帰らねばなりません。あなたはいかがですか?天のお父様のもとに帰る備えはできておられるでしょうか?
2)、25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。27 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。
⇒ 我はよみがえりなり、生命なり! (25-27節)
何という驚くべきことばなのでしょう。主イエスは「わたしはよみがえりであり、命である」と語られました。主イエスは一度死を経験し、死を克服したよみがえりの命である、とご自身を示されました。そして、主イエスは命そのものだといわれるのです。そして主イエスと信仰によって、結びついていると、わたしどもは命そのものを得るのだというのです。その時、「信じる者は死んでも生きる」と言われます。「生きていて、主イエスを信じるものは死ぬことはない」とも言われました。ここには主イエスを信じることの大切なことがくり返されます。信仰という電線で主イエスにつながっているようなものです。マルタに尋ねられます。「あなたはこれを信じるか?」と。彼女の答えはこうでした。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。ここに信仰の救いが語られています。
以前、教会であるところに出かけようといたしました。いつものように教会の車に乗り、エンジンをかけようと思ってスイッチを入れたところが、カチッと小さな音がするだけで、エンジンがかかりませんでした。何度やっても同じ。「ああ、バッテリーがあがった!」と悟りました。去る兄弟にそのことを告げたら、コードを持ってきてくれて、自分の車のバッテリーと教会の車のバッテリーをつないでエンジンをかけると、「ブウウン!」と一発でエンジンがかかったのでした。運転しながら考えました。わたしどもの生涯もいろんなことが起る。魂が擦り切れてしまうような、バッテリーがあがってしまうようなことが起こる。でも、キリストの命、永遠の命に信仰によってつながると、死んだバッテリーが生き返るように、わたしどもの魂も生きる。バッテリー同士をつなぐコードが「信仰」なのだと示されました。皆さん、今日、マルタのように「主よ、信じます。あなたが来るべきキリストです」と告白しましょう!
3)イエスは涙を流された。(35節)
⇒ イエス 涙す。
さて、このラザロの復活の物語のなかでひときわ目立つことばは「イエス涙す」の一節です。この言葉は聖書全体の中で、いちばん短い節であると言われます。ギリシャ語原典ではわずか3つの語が並んでいるだけです。口語訳ふうに「イエスは涙を流された」と訳すと少し長くなりすぎて、ヨハネ福音書の持つ簡潔な、しかし、無限の余韻を残した表現が伝えられなくなってしまうといわれます。「イエス、涙す」という文語訳が簡潔で、この節のもともともっている響きを伝えています。
主イエスは涙を流された。ここにわたしどもの希望があります。神はわたしどもの苦しみを共に分かち、悲しみの涙を流されるのです。神の御子、主イエスが涙を流され、われらの重荷を共に、担ってくださるのです。この主イエスの愛に触れるときに、もうすでに人生の重荷は重荷でなくなり、悲しみは悲しみでなくなってしまうのです。神の愛が現われるとき、神の恵みと救いに触れるときに、わたしどもは、すでに死から命に移されているのを悟るのです。
4)43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。⇒ ラザロよ!出てきなさい! (43節)
主イエスは今日語られます。「ラザロよ!出てきなさい!」。赤羽で牧会していたときは洗礼名をつけました。何人かは、「ラザロと付けてください」と言いました。家庭崩壊を経験した方、路上生活を経験した方、たくさんのラザロがいました。福音に触れたわたしどもは、いわば、ラザロの二世です。以前、週報のコラムにのせた文章です。
「ラザロとラスコーリニコフ」
聖書の中心的なメッセージは、主イエスの十字架の贖いと復活の出来事です。ロシアの文豪ドストエフスキーは、「罪と罰」の中で主人公の青年ラスコーリニコフの復活を語っています。貧しい者を救うために世の醜悪な金持ちを殺害し、その富を有意義に使うことは賢いことであり、歴史の中に現れる英雄的な人物はその殺人も許されるのだという思想にとらわれて、彼は年老いた金貸しの女性を殺害して、その金品を奪います。しかし、歴史は単純には割り切れず、金貸しの老女の殺害の際に、その現場に入ってきたその金貸しのおばあさんの妹、善良なるクリスチャン、エリザベータをも殺害することになってしまいました。殺人という恐ろしい罪を犯して、罪意識と恐怖に悩み、精神的に限界状況に陥る主人公。田舎から上京してくる信仰深い母親と妹の心配と愛。そのまわりに集まるロシアの青年たちの逞しい姿。農奴制の崩壊やロシア皇帝の支配をめぐるロシア革命前夜を背景に、矛盾に満ちた社会と不条理の現実を描きつつ、実際に殺人者となってしまったラスコーリニコフの絶望的な、苦悩と葛藤。彼は、真っ暗闇の中で、ソ―ニャという女性に出会います。彼女もまた自分の家族を養うために、自分の身を売る淪落の道を歩まざるをえない女性でした。彼はソーニャの苦悩と悲しみの中に、一縷の光を見て、彼女に自分の殺人の罪を告白します。二人きりになったときに、ラスコーリニコフはソーニャにヨハネ福音書11章にある「ラザロの復活」の箇所を読んでくれと頼みます。ラザロの復活!これはラスコーリニコフの復活の原点でした。罪と死の支配を歩むわたしどもの復活の原点でもあります。
【祈り】 天の父よ。わたしどもの人生には多くのことが起こります。バッテリーが上がって魂が動かなくなるような時もあります。この世的には人生の最後は死です。でも、主よ、あなたを信じて、魂のコードをあなたにつないで歩みはじめるとき、わたしどもは「生き返る」のです。その時、罪と死の呪いは消えて行き、神の命、永遠の命がわたしどもの内側に始まるのです。主よ、「わたしを信じるものはいつまでも死なない」「あなたはこれを信じるか?」。この質問に、わたしどもは今日喜びを持って、答えます。「主よ、信じます。あなたこそ、神の御子、永遠の命をもたれるお方、救い主」と。ラザロのように、ラスコーリニコフのように復活の命に歩ませてください。イエスの御名によって。アーメン。
