新宿西教会主日礼拝説教「神の恩寵の充満」ー神の全知・臨在・全能ー 詩篇139篇 深谷春男牧師 2026年2月1日

                                          

今年は、不思議な神様の恵みのうちに、新年の1月を導かれました。

アドベント特別礼拝、「新しい契約に生きる」エレミヤ31:31

元旦は、「喜びにあふれた一年を!」1テサロニケ5:16~18

4日は、「平安・将来・希望を与える計画:エレミヤ29:11.

11日は、「恵みをもて年の冠とせり」「神の川に水満ちたり」詩篇65篇

18日は、「恵みにとどまれ」 使徒行伝13:43

25日は、「恵みの再出発」ヨナ3:1~4:3

祈祷会は。「7つの雷」詩篇29篇

そして、今日は「網の恩寵の充満」詩篇139篇と恵みの連続でした。

【本詩の概略と内容区分】 詩篇139篇は「知恵の詩」に分類されます。神の創造と摂理の不思議を歌い上げた、恵みあふれる詩です。フランシスコ会注解では、「旧約聖書の中で最も優雅な詩篇」と呼んでいます。またこの詩は「詩篇の冠」とも評すべきもので、旧約聖書中で最も優れた詩の一つであると絶賛しています。また、榊原康雄は、新聖書注解で、「本編は詩篇が前提し、歌い上げる神と人との人格的関係と親密感とを、最も美しく歌い上げた傑作である」と語っています。全体の内容は次のように区分できます。

  1ー 6節  全知なる神   すべてを知りたもう神

  7ー12節  臨在なる神   どこにでもおられる神    

 13ー18節  全能なる神   神の創造と守りの素晴らしさ

 19ー24節  神への祈り  悪への憎しみ 悪しき道から永遠の道へ

ある方がこの詩篇139篇は、ユダヤの哲学者、マルチン・ブーバーの「我と汝」に象徴される人格的な神との交わりを示唆していると語ります。

【メッセージのポイント】

1)、1 主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。3 あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。4 わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。(1―4節)。

   ⇒ 主なる神は全知の御方である!

  ここで詩人は、「すわる」「立つ」「歩く」「伏す」という表現で、人間のするあらゆる行動をさし示しています。1-4節では「神の全知」が強調されます。わたしどもは、自分のすべてを知っておられる方がいたら、行動しにくいのではないでしょうか。しかし、神様は愛のゆえにわたしたちに関心を持ってくださいます。それは例えて言えば「母の愛」のような愛ゆえの関心です。本郷中央教会の牧師であった武藤健先生の説教集に「知られたる我」というのがあります。自分の人生を信仰の目をもって振り返れば、全ては神様の奇跡的な恵みです。

2)、7 わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。8 わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。9 わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、10 あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。11 「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、12 あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。(7―12節)      

 ⇒ 主なる神は臨在される御方である!

 神の摂理のみ手は不思議で、わたしが逃げていったところでも神が招いておれる事となります。たとえ、わたしたちの意志が神様に反抗しても、最後は神のみ手の中にあることとなります。これは不思議な神の歴史支配、主の御恩寵によるところの摂理の信仰です。

 ここでは詩人は、「どこに行けば神様から逃れることができるのだろうか?」と問うています。彼は5つの世界を語っています。 「①天ですか? 天国はまさに神様のおられるところです。②陰府ですか?陰府の世界に身を横たえようともあなたはそこにおられます。③東の果てですか?太陽のような、曙の翼を駆って東の果てにまで行っても、④地中海の果て。スペインのような世界。何とあなたのみ手はそこでわたしを招いておられるではありませんか。⑤ああ、それでは暗闇はどうだろう?真っ暗闇の只中にいれば神から逃れることはできるのだろうか?でも、考えてみれば、人間の暗闇もあなたには通用しない。暗闇でもよく見える赤外線のめがねのように、わたしの姿は丸見えです。考えてみれば、永遠の光におられる神様にとって、夜も昼のように輝き、闇も光も変わることがありません。」との結論です。

 新幹線の中では進む方向に座っても、眠っていても、目的地に着きます。

 旧約の傑作、「ヨセフ物語」はこの摂理の深みを教えてくださいます。ヨセフを憎んだお兄さんたちは、ヨセフをエジプトの奴隷に売ったのに、主はヨセフと共にいて彼の生涯を祝福し、総理大臣として立てて、飢饉で民族絶滅の危機に瀕するイスラエルの民を救うことになりました。「あなた方は悪をたくらんだが、神はこれを善に変えた」(創世50:20)とヨセフは兄たちに語ります。 先週、学んだ「ヨナの物語」も同じような主題を持っています。主への反抗を示すヨナは、陰府の腹なる「大魚に呑まれ」、神様のご計画に降参して、結局はみ旨に従います。大いなるリバイバルの御業でした。。

11ー12節でも語ります。闇に隠れても、神の目から隠れることはできない。神には闇も暗くはなく、夜も昼のように輝く。神にとって闇も光も異なることはない。長谷川保著の自叙伝「夜も昼のように輝く」にも同じ信仰が告白されています。長谷川先生は、身の置き場のない結核患者と共に寝起きして共に歩み、聖隷事業団を作られました。「神、共にいませば、まっ暗闇の試練の中でも、恵みの光を得る」と証ししておられます。

3)、14 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日の/まだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。17 神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。18 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。(14-18節)

  ⇒ 主なる神は恐るべき、全能の御方である!

 14節からは神の全能の力が語られます。神様は「恐るべく、くすしきお方」です。詩人はここで自分の命のことを語ります。神様の全能の力、神秘の力の中でいのちを受け、お母さんの胎内で織り成されます。そして、わたしどもの人生は神の恵みの書物の中に、豊かに計画なされたと言うのです。神様の「御計らい(=ご計画)」は、何と貴いことでしょう。は改めて驚いています。そして18節の言葉は、直訳では「わたしが目覚めるとき、なお、わたしはあなたと共に(います)」です。昔からここにはわたしどもの人生の全てが歌われていると言われてきました。  生命の授与 ⇒ 母親の胎内での成長 ⇒ 地上での恵みの人生 ⇒ そして永遠の命への目覚め、復活(18節)の時を示す  と言うのです。文語訳や口語訳では18節に「わたしが目覚める時」と訳します。神の恐るべき、くすしき力、神の全能性は「人間の創造」に現れています。人間の心臓はこぶし大の圧力ポンプですが、毎日、10万Kmの血管に輸送し続けています。  1日で、8トン(ドラム缶40本分)の血液を送っているといわれます。1日10万回もの鼓動を繰り返しています。肺は、その壁を広げると表面積はテニスコートの広さになると言われます。 一人の人間の血管を毛細血管まですべてつなぐと地球を一回りすると言われます。また、最近の遺伝子の研究によると、人間の60兆の細胞からDNAの紐をつないで伸ばしてゆくと、一人の人間分で、太陽系の半径、つまり太陽から冥王星の距離になると言われます。実に、人間は小宇宙といわれますが、この体の中に宇宙の広がりを持つのです。

4)21 主よ、わたしはあなたを憎む者を憎み、あなたに逆らって起り立つ者を/いとうではありませんか。22 わたしは全く彼らを憎み、彼らをわたしの敵と思います。23 神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを/知ってください。24 わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。

⇒ 悪しき道から祝福の道へ                 (21-24節)

 この詩は、激しい罪への憎しみをもって締めくくりとします。わたしどもの生涯は、「神に近づくほど、罪から遠ざかり、また、罪と汚れは、わたしたちを聖書、祈り、教会から遠ざける」と言われています。特に、24節の「御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください」と言う祈りはわたしどもの心すべき祈りです。「迷いの道」は「デレク・オーツェーブ」ということば。もともとの言葉の意味は「痛みの道」です。「偶像の道」とも訳されています。罪を憎み、神の恵みを慕って歩んでゆきましょう!

【祈り】詩篇139篇を感謝!あなたこそ、全知、臨在、全能なる、創造と摂理(=歴史支配の力)をもたれるお方です。主よ、あなたに絶対的な信頼をもって歩ませてください。あなたにある生涯は、夜も暗闇も、昼のように光のように輝く人生です。主にあってどのような困難をも乗り越えて、天空を翔る鷲のような勝利の生涯を、歩ませてください。偶像礼拝、殺人、姦淫、嘘と決別し、恩寵充満の祝福の道へと導きたまえ!御名によって。アーメンヨナ1章1節には、「主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った」、 とあります。

ヨナは、北イスラエル王国の預言者で、ナザレ出身のイエス様と同じ、ガリラヤ地方の出身です。紀元前722年、北イスラエル王国は、アッシリアに滅ぼされました。ヨナは、その北イスラエル王国の預言者です。当時、アッシシリアが行った残虐な行いは歴史上の国々の中でも群を抜いていたといいます。やがて、ニネベは、アッシリアの首都となり(紀元前705年)、世界第一の都市となりました。

2節主から、「あの大きな町ニネベに行き」、とヨナは命じられます。ヨナは、「主の前を離れて」(1:3)、二ネベとは反対のタルシシ、今日のスペイン、当時の「世界の果て」と思われていた場所ですが、タルシシ行きの船に乗って逃げます。 

ヨナはタルシシまで行けば、神様の眼差しは届かないであろうと思ったのです。

パウロは、イスパニア、即ち、スペインに行って異邦人を伝道しようと思いまし

た。主の命令に反抗したヨナとパウロとでは大違いです。1章4節では、ヨナの不従順のゆえに主が起こされた大きい嵐により、船が沈没しそうになります。船員は、嵐の原因であるヨナを海に投げ入れ、そんなヨナを救ったのは、神様が備えられた魚でした(1:17)。その魚によって飲み込まれたヨナは、三日三晩、その魚の中にいて悔い改めと助けられた事を感謝する祈りへと導かれます(2章)。

【今日のメッセージポイント】

  • 第一に、裁きを思い直す神様 (ヨナ書3章1~2節)

、「主の言葉が再びヨナに臨んで言った」、 、「大きな町ニネベに行き」

ヨナは主の命令どおり、今度は、直ちにニネベに向かって行きました。    

1節にある、「再び」という言葉に込められた、「神様の恵み」に着目します。

タルシシへ逃れようとした、ヨナに「再び」、神様の召しがありました。

神様は、ヨナに最初の時の事をとがめずに、将来におけるヨナの可能性に期待しておられたのです。

カ22章32節、イエス様は、十字架につけられる前、ペテロがイエス様を三度裏切る事を既にご存知でした。「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とイエス様はペテロの為にとりなしのお祈りをして、再び

ペテロに宣教の使命を与えました。ペテロと同様に、神様は、ヨナが裏切る者であることを知っていながら、彼の立ち直る将来に期待し、使命を与えられたのです。私達には弱さがあるかも知れません。しかし、イエス様は、天の神様の傍らで私達の為にお祈りをしてくださっているのです。ヨナとペテロのように、私達が道を踏み外しても、神様は、そのご計画の中に、常に引き戻してくださるのです。

  • 第二に、民族を超えた、神のプロジェクト (ヨナ書3章3~10節)

4節、「ニネベは滅びる」。この短い言葉で、二ネベの人々は、神様を信じました。二ネベの人々は、自らの悲惨な状態を嘆き、悔い改めへと導かれるのです(3:7~9)。二ネベにいる王をはじめとする人々の悔い改めを見て、神様は、裁きを取り止めたのです(3:10)。「滅びる」には、「ひっくり返す」という意味があります。岩波訳では、同じ事柄を受け手の側から、「ひっくり返す」→「ひっくり返される」と訳しています。つまり、①悔い改めないで、「滅びる」という意味で、「ひっくりかえす」という否定的な意味と、②悔い改めて全てが新しくなるという肯定的な意味の「ひっくりかえす」という二重の意味があります。         

「ニネベは滅びるぞ、滅びるぞ!」とヨナは叫んで回ったつもりが、実際には、「二ネベは悔い改めるぞ、悔い改めるぞ!」という預言をしたのでした。ヨナとしては滅びを宣告しているつもりでいたのに、実際には、同じ言葉が否定的な意味と肯定的な意味との二つの意味をもっていたので、二ネベは滅びることなく、悔い改めの恵みを受けていたのです。詩編29編のように、御言葉は力と輝きをもって人々に響きます(詩29:4、新共同訳)。伝道では、福音を手渡す人と福音を受け取る人双方がそこで主と出会うのです。その時、キリストが輝くのです。

証) ある先生からの言葉が印象に残っています。それは説教では、とにかく、御言葉を繰り返し語りなさい。御言葉には力があり、御言葉に神様の御心が明らかになり、聖霊なる神様が御言葉と共に力強く働くからという言葉でした。

ヨナ書における、異邦人への開かれた神の愛は、ルツ記にも見られます。

ルツ記1:16、ルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」。  

ユダヤ人・ナオミが夫と二人の息子たちと共に、ユダからモアブに住みました。しかし、そこで夫と二人の息子たちも死に、息子たちがめとった、モアブ人の妻二人オルパとルツ、ナオミの三人だけが残されます。ナオミは、二人の嫁オルパ、 

ナオミと共に故郷ユダに戻ろうとし、途中で嫁二人を帰らせようとしました。

モアブ人・ルツは、ナオミに、「わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。」と言って離れませんでした。そして、ナオミはルツと二人でユダに帰りました

ルツは、危機の中、全部を捨て、まことの神様だけに命をかけて信じました。ここから出発するルツの生涯は、どのような生涯だったでしょうか?ルツの決断が、やがてボアズとの結婚に導かれ、オベデ、エッサイ、ダビデ王を通して救い主イエス様がお生まれになります。ダビデ、救い主の系図に入るという思いもよらなかった祝福を受けたのです。イエス様の家系にモアブ人・ルツがいる事は、福音の本質が差別や偏見を取り除くものである事を明らかにしています。

次のように、パウロは、ローマ書10章12~14節で書いています。「ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか」。ユダヤ人と異邦人が共に和解して、主を礼拝するという事は、初期の教会にとって重要な課題でした。

ローマ書10章では、 民族の壁を超え、主を共に礼拝し、「イエスは主です」と共に宣べ伝える伝道の大切さが書かれています。ヨナ、ルツの「開かれた神の愛」とローマ書の恵みによってのみ救われるとは相互に響き合っているのです。

その神様の偉大なプロジェクトは、私達の足元から少しずつ始まっております。

証)先月24日の祝会では、日本人の高校生と留学生たちが主を共に賛美しました。ある留学生はアルバイトの同僚を伝道し、ある留学生はルームメイトを連れてきました。日本人と留学生、社会人も共に主を賛美したのです。主を共に賛美し、伝道していくという神様のプロジェクトの一端を見るようで、感動しました。

  • 第三は、知的関心だけの祈りと命をかけた祈り (4章1~3節)

ヨナ書4章2節後半、ヨナは、主に、「なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。」と祈りますヨナは、命令を退けて反抗していました。しかし、神様は、ヨナに対しても思い直されたのでした。一番忍耐とあわれみを受けていたのはヨナ自身でした。神様を単に知識の対象として知るだけではなく、始めに神様を信じて、交わりをもって、神様が恵み深く、あわれみ深い神様であり、怒るのに遅く、災を思いかえされることを私達も知る必要があります。

ここで、私達は、自らに対して神様が本当に恵み深く、あわれみ深い神様であることを知っているのか、ということが問われているのだと思います。

4章3節、「それで主よ、どうぞ今私の命をとってください。私にとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」とヨナは怒ります。言葉は同じでも、ヨナの祈りとローマ書でパウロが覚悟をもって命を捨てる事を願った祈りとでは異なります。

ローマ書9章2、3節、すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」。とパウロは祈りました。

証)ドイツのルドルフ・ボーレン先生が牧師研修会で講演なさった時の話です。

品川の講演会の時に、「あなたがたが礼拝の講壇に立ったならば、そこに集まる会衆の為にいつでも命を捨てる覚悟で講壇に立ちなさい」と語ったそうです。

ボーレン先生が講演をした時、一人の若い牧師が、会衆のために命を捨てることができません、と語ったそうです。

その時、ボーレン先生は毅然とした態度で次のように答えたそうです。

この聖書の中にある、神の命は今日の時代までそれが脈々と流れ続けている。なぜ、神の命が流れてきたのかといえば、この聖書の御言葉に命をかけてきた人達がいたからである。

あなたが、もしそういうのであれば、あなたは、この『神の命の伝達者』となることは決してできません!」とボーレン先生は語ったそうです。

また、ロバート・キンローという先生も、「キリストの十字架と復活の福音は、あなたが伝えようと思うその人のために、自分の命を代わりにしてでも、この人に伝えたいという思いがなければ、伝わりようがない福音だ」という話をされたそうです。

主イエス様と交わって行く時、主と同じ心が与えられて、そして、愛する者の為に祈り、福音を伝えるその時、この尊い福音を手渡すことができる、と信じます。

私達の罪の為に滅びる事を望まれない、父なる神様が、独り子イエス・キリストを十字架につけて捧げる事により、神様は恵み深く、あわれみ深く、怒ること遅く、いつくしみが豊かである事がその十字架で明らかにされました(ヨナ書4:2)。証

【祈り】 神様は命がけで私達を救ってくださったのですから、私たちも、パウロのように、キリスト者として神様の愛にお答えし、「神の命の伝達者」として、御言葉を宣べ伝えるものでありたい、と思っています。