新宿西教会オープンチャーチ第四週主日礼拝説教「哀れに思って走り寄る神様」ルカ15:25~6:4 西川穂伝道師 2025年10月26日

ある父親に二人の息子がいました。父親は神様をたとえています。弟息子ですが、ある日、次のように言いました。「お父さん、お願いがあります。お父さんが死んだ時、遺産の内、今、僕がもらえる分をください」、と。お父さんの遺産を弟息子が受け取ると、遠い町に行って、毎日、弟息子は遊びながら過ごします。弟息子は、お金を使い果たした時、「本心に立ちかえって、そうだ、自分が悪かった。お父さんにごめんなさいと言おう」(15:17)と思いました。そうして父親の家に帰りました。父親は、毎日、まだかまだかと弟息子の帰りを待っていました。ある日、弟息子を見つけると、お父さんは哀れに思って走り寄りました。ここに、「神様との生きた交流」が見られます。これが、ルカ15章の最大のテーマです。父親は、弟息子が救われた事を喜んで、パーティーを開きました。けれども、兄息子が帰ってきた時、やけに騒がしいので尋ねました。しもべは、「あなたの弟がお帰りになりました。あなたもそのパーティーに参加してください」と言ったら、兄息子が怒りました。

そんな兄息子に向かって父は、弟息子と同様、哀れに思って走り寄ったのです。

15:28 「兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると」

兄の怒りは、ふつふつと煮えたぎって、爆発寸前の状態がずっと続くようなものだったのでしょう。その兄息子に対し、父親は「なだめた」のです。兄息子は、「もう一人の放蕩息子」といえるのかも知れません。この兄息子は、父親のすぐそばで長年働いていましたが、その事を喜んでいなかったようです。29節、「何か年もあなたに仕えて」は、長年奴隷のようにお父さんに仕えてきた、という意味になります。

映像: キスト岡崎エイブラハム&さゆ里先生作成、「放蕩息子の譬話」5分33秒

映像を見る前の説明) 次のように、キスト岡崎さゆ里先生は説明しています。「父親は弟息子を見つけて走り寄っていきます。そして、ここでは兄に対しても同じ思いを持っていることが表現されています。ルカ15:28の父親が出てきて「なだめると」という言葉は原語では「嘆願する」という意味です。アニメーションでは、父親が頭を地面にこすりつけるようにして兄に「パーティーに加わってくれ」と願っている様子を描いています。ここで神様は、兄息子を象徴する宗教指導者の人々にこそ父親の喜びを分かち合ってほしいのだ、というメッセージを表現しました。」、と。

15:28、「父が出てきてなだめると」の「なだめる」という言葉は、完了しないで続いているという意味があります。「慰め続けていた」という意味です。

また、「なだめる」は、「慰められる事により、他者を力づける」とも解釈できます。

今日は、永眠者記念礼拝です。イエス様と結ばれて地上の生涯を走り終えた、パウロは、次のように語っています。テモテへの第二の手紙4章7節、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」。

  8節、「今や義の冠がわたしを待っているばかりである」。主イエス様が天国でお一人お一人に朽ちない冠を授けてくださる、というのが私達の大きな慰めです。

放蕩息子の話は、人生を終えて、神様のみ元へ帰るその時に、父なる神様が、その両腕を広げて天国へと迎え入れてくださる、「神様との永遠のつながり」として読むことができます。先月も話しましたが、スペインで急死した、父の安らかな顔は、父の救われた大きな証であり、今でも、私にとっては大きな慰めとして受け止めております。昨年、母と久しぶりに再会した時は、知人と母のいる病室で祈り合って讃美しました。母は、私を見つめてしっかりと私の手を握りしめて天国での再会を待ち望んでいるかのようでした。母が亡くなった知らせは、心が痛みましたが、天国でイエス様が母を受け止めてくださった、という事が確信できました。

本日は、ルカ15章25~32節より、父親が兄息子に対して、どのような言葉をもって慰め続けたのかということを、三つのポイントから分かち合いたいと思います。

1. 子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいる。 ルカ15章31節前半

神様が与えてくださる、いろいろな恵みというものがあります。しかし、どんな恵みに勝って、神様から与えられている祝福で最も幸いな事は、「いつも私と一緒にいる。」ということです。「あなたは、いつもわたしと一緒にいる」とは、泣いている時も、笑っている時も、目には見えませんが、そこに、神様がいつも一緒におられるという事です。私にとってなによりの喜びは、神様といつでも一緒にいる事です。 

父なる神様は、私たちと一緒に何でも共有して、話し合い、一緒に暮らすのが何より嬉しいのです。いろいろな祝福があるけれど、これに勝る祝福はないし、もしこれがなかったとしたら、今日、神様の所へ帰る決断をしてほしい、と思います。

2. わたしのものは「全部」あなたのものだ。 ルカ15章31節後半

父なる神様は、御子イエス様を私達にお与えになるほど、愛しているのです

ローマ人への手紙8章31、32節、「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。

このように、私達は、イエス様からあらゆる賜物を預かっているのです。

15章と16章とをつないで理解する重要な言葉は、「浪費する」という言葉です。

16章1 節、「イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった」。

「主人の財産を無駄遣いしている」と訴えられた管理人が取り上げられていて、ここで、イエス様は、「賜物の使い方」を語っておられるのです。神様からの賜物は、人の救いの為、互いの益となる為に用いてはじめてその真価が発揮されます。

ヘンリ・ナウエンは、『放蕩息子の帰郷』で、イエス様が私達の為に「放蕩息子」になられたといっています。イエス様は父の家を去り、この地上に遣わされ、持っていた全てを人の救いの為に惜しみなく与え尽くし、十字架につけられました。

16:10、 「小事に忠実な人は大事にも忠実である」。「小事・小さなこと」の「こと」は人とモノのどちらでも使えます。「忠実な」という言葉は「真実な」という意味です。

マタイ25:40、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、即ち、わたしにしたのである」。ある先生が、「最も小さい者の一人」とは敵対する者である、と解釈しています。イエス様は敵対する者に対しても真実に愛し抜いたのです。次に、15:28、父の宥めるという嘆願を23章で、イエス様が実行します。

ルカ23:35、「彼は他人を救った…自分自身を救うがよい」。ここで、イエス様を

迫害する人々は、「他人を救ったが、自分は救えない」、とイエス様をののしったのです。宗教指導者らは自らが正しいと主張して、イエス様を責め立てたのです。

ルカ23:34、「イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください』」。

イエス様は、この十字架で、「自分を救わなかったのです」。イエス様は自分を捨てたからです。イエス様は自らを十字架の苦しみから救いだすことを放棄しながら、人間の苦しみを全て背負って、その十字架の死を全うすることにより、私達を救っているのです。そうやって私達は、救われたのです。自分を救わないことを通して、十字架で苦しみを受けて、他人を救ったのです。救い主らしくない十字架の弱いお姿です。隣りの犯罪人にも、「自分を救ってみよ」と、悪口を言い続けられました。「なんだ、その弱い姿は」、といわれる十字架の地点に、まさにイエス様が来てくださったのです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)。神様に逆らい、神様を傷つけていた時からイエス様は十字架で死んでくださいました。神様によって罪に気がつかされた時、イエス様の十字架の恵みを注いでくださるのです。

その目的がルカ15:32にあります。それは、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」(15:32)。死んでいた私達を生き返らせ、失った私達を見出す為です。神様との関係がつながる為にイエス様が十字架と復活とを通し、永遠の命を与えてくださいました。

ヨハネによる福音書17章3節、「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。

神様とイエス様とを知るとは親しい関係を意味します。神様から愛される喜びであり、愛する喜びです。そうして人の命は輝くのです。イエス様に赦されたという恵みに生かされ、イエス様につらなって十字架のふもとから一緒に復活するのです。 

3. 喜び祝うのは、あたりまえである。 ルカ15章32節                  

「あたりまえである」は、原語で、「必然」を表しています。神様が「失われた者」を見つけた時に喜ぶという、神様の必然です。神様が私達を「喜び祝ってくださる」という、「その神様の喜び」が、私達の心に響いて私たちに喜びが生まれてきます。

私達が喜んでいるかどうかに関わらず、神様が私達を喜んでおられるのです。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。  

イエス様を信じることにより、神様との交流が永遠に続いていくのです。つまり、イエス様を信じて神様の救いにあずかる者は「今」既に永遠の命を受けるのです。 

天国に行ってからではなく、この生涯において、既に永遠の命を生き始めているのです。真面目な兄息子の様な人が天国に近いと思われるかも知れませんが、弟息子の様に歩んでいた人でも、「気がついて神様、助けてください」、といったら神様は受け入れてくださいます。99%立派だから天国ではなく、「憐れんでください」といった人にも、神様の愛が届き、そこから神様との交流が永遠に続くのです。

ですから、イエス様は十字架で今も私達の為にとりなしてくださっているのです。 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日」です。

ルカ1:30、31で、マリヤに突然、あなたは、子を宿して、『イエス』と名づけるようにいわれます。1:38、マリヤが言います、お言葉どおりこの身に成りますように」、と。

マリヤの信仰のように、御言葉が私達の中に響いて、その応答として信仰が生まれていきます。この信仰は御言葉信仰です。「神様のご計画の確かさ」への信仰です。救いの確信というのは、人間の信念の強さによって救われるのではなく、もうあなたを救うことに決めたよ、という神様のご計画の力強い宣言であったのです。

証)永遠の命、神様との生きたつながりを通し、試練の荒波を乗り越えたコーリー・テン・ブームの証をします。祈り)イエス様、永遠の命を感謝いたします。アーメン。