《新宿西礼拝説教》 「運命の逆転」 2026.03 .15
イザヤ53:8,11、12 運命の逆転が起こる所 代贖 深谷 牧師
主イエス様の救いを受けるということは、わたしたちの人生に「運命の逆転」が起こることだと思います。数週館前にパウロの体験、ペテロの体験、ヨハネの体験、サマリヤの女の体験、ザアカイの体験。「運命の逆転!」
【今日の聖書箇所の概説と内容区分】
そもそも、イザヤ書という書物は不思議な書物です。イザヤ書は聖書の縮図だと言われます。
旧新約聖書は66巻。 イザヤ書は66章。
旧約聖書は39巻。 第1部は1-39章、
新約聖書は27巻。 第2部40-66章(27章)、
内容から見ても第1部は聖なる神の召されつつも選民失格となる姿
第2部ではバビロン捕囚の絶望から「慰めよ、慰めよ」との福音の宣言。
まさにイザヤ書は聖書の縮図、旧約聖書と新約聖書を含んだ神の言葉!
今日見ます、イザヤ書53章の背景はイスラエルの歴史の中では最も苦しい時代でした。紀元前586年、小国イスラエルはバビロン軍によって滅ぼされてしまいました。エルサレムは焼かれ、神殿は崩壊し、人々は虐殺され、生き残った人々は奴隷として売られ、おもだった人々は遠くバビロンの捕囚となったのです。
イザヤ書全体としては「神の義」という主題に貫かれており、神の救いの業が堂々と語られています。このイザヤ第二部は「第五福音書」とも呼ばれ、旧約聖書中最も大事な書物のひとつです。その中でも、今日の「苦難の僕(第4の歌)」(イザヤ52:13-53:12)はイザヤ書の中で重要な位置を占めるばかりか、旧約聖書中、最も大切な箇所です。ここには一人の人が多くの人の犠牲として苦しみを受ける内容が記されています。それは「主の十字架のもとでその事実を見た人の報告のよう」でもあります。教会ではこれを主イエスの預言として理解してきました。
中沢洽樹師の解説(左側)に従ってまず、全体を見渡してみましょう。
52:13-15 運命の逆転 わが僕は高く上げられる
53:1-12 僕の受難
1- 3 僕の生い立ち、性情。 貧しさに育つメシア
4- 6 僕と民ら 傷ついた癒し人
7- 10 代 贖 運命の逆転
11- 12 報 償 義認とリバイバル
今日は時間の関係で、8,11,12節を中心に見て行きたいと思います。その主題は、代理贖罪、信仰義認、リバイバル ということになります。
【メッセージ・ポイント】
1)、8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
(8 節 左近淑訳)
拘留も 裁判も受けずに 彼は処刑された。
しかもその運命を誰一人思ってみようともしない。
(8節 関根正雄訳)
過酷な裁きによって彼は取り去られた。
その運命の転換を誰が思ったのか。
彼が生ける者の地から断たれ
わが民の罪過のために死に渡された時
⇒ 聖書の中心 キリストの十字架!(代贖による個人の運命の逆転)
ここには、イスラエルの民の身代わりとして、その罪の重荷を担う一人の僕の姿があります。彼は「苦役を黙々と担い、かがみこみ、口を開かない。そして、やがて捕らえられ、裁きを受けて、死刑となる。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、ついに葬られてしまったのでした。
これはもう、主イエスの十字架の贖いのできごとそのものです。
8節の「彼の時代」は、「ドール」と言う言葉で、新共同訳では「時代」と訳されており、新改訳も「彼の時代の者で」なっています。しかし、いろいろな方々の翻訳を参考にしますととても刺激的な内容となります。
(左近淑訳 8 節 )
拘留も 裁判も受けずに 彼は処刑された。
しかもその運命を誰一人思ってみようともしない。
(関根正雄訳 8節 )
過酷な裁きによって彼は取り去られた。
その運命の転換を誰が思ったのか。
彼が生ける者の地から断たれ
わが民の罪過のために死に渡された時
関根正雄の岩波文庫の「イザヤ書下」の170頁にはこう説明がある。「運命」最近の多くの人の解釈に従う。ただし、言語の意味に従い、「転換」を加えた。
左近淑と、関根正雄、小林和夫、ヴェスターマン、マイレンバーグや現代の注解者はこれを「運命」と訳して、「苦難の僕の運命を誰も理解しない」と訳すのが多いようです。
小林和夫先生の解説によれば
「この世の人のうち」という「代(generation)」は、それは「その代」とも訳されますが、ヘブル語ではもともと「くじを引く」という意味、あるいは「運命」という意味をもあります。聖書では「運命」という語は使いませんがあるいは「計画」とも訳される言葉です。ですからその「計画」「くじ」「運命」というべきですが、NEBを訳したドライバーが「運命」と訳しました。それからユダヤ系のマイレンバーグがこれを「運命」とだけ訳さないで「運命の逆転」と訳しました。それは「誰がこの人の運命が逆転されるということを思った人があるだろうか」と訳されるべきであるというのです。関根正雄はそこから「運命の転換」と訳した。ヴェスターマンは「これは神の僕に対する神の介入である」と言っています。・・・
苦難の僕の運命は、イスラエルの人々の贖いをなす事。そして「彼の運命」の意味が分かる時に、全ての人々の運命の逆転が起こることを告げています。苦難の僕=主イエス御自身、のあがないの業に触れるときに、人々に「運命の逆転」が起こるのです。ハレルヤ!
内村鑑三は、この十字架の贖いの業への信仰を告白し続けたひとりです。
「終(つい)に彼を捨てる」 内村鑑三
国のためにキリストを信じたる者は終(つい)に彼を捨てる。
社会人類のためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。
教勢拡張を思い立ちてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。
キリストの人格にあこがれてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。
美(よ)き思想を得んとてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。
患難苦痛を慰められんためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。
されども、おのが罪を示され、その苦痛に耐えずして、「ああわれ、悩める人なるかな」の声を発し、キリストの十字架において神の前に義とせらるるの唯一の道を発見し、その喜びに耐えずして彼を信じた者は、かかる者は、よし宇宙は消え失(う)するとも、永遠より永遠まで彼を捨てない。 (1916年3月『聖書の研究』、著作集第12巻)
2)、11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。(11節)
⇒報償1 義なる僕によって義とされる!(個人の内的逆転・信仰義認)
ここには、この苦難の僕の苦しみが、主のみ旨であり、それを確信して、この僕は「自らを償いの献げ物とした」と記されます。そして、その苦しみの代価によって「多くの人が正しいものとされるために 彼らの罪を自ら負った」。この「正しい者とされるため」は、岩波版の関根清三訳では「義なる僕は多くの者を義とし」と訳されます。「義(ツァディク)が二つ繋がる不思議な個所」でもある。主イエスの十字架の死が無駄になることなく民が自己中心から神に立ち返る、悔い改めが起こってゆくさまを見ることができます。
3)、12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。
⇒報償2 多くの人々を得る。(人類の運命の逆転!リバイバル!)
苦難の僕の歌の最後(12節)は、語り手が神になっています。主なる神が宣言されます。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とする」(新共同訳)と。そして、その苦難の闘いのゆえに「彼は分捕りものとしておびただしい人を受けることになる」(新共同訳)と。神ご自身が、それを宣言されます。なぜなら、この苦難の僕が、「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ」と。彼は「多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをした」からである、と聖書は告げます。
こうしてメシヤなる苦難の僕の贖いの恵みによって、人々は義とされるのです。この福音は、全世界へと語り告げられます。ここに個人の人生の運命に大いなる逆転が起こり、人類の全体の運命にも逆転が起こるのです。新約聖書はまさに、この主なる神の僕、苦難の僕、主イエスキリストの十字架の贖いによって、個人の生涯に運命の逆転が起こり、人類全体に逆転が起こると語ることを告げ示すことになります。
【祈祷】 天の御父。この朝は「旧約信仰の頂点・イザヤ53章の主の僕の贖いの業」について学びました。まさに人間は弱く愚かで、自分で自分を救うことができません。苦難の僕の贖いの業を通して、わたしどもは義とされ救いを受けます。この日、主イエスの十字架の贖いの驚くべき恵みを悟り、聖霊に助けられて、運命の逆転を体験し、全人類に運命の逆転を祈る者とならせて下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン
