新宿西教会アドベント第三主日礼拝説教「その名を信じた人々」ヨハネ福音書1:6~14 説教者:深谷春男牧師

  クリスマス・アドベントはすばらしいですね。

  アドベント第一週は、希望のろうそく。

  アドベント第二週は、平和のろうそく。

  アドベント第三週は、喜びのろうそく。

  アドベント第四週は、愛のろうそく。

   今週は、「喜びのろうそく」を心に灯して歩みましょう。

【聖書箇所の概略】

先週は「道、命、光なる主イエス」の姿を学びました。

今日は、バプテスマのヨハネから、主イエスを迎える備えを学びます。

 今日の箇所を詳細に分けるとこうなります。

6―8節  バプテスマのヨハネについて。

彼は光ではなく光の証言者。

9―12節 主イエスについて。彼は光そのもの。

  • 真の光なる方、②世に来られた方、  ③先在の方、

④ この世を造られた方 ⑤世に認められなかった方、 

⑥世に拒絶された方、⑦信じた者に神の子となる力を与えた方。

【メッセージのポイント】

1)6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。   (6-7節)

⇒ バプテスマのヨハネについての記事!   

 6―8節はヨハネについて記されています。ここで言われているのはバプテスマのヨハネです。でも、なぜ突然ヨハネが出てくるのでしょう。ヨハネによる福音書はエペソの町で書かれたとされますが、当時のエペソはバプテスマのヨハネの弟子達がいたことが知られています(使徒19:3)。バプテスマのヨハネは主イエスより半年ほど年上でした。彼の力強い預言とその栄光は「女の産んだ者のうち、バプテスマのヨハネより大いなる者はない」とまで言われました。多くの人々はヨハネに期待をかけ、彼こそ、預言された救い主ではないかと考えたほどでした。しかし聖書は言います。彼は光ではありませんでした。どんなに偉大な働きをしたとしても、光りそのものでない限り、その働きには時代的な限界があります。そのことをはっきりさせるために、わざわざ彼は光ではなく光を証しするために遣わされた者と挿入されたのだと考えられます。彼は光ではありません。しかし、彼の証言があって、光なる主が明瞭に立証されたということは大事なことです。現代にまで主イエスとその福音が伝えられたのは、その時代その時代で証言する者があったからです。ヨハネ福音書は主イエスが光であることとその光を証しする者が語られているのです。わたしどもも主の証し人として歩みたいものです。

2)8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。

 ⇒ 証しの人生、「使徒的人生を生きる!」      (8節)

 このことはとても大事なことであろうと思います。わたしどもは光ではありません。光について証しをするのだと言います。バプテスマのヨハネは偉大な人格者でしたが、光そのものではありません。彼は光について証しするというたいへん偉大な任務を持って、地上生涯を歩まれました。それは証し人の人生です。キリストの使徒たちも証し人として歩みました。それは救い主である主イエスの光を証しする任務を負うた人生、「使徒的人生」です。

 新宿西教会でとても有名な先生が創立記念か何かの説教をされたことがありましたね。わたしは昔、月報か何かで読みました。その先生は、クリスチャンは「バプテスマのヨハネの指」なのだと語られました。バプテスマのヨハネの指は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」を指し示しております。バプテスマのヨハネの指が美しいか美しくないかではなくて、その指の存在価値は、主イエスを指し示しているかどうかにかかっていると語られておられ、とても印象深い説教でした。

 先日、東京聖書学校のクリスマスで、東京聖書学校で校長をしておられた、久多良木和夫先生の救いと献身の証しを聞きました。先生は1956年、大分県にて生を受けられました。家は代々農家。お祖父ちゃんは村長もしておられました。お父は数学の教師でした。中学3年の時、衝撃的な事件に遭いました。右目の眼底出血。即、入院。運動は禁止。高校一年の時網膜剥。右目は完全失明。高校の時には理数系の大学を目指して猛勉強。一年浪人して宮崎医科大学に入学されました。はじめは真理を求めてセブンスデーの教会に通い、その後、宮崎清水町教会で求道生活。なかなか十字架の救いが分からなかった。大学2年生のKGKの春期学校にて、片岡伸光主事に出会ったそうです。彼と一時間、歩きつつ話し、悩む久多良木青年のためにヨハネ1:18の御言葉を下さった。その後、奇跡を見れば信じてもいい、と言う傲慢な自分の姿や、思春期の特有の自分の醜さをも示され、「自分は罪人だ」とわかった。二日目の夜に招きに応じて主イエスの十字架を受け入れた。そして大学3年生のペンテコステの日に洗礼を受けられました。その後、主の恩寵のもと、献身に導かれた。卒業の2か月前に両親にそのこと話しました。医科大を卒業し、医師となることを楽しみにしていた両親を、失意の中に落としてしまいました。医師の国家試験は合格しましたが、彼は東京聖書学校の門を叩きました。卒業後、小見川教会、都農教会、現在の北九州復興教会を牧会。その間、彼が牧師になることを反対していたお父様も、お母様も洗礼を受けられました。奥様のお母様も、お父様も信仰を持って洗礼を受けられました。「親不孝をしたが、永遠の命を紹介したので両親への恩も返せたかなと思う。」と語られました。6年間、医学部で学び、卒業間近かになって、最も大切なこと、永遠の命を伝える直接献身へと導かれ牧師になられた!改めてすごいと思いました。

3)9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。  (9節―11節)

⇒ すべての人を照らすまことの光を拒絶してはいけない!

先週も語りましたが、主イエスは「言(ロゴス)」であり、「命」であり、「光」なるお方です。この光なるお方が、世を造られた方でした。しかし、この世は主イエスを拒みました。「世はロゴスを認めなかった」「民は(言を)受け入れなかった」と繰り返されています。人々は本来、王として迎えるべき主イエスを、王とは認めませんでした。そして主を拒んだのです。それは、主イエスを拒み、侮辱し、殺してしまった、あの十字架の出来事を指し示しています。創造のはじめの時には、「良かった」「良かった」「はなはだ良かった」とたたえられたこの世界が、人間の罪によって、混乱が、闇が、死が入り込んでしまったのです。

9節で、主イエスの本性が描かれています。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」と。しかし、まことの光がこころを照らすのが面白くなくて、人々は暗闇を愛し、光を憎んで、主イエスを拒んだのです。神様は何と悲しかったことでしょう。しかし、皆さん、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々に、彼は神の子となる力を与えた」とあります。

 数年前に、日曜日の午後に、当教会で、チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」の演劇を見ました。この公演は、2019年2月3日、突然天に召された西田正兄が主催していたキリスト教伝道劇団新宿新生館のアガペー・インの兄弟姉妹の公演で、長い時間をかけて準備し、熱のこもったすばらし演劇でした。わたしは委員会で遅くなったので午後5時半からの公演を観劇しました。

ロンドンの町の、霧の濃いクリスマス・イブの晩の出来事を印象深く、表現していました。クリスマスの劇としては多分、一番有名な作品ではないでしょうか?お金持ちで、けちで、人を人とも思わない、嫌われ者のスクルージが主人公で、彼が事務所で見る夢の出来事が物語の内容でした。

彼の見た夢が、天使に導かれて見た「スクルージの、過去、現在、未来の姿」であっことが印象的でした。

過去は、とてもみじめな少年時代。クリスマス・イブの家庭の楽しい最高の時なのに、家は貧しく、両親がけんかしていて、家に帰れず一人ぼっちでうずくまっている少年の自分。やさしい妹が慰めてくれた。それから青年の時。クリスマスイブの夜、皆で楽しいダンス。ああ、そこに結婚相手になったかわいい女性。彼女が元気で、笑っている。彼はその世界に吸い込まれていった。ああ、素晴らしい青春の思い出・・・。

現在は。お金の亡者になり、金ぴかの衣装は着けているけれども、皆に嫌われて、自分自身も生きるのが嫌になっている寂しい、孤独な老人。

そして最後は未来。ここは天使ではなく、昔、仕事の同僚だったマーレイが死後の世界から、彼を連れてゆく。行き着いたところは墓場。寒い、人気のないくらい墓場。そこに市の職員が二人で、孤独な老人の死骸を埋葬して帰ってゆく。見るとそれは自分の死骸、自分の墓だった。スクルージは寒さとみじめさと恐れで、そこでさめざめと泣く。

目が覚めると、それは夢だった。彼は自分の罪深い生活を悔い改めて、神に立ち帰り、クリスマスの恵みの与ることとなったのでした。彼を受けいれた者、即ち、その名を信じた人々には彼は神の子となる力を与えたのです!

【祈祷】 主よ、わたしどもは破れの多く、罪深い者です。しかし、主イエスを信じ、受け入れた時に、神の子としてくださり、内側に光を持つものとしてくださいます。聖霊の助けによって、燃えて輝く、主の証し人、現代のヨハネのように、人々に証しする者として下さい。喜びの一週間を歩みましょう。御名によって祈ります。アーメン