- 先日、3月20日の日に、「日本基督教団東京教区北支区」の総会が西片町教会で開催されました。教会から総会議員として、わたしたち二人の牧師と西川穂伝道師、そして中野美和役員の4人が出席しました。北支区には、教会が48ありますがその代表が集って、共に礼拝をし、主にある交わりを保ちつつ、2025年度の活動と決算、そして2026年度の活動と予算案を承認し、北支区の教会を、同じ信仰の共同体として、共に証し人として歩もうという大切な総会の時でした。その中でも、総会の最後の方で一人の牧師が立って、一つの提案がなされました。「今年の12月に、教団総会があるのですが、400人以上の代表者の集まる大事な総会なのですが、今年は、池袋のメトロポリタンホテルの予約が取れず、親しい交わりの中にある方が交渉したら、立正佼成会の広間を貸していただけるということになり、そこで開催するかどうかという議論がなされていると聞いています。わたしはそれはあまりよくないことだと思う。それで、この総会で、今回は話が進んでいて、そうなるならしょうがないとしても、次の年度からは、他の宗教団体の場所を借りるようなことはしないでほしいという意思表示ができないか?考えています。」という意見でした。時間の制限もある中での何人かの議論がありましたが、議案としてまとまりませんでしたが、いろんなことを考えるきっかけとなりました。
- 【今日の聖書箇所の概略】
- さて、明治、大正、昭和にかけて、日本のキリスト教界に、そして、日本社会そのものに大きな影響を与えたクリスチャンに内村鑑三(1861~1930)がいます。彼は、1920年(大正9年、ちょうど、今から106年前ですが、60歳の時に東京丸の内の聖書講演会で、ほぼ一年、4月から12月までヨブ記の連続講解説教を行いました。その中でのヨブ記19章25節に至った時についに心熱して病に倒れ、数回の休講を余儀なくされました。そして、10月11日の日記にこのように記しました。
- 「眩暈(めまい)いまだ去らず、頭を冷やし終日、床にあった。床中に彼女(妻)に看護せられて言った。『ヨブ記19章を講じてこんなくらいのことは当たり前である。床につくくらゐに一生懸命にならざれば、ヨブ記がわかったということはできない』と。しかし、これで峠を越えてあとはらくである、一先づ大安心である、こんな力の要る部分は聖書の中にも多くはないのである」(「ヨブ記の研究」『あとがき』内村美代子より)。
- 翌、大正10年からは「ロマ書講演」に入りました。
- ヨブ記は「聖書の中で最も深い書物」「人間の苦難と神の義について深淵なる真理を示す書」などと呼ばれております。
- ヨブは、信仰深い、真実な、豊かな人でした。しかし、サタンの攻撃に会い、家族、親族、仕事、財産に問題が生じて全てを失うに至りました。更に、ハンセン病のような恐ろしい病気にあって、健康とあらゆる人間関係に破綻をきたしてしまいました。彼は「人生の苦難の問題」を友人たちとの議論し、自分の無罪を主張し、神の歴史支配に異議申し立てをします。しかし、因果応報の思想に立つ友人たちに責められて、孤立無援、絶望のただ中で、「贖い主(=ゴーエール))を待ち望む信仰に至りました。法廷における弁護者というイメージを主張する者もいます。とにかく、ヨブは人間としての全てを失う中で、自分を弁護し、失われたものを取り戻し、自分の人生を救い、回復する、まさに「贖い主(=ゴーエール)」を待ち望んだのです。人生はまず、「贖い主」なるお方に待望の目を注ぐところから始まると言って良いでしょう。
- さて、ヨブ記19章の概略は次の通りです。
- 1-4節 ビルダデへのヨブの二回目の答えで、友に捨てられた絶望の叫び
- 5-21節 自分には恥ずべき行為はない、わが身の病は神の不正の暴虐の結果
- 22-24節 彼は自分の潔白を、鉄の筆で岩に刻むように熱望する
- 25―27節 失望の最中で啓示される「天における贖うお方」への信仰の飛躍
- 【メッセージ・ポイント】
- 25 わたしは知る、
- わたしをあがなう者は生きておられる、 (25節)
- ⇒ われを贖う者は生きておられる!
- 「贖う者」という言葉は、ヘブル語では「ゴーエール」という語であり、この言葉は独特の響きを持っています。キリスト教の中心的なメッセージはこの「贖う」というこの一語にかかります。
- 「贖う方」(ゴーエール)とは 次ぎのような場合に使用された言葉である。
- 親族中の助力者「親族が血を流した場合その復讐をする」(申命19:6-12)
- 親戚が捕虜になった場合、身代金を払って自由の身とする(レビ25:48)
- 親戚が破産をした時は賠償金を払ってその財産を買い戻す(レビ25:25)
- やもめや幼児の保護者、非圧迫者の解放者(箴言23:10-11)
- ⑤ エジプトからイスラエルを解放した主ヤーウェ(出6:6、15:13)
- ⑥ バビロンから民を解放したヤーウェ(イザ43:14、44:6,24,エレ50:34)
- ⑦ メシヤ(=救い主)への適用、「最後の方」(イザヤ44:6、48:12)
- (フランシスコ会「ヨブ記」その他による)。
- 日本キリスト教団の信仰告白があります。わたしどもは、聖餐式のある月の第一主日に読みます。これは、大切な信仰告白の基本的な内容が記されます。週報の裏面に印刷されていますので確認してみましょう。4つの告白です。
- 第一項目は、「聖書信仰」です。聖書が基本なのです。
- 第二項目は、「救いとは贖い」。人間の罪は主イエスの十字架の贖いによる。
- 第三項目は、救いの業は「信仰による義認」と「聖霊による潔め」。
- 第四項目は、教会。教会は神の言葉の説教と聖礼典(洗礼・聖餐)を行う。
- ここでは特に、第二の主題、主イエスの十字架の贖いが強調されています。
- 2)後の日に彼は必ず地の上に立たれる。(25節b)
- ⇒ 後の日に、彼は必ず地の上に立たれる!
- ここでヨブはこの「贖い主」なるお方が、地の上に立つと告白します。ここでは二つの理解の違いがあります。①地の上は、文字通りには、「塵(=オーファール)の上として、死人の行く、塵の積もった場所、死者の国、陰府(よみ)の国を指すという理解の仕方があります。そうすると「贖う者」は、陰府の世界に立つことになる。また②「塵」という言葉は、「土(=アダマー)7:21、14:8参照」や「地(エレツ)8:19、41:25参照」と同義語として使われている。アダムも「土の塵」から造られているが、実質的に同じ。この場合も、陰府よりも、地上と取ったほうが妥当と考えられます。教会の伝統でも70人訳以来、この「地の上に立つ」を、地上に来られるキリスト、肉体をとってこられる「受肉の神のことば」と理解してきました。更にこの「贖い主」は再臨のキリストを指すと内村は言います。「贖う者」は最後に、地上に立たれる。その時、彼の義が、正しさが証明される時となるのです。
- 有限の被造物の世界に、無限の造物主、神ご自身が訪問され、永遠が時間の世界に突入されるのは、二回あります。一回はクリスマス。神ご自身が肉体をまとってベツレヘムの馬小屋に栄光を表わし、ゴルゴダの上に人間の罪をすべてご自身の血潮で贖い取ってくださったのです。第二回目は再臨の時です。主イエスが、この世界の歴史の終わりに再び来たりたもうという信仰です。この再臨信仰は聖書の至る所で告白されています。Ⅰテサロニケの手紙などは、各章の終わりに再臨と再臨への備えが記されます。パウロの手紙などは至る所に再臨の希望が語られます。ロマ8章や、ピリピ3:20,21など。マタイ福音書25章には「十人の乙女」「タラントの譬え」「羊と山羊のさばき」など。黙示録の最後の部分などがあります。
- 26わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、
- わたしは肉を離れて神を見るであろう。
- 27しかもわたしの味方として見るであろう。
- わたしの見る者はこれ以外のものではない。
- たしの心はこれを望んでこがれる。 (26、27節)
- ⇒ わたしの目が、贖いの神を仰ぎ見る!
- ここでは、「見る」という言葉が3回も記されます。
- 厳密に調べると「仰ぎ見る(=ハーザー「幻を見る時に使われる」)」と
- 「見る(=ラーアー「一般的な見る」)という言葉が使用されています。
- また、「わたし」も3回使われます。「仰せん(ぎょうせん)」の信仰!
- 「わたしは仰ぎ見る」、「このわたしが仰ぎ見る」、「わたしの目をもって見る」。ヨブは、神に会うことを唯一の望みとしています。伝統的には復活のことを指し示していると見ています。
- この最後の部分でヨブは歌います。「その時には、神は厳しい裁きの神としてではなく、わたしの味方として、わたしの弁護者として、神を見る」と。
- 内村鑑三は、25~27節の個所から、3つの大きな「思想」があるとして次のように指摘しました。
- 贖う者は神であるとの思想である。⇒これはキリストの神性を示すもの。
- 「贖うお方」が地上に現れるという思想。⇒これはキリスト再臨を指す。
- ある時において人が神を見る目を与えられて、明らかに神を直視し得るにいたるとの思想である。 ⇒これは信者の復活および復活後に神を見たてまつることを示すのである。
- 「絶望の極、この三思想、心に起こる時、― いな、この三啓示、心に臨むとき ー 絶望の人は一変して希望の人、歓喜の人となるのである。」
- ヨブは、この世の悲しみ、病い、挫折、矛盾、不条理、愛する者との死別、人生の空虚さ、醜悪さ、究極における自己の死・・・・に直面し、絶望の極みに陥り、その最も暗い絶望の闇の中において、自分のどうしようもないこの現実を贖うお方にお会いする啓示を頂き、主の贖いに、復活に、再臨に、永遠の命の世界の出現に、真の救いを見いだしたのでした。わたしどもも同じです。主の十字架に、復活に、再臨に、永遠の命の出現に、救いの光を見るのです!
- 【祈祷】天の父よ。ヨブ記19章を学び得たことを感謝します。ヨブが肉体的な苦痛、人間世界の冷たい批判、友人たちの攻撃的な言葉に傷つき、自分の自身の内なる世界や、この世界の不条理に心奪われ、真っ暗闇のどん底で、「我をあがなう方は生きておられる!」との告白に至りました。われらの罪と死の世界を贖うために来られ、あのベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中に身を横たえ、カルバリの十字架の上で身代わりの死を遂げ、しかも罪と死を打ち砕いて復活され、再臨の朝には、顔と顔をあわせてお会いする!そこまで示されて、ヨブが「内臓が焼けるような思い」であなたに焦がれたように、わたしどもの魂をも、贖い主であり、救い主であるあなたを慕う者として下さい。聖霊よ、我らの霊の目を開いてください。贖い主、主イエスの御名によって。アーメン
《新宿西礼拝説教》 「運命の逆転」 2026.03 .15
イザヤ53:8,11、12 運命の逆転が起こる所 代贖 深谷 牧師
主イエス様の救いを受けるということは、わたしたちの人生に「運命の逆転」が起こることだと思います。数週館前にパウロの体験、ペテロの体験、ヨハネの体験、サマリヤの女の体験、ザアカイの体験。「運命の逆転!」
【今日の聖書箇所の概説と内容区分】
そもそも、イザヤ書という書物は不思議な書物です。イザヤ書は聖書の縮図だと言われます。
旧新約聖書は66巻。 イザヤ書は66章。
旧約聖書は39巻。 第1部は1-39章、
新約聖書は27巻。 第2部40-66章(27章)、
内容から見ても第1部は聖なる神の召されつつも選民失格となる姿
第2部ではバビロン捕囚の絶望から「慰めよ、慰めよ」との福音の宣言。
まさにイザヤ書は聖書の縮図、旧約聖書と新約聖書を含んだ神の言葉!
今日見ます、イザヤ書53章の背景はイスラエルの歴史の中では最も苦しい時代でした。紀元前586年、小国イスラエルはバビロン軍によって滅ぼされてしまいました。エルサレムは焼かれ、神殿は崩壊し、人々は虐殺され、生き残った人々は奴隷として売られ、おもだった人々は遠くバビロンの捕囚となったのです。
イザヤ書全体としては「神の義」という主題に貫かれており、神の救いの業が堂々と語られています。このイザヤ第二部は「第五福音書」とも呼ばれ、旧約聖書中最も大事な書物のひとつです。その中でも、今日の「苦難の僕(第4の歌)」(イザヤ52:13-53:12)はイザヤ書の中で重要な位置を占めるばかりか、旧約聖書中、最も大切な箇所です。ここには一人の人が多くの人の犠牲として苦しみを受ける内容が記されています。それは「主の十字架のもとでその事実を見た人の報告のよう」でもあります。教会ではこれを主イエスの預言として理解してきました。
中沢洽樹師の解説(左側)に従ってまず、全体を見渡してみましょう。
52:13-15 運命の逆転 わが僕は高く上げられる
53:1-12 僕の受難
1- 3 僕の生い立ち、性情。 貧しさに育つメシア
4- 6 僕と民ら 傷ついた癒し人
7- 10 代 贖 運命の逆転
11- 12 報 償 義認とリバイバル
今日は時間の関係で、8,11,12節を中心に見て行きたいと思います。その主題は、代理贖罪、信仰義認、リバイバル ということになります。
【メッセージ・ポイント】
1)、8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
(8 節 左近淑訳)
拘留も 裁判も受けずに 彼は処刑された。
しかもその運命を誰一人思ってみようともしない。
(8節 関根正雄訳)
過酷な裁きによって彼は取り去られた。
その運命の転換を誰が思ったのか。
彼が生ける者の地から断たれ
わが民の罪過のために死に渡された時
⇒ 聖書の中心 キリストの十字架!(代贖による個人の運命の逆転)
ここには、イスラエルの民の身代わりとして、その罪の重荷を担う一人の僕の姿があります。彼は「苦役を黙々と担い、かがみこみ、口を開かない。そして、やがて捕らえられ、裁きを受けて、死刑となる。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、ついに葬られてしまったのでした。
これはもう、主イエスの十字架の贖いのできごとそのものです。
8節の「彼の時代」は、「ドール」と言う言葉で、新共同訳では「時代」と訳されており、新改訳も「彼の時代の者で」なっています。しかし、いろいろな方々の翻訳を参考にしますととても刺激的な内容となります。
(左近淑訳 8 節 )
拘留も 裁判も受けずに 彼は処刑された。
しかもその運命を誰一人思ってみようともしない。
(関根正雄訳 8節 )
過酷な裁きによって彼は取り去られた。
その運命の転換を誰が思ったのか。
彼が生ける者の地から断たれ
わが民の罪過のために死に渡された時
関根正雄の岩波文庫の「イザヤ書下」の170頁にはこう説明がある。「運命」最近の多くの人の解釈に従う。ただし、言語の意味に従い、「転換」を加えた。
左近淑と、関根正雄、小林和夫、ヴェスターマン、マイレンバーグや現代の注解者はこれを「運命」と訳して、「苦難の僕の運命を誰も理解しない」と訳すのが多いようです。
小林和夫先生の解説によれば
「この世の人のうち」という「代(generation)」は、それは「その代」とも訳されますが、ヘブル語ではもともと「くじを引く」という意味、あるいは「運命」という意味をもあります。聖書では「運命」という語は使いませんがあるいは「計画」とも訳される言葉です。ですからその「計画」「くじ」「運命」というべきですが、NEBを訳したドライバーが「運命」と訳しました。それからユダヤ系のマイレンバーグがこれを「運命」とだけ訳さないで「運命の逆転」と訳しました。それは「誰がこの人の運命が逆転されるということを思った人があるだろうか」と訳されるべきであるというのです。関根正雄はそこから「運命の転換」と訳した。ヴェスターマンは「これは神の僕に対する神の介入である」と言っています。・・・
苦難の僕の運命は、イスラエルの人々の贖いをなす事。そして「彼の運命」の意味が分かる時に、全ての人々の運命の逆転が起こることを告げています。苦難の僕=主イエス御自身、のあがないの業に触れるときに、人々に「運命の逆転」が起こるのです。ハレルヤ!
内村鑑三は、この十字架の贖いの業への信仰を告白し続けたひとりです。
「終(つい)に彼を捨てる」 内村鑑三
国のためにキリストを信じたる者は終(つい)に彼を捨てる。
社会人類のためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。
教勢拡張を思い立ちてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。
キリストの人格にあこがれてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。
美(よ)き思想を得んとてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。
患難苦痛を慰められんためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。
されども、おのが罪を示され、その苦痛に耐えずして、「ああわれ、悩める人なるかな」の声を発し、キリストの十字架において神の前に義とせらるるの唯一の道を発見し、その喜びに耐えずして彼を信じた者は、かかる者は、よし宇宙は消え失(う)するとも、永遠より永遠まで彼を捨てない。 (1916年3月『聖書の研究』、著作集第12巻)
2)、11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。(11節)
⇒報償1 義なる僕によって義とされる!(個人の内的逆転・信仰義認)
ここには、この苦難の僕の苦しみが、主のみ旨であり、それを確信して、この僕は「自らを償いの献げ物とした」と記されます。そして、その苦しみの代価によって「多くの人が正しいものとされるために 彼らの罪を自ら負った」。この「正しい者とされるため」は、岩波版の関根清三訳では「義なる僕は多くの者を義とし」と訳されます。「義(ツァディク)が二つ繋がる不思議な個所」でもある。主イエスの十字架の死が無駄になることなく民が自己中心から神に立ち返る、悔い改めが起こってゆくさまを見ることができます。
3)、12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。
⇒報償2 多くの人々を得る。(人類の運命の逆転!リバイバル!)
苦難の僕の歌の最後(12節)は、語り手が神になっています。主なる神が宣言されます。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とする」(新共同訳)と。そして、その苦難の闘いのゆえに「彼は分捕りものとしておびただしい人を受けることになる」(新共同訳)と。神ご自身が、それを宣言されます。なぜなら、この苦難の僕が、「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ」と。彼は「多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをした」からである、と聖書は告げます。
こうしてメシヤなる苦難の僕の贖いの恵みによって、人々は義とされるのです。この福音は、全世界へと語り告げられます。ここに個人の人生の運命に大いなる逆転が起こり、人類の全体の運命にも逆転が起こるのです。新約聖書はまさに、この主なる神の僕、苦難の僕、主イエスキリストの十字架の贖いによって、個人の生涯に運命の逆転が起こり、人類全体に逆転が起こると語ることを告げ示すことになります。
【祈祷】 天の御父。この朝は「旧約信仰の頂点・イザヤ53章の主の僕の贖いの業」について学びました。まさに人間は弱く愚かで、自分で自分を救うことができません。苦難の僕の贖いの業を通して、わたしどもは義とされ救いを受けます。この日、主イエスの十字架の贖いの驚くべき恵みを悟り、聖霊に助けられて、運命の逆転を体験し、全人類に運命の逆転を祈る者とならせて下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン
