ハレルヤ!主イエスはよみがえられた!
聖書は創世記3章のはじめから、人間の悩みの源は「罪と死」にあると語ります。アダムとエバの禁断の実を食べて、神と断絶し、おそろしい不信と死の世界を来たらせてしまいました。3章は神と人との断絶、4章は人と人との断絶、5章は死の到来です。ここからすべての悲惨は来ました。イースターのメッセージは、救い主、主イエスは十字架にかかり、人間の罪を身代わりに負ってくださり、死を打ち砕いて復活された。主イエスキリストの十字架と復活を信じ受け入れる者は救いを得るのです。
キリスト教の象徴は十字架です。しかも、それは、主イエスがかかっておられるままの十字架ではなく、主イエスがそこから降ろされ、葬られ、復活された、エンプティ・クロス、「主イエスが復活されたあとの、空となった十字架」が、まさにその象徴なのです。
イースターは人間の一番深い要請である、罪と死の解決メッセージです。それこそ、わたしどもにとって「決定的な喜びのメッセージ」なのです。
【 今日の聖書箇所の概略 】
ロマ書の第一の主題は、「個人の魂の救い」です。これが1-8章の主題です。概略的に言えば個人の魂の救いは2つに分けられています。1-5章が「信仰義認」です。そして、
6-8章が「聖化」という主題になります。
8章は「聖霊による勝利の生涯」という主題です。8章の特徴は「聖霊」と言う言葉が急に増加することです。1-7章では5回しか出てこなかった「聖霊」「霊」という語が、8章では20回以上使用されます。松木治三郎は8章を「聖霊による救い」と読んでいます。全体は、以下のように区分できます(松木治三郎による)。
1-11節 キリストへの信仰により、罪と死の法則から解放されて
12-17節 聖霊に助けられて「アバ父よ」と神様呼ぶ人生を生きる
18-30節 今は苦難と試練の時(3つのうめき)将来の栄光を待望
31-39節 最後は神の愛、十字架の愛を悟った信仰者の勝利の歌。
ロマ書の第一の主題は、「個人の魂の救い」です。これが1-8章の主題です。概略的に言えば個人の魂の救いは2つに分けられています。1-5章が「信仰義認」です。そして、6-8章が「聖化」という主題になります。6章は「罪からの解放」、7章は「律法からの解放」,8章は「聖霊により圧倒的勝利者として生きる」という内容が語られています。イースターのメッセージが語られています。
【メッセージのポイント】
1)24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
(24,25節)
⇒ ああ、わたしは何というみじめな人間なのか!
ここで言われている「律法」とは、倫理的な内容、即ち、「神を愛し人を愛する生き方」を指しています。造り主である神を愛し神に従う生涯。そして神の形に作られた人格として人間。神を愛し、人を愛して生きてゆくこと、これは、人生最高の生き方でしょう。そしてここに人間の姿があり、愛があり、命があり、喜びがあるのです。ある方々はキリスト教とは、このような生き方であるというでしょう。
律法は霊的(プネュマティコス)であり、清いのです。「しかし」とパウロは言います。「しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」と。これは強烈なパウロの自己理解であり、自分の内面を厳しく直視する正直な告白です。
人生は「神を愛し、人を愛して歩む教え」である律法を守れば豊かな祝福ができるのです。でも、現実はそうではない。なぜなら、「内在する罪」があるからです。人間の内在する罪の現実。この厳然たる事実を直視するところから、救済への願望が始まるのです。神を愛し、人を愛し得ないと言う現実に直面しなければ、救いと言うことがわかりません。「自分が肉的(サルケノス)で、罪に売り渡されている」と言う告白が、十字架のあがないによる救いを確信する基礎になるのです。
ここにみじめな人間の現実への嘆きがあります。これは死のからだであり、何者をもってしても救うことができないのです。ただ主イエスの十字架のあがないのみが、聖霊の内住によって勝利へと導くことができるのです。
「個人の魂の救い」です。これが1-8章の主題です。概略的に言えば個人の魂の救いは2つに分けられています。1-5章が「信仰義認」です。そして、6-8章が「聖化」という主題になります。6章は「罪からの解放」7章は「律法からの解放」8章は「聖霊による勝利の生涯」という主題です。8章の特徴は「聖霊」と言う言葉が急減に増加することです。8章全体は、以下のように区分できます(松木祐三による)。
2)1こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。(1節)
⇒ キリスト・イエスにあるものは罪に定められない!
「従って、今や」、と言う言葉で、パウロは1章から論じてきた主題に、1つの決断を下しています。
「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」。これがひとつの結論です。ロマ書の主題は、人間の罪を一体どのようにして解決しうるのか、罪に定められ、神の前に不義を宣言された人間が、どのように生きうるのか、という主題でしたが、ようやく、ここでひとつの方向を指し示しています。即ち、「イエス・キリストに結ばれている者」は、もはや罪に定められないと言うのです。「イエス・キリストに結ばれている者」とは、「イエスキリストの贖いを受け入れ、主イエスの臨在の恵みのうちにあるもの」を意味していると見ることができます。キリストイエスを信じた最大の課題は罪の許しを受けることです。
3) 2なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。(2節)
⇒ 御霊の法則が、罪と死の法則から、我らを解放した!
ここでは「キリストイエスによって命をもたらす命の御霊の法則は、罪と死の法則からあなたを解放した」と語られています。
人間の最大の問題は「罪と死」です。人間の中にある深い自己中心の思い、神なしにすべての事を行うおろかな人間は、罪と死の法則に捉えられて身動きの取れない状態になっていました。この罪と死の法則に捕らえられた状態から、真の自由と救いを得ていることが語られています。それは「いのちの御霊の法則による」と語られております。罪と死の法則から、いのちの御霊の法則へとわたしどもの生きてゆく原理が変わったのです。
われらの大先輩に、車田秋次先生がおられるが、先生の説教集「いのちの御霊の法則」にはこの聖句が記され、説教集の書名となっています。
この節は、わたし自身にとっても忘れえない聖句で、神学生時代から暗証してきたものです。聖霊の満たしを受けた生涯は、罪と死の呪いの世界から祝福の世界へと移されて行くのです。
パウロはここで、もう一度、律法ではなし得なかったこと、罪に勝利することが宣言されます。そこには主イエスの十字架のことが、「肉において罪を罪として処断された」と表現されています。
ロマ書8章の学びにはいって、を思うことは、聖霊の満たしによるところの勝利の生涯のことです。十字架の血潮の贖いによって人は罪に定められることのない身分へと導かれました。さらに、命の御霊の法則に罪と死の法則から解放されました。そして罪と死に勝利する人生への導かれていることをわたしどもは宣言されていることです。
2025年8月29日の「アパルーム」の証し人であるアントニオ・シニアさん(米国・メリーランド)の証しは強烈でした。彼は、アメリカの軍隊を体験し、生活があれて、薬物に手を染め、ボルチモアで路上生活者、何度も投獄され、しかし、今はクリスチャンになって、作家となり、人生が恵みの循環に入った!!驚きですね。ハレルヤ!
【祈り】
主よ、命の御霊の法則によって、わたしどもの生涯を、罪と死の支配から解き放ってくださり、豊かな命と勝利の中に歩み行かせてください。今日は聖書の中で最も深い嘆きの箇所を学ばせていただきました。主よ、律法の義によっては、到底、義とされないわたしどもです。神を愛し人を愛する歩みの中に素晴しさがあることをわたしどもは知っています。しかし、罪と死のとりことなっているわたしどもは、その行いによっては救われない、深い罪の現実にあることを学びました。どうぞ、主イエスの十字架の贖いにより義とし、復活の主イエスの内住によって勝利へと導いてください。そして、主イエスの救いを土台として、神の律法の指し示す神への愛と人への愛の歩みの上に救いを完成してくださいますように。主の御名によって、アーメン!
