聖書には「白髪」と言う言葉がしばしば出てまいります。
「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」箴言16:31
「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳。」箴言20:29
「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたし
は主である。」レビ19:32 と聖書は、高齢者を尊敬し、その働きを心から感謝するよう勧めています。
それと共に、年老いた者を励ます御言葉も多いですね。
「75歳から信仰による祝福の人生への出発」をしたアブラハム(創世12章)、「80歳にしてイスラエルの民をエジプトから救い出した」モーセのように、聖書の御言葉に立って、果敢にチャレンジする人生をも、聖書から聞くことも多くあります。祝福に満ちた高齢者!これが聖書のメッセージです。
【テキスト位置と区分】
イザヤ書46章1-4節は、新共同訳では「バビロンの偶像」と言う表題がつけられた一連の預言の中にあります。また、「担われたものたちと担うもの」(ベスターマン)とか「担われる神か、担う神か」(ハンセン)とかの説明がついていますように、ここは、バビロンの偶像と生ける真の神との対比が記されているところです。内容は以下のようです。
- バビロンの偶像は空しい。それは人を救い得ない。
- 「わたしに聞け、イスラエル!」 との神の語りかけ。
- 「わたしが担う!わたしが救う」白髪となるまで持ち運ぶとの宣言。
【メッセージのポイント】
1)1 ベルは伏し、ネボはかがみ、
彼らの像は獣と家畜との上にある。
あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、
疲れた獣の重荷となった。
2 彼らはかがみ、彼らは共に伏し、
重荷となった者を救うことができず
かえって、自分は捕われて行く。(1-2節)
⇒ 偶像はかがみこみ、倒れ伏す!
「ベル」というのは、バビロニア大帝国の神様の名前です。バビロニアの主神はマルドゥクという神様で、ベルとも呼ばれていました。へブル語のバアルに相当する「主」と言う意味です。そして、「ネボ」はこのベル、すなわち、マルドゥク神の使者あるいは子どもの名前です。ネボはアッカド語の「ナブー(告知者の意味)」から来ており、学問の神とあがめられて来ました。楔形文字の体系はネボの発明とされておりました。彼らの礼拝はボルシッパという町の神殿で行われました。このボルシッパからバビロンのマルドゥク神殿まで、新年ごとに聖なる行進行列が行われ、ネボの像は立派な船に乗せて運ばれたといわれます。ネボは新バビロニアの守護神で、王の名前は、ナボポラッサル、ネブカデネザル、ナボニドスなどとネボの名前を冠とした。矢内原先生の解説では、日本の八幡様から八幡太郎とか多聞天から多聞丸の如しとありました。
当時、イスラエルの民はバビロンに捕囚となっていました。紀元前586年、バビロニアのネブカデネザルの軍隊により、エルサレムの神殿は破壊され、主だったものたちはバビロンに連れてゆかれて、ユダヤの国は事実上崩壊しました。捕囚となって厳しい生活を強いられていたバビロニア帝国には、マルドゥク神をまつる荘厳な神殿があり、勇壮な華々しいお祭りが繰り広げられていました。ちょうど日本でも「ねぶたまつり」などは、かなり念入りの勇壮な武者像がつくられ、あの大きなちょうちんに火が入って、多くの青年たちが叫び声を挙げてそれを引く姿は、一種の感動と言いますか、民族の血が沸き返るような興奮があります。当時は、他国との戦争などが相次ぎ、国威高揚が必要でありましたから、バビロニアの祭儀は、大帝国あげての壮麗なものだったのでしょう。川に流れる極彩色の舟。その上にそびえるネボの像。世界の中心としての勝利の勢いに乗るバビロニアの人々は、笛や太鼓の音楽をならし、家族そろって花火を見に行く日本の夏の風物のように、皆でご馳走を食べ、にぎやかな、喜びと勝利感に満ちた民族のお祭りの時だったのでしょう。
しかし、そのとき、イスラエルはどうだったのでしょう。彼らはこのときには惨めな捕囚の民でした。バビロン軍に家族を殺され、家族が離れ離れにされ、自分の土地も仕事も奪われ、民族の誇りも文化も何も持っていない、惨めな囚われの難民だったのです。生きて行く気力もなかったのです。それと比べて、バビロンの民はまさに「世界の中心」そのもの。イスラエルの民は、傷心の中でこのバビロンの勝ち組の祭りを遠くから眺めるみじめな「難民」そのもの。
しかし、この46章で、第二イザヤは、驚くべきメッセージをいたします。この壮麗な神々の像。巨大な、人間を圧する神々の像。一説によれば5メートルの高さがあったとも言われますが、驚きと恐れをもって見上げたそれらの巨大なバビロンの神々の像に対して、預言者は厳しい批判の預言を始めるのです。ここでは二回同じ言葉が使われています。「かがみ込み、倒れ伏す」という言葉です。それは、どんなに驚くべきものに見えたとしても、それは生ける神ではない。所詮人間の作った偶像です。それは「かがみ込み、倒れ伏す」のです。リビングバイブル訳では「バビロンの偶像ベルとネボは、牛のひく荷車に載せられ、遠くへ運ばれます。ところが牛はよろめき、荷車はひっくり返り、神々は地面に放り出されます。自分が転げ落ちることさえ防げないのに、彼らを拝んでいるものを、クロスの手から救い出すことなどできない相談です」となっています。
わたしどもは偶像を信じているとは思わないでしょう。しかし、「人間の心は偶像を作る工場である」とのカルヴァンの言葉を待つまでもなく、わたしどもは主なる神により頼むのではなく、この世の何かに信頼を寄せるものです。それはお金であったり、地位であったり、才能であったり、美貌であったりします。でも、人生の究極の出来事に出会ったときに、それらはわたしどもを救うのでしょうか?最終的には健康だって損なわれてゆきます。偶像は「かがみ込み、倒れ伏す」のです。やがて人間に重荷となり、動物に重荷となり、人間を救い出すこともできず、民の敗北と共に自ら捕虜となってしまうのです。
2)3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、
生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、
わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。(3節)
⇒ わたしに聞け、ヤコブの家よ!
3節で新しいメッセージが始まります。バビロンの壮大な偶像に圧倒されている人々に神ご自身が語りかけます。「わたしに聞け、ヤコブの家よ」と。
この地上の様々な関心、特に、地上の支配者となっているバビロンの神々の巨大な偶像、永遠絶対のように見える偶像に心奪われそうになって、それらを見上げている人々の心に、天地の造り主なる神が語りかけられるのです。「わたしに聞け、ヤコブの家よ」。そうです、人間の手で作った偶像がどんなに大きくても、どんなに立派に見えたとしても、この世界を創造されたまことの神の偉大さの前には、チリのような存在に過ぎません。それはやがて崩れてゆく、土くれに過ぎないのです。
そこには、「イスラエルの家の残りの者よ」と続いています。「残りのもの」とは旧約聖書の中でしばしば出てくる大事な言葉です。神様は、神の民が裁きにあって滅んでしまうように見える存亡の危機に、「残りのもの」を残しておかれるのです。イザヤ6章の切り株のように。そしてそれらはやがて、深い悔い改めをもって、神に立ち返り、神の民を新たに形成してゆきます。新しい神の民の業は、神の御声を聞くことから、始まるのです。残りの者よ。「わたしに聞け!」と語られます。
それでは、わたしたちは、何を聞くのでしょうか?それが、4節の内容です。
3)4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。(4節)
⇒ わたしが背負い、わたしが救う!
この4節には「わたし(アニー)」という言葉が、5回繰り返されています。偶像が救うのではない。破れだらけの人間の努力でもない。この世界の造り主が、救い主が、「わたしが救う!」と5回も強調して語っておられるのです。しかも動詞の変化まで入れると、なんと10回も「わたしが!救うのだ」、「救うのはこのわたしだ!」と語られます。聖書の中でもこのような箇所はありません。分かりやすく直訳するとこうなります。
わたしは それ(変わらない) (あなたが)年老いるまで
わたしが (わたしが)背負う (あなたが)白髪まで
わたしが (わたしが)造った
わたしが (わたしが)担う
わたしが (わたしが)背負う
(わたしが)救う
ここは中沢冾樹が「旧約の中で最も感動的な一段」と言い、浅野順一が「宗教の本質に対する深き洞察」と言っておられる最も感銘の深い箇所です。
また、この短い3節・4節の中に「担う」とか、「背負う」という言葉が、何度も繰り返されています。特に「背負う(エスボール)」という言葉は、口語訳では「持ち運ばれる」と訳されている言葉です。聖書はこの「背負う」あるいは「持ち運ぶ」という言葉によって、救いを明らかに示しています。聖書学院長だった小林和夫先生は、小さい時におじいちゃん子だったそうです。風邪をひくとこのおじいちゃんは来て裸になり、赤ちゃんの和夫を裸にして紐でくくり半纏を着て「俺の体温で暖めればすぐに治る!」とその裸の体温で風邪を直したそうです。主イエスは十字架の上にわたしたちをあがない、人生の苦難を乗り越えさせ、最後は死の川も超えて永遠の天国まで、背負ってくださるのです。「わたしが背負い、わたしが救う!」ハレルヤ
【 祈り 】 主よ。人生の長い旅路を歩んでこられた方々と共に礼拝する時をお与え下さり感謝します。今日、わたしどもはこの世の偶像ではなく、造り主であり、救い主である、あなた御自身に聞きます。わたしども一人一人を「背負って」「持ち運んで」、元の牧場、神の家に連れ帰ってください。この敬老の時に、「白髪となるまで」わたしどもを、「わたしが担い、背負い、救い出す」と語られるあなたに深く信頼して、委ね、従う者としてください。我らの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン!
