ヨナ1章1節には、「主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った」、 とあります。
ヨナは、北イスラエル王国の預言者で、ナザレ出身のイエス様と同じ、ガリラヤ地方の出身です。紀元前722年、北イスラエル王国は、アッシリアに滅ぼされました。ヨナは、その北イスラエル王国の預言者です。当時、アッシシリアが行った残虐な行いは歴史上の国々の中でも群を抜いていたといいます。やがて、ニネベは、アッシリアの首都となり(紀元前705年)、世界第一の都市となりました。
1章2節、主から、「あの大きな町ニネベに行き」、とヨナは命じられます。ヨナは、「主の前を離れて」(1:3)、二ネベとは反対のタルシシ、今日のスペイン、当時の「世界の果て」と思われていた場所ですが、タルシシ行きの船に乗って逃げます。
ヨナはタルシシまで行けば、神様の眼差しは届かないであろうと思ったのです。
パウロは、イスパニア、即ち、スペインに行って異邦人を伝道しようと思いまし
た。主の命令に反抗したヨナとパウロとでは大違いです。1章4節では、ヨナの不従順のゆえに主が起こされた大きい嵐により、船が沈没しそうになります。船員は、嵐の原因であるヨナを海に投げ入れ、そんなヨナを救ったのは、神様が備えられた魚でした(1:17)。その魚によって飲み込まれたヨナは、三日三晩、その魚の中にいて悔い改めと助けられた事を感謝する祈りへと導かれます(2章)。
【今日のメッセージポイント】
- 第一に、裁きを思い直す神様 (ヨナ書3章1~2節)
3:1、「主の言葉が再びヨナに臨んで言った」、3:2 、「大きな町ニネベに行き」
ヨナは主の命令どおり、今度は、直ちにニネベに向かって行きました。
3章1節にある、「再び」という言葉に込められた、「神様の恵み」に着目します。
タルシシへ逃れようとした、ヨナに「再び」、神様の召しがありました。
神様は、ヨナに最初の時の事をとがめずに、将来におけるヨナの可能性に期待しておられたのです。
ルカ22章32節、イエス様は、十字架につけられる前、ペテロがイエス様を三度裏切る事を既にご存知でした。「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とイエス様はペテロの為にとりなしのお祈りをして、再び
ペテロに宣教の使命を与えました。ペテロと同様に、神様は、ヨナが裏切る者であることを知っていながら、彼の立ち直る将来に期待し、使命を与えられたのです。私達には弱さがあるかも知れません。しかし、イエス様は、天の神様の傍らで私達の為にお祈りをしてくださっているのです。ヨナとペテロのように、私達が道を踏み外しても、神様は、そのご計画の中に、常に引き戻してくださるのです。
- 第二に、民族を超えた、神のプロジェクト (ヨナ書3章3~10節)
3章4節、「ニネベは滅びる」。この短い言葉で、二ネベの人々は、神様を信じました。二ネベの人々は、自らの悲惨な状態を嘆き、悔い改めへと導かれるのです(3:7~9)。二ネベにいる王をはじめとする人々の悔い改めを見て、神様は、裁きを取り止めたのです(3:10)。「滅びる」には、「ひっくり返す」という意味があります。岩波訳では、同じ事柄を受け手の側から、「ひっくり返す」→「ひっくり返される」と訳しています。つまり、①悔い改めないで、「滅びる」という意味で、「ひっくりかえす」という否定的な意味と、②悔い改めて全てが新しくなるという肯定的な意味の「ひっくりかえす」という二重の意味があります。
「ニネベは滅びるぞ、滅びるぞ!」とヨナは叫んで回ったつもりが、実際には、「二ネベは悔い改めるぞ、悔い改めるぞ!」という預言をしたのでした。ヨナとしては滅びを宣告しているつもりでいたのに、実際には、同じ言葉が否定的な意味と肯定的な意味との二つの意味をもっていたので、二ネベは滅びることなく、悔い改めの恵みを受けていたのです。詩編29編のように、御言葉は力と輝きをもって人々に響きます(詩29:4、新共同訳)。伝道では、福音を手渡す人と福音を受け取る人双方がそこで主と出会うのです。その時、キリストが輝くのです。
証) ある先生からの言葉が印象に残っています。それは説教では、とにかく、御言葉を繰り返し語りなさい。御言葉には力があり、御言葉に神様の御心が明らかになり、聖霊なる神様が御言葉と共に力強く働くからという言葉でした。
ヨナ書における、異邦人への開かれた神の愛は、ルツ記にも見られます。
ルツ記1:16、ルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」。
ユダヤ人・ナオミが夫と二人の息子たちと共に、ユダからモアブに住みました。しかし、そこで夫と二人の息子たちも死に、息子たちがめとった、モアブ人の妻二人オルパとルツ、ナオミの三人だけが残されます。ナオミは、二人の嫁オルパ、
ナオミと共に故郷ユダに戻ろうとし、途中で嫁二人を帰らせようとしました。
モアブ人・ルツは、ナオミに、「わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。」と言って離れませんでした。そして、ナオミはルツと二人でユダに帰りました。
ルツは、危機の中、全部を捨て、まことの神様だけに命をかけて信じました。ここから出発するルツの生涯は、どのような生涯だったでしょうか?ルツの決断が、やがてボアズとの結婚に導かれ、オベデ、エッサイ、ダビデ王を通して救い主イエス様がお生まれになります。ダビデ、救い主の系図に入るという思いもよらなかった祝福を受けたのです。イエス様の家系にモアブ人・ルツがいる事は、福音の本質が差別や偏見を取り除くものである事を明らかにしています。
次のように、パウロは、ローマ書10章12~14節で書いています。「ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか」。ユダヤ人と異邦人が共に和解して、主を礼拝するという事は、初期の教会にとって重要な課題でした。
ローマ書10章では、 民族の壁を超え、主を共に礼拝し、「イエスは主です」と共に宣べ伝える伝道の大切さが書かれています。ヨナ、ルツの「開かれた神の愛」とローマ書の恵みによってのみ救われるとは相互に響き合っているのです。
その神様の偉大なプロジェクトは、私達の足元から少しずつ始まっております。
証)先月24日の祝会では、日本人の高校生と留学生たちが主を共に賛美しました。ある留学生はアルバイトの同僚を伝道し、ある留学生はルームメイトを連れてきました。日本人と留学生、社会人も共に主を賛美したのです。主を共に賛美し、伝道していくという神様のプロジェクトの一端を見るようで、感動しました。
- 第三は、知的関心だけの祈りと命をかけた祈り (4章1~3節)
ヨナ書4章2節後半、ヨナは、主に、「なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。」と祈ります。ヨナは、命令を退けて反抗していました。しかし、神様は、ヨナに対しても思い直されたのでした。一番忍耐とあわれみを受けていたのはヨナ自身でした。神様を単に知識の対象として知るだけではなく、始めに神様を信じて、交わりをもって、神様が恵み深く、あわれみ深い神様であり、怒るのに遅く、災を思いかえされることを私達も知る必要があります。
ここで、私達は、自らに対して神様が本当に恵み深く、あわれみ深い神様であることを知っているのか、ということが問われているのだと思います。
4章3節、「それで主よ、どうぞ今私の命をとってください。私にとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」とヨナは怒ります。言葉は同じでも、ヨナの祈りとローマ書でパウロが覚悟をもって命を捨てる事を願った祈りとでは異なります。
ローマ書9章2、3節、「すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」。とパウロは祈りました。
証)ドイツのルドルフ・ボーレン先生が牧師研修会で講演なさった時の話です。
品川の講演会の時に、「あなたがたが礼拝の講壇に立ったならば、そこに集まる会衆の為にいつでも命を捨てる覚悟で講壇に立ちなさい」と語ったそうです。
ボーレン先生が講演をした時、一人の若い牧師が、会衆のために命を捨てることができません、と語ったそうです。
その時、ボーレン先生は毅然とした態度で次のように答えたそうです。
この聖書の中にある、神の命は今日の時代までそれが脈々と流れ続けている。なぜ、神の命が流れてきたのかといえば、この聖書の御言葉に命をかけてきた人達がいたからである。
あなたが、もしそういうのであれば、あなたは、この『神の命の伝達者』となることは決してできません!」とボーレン先生は語ったそうです。
また、ロバート・キンローという先生も、「キリストの十字架と復活の福音は、あなたが伝えようと思うその人のために、自分の命を代わりにしてでも、この人に伝えたいという思いがなければ、伝わりようがない福音だ」という話をされたそうです。
主イエス様と交わって行く時、主と同じ心が与えられて、そして、愛する者の為に祈り、福音を伝えるその時、この尊い福音を手渡すことができる、と信じます。
私達の罪の為に滅びる事を望まれない、父なる神様が、独り子イエス・キリストを十字架につけて捧げる事により、神様は恵み深く、あわれみ深く、怒ること遅く、いつくしみが豊かである事がその十字架で明らかにされました(ヨナ書4:2)。証
【祈り】 神様は命がけで私達を救ってくださったのですから、私たちも、パウロのように、キリスト者として神様の愛にお答えし、「神の命の伝達者」として、御言葉を宣べ伝えるものでありたい、と思っています。
