説教「喜びに満ちて」

2019年9月15日 敬老主日礼拝
聖書箇所:1ヨハネの手紙1:1~4
説教:深谷美歌子牧師

今日は敬老礼拝です。75歳以上の神の家族の皆様をお祝いいたします。人生100年時代と言われますが、喜びに満ちた毎日でありますように。説教題も「喜びに満ちて」です。が、これは年齢に関係なく、すべての兄弟姉妹がそうあってほしいことです。そして4節に「喜びが満ち溢れるためです」とこの手紙の目的がそのことですと書かれています。皆でいただく日とされますように。

ヨハネの手紙は公同書簡と呼ばれ、特定の宛先は挙げられていませんが、「わたしの子たちよ」とか「愛する者たち」等、親しみを込めた呼びかけがなされています。この言葉から、これまで信仰の導きをして、親しく知っている兄姉を思い浮かべながら書いたことが伺われます。

そして、全ての人々がこの喜びの交わりに入れられますようにと願って書かれ、それは現代に生きる私たちにも語りかけられている内容です。

【聖書の概説】

1・2節-伝えるのは「いのちの言」イエスキリスト。それはヨハネが聞いたもの、よく見て、手で触れたものであると証言する。

3節-伝える目的は、父なる神とイエスキリストとの交わりに入れられるため。

4節―この交わりの結果、わたしたち(読者と自分達)の喜びが満ち溢れるようになるため。

【メッセージのポイント】

1)いのちの言が現れた

このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――(2節)

「永遠のいのちが現れた」と書いています。これは何を言っているのでしょう。

ヨハネの福音書には「言は神と共にあった。言は神であった。この言にいのちがあった。言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と書かれています。永遠の神、イエスさまがこの世界に来られたことを現しています。そのことをここでも言っているのです。「現れた」という言葉はRSVではmanifestという言葉が使われ、明らかにする、証明するなどの意味があります。ギリシャ語では不定過去形で書かれていて、過去のある時期に起こった出来事を現しています。つまりキリストが、肉体を持って、人間の歴史に出現したことです。突然出現したのではなく、約束が現れたのでした。政治家が選挙の時manifestするといったら、前回の約束した公約をどの程度達成したかを公表することです。聖

なる神がこの世界に現れたことを伝えることです。そしてそれをヨハネはよく見た。手で触れた。と証言します。

よく見たとこの聖書は訳されていますが、新改訳では「じっと見て」と訳されています。これは、何気に見たというより、観察するように確かめる見方、意味を、熟視しようと見る見方を現わしています。いつも一番そばにいてイエス様を見ていたヨハネの証言です。

手で触れたとは、復活のイエスさまが現れた時、その場にいなかったトマスが「そんなことはあり得ない、釘あとに指を入れなければ信じない」と語ったところ、次の週、イエスさまはトマスも一緒にいるところに現れて、「指を入れてごらん。まさしくわたしだ。」と語りかけられて、驚いたことがありました。40日にわたって復活のイエスさまに出会い、ヨハネは触ったこともありました。幻想ではありませんでした。

聖書は人間が考え出したお話しを書いているのではなく、歴史に起こった事実を告げているのです。このイエス様は信じる者に、永遠の命を

あたえてくださったのでした。

 

2)御子イエスキリストとの交わりを持つようになるため

すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。(3節)

わたしたちとの交わりに入らせるためと聞くと、なんとなく教会の兄弟姉妹との交わりに入るためと言っているように思います。しかしここでいう交わりは、父なる神と、イエスキリストとの交わり、つまり神様との交わりに入ることが一番の目的です。

神の御存在を知っておられるでしょうか?今も生きて働いておられる人格としての神を知ることは、二千年前のイエスキリストが何をしてくださったかを知り、自分が真の神を信じてこなかった現実を認め、今も生きたもうイエスキリストを救い主と受け入れることによってです。

7月に来て下さった、籐井圭子先生は、尼僧になってまで救いを求道して、得られなかった救いの確信を、イエス様に「私を救ってください」と祈った時、救われ、自分が変えられて、証言者になりました。

交わりという言葉は「コイノニア」という言葉ですが、もともと財産を共有する者同士のことを言うそうです。ここでは永遠の命の共有者とされ、神様との交わりを持つことができるものとなることを言っています。祈りによって、御言葉を生きることによって、今も生ける神を知ることができます。

そしてこの神様との交わりを頂いた者同士は、神の家族として、互いに愛し合い、赦し合う交わりにも入れられます。

 

3)喜びが満ち溢れるようになるため

これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。(4節)

「これらのことを書くのはわたしたちの喜びが満ち溢れるようになるため」とありますが、「わたしたち」を「あなたがた」と書いている写本もあります。だからここの「わたしたち」は書いている側だけではなく、読んでいる人々を含めたわたしたちと考えます。この手紙を書いたのはイエスキリストを知って喜びに満ち溢れることを願ってのことです。「満ち溢れる」の前に「全き」と新改訳にありますが、完全な完成した喜びです。人が愛の、赦しの神がおられることを知り、この方との交わりに入れられることは、なにものにも代えられない喜びです。

先週の木曜日の聖書研究祈り会の学びはマタイによる福音書5章21-26節まででした。パリサイ人の義に勝る義をイエス様がもたらしてくださったと学びました。イエス様の求める義は、パリサイ人は見える殺人だけを裁いているが神様の前では、心で兄弟を馬鹿にした、つまり、人格を否定するものは、神の裁きでは地獄の火に投げ込まれるという、表面に出る殺人を犯さないでも心の中で人格を否定したら殺人したのと同じという厳しいものでした。

しかも、兄弟が自分に何かうらみを持っていたら、仲直りをしてからでなければ礼拝に行って捧げものをしても受け入れられない。というものでした。最後の1コドラントを払いおえなければという厳しいものでした。人生70年生きて来て、心にかかることを全部きれいにしなければ神様の裁きで地獄の火に投げ込まれると言われたら到底できません。

しかし、イエス様はそのように厳しく仲直りを求められました。が、「天国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」とご自分の命を十字架にかけて、拭いきれない仲直りの代価を、イエス様が用意してくださったのでした。最後の1コドラントまでです。パリサイ人の義に勝る義

を用意した上でこう言われたのでした。なんとありがたいことでしょう。イエス様を救い主と受け入れ、悔い改めるなら、もう、心に咎められ

ることはないのです。もちろんその後でお友達とも仲直りができたら、

素晴らしいですが、もう代価は払われたので、もしかしたら人間からは

赦されないことがあっても、神様の前では、天国に入れて頂けるのです。

礼拝で、神様に受け入れられ、主にお会いすることができるのです。

今から感謝して喜んで生きましょう。そしてこのいのちをまだ受けていないすべての人のために、祈り、語る時が与えられたら、お伝えしましょう。迫害や、貧困、病気、別れ。未来に何が起ころうとも、永遠のいのちの交わりの中で喜びに溢れて歩み続けましょう。ハレルヤ!

守部さんの命の水の働きをいつも祈って支えてくれた大西はるえさん。若い時に、親の借金のかたに売られて辛い生涯でした。九州で小さなお店を開いていた時に、イエス様に出会って以来、忠実に礼拝し、生きてきました。四国の老人施設に入っていた時に、守部さん御夫妻が訪ねたそうです。生活保護でベッドと、小さな台が全ての持物でした。でもそこで、皆から嫌われているような方の話にじっと聞き「あなたは優しい人なのね」といたわり、生涯で一番幸せだった時は?との質問に「今です」と即、返事されたそうです。何歳になっても「今、喜びに満たされています」との生涯を歩んでまいりましょう。ハレルヤ!

【祈り】

イエス様が肉体をとってこの世に来られたこと、よく見て、手で触ったヨハネが証言してくださったことを感謝します。そしてイエス様に赦されて、神様を礼拝し、御言葉をいただき、祈りが聴いて頂ける者とされていることを心から感謝します。兄弟姉妹とも愛し合い、赦されあって交わりに生きる喜びがいつも満ちあふれる主の証人とされますように導いてください。 主イエス様の御名によって祈ります。アーメン!

説教「わたしが背負う」

2019年9月8日 主日礼拝
聖書箇所:イザヤ書46:1~4
説教:深谷春男牧師

全米で一番愛唱されている聖書の言葉は、このロマ8:28の聖句だと聞いたことがありました。それを聞いた時に、あ、皆、同じなんだなーと思いました。

わたしたちは救いを求めています。そして主イエスを信じて魂に救いをすでに得ました。しかし、それでもなおかつこの地上で生きているうちは完全ではありません。試練があります。悩みがあります。誘惑や戸惑いや誤解やいやがらせや、行き違い、さまざまな問題で地上は満ちているのです。多くの日々は、讃美しながら歩む恵みの日です。空は青く、雲は白く、風はさわやかです。でも、時として雨は降りますし風も吹きます。足許の石ころにつまずくことも、バラのとげの刺されることも、暴風雨や大嵐の時だってあります。

そのような時には、この聖句が支えとなるのだと教えています。 

【 聖書のテキストと概略 】

ロマ書の第一の主題は、「個人の魂の救い」です。これが1-8章の主題です。概略的に言えば個人の魂の救いは2つに分けられています。1-5章が「信仰義認」です。そして、

6-8章が「聖化」という主題になります。

8章は「聖霊による勝利の生涯」という主題です。8章の特徴は「聖霊」と言う言葉が急に増加することです。1-7章では5回しか出てこなかった「聖霊」「霊」という語が、8章では20回以上使用されます。松木治三郎は8章を「聖霊による救い」と読んでいます。全体は、以下のように区分できます(松木治三郎による)。

1-11節 キリストへの信仰により、罪と死の法則から解放されて

12-17節 聖霊に助けられて「アバ父よ」と神様呼ぶ人生を生きる

18-30節 今は苦難と試練の時(3つのうめき)将来の栄光を待望

31-39節 最後は神の愛、十字架の愛を悟った信仰者の勝利の歌。

今日は28節だけを扱います。

 

【メッセージのポイント】

1)28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。         (28節)

⇒ ぼく、知ってるもん                          

まずこの節で特徴的なのは「わたしたちは知っている(oidamen)」という言葉から始まっていることです。日本語だと文章の最後になってしまいますが、もともとのギリシャ語は最初の言葉です。「わたしたちは知っています」という告白をして、前からの論議を一応止めて、新しいことを話そうとしているのです。つまり、「三つのうめき(自然界のうめき、クリスチャンのうめき、聖霊のうめき)」を語った後に、パウロ先生は、「(それでも)わたしたちは知っている!」と語り出しています。ある方はこれは、小さな子供が、「わたし、知ってるもん!」という時のことと同じであると語っています。

たとえば、今は病気でも、お医者さんが3日後には快方に向かいますよと太鼓判を押している状況と同じです。「大変ねー?大丈夫?」という友人に、「うん、今は厳しいの。でも知ってるの。三日から快方に向うんだって」。

あるいは貧しい生活をしている人が、「大変ねー?大丈夫?あとのこり500円しかないんだって?」「うん、なかなか厳しいんですよ。でも、うちの親父が500万円送ったから、明日届くって知ってるもん」

ある人がひどいおうちに住んでいて、雪が吹きかかる。「大変ねー。大丈夫?」と友人が心配している。「大丈夫よ、明日の朝が新しいおうちが出来上がる日なのよ。それを知ってるもん」いうようなものだというのです。

信仰の確信に持つためには、まず、わたしたちは知らねばなりません。聖書の教えていることや、聖書そのものの背景など、そんなに詳しくなくてもよいのですが、ある程度のことは知らねばなりません。特に聖書の救いについて、「信仰義認」や「摂理」についてはよく知らねばなりません。そして神さまが「最善をなしてくださる天のお父様であること」と知らねばなりません。

パウロ先生は神様が良きお方であり、「最善をなしてくださるお方」であることをよく知っています。そして、このお方がこの世界の創造主であり、贖い主であることを「知ってるもん!」と語っています。

今日の説教は「僕、知ってるもん!」という、いつもとは一風変わった題名にしました。「5歳児の言葉ですね~」とか言われましたが、子供のように素直な、神様へのまっすぐな信頼をもって日々歩みましょう。

2)28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。         (28節)

⇒ 万事が益となるように共に働く!

さて、全てが「益」として働くことを知っていますとパウロは告白しています。ここの「益として」と言う言葉は、ギリシャ語で「アガソス」という言葉です。これは「良い」と言う意味、英語のgoodという言葉に当てはまる言葉です。へブル語の新約聖書では、「トーブ」と言う言葉が使用されています。「最善」という言葉です。この言葉に一番近い聖書の箇所は詩編119:68と思います。「主は善にして善を行なわれる」のです。神様の本質は善、その行動は善なのです。

この箇所は2つの解釈が可能であると言われます。

第一は「神」を主語とする理解

第二は「全てのこと」を主語としての理解

第一を取ると口語訳のような文章となり、第二を取ると新共同訳、文語訳のような形になります。

第一のグループ「神」を主語とする。

口語訳:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

第二のグループ「全てのこと」を主語とする。

新共同訳:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。文語訳:神を愛する者、すなわち御旨によりて召されたる者の為には、凡(すべ)てのこと相働きて益となるを我らは知る。

文法的にはどちらも可能な解釈ですが、第二のグループ「全てのこと」を主語とした解釈の方が、より強いそうです。しかし、「全てのこと」が自動的に働いて、益となるという考えは、汎神論的な解釈も生まれて、「人生万事塞翁が馬」のような解釈をする人が出てこないとも限りません。「神が、すべてのことにおいて共に働いて、善のために」とするのが良いと松木治三郎は言います。 わたしも同感です。全能の神様、愛と恵みの神様が、すべてを最善に導いてくださるのです。アブラハムの時も、ヨセフの時も、モーセの時も、摂理の神は働き給う!アーメン3)28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。         (28節)

⇒神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちに

最後に、ここではクリスチャンのことを「神を愛する者たち」と言う言葉と「御計画に従って召された者たち」という二種類の言葉で表現しています。「神を愛する者たち」という表現はここにしか出てきません。「神に愛されている者たち」という表現は多いのですが「神を愛する者たち」と言う表現は少ないのです。それは神の愛を受けることが大事で、その愛を受けるところから「主を愛するもの」となることを暗示しているのでしょう。また、「御計画に従って召された者たち」という表現は、神の歴史支配と摂理と言うメッセージの中で理解される言葉だと思います。神様はわたしどもを天地の造られる前より選び分かち、十字架の血潮によって贖い、神の救いの中にいれ、聖霊に満たして証しの業をさせて、やがて終末にいたる主のご計画、主の御経綸に霊の目を開き、世界の救いのために労する器、「御計画に従って召された者たち」と呼びます。神様を愛し、神の救いの計画を証しする者となりましょう。

この聖句は、淀橋教会の小原十三司先生の特愛の聖句で、昔の淀橋教会の会堂には、二つの聖句がかかっておりました。一つは「からし種一粒ほどの信仰」、もう一つは「すべての事相働きて益となる」でした。昭和17年6月の弾圧で投獄され、体重が40キロにまでなられても、この神の最善への信仰に堅く保ち、忠実に、神様に仕え続けた信仰は、このロマ書8:28に裏打ちされています。わたしどもも、パウロ先生のように、神の最善と最愛を信じ、その生涯を全うし、主のみ前に出た時には、「善かつ忠なる僕、よくやった!」との主のお褒めの言葉を受けたいと思います。こころの友では92歳の横山義孝先生が御用をされ、今日は肩の骨折を越えて、金谷姉が礼拝に出席されました。ハレルヤ

【祈り】 主よ、今日はロマ8:28を学ぶことが出来て感謝します。「僕知ってるもん!」と神様の救いと恵みの世界を、讃美しつつ歩み行かせてください。神様の不思議な愛の御経綸に支えられて、自分の職場や家庭で主の救いの証し人としての歩みを全うすることができますように。どのような試練や困難の中にあっても、勝利の中に歩めるように導いて下さい。愛と恵みに満ち給う主イエスの御名によって。アーメン

説教「ぼく、知ってるもん」

2019年9月1日 主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙8:28
説教:深谷春男牧師

全米で一番愛唱されている聖書の言葉は、このロマ8:28の聖句だと聞いたことがありました。それを聞いた時に、あ、皆、同じなんだなーと思いました。

わたしたちは救いを求めています。そして主イエスを信じて魂に救いをすでに得ました。しかし、それでもなおかつこの地上で生きているうちは完全ではありません。試練があります。悩みがあります。誘惑や戸惑いや誤解やいやがらせや、行き違い、さまざまな問題で地上は満ちているのです。多くの日々は、讃美しながら歩む恵みの日です。空は青く、雲は白く、風はさわやかです。でも、時として雨は降りますし風も吹きます。足許の石ころにつまずくことも、バラのとげの刺されることも、暴風雨や大嵐の時だってあります。

そのような時には、この聖句が支えとなるのだと教えています。

 

【 聖書のテキストと概略 】

ロマ書の第一の主題は、「個人の魂の救い」です。これが1-8章の主題です。概略的に言えば個人の魂の救いは2つに分けられています。1-5章が「信仰義認」です。そして、

6-8章が「聖化」という主題になります。

8章は「聖霊による勝利の生涯」という主題です。8章の特徴は「聖霊」と言う言葉が急に増加することです。1-7章では5回しか出てこなかった「聖霊」「霊」という語が、8章では20回以上使用されます。松木治三郎は8章を「聖霊による救い」と読んでいます。全体は、以下のように区分できます(松木治三郎による)。

1-11節 キリストへの信仰により、罪と死の法則から解放されて

12-17節 聖霊に助けられて「アバ父よ」と神様呼ぶ人生を生きる

18-30節 今は苦難と試練の時(3つのうめき)将来の栄光を待望

31-39節 最後は神の愛、十字架の愛を悟った信仰者の勝利の歌。

今日は28節だけを扱います。

 

【メッセージのポイント】

1)28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。         (28節)

⇒ ぼく、知ってるもん                          

まずこの節で特徴的なのは「わたしたちは知っている(oidamen)」という言葉から始まっていることです。日本語だと文章の最後になってしまいますが、もともとのギリシャ語は最初の言葉です。「わたしたちは知っています」という告白をして、前からの論議を一応止めて、新しいことを話そうとしているのです。つまり、「三つのうめき(自然界のうめき、クリスチャンのうめき、聖霊のうめき)」を語った後に、パウロ先生は、「(それでも)わたしたちは知っている!」と語り出しています。ある方はこれは、小さな子供が、「わたし、知ってるもん!」という時のことと同じであると語っています。

たとえば、今は病気でも、お医者さんが3日後には快方に向かいますよと太鼓判を押している状況と同じです。「大変ねー?大丈夫?」という友人に、「うん、今は厳しいの。でも知ってるの。三日から快方に向うんだって」。

あるいは貧しい生活をしている人が、「大変ねー?大丈夫?あとのこり500円しかないんだって?」「うん、なかなか厳しいんですよ。でも、うちの親父が500万円送ったから、明日届くって知ってるもん」

ある人がひどいおうちに住んでいて、雪が吹きかかる。「大変ねー。大丈夫?」と友人が心配している。「大丈夫よ、明日の朝が新しいおうちが出来上がる日なのよ。それを知ってるもん」いうようなものだというのです。

信仰の確信に持つためには、まず、わたしたちは知らねばなりません。聖書の教えていることや、聖書そのものの背景など、そんなに詳しくなくてもよいのですが、ある程度のことは知らねばなりません。特に聖書の救いについて、「信仰義認」や「摂理」についてはよく知らねばなりません。そして神さまが「最善をなしてくださる天のお父様であること」と知らねばなりません。

パウロ先生は神様が良きお方であり、「最善をなしてくださるお方」であることをよく知っています。そして、このお方がこの世界の創造主であり、贖い主であることを「知ってるもん!」と語っています。

今日の説教は「僕、知ってるもん!」という、いつもとは一風変わった題名にしました。「5歳児の言葉ですね~」とか言われましたが、子供のように素直な、神様へのまっすぐな信頼をもって日々歩みましょう。

2)28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。         (28節)

⇒ 万事が益となるように共に働く!

さて、全てが「益」として働くことを知っていますとパウロは告白しています。ここの「益として」と言う言葉は、ギリシャ語で「アガソス」という言葉です。これは「良い」と言う意味、英語のgoodという言葉に当てはまる言葉です。へブル語の新約聖書では、「トーブ」と言う言葉が使用されています。「最善」という言葉です。この言葉に一番近い聖書の箇所は詩編119:68と思います。「主は善にして善を行なわれる」のです。神様の本質は善、その行動は善なのです。

この箇所は2つの解釈が可能であると言われます。

第一は「神」を主語とする理解

第二は「全てのこと」を主語としての理解

第一を取ると口語訳のような文章となり、第二を取ると新共同訳、文語訳のような形になります。

第一のグループ「神」を主語とする。

口語訳:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

第二のグループ「全てのこと」を主語とする。

新共同訳:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。文語訳:神を愛する者、すなわち御旨によりて召されたる者の為には、凡(すべ)てのこと相働きて益となるを我らは知る。

文法的にはどちらも可能な解釈ですが、第二のグループ「全てのこと」を主語とした解釈の方が、より強いそうです。しかし、「全てのこと」が自動的に働いて、益となるという考えは、汎神論的な解釈も生まれて、「人生万事塞翁が馬」のような解釈をする人が出てこないとも限りません。「神が、すべてのことにおいて共に働いて、善のために」とするのが良いと松木治三郎は言います。 わたしも同感です。全能の神様、愛と恵みの神様が、すべてを最善に導いてくださるのです。アブラハムの時も、ヨセフの時も、モーセの時も、摂理の神は働き給う!アーメン3)28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。         (28節)

⇒神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちに

最後に、ここではクリスチャンのことを「神を愛する者たち」と言う言葉と「御計画に従って召された者たち」という二種類の言葉で表現しています。「神を愛する者たち」という表現はここにしか出てきません。「神に愛されている者たち」という表現は多いのですが「神を愛する者たち」と言う表現は少ないのです。それは神の愛を受けることが大事で、その愛を受けるところから「主を愛するもの」となることを暗示しているのでしょう。また、「御計画に従って召された者たち」という表現は、神の歴史支配と摂理と言うメッセージの中で理解される言葉だと思います。神様はわたしどもを天地の造られる前より選び分かち、十字架の血潮によって贖い、神の救いの中にいれ、聖霊に満たして証しの業をさせて、やがて終末にいたる主のご計画、主の御経綸に霊の目を開き、世界の救いのために労する器、「御計画に従って召された者たち」と呼びます。神様を愛し、神の救いの計画を証しする者となりましょう。

この聖句は、淀橋教会の小原十三司先生の特愛の聖句で、昔の淀橋教会の会堂には、二つの聖句がかかっておりました。一つは「からし種一粒ほどの信仰」、もう一つは「すべての事相働きて益となる」でした。昭和17年6月の弾圧で投獄され、体重が40キロにまでなられても、この神の最善への信仰に堅く保ち、忠実に、神様に仕え続けた信仰は、このロマ書8:28に裏打ちされています。わたしどもも、パウロ先生のように、神の最善と最愛を信じ、その生涯を全うし、主のみ前に出た時には、「善かつ忠なる僕、よくやった!」との主のお褒めの言葉を受けたいと思います。こころの友では92歳の横山義孝先生が御用をされ、今日は肩の骨折を越えて、金谷姉が礼拝に出席されました。ハレルヤ

【祈り】 主よ、今日はロマ8:28を学ぶことが出来て感謝します。「僕知ってるもん!」と神様の救いと恵みの世界を、讃美しつつ歩み行かせてください。神様の不思議な愛の御経綸に支えられて、自分の職場や家庭で主の救いの証し人としての歩みを全うすることができますように。どのような試練や困難の中にあっても、勝利の中に歩めるように導いて下さい。愛と恵みに満ち給う主イエスの御名によって。アーメン

説教「立ち上がり、歩きなさい」

2019年8月25日 主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝3:1-10
説教:深谷美歌子牧師

8月13,14日は日本キリスト伝道会の主催する「幻を語る会」が、市川でもたれました。今年は「若者と共に伝道の幻を」というキャッチフレーズで持たれました。51回目の会でした。これまで一千万救霊を掲げ続け、信仰を持ってこの会からリバイバルを!と全国からの兄弟姉妹、先生方で持ってきましたが、近年、若者の参加が少なくなっていました。これはキリスト教会全体の傾向です。希望に燃えた若者が起こされ、愛する日本に、また同時代に生きるすべての人々が、希望に生き始められるようにとの願いが込められた集会でした。その兆しを感じる各会でありました。

今日の聖書箇所は、一人の生まれつきの足のなえた男性が歩けるようになったという奇跡が記されています。このことは現代とは関係ない昔のお話なのでしょうか?でも聖書が時代、空間を越える真理の書であるとしたら、ここにある真理は何でしょうか?聞いてまいりましょう。

 

【聖書のテキスト】

使徒行伝3章はペンテコステの日(聖霊降臨)を体験したあとの弟子たちの行動が描かれています。ペテロとヨハネは神の霊に満ちて力強い活動を始めました。その一つの働きが「美しの門」で物乞いをしていた足の不自由な男の癒しの話です。神様の恵みと力に満たされた弟子たちは、変えられて、大胆に主の証人とされてゆきました。

 

【メッセージのポイント】

1)午後三時、祈りの時に!

1 さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、2 生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。  (1.2節)

まずこの出来事は、「ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行った」時に起こったと記されています。初代教会の使徒たちは、いつも祈りの中に歩んでいたようです。1章の記事を見ると、ペンテコステ(聖霊降臨)前、主の教会が誕生する前から弟子たちは10日間の祈りをし、備えの時を持っていました。いわば、教会は祈りの会から生まれてきたのでした。そして、この弟子たちの大きな働きの出発も祈りのために神殿にのぼってゆく所から始まりました。奇蹟は祈りから始まります。

イエス様も神であられましたが、地上の人間として歩まれた時、常に父なる神様に祈り、交わって行動されました。祈りは神様との会話であり、呼吸です。イエス様によって、この世の命から、神の永遠の命に入れられた者にとっても、祈りは呼吸です。Ⅰテモテ2:1には「そこでまず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のために捧げなさいとあります。第一にすることが祈りです。聖霊を受けたペテロ達こそ祈りを必要としていました。神の御心をいつも求めました。

ここを「主の十字架の時、三度主を知らないと否定したペテロと、最後まで、主の十字架の下で見守ったヨハネが、赦しあって一つになって歩いている。」と書かれている方がいて、その姿に気付かされ感動しました。しかも、今日ここに出てきた足の不自由な男は、毎日連れられてきていたのだから、イエス様がこの門を通られたときも、ここにいたのだ。弟子たちも一緒だったはず、しかし彼らはこの男に気が付かなかった、母親が子供を連れてきたときも、邪魔もの扱いした弟子達だった。ところが今日、彼らはこの男に注目して「わたしたちを見なさい」と語りかけている、彼らは変えられたのだとあり、愛の姿に変えられていると教えられました。

癒された彼は生まれながらの足の不自由な男でした。どんなに苦しい人生を歩んできたことでしょう。彼は自分で歩くことができずに人々に「運ばれてきた」のです。そして彼は、美しい門のそばに物のように「置かれていた」のでした。

この神殿の「美しの門」というのは、エルサレムの北の方に神殿があり、その正面の門でした。多くの人々がそこを通って礼拝しに境内に入ります。しかし彼は神殿の境内に入れません。当時は身体に不自由なところがある人は、神殿にはいることができませんでした。そこに置かれ、生活の必要のための物乞いをし、そして夕方になると、またそこから運び出してもらうという毎日の生活でした。

今、失意と悲しみの宿命に支配され、神殿で神を礼拝することからも締め出されたこの一人の男性に、主御自身が触れようとされていました。

 

2)イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい

3 彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。4 ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5 彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、6 ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。     (3-6節)    

彼は、「美しの門」の前で、目前の生活のための必要の施しを乞うていました。すると、恵みに輝いた二人の人が向うから歩いてきました。ペテロとヨハネでした。彼らが境内に入ろうとするのを見て、何かもらえると思ってこの二人に施しを乞いました。すると4節にはこう記されます。ペテロとヨハネとは彼をじっと見つめました。先に言いましたように、ペテロもヨハネもこの生まれつき歩いたことのない男に、心をとめたのでした。そして、それから言いました。「わたしたちを見なさい」。この男は、何かもらえると思って二人をじっと見つめていました。6節でペテロの言った言葉が記されています。「金銀はわたしにはない。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい!」この男は、「金銀」を求めていたでしょう。しかし、ペトロもヨハネも、金銀はなかったのです。でも金銀に勝るものを彼らは持っていました。それは「ナザレ人イエスキリストの名」でした。「ナザレの人、イエスキリストの名!」これはこの世の最高のものでした。ペトロやヨハネはこの「主イエスの名」によってこの男を立たせたのでした。この男が求め得ないものと諦めていたものでした。

  このことが起こったのはペテロや、ヨハネの力ではありませんでした。それは12節で二人の口からも言われています。「わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのようになぜ見つめているのか」です。

このことをしてくださったのは、イエス様が救いの道を完成し、送ってくださった聖霊によってでした。そのことを「イエスの名」と言う権威として表しています。

ところで、この権威は、現代に生きるわたしたちにも与えられているものです。先週は高橋順一座の指人形で、サル爺さんの痛みを「イエスキリストの名によって癒されよ」と祈って癒されました。が、祈って奇跡的な癒しが起こされることもありますが、そうならないことも多いですね。もし、全ての人が癒されて、死ななかったら、この世界は大混乱に陥ります。

パラリンピックが大きく報道されるこの頃で、障害を持った方たちが尊重されることは素晴しいです。が、それでもその栄冠を受けるのはごく一部の人々です。けれども主からの祝福はすべてに及びます。信じる者は全て罪赦され、永遠の命が与えられるのです。全人格的な永遠のいやしです。

3)躍り上がって立ち、歩きだした!

7 こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、8 踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。9 民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、10 これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。  (7-9節)

ペテロが「主イエスの名によって歩きなさい。」と言って、右手を取って彼を立ち上がらせました。「すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 躍り上がって立ち、歩きだした」のでした。彼は、癒された恵みに満たされて「歩き回ったり、躍ったりして神を讃美し、二人と一緒に境内に入って行った」と記されています。今まで呪われた者と言われ、入ることができなかった、その神殿に入っていったのでした。イエス様がヨハネの弟子たちに「足なえは歩き、貧しいものは福音を聞かされている・・・わたしにつまずかないものは幸いである」と語り、救い主であることの証拠としての業をあげられたことがありましたが、今ここに実現したのでした。

「歩き回ったり、躍ったりして神を讃美し、二人と一緒に境内に入って行った」とあります。深谷牧師が「自分自身に向かって出発せよ」と語られました。人が真に生きるのは、神の命に満たされ導かれ始める時です。

「幻を語る会」で近藤勝彦先生が、真に若者が生きるのは、Boys be ambitious in Christ!キリストにあってである。いや人が真に生きるのは、キリストにあって生かされるときである。ご自分は今もこの福音のために生かされているが、同級生は仕事が終わってすることがない。「朝ご飯を作っている」と一人が言えば「3食作っている」という人がいる。「彼らは何のために生きているのかわからないのです」そして「真の再生は礼拝です。」と語られました。人は神の命を頂き、神を礼拝し、交わり生かされて、踊りだすように喜びの命に生き始めるのです。

【祈り】父なる神様。聖霊によって変えられたペテロとヨハネが祈り場で、イエスキリストの名の権威によって男を立ち上がらせた姿を見ました。わたしたちも、祈りの時にあなたに向かい、整えられ、力を得ることができますように。そして「わたしには金銀はない。しかし、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがりなさい」と人々を生かすために、お遣わし下さい。主の聖名によって。アーメン

説教「アブラハムは主を信じた」

2019年8月11日 主日礼拝
聖書箇所:創世記15:6
説教:深谷春男牧師

ここ2回ほど、アブラハムの信仰について学んできました。信仰の父アブラハムの信仰を学ぶことは、とても大切なことでありますし、うれしい事であります。75歳で召命を受け、神の恵みの世界、祭壇を築いて礼拝を中心とした新しい人生へと歩み始めました。しかし、厳しい現実に直面し、エジプトに降ると言う挫折を経験。更に甥のロトとも別れ、ケダラオメルの軍隊に拉致された親族を助けます。今日の箇所では、彼は「信仰の義認」を受けるという、まさに「信仰の父」アブラハムの霊的な一段階を見ることになります。

ご存知のように宗教改革はマルチン・ルターの「神の義の発見」から始まりました。それは、新約聖書のロマ書とガラテヤ書の研究と旧約聖書の詩編の研究から始まりました。ロマ3:21~26とガラテヤ2:16にある「信仰義認」の信仰は、実は今日の聖書箇所、創世記15:6と深い関係があります。

 【テキストの位置と概略】

今日の箇所ではアブラムは「信仰の英雄」として立っています。信仰の父アブラムは、その信仰によって神に義とされたという箇所です。神はここで彼に子孫と土地の授与を宣言されました。全体の概略は次のようになります。

1節 神の幻の中での出現。「恐れるな」「我は汝の盾なり」と語られる。

2―3節 子供がないとのアブラハムの訴え。ダマスコのエリエゼルに言及。

4節 「あなたから生まれるものが跡を継ぐ」との神の宣言。

5節 神はアブラハムを外に連れ出し、星の数を数えさせる。

6節 アブラハムは主を信じ、信   仰義認の証印を受ける。

メッセージ・ポイント

1)主はアブラハムに、土地の授与をも約束する。  「アブラムよ恐れてはならない、あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。

恐れるな。我は汝の盾なり!

「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの報いは大きい」と。先日、ある方と話したことがありました。その人はエレベーターが弱いと言うのです。サンシャインのような高いところのエレベーターには乗れないそうです。「どうしてですか?」と聞きましたら、「地上、50階、60階という高さを考えるととても不安になります。もしも、エレベーターがガラス張りだったら60階の高さから下を見たら、身がすくんでしまうじゃないですか?」人間は、ちいさな、ちいさな存在です。ちょうど、地球の表面が、もし、オゾン層によって保護されなければ、赤外線で焼かれて、生物が存在できないように、神の守りの盾なくして存在し得ないものです。人は、この創造主との深い信頼関係なくして、こころの平安も喜びもないのです。「幻、ビジョン」はマハゼーというへブル語です。これは動詞の.ハーザー「霊的現象を見る」(出24:11)と同じ語源の言葉です。主は今朝わたしどもに語られます。「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの報いは大きい」と。恐れることなく大胆に、信仰に堅くたって歩みたいものです。

「盾」(マゲン)は小楯のことで、敵の矢や剣をよけるために使用する武器です。詩編3:4等 などにもその使用の例が示されます。恐れるな!主こそ盾!と聖書は語っています。「なーるほど」と思いました。想像力が豊かなんですね。今日、神はアブラハムに語ったように私どもにも語っておられます。人間はいつも様々な不安や恐れの中で生きています。そのような不安や恐れは私どものクリスチャン生涯を萎縮させてしまいます。自分の主人にもしものことがあったら、うちの会社にもしものことがあったら、子供たちの生活にもしものことがあったら・・・。人間の生きている世界そのものが考えてみれば実に不確かなものなのです。地球そのものも全宇宙から見れば豆粒もないほどのものです。宇宙の中の小さな異変が起こることを考えただけでも、不安と恐れで一杯になってしまうのです。

この時に、アブラハムは何らかの恐れをもっていたようです。これは前の14章の記事にある強力な軍隊ケダラオメル軍の反撃を恐れたのかもしれません。あるいは別の事であったのかもしれません。神は幻のうちにアブラハムに臨んで語られました。

2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。(1―2節)わたしはあなたの盾である。1)1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、

     

2)3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。 (3-5節)

⇒ 天を仰ぎ、星を数えよ!        

神様はアブラハムの心に、ご自身の持たれる壮大なビジョンを焼きつけるためでしょうか、彼を戸外に導いて、「天の星を仰げ」と命じられました。そして、その星の数を「数える事ができるなら数えてみよ」と言われました。この出来事はアブラハムにとって生涯忘れる事のできない体験となり、自分の子孫を考える時に、夜空に輝く星のイメージがいつでも湧いてきたのだと思います。

「仰ぐ」は「じっと見る(ナバト)」という語で、ジーっと凝視することを意味しています。神様はしばしばその人を導くのに、美しいビジョンや象徴や夢でなされます。ヤコブには「はしごの夢」、ヨセフには「麦束の夢」と「太陽と月と11の星の夢」、モーセにとっては「燃える柴の幻」、ギデオンにとっては「湿った毛皮」とか「転がり込むパン」「壷とたいまつ」など、聖書はとてもユニークな興味深い象徴的な体験が盛り込まれております。新約聖書のパウロも、キリストに出会った「ダマスコ途上の体験」を使徒言行録で3度も語り、印象深いものです。          

以前、聖書研究祈祷会で、この箇所を語りました。何回も語って、夜の10時過ぎの集会の時に、目をつぶって祈っていると、アンドロメダ星雲のような宇宙の世界がパノラマのように広がり、心の内側に宇宙を抱くような、神様の恵みが宇宙大であるかの、深い恵みの世界を体験しました。                                            

6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。(6節)  

 信仰義認の基本へ帰ろう!  

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」 (6節)。この一句は聖書の中でも最も重要な聖句の一つです。特にプロテスタント教会にとっては、「信仰義認」の基本的な信仰告白に関係します(ロマ4:2、9:16、ガラ3:6、ヤコ2:23、ハバ2:4)。アブラハムは天を見上げ、星を数えるうちに天地万物を創造された神の全能の力に、目が開かれ、もう、高齢になり、実子を望み得ない現実にもかかわらず、主の約束成就を信じて「アーメン、主よ、信じます!」と告白しました。この信仰を主は喜んで、アブラハムを義と認められたのでした。「認めた」は「ハーシャーブ(思う、考える、認める)」は祭儀用語で祭司が供え物を認定する事を言う(レビ7:18)」。新約ではロギゾマイという言葉で翻訳されました。  神を信じると言うのは、神様との真実な交わりを言います。神との真実な交わりは、人格的な交わりを意味しております。アブラハムのように、召命ー礼拝の生活―挫折ー義認―聖化 という風に成長してゆきたいものです。信仰から信仰へ、恵みから恵みへ、栄光から栄光へ、力から力へ、勝利から勝利へと進みましょう。  「アブラハムは神を信じた」この一語は非常な重さを持っています。 聖書の中心と言われるロマ3:21~26などは、はっきりと「イエスキリストを信じる信仰によって義とされる(=救われる)」と語ります。さて、最初に言いましたが、マルチン・ルッターの宗教改革は、「聖書信仰」聖書は一体何と言っているのかという主題のもとに始まりました。当時のカトリック教会が、悪名高き「免罪符」(= 「贖宥状」と表現することが多くなりました)を売って、これを購入すればあなたの救いは確定すると語ったことに対して、ルターは「聖書が語る、『救い』とは、このように『贖宥状』を購入すれば与えられるというものではない。それは『信仰義認』というべき内容である。アブラハムが神を信じて義とされたように、わたしどもも、『神を信じて義とされること』である。」と語ったのでした。

「義」は「ツェダカー」で神殿の「入場許可式」の宣言(詩24:5、エゼキエル18:9)と関係します。そのような意味では、神に義とされるというのは、神の御前でその存在を認めていただくことで、礼拝堂へと入り、主に相まみゆることを許されると言う意味です。そのような意味では、「義とされる」は新約聖書風に考えれば、救われること、天国へ受け入れていただけることを意味しています。いわば「天国へのパスポート」というような意味になります。                       「信じる」は「アーマン」という語で、この語から「アーメン」という言葉が出ました。信仰とはまさに神の語られた言葉の真実を深く理解して、アーメンと応答して歩む生涯ですね。十字架も復活もまさにアーメンです。

【 祈り 】 天の御父。恵みの聖日を感謝します。今朝は創世記15章よりアブラハムの信仰を学びました。どのようなときにも「恐れるな。我は汝の盾なり!」の御言葉を覚えて、あらゆる困難、試練にも、恐れることなく、信頼し、平安の中に進ませてください。また、いつでも無から有を呼び出される全能の神を信じ、わたしどもの小さな心のうちにあなたの創造された宇宙大の広がりを与え、豊かな祝福の中を歩み行かせてください。何よりも、わたしどものために十字架にかかり、わたしどもの罪を身代わりに負い、贖いの業を全うしてくださり、罪と死の現実を、救いと永遠の命に入れて下さった恵みを感謝します。この暑い夏も「信仰義認の大道」を大胆に歩ませ、13日、14日の、「日本伝道の幻を語る会」の上にも、このアブラハムの信仰に立ち、日本にリバイバルを来らせて下さい!主イエスの聖名によって祈ります。アーメン

オープンチャーチ「尼僧からキリストの伝道者に」藤井圭子先生来る!

こんにちは! 毎年開かれる、オープンチャーチの恵みの時です。
今年は昨年、福音功労賞を頂いた藤井圭子先生をお招きしました。
すばらしい先生です。

どなたでもご自由にお越し下さい。

7月21日(日)

10:30~12:00 礼拝「確かな希望に生かされて」

13:30~15:00 講演会「愛する者の死と慰め」

場所:新宿西教会
アクセスマップはこちら

説教「祭壇を築き、主の名を呼ぶ」

2019年7月14日 主日礼拝
聖書箇所:創世記12:5~6
説教:深谷春男牧師

先週の日曜日の午後に、栃木県の宇都宮の近く上三川(かみのかわ)教会で献堂式がありました。上三川は小さな田舎の町だったそうです。猪瀬ノブというお産婆さんが信仰を持って、御自分の田舎に帰って来られて、何とか神様の恵みをお伝えしたいと伝道を始めました。長い間、御家族を中心に礼拝を捧げて来られましたが、ついに立派な教会堂が立ち、司式の野口佳男先生や兄弟姉妹が喜びの礼拝を捧げておりました。会堂にお祝いの方々が溢れ、讃美と感謝の声がこだましておりました。近くの教会からも大勢の方々が来られ、お祝いをと言われて、次のような祝辞を述べさせていただきました。

「皆さん、今日は献堂式おめでとうございます!山室軍平先生が、イギリスの有名な詩人コールリッジの詩を紹介しております。「聖日礼拝は、1年に52回巡ってくる春である」。寒さに凍えるような試練の冬も、厳しい人の言葉や複雑な人間関係の中で疲れ果ててしまうような凍てつく悲しみの夜も、神の御前に出でて、神の愛の御言葉を聞き、神様の御慈顔を仰ぐ時に、それは春がやって来るような出来事、天国の窓が開き、天使の歌声と共に小鳥が歌い、恵みの花が咲き、命の泉がわきあふれる、人生に春がやって来るというのです。こちらの教会は上三川(かみのかわ)教会というすてきな御名前です。先ほどから「かみのかわ」「かみのかわ」というお祝いの言葉を聞きつつ、わたしは詩篇65:11に「神の川に水満ちたり」という聖句を思い起こしていました。天からの命の水である聖霊の満ちあふれた神の川教会として、いつも祝福に満ちた礼拝を捧げつつ歩んでください。「聖日礼拝は、1年に52回巡ってくる春です」。本当におめでとうございます!」

さて愛する兄弟姉妹。わたしどもは今、「一年に52回巡ってくる春」を実感しながら、恵みの礼拝をささげています。感謝で一杯です。

【テキストの解説】

先ほどお読みいただきましたイスラエル民族の父、アブラハムは、「信仰の父」とも呼ばれておりました。聖書の信仰は、まさにアブラハムから始まると言ってもよいでしょう。このアブラハムの生涯の特徴は、いつも祭壇を築いて歩んだことです。彼はいつも礼拝をささげ、神の御顔を仰ぎつつ歩みました。それは一言でいえば「呪いの世界を祝福に変える」大きな使命をもって登場したことでした。

先週、学びましたように、アブラハムの登場する前の聖書箇所、すなわち、創世記3章から11章では、人間の罪の本質が語られ、救いのなさが宣言されます。神はこの絶望的な人間の罪と死の世界に、神の救いの業を始められました。それは、信仰者アブラハムの選び、そして、神の民を形成すること、礼拝共同体の形成でした。

信仰の父、アブラハムは75才にして信仰の旅へと出立しました。妻のサライと甥のロトを連れて、今まで貯えた豊かな資産をも携えてカナン地方へと旅立ちました。当時、カナン地方(今のパレスチナ)はカナン人が住んでいました。彼はシケムの聖所、モレの樫の木まで来たときに、神の声を聞き、そこに祭壇を築き、天幕を張りました。シケムはパレスチナの要地です。東西の街道と南北の街道の交差する町でした。考古学からも紀元前19世紀にはかなりの街であったことが知られています。アブラハムは祭壇を築きつつ,

主の御名を呼びつつ歩みました。礼拝の民の原型がここにあります。

 

【メッセ-ジのポイント】

1)7 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。(7節a)

 神の言葉に導かれる生活を!  

アブラハムの新しい歩みは信仰の歩みでした。それは神を信ずる信仰生涯であり、神の導きに全幅の信頼をおいた生涯でした。6 節には「アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。」と記されます。初めはシケムに留まりました。

7節には、信仰の原点となる神の顕現と神の言葉が記されています。神は「モレのテレビンの木の下で、アブラハムに現れ、彼に御言葉を与えられたのでした。「あなたの子孫にこの地を与える」と。アブラハムはこの神の言葉、神の約束を信じて歩んだ。彼は神の言葉に深い信頼を置いたのでした。信仰の父としての旅路。それは平坦な道ではありませんでした。むしろ、それは、困難な、危険を伴う旅でした。しばしば、つまずき、倒れかかるような険しい旅路でもあり、疾風怒濤の日々もありました。しかし、彼の生涯はいつでも「主の御言葉」に導かれる歩みであり、御言葉に支えられての旅でした。祝福の生涯はみ言葉への信頼に始まるからです。

わたしたちの生涯もそうではないでしょうか?自分の進むべき道を求める時に、聖書を通して、礼拝を通して、神様の導きの言葉が語られます。試練のただ中にある時も神の深い慰めの言葉が語られます。ここぞ!という人生の絶体絶命の時には、神からの生涯忘れることのできない言葉が語られます。

アブラハムの生涯で言うなら、彼は信仰の出発で「祝福の基となる」との御言葉が当たられました(12:2)。厳しい荒野の旅で「あなたの子孫にこの土地を与える」との言葉が当たられます(12:7)。信仰義認の言葉が与えられました(15:6)。アブラムからアブラハムへ(諸民族の父)との名前が与えられました(17:5)。主の山に備えあり、アドナイエレの御言葉が与えられました(22:14)。

わたしも洗礼を受けて新しい人生に入る時 詩編23:4

試練のどん底で、もう、生きるのも嫌になっていた時に 詩編43:5

献身の決意の時に 詩編108:2

神学校での霊的な刷新の時に 創世記17:1

結婚の時に 申命記32:30

吉川派遣の時の聖句 使徒16:31

わたしの生涯を貫く最愛の聖句 詩編23:6

66歳の誕生日には、イザヤ書43:1~5

新宿西教会への赴任の時には、詩篇90:1が与えられました。

わたしどもの生涯、いつも神の言葉、聖書とともに、聖書に導かれる生涯でありたいと思います。

2)アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。(7節b)

  ⇒ まず祭壇(礼拝)を築け!

さらにここでは、アブラハムの生涯が、この神様からの呼び掛けに、応答した生涯であった事が記されます。すなわち、彼は、この語り掛けられた神に応答し、「祭壇を築いた」のです。これは神への礼拝の姿勢の表現です。どのような祭壇であったかは詳細には分かりません。しかし、彼は、祭壇を築き、主の名を呼びました。彼の信仰の生涯は、揺るぎない祭壇の建立に始まるのです。アブラハムの信仰の父としての生涯は「祭壇を築いた」というこの一語の中に、語り尽くされています。わたしどもも、日曜日の礼拝の祭壇を築きつつ歩みたい。また、できれば木曜日の祈祷会という祭壇も朝ごとの祈りの祭壇も整えて歩みましょう。

まさに、「聖日礼拝は、1年に52回巡ってくる春である」との告白はわたしたちの魂の奥底からの告白です。なぜなら、新約においても旧約においてもわたしどもの原点は「礼拝の民」であるからです。エリヤは、バアルの預言者とカルメル山上で戦いをした時に「壊れた祭壇を立て直して」霊の戦いに向かいました。(列王上18:30)

3)8 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。

 ⇒ 天幕をしっかりと張れ!油断するな。         (8節)

アブラハムは天幕(テント)を張ったと記されます。これは彼と家族のための生活の場でした。アブラハムはその生涯を通して天幕(テント)に住みました。天幕は羊の皮で作られた質素なもので、移動するときには30分でたたみ、移動することができたといわれます。彼の生涯は、神様の導きに従う時に、いつでも動ける天幕がその住いでした。その天幕には、深い祈りと愛と信頼を宿したものだったと想像されます。そこには主の臨在と安らぎがありました。信仰の家庭はこの天幕で育まれました。

祝福された信仰の生活は「御言葉と祭壇と天幕」に象徴されます。

しかし、この世での天幕は、べテル(神の家=教会での礼拝等)とアイ(塵の塚=この世の罪の誘惑や栄華等)との間で張らねばならなかったと言われます。アブラハムはしっかりと天幕を張ります。カナン地方での生活は、実に象徴的でした。ユダヤの言葉では、ベテルは「神の家」、アイは「塵の塚」という意味です。アブラハムの生涯はテントの住まいです。西にべテル、東にアイの間にテントを張りました。わたしどもも、信仰生涯をこの世で送るときに、同じような体験をいたします。すなわち、べテル(神の家=教会での礼拝等)とアイ(塵の塚=この世の罪の誘惑、この世の栄華等)との間で生活するのです。いつでも、神の家(べテル)を忘れてはなりません。

信仰の父アブラハムの生涯は、「神のみ言葉への信頼」、「祭壇を築くこと」、「天幕をしっかりと張ること」でした。礼拝を生活の中心に位置づけ、安定した霊的な生涯を証しする生涯でありたいと思います。

【祈り】 天の御父。恵みの礼拝を心から感謝します。信仰の父、アブラハムが、行く所行く所でまず祭壇を築いて、主の名を呼びながら歩む姿を学びました。わたしどもも礼拝の民として歩ませてください。礼拝の中であなたの御言葉を聴くことができますように。祭壇が崩れないように、生活を整え、勝利の日々を歩めるように。また、べテルとアイの間の住まいがあります。ベテル(神の家)を忘れることなく、礼拝を、信仰の歩みを家庭生活の中心に据えて、あなたのもとに帰った時に「善かつ忠なる僕、よくやった」と言われる生涯を整えてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン

説教「祝福の基となる」

2019年7月7日 主日礼拝
聖書箇所:創世記12:1~4
説教:深谷春男牧師

初めての体験と言うものは、とても印象深いものです。わたしが初めて赤羽教会の門をたたいたのは1970年の10月でした。特別伝道集会のマイク案内があって、部屋で油絵を書いていたのですが思わず手を止め、「こちらは日本基督教団の赤羽教会でございます。・・・電話番号は901-8939です。・・」というアナウンスを聞きながら、近くの紙の切れ端にその電話番号を書き付けました。その電話番号で場所を聞いて教会にまでの道を聞き、どうにか、たどり着きました。集会時間の看板案内に赤い字で「あなたは祝福の基となる」創世記12:2と書いてあって、とても印象深く思いました。あの時から数えるともう、49年の年月が過ぎ去りました。浪人2年目の悩みと試練に満ちていた20歳の時です。今日始めて教会に来られた方も、この礼拝を祝福の人生の記念としてください。

【テキストの解説】

創世記3章1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。から11章の聖書の箇所は一般に「原歴史」とか「原初史」とか呼ばれます。これは、人間が神に逆らい続ける「呪いの歴史」であると言うことができます。罪と死の支配する呪いの歴史なのです。

創世記3章で神と人との断絶、

4章で人と人との断絶、

5章で死の到来が語られ

6-9章で人間の「乱れと暴虐」が地を覆い、人間は破局を迎える、

10章において諸国民の系図。バビロン等の古代武力国家の罪の蔓延、

11章においてバベルの塔。科学技術文明の根本が罪と死の呪いの中に。

人間の世界は、「全てがよかった」と言われる創世記1章の創造の世界とは別に、恐ろしい「呪いの世界」となってしまいました。その源は3章の「アダムとイブの堕罪」に根源があります。

ここでは、人間と人間の罪の本質が語られ、救いのなさが宣言されます。しかし、神はこの絶望的な人間の世界に、12章から救いの業を始められました。それは、アブラハムの選びです。神はアブラハムを選び出し、彼に信仰の道を示し、彼を祝福の基とされました。創世記12章の重要さはここにあります。

 【メッセージのポイント】

1)時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。(1節)

⇒ 出発! 本当の自分自身に向かって歩く。

 「レフ・レカー(歩け、自分自身に向かって)」(1節)と言うのが今日の聖書箇所です。これが、神がアブラハムに語ったメッセージです。昔は聖書に章や節がついておりませんでした。現在のように創世記12章1節と言わず、この箇所を最初の言葉をそのまま引いて「レフ・レカー(歩け、自分自身に向かって)の巻」と呼びました。

「レフ」というのは「ハラク」(歩く)の命令形です。

「レカー」というは、「あなたに向かって(to you)」あるいは「あなた自身で(by you)」、「あなたの足で」というような内容の言葉です。

全能にして、天地の造り主なるお方が、今、アブラハムに語りかけます。

「アブラハムよ、あなたは歩いて行きなさい。自分自身に向かって。自分自身の足で。本当の自分自身になるために」というような内容になります。

アブラハムの召命を指し示すこの有名な箇所は、本当に自分自身へと出発する一人の人物の物語なのです。アブラハムは今、新しい出発をします。それは「信仰の父」にふさわしい出発でした。神と断絶し、人と断絶し、罪と死の呪いの中に落ちてしまった人類に、祝福の世界をもたらすための出発でした。

この「レフ レカー」の内容は、アブラハムの生涯の本質を示す言葉ということができます。神に全幅の信頼を置いて、彼は、本当の自分自身に向かって歩み始めたのです。信仰の生涯は、本当の自分自身、本来に自分自身をしっかりと発見し、生きる喜びを得、人々にも神の祝福を分け与えるすばらしい、自分自身に向かう旅のことです。それは心沸き立つ冒険と、神の「絶大なる力」(エフェソ1:19)に守られた、祝福と喜びに満ちた生涯なのです。

 2)時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。(1節)

出発!国から、故郷から、父の家から分離する。

さらに主は語られました。「分離し、別れなさい!」と。

ここには、分離してゆく三つのものが記されます。「国」と、「故郷」と、「父の家」です。(新共同訳では意訳され、「生まれ故郷」と「父の家」の二つとなっていますが、本来は、三つからの分離が語られています。ある方の説明によると、「国」は地理的な関係、「故郷」は世的な関係、「父の家」は血肉的な関係を意味するそうです。言おうとしている内容は、かつてアブラハムが属していた、「国」と「故郷」と「父の家」を指しています。それはカルディアのウルを指しています。そこは、偶像礼拝の盛んなところでした。偶像礼拝とそれを中心に形成されていたアブラハムの古い世界のしがらみからの脱却が語られています。この世界の唯一の造り主である御方、この世界の唯一の救い主である御方、この世界の唯一の歴史の導き手である御方は、この世界の偶像礼拝の世界から、また、恐ろしい罪と死の支配するこの世界から、人類を救うために、まず、アブラハムを選び、彼を召し出し、救いの業を始められたのです。新しい出発の第二の主題は、偶像礼拝から真の神へという出発でした。

 3) 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。(1節)

⇒ 出発!わたしが見せる地に向かって行く。

ここでの、三番目のポイントは、「わたしが示す地に」行くようにという導きです。直訳では、「わたしが見せる地」に行けということです。それは、召命を受けた時には、具体的にはどこであるかわかりませんでした。ですから、ヘブライ人への手紙11章では、「彼は行く先を知らないで出て行った」と記し、信仰は主の指し示すところへ、まっすぐに進み行くことを教えています。

以前、「目的地のわからない旅」という絵本がありました。わたしはこれはすぐに、「あ、アブラハムの物語だな?」と思ってめくってみました。そしたらそれは、アブラハム物語ではなく、モーセの出エジプトの物語でした。その時思いました。「そうか、アブラハムも、モーセも大変よく似ていて、神様に導かれるままに、行く先を知らないで出て行ったのだ。」ととても印象深く思ったことでした。信仰は、主の示す地に向かうのです。

4)2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。(2節)

出発! 祝福の基として生きる。

今、アブラハムと同じように従おうとするあなたに、主は、深い愛をもって宣言されます。「あなたは祝福の基となる」と。

憎しみと不満の中に歩んでいたわたしたちの呪いの生活を、主は、愛と喜びの祝福の生活へ変えて下さるのです。C・ヴェスターマンによれば「祝福」とは「未来を切り開く命の力」です。ここには5回「祝福」なる言葉が出てきます。これと反対に実は創世記3章の堕罪以来、「呪い」という言葉が5回記されておりました。信仰は、呪いの生涯を祝福の生涯に変えるのです!呪いから祝福へ。今、主イエスの十字架と復活の福音により、罪の赦しと永遠の命を与えられ、聖霊の導きの中で、神の恵みの世界は開かれました。未来へ向かって、扉は開かれました。しかも、この神の祝福の世界は、一人アブラハムの祝福でとどまらず、罪と死で汚染されてしまった人間世界全体を、神の愛と恵みに覆うという壮大な神の救済計画として示されることになります。アブラハムがこの神への信仰を持ち、祝福の生涯に入り、このアブラハムの信仰によって全世界が祝福へと導かれてゆくのです。

ある年の聖化大会でスティーブ・シーモンズ先生がこのような話をされました。「2000年5月にアズベリー神学校の礼拝でなされた、学生のマーティーという女性の証しです。彼女の8ヶ月の時、彼女の父親は、彼女の母親を銃殺してしまいました。幼い彼女は母方の親族に引き取られ、そこで育てられました。彼女にとっては、幼なかった時に、父親が何かをしたという出来事が、恥となって心に重くのしかかっていたのでした。彼女は後にクリスチャンになりましたが、彼女は誰にもそのことは言いませんでした。彼女はヘブル語やギリシャ語の勉強をして、聖書の教師になろうとしていました。やがて彼女はチャドという男性と出会い結婚することになりました。その結婚式の招待状を書いているときに、主が、何通か、父親の親戚にも送ってほしいと言われたのでした。招待状を見て、結婚式の当日に父方の親族に会いました。父方のおばあちゃんにも初めて会いました。おばあちゃんはクリスチャンでした。「マーティ、わたしは、あなたのためにずーっと祈り続けてきたのよ。」と言って涙を流して、抱きしめてくださいました。それから、数日後に、彼女は、当の父親に会いに牢獄にまで行きました。そして彼女は父親に赦しと優しい言葉をかけて帰ってきました。彼女が語る間、礼拝の時に皆、黙って聞いていました。彼女は最後に、こう言いました。『わたしは殺人犯の娘です。わたしは生まれながらどうして殺人犯の娘というハンディを背負うことになったのかはわかりません。そのことはわたしの生涯に暗い影を落としておりました。でも、皆さん。わたしは、今は、王の王、主の主であるお方の養女となりました。今、知っているのは、主イエス様が傷を負ってくださったことです。そのことによって、あのゴルゴタの十字架で流された主イエスの血潮によってわたしは贖われました。これまで、負ってきた、恥や多くの問題、悲しみを身代わりに負って下さり、わたしの魂を解放してくださいました。主に感謝します。』」

【 祈 り 】   天の父よ。この朝、2019年の後半の出発、7月の第一礼拝を感謝します。わたしどもの目の前には、新しい半年が広がっております。わたしどもも、アブラハムのように信仰を持って、この2019年の後半部へと向かって出発させて下さい。どうぞアブラハムに習って、「真の自己に向かって」、「偶像から聖別」され、「呪いの世界を祝福に変える生涯」へと進ませてください。全世界にあなたの祝福と恵みが注がれますように。未来を切り開く、命の力に満ちて歩めるように導いてください。わたしたちの愛する主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

説教「ひとつにされて」-たいせつなあなたー

2019年6月30日 主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝2:43~47
説教:深谷美歌子牧師

きょうはファミリーサンデーです。わたしたちの愛する家族が、今日、教会に来られて、神の家族ともされることを、心から祈っています。なぜ家族が慕わしいのでしょう?私の生まれ育った家庭は、牧師家庭でした。貧しい生活でしたが、子供の頃で、貧しい自覚がなく「こんなお芋いらない!」などと、ご飯の足しに入れてあるお芋を邪魔者扱いしたり、糊を持ってくるように学校で言われて、父がお米を潰して持たせようとしたことを怒ったりしていました。これぐらいのことはできるはずだとの思いが強かったのです。今思えばなんと悲しい思いをさせたのかと、身が縮む思いです。こんな子でも愛してくれました。

このごろある方のお母さんの思い出を読みました。「産んでくれと頼んだ訳ではない!」と父に当たりたいのを、母に当たった。もう一度会えるなら、お詫びを言いたいと書いていました。彼は低学年の時、通知表が1,2の評価が多かったが、私の子だから、決して頭が悪いわけはない。と言い続けてくれたお母さんのお蔭で、高校では上位10番以内にいつも入っていた。お父さんも優しくなったから、一緒に食事しよう、と上京して、3人で食事し、おとうさんの手前、おごらせて、そっと1万円置いて行った。その交わりがお母さんとの最後の時だった。とのことでした。それぞれに家族の思い出がありましょう、悲しい思い出も含めて。家族はありのままの自分を知っています。互いに赦しあい、愛し合って一つになれたら、そこが天国です。そして真の赦しと、愛は、イエス様からのみきます。教会こそ神の家族です。

きょう開かれた聖書の中には「一つになって」(口語訳では一団となって、一緒になって、心を一つにして)ということばが3回出てきます。

イエス様が昇天されるまでの40日間「神の国について話された」と書かれていましたが、一つになるということは、イエス様が求めていたことが起ったのではないでしょうか? 

【今日の説教箇所の概説】

1章14-15節 一団となって祈っていた。

43節 全ての人に恐れが生じ、使徒による奇跡が多く起こった。

44-45節 信者たちは一つになって財産を共有にし、必要に応じて分け合った。

46節  心を一つにして宮もうでをし、家でパンを裂き、・・食事を共にした。

47節 神を讃美し・・人に好意を寄せられ、主は救われるものを加えてくださった。(新共同訳一つにしてくださった。) 

【メッセージ・ポイント】

1)心を合わせ、一団となって祈っていた。       

1:14 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。15 そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていたが、ペテロはこれらの兄弟たちの中に立って言った、(1章14・15節)

聖霊降臨のできごとは、主の約束を待ち望んで祈っていた弟子たちの上に起りました。W・Hウィリモンは『ある意味で、祈りは教会が神にその約束を守らせようとする大胆な、不遜でさえある試みである。・・・こうして祈りとは、神はその約束に忠実であるという信頼、神がご自身に真実であるという信頼から生まれた、大胆さなのである。』と書いています。主は天に帰られる前に、「父が与える聖霊があなた方に臨むまでは都にとどまっていなさい。」と言われました。彼らは待っている間、一つになって祈っていました。復活の主に出会いましたが、彼らはまだ力がありませんでした。そこで、求めよとの言葉に従って求めたのでした。

神は求めるものに聖霊をくださる。と約束されています。この約束を握りしめ、信頼し、祈る。これは神様を揺すぶるようなことです。「神様あなた様が約束されたのです。どうぞ聖霊様をください。」と祈ろうではありませんか。 今はすでに、あの初めのペンテコステにおいて、『終わりの時にわたしの霊をすべての人に注ぐ。』といわれたことが成就した時代です。2章1節の「五旬節の日が来て」という言葉は「満ちて」と訳され得る言葉です。神様の時があの時に満ちたので、すでに聖霊様はすべての人に注がれています。 一つになって求めたということは、イエス様が期待していたことだったのではないでしょうか?母マリヤとイエスの兄弟たちと共にとあります。イエス様の活動を引き留めようとしたこともある肉の家族が、今や一つになって聖霊を求めて祈っていました。 その時、聖霊がくだられたのでした。

今聖霊は全ての人に注がれていると言いましたが、心を開かなければ受け取れません。私達も心を一つにして、聖霊様が全ての人に触れてくださるように祈りましょう。

2)信者たちはみな一つになって  

 42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。43 みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。44 信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、45 資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。   (42-45節)

聖霊の降臨はペテロたちを力付け、大胆にイエス様のことを語りました。

その結果は前回の学びの通りで悔い改めバプテスマを受けた人々が3000人も起こされました。使徒によって、奇跡が次々行われ、目覚ましい神の業が現れました。そして、信徒は一つになって持ち物まで共有にし、必要に応じて分け与えられました。これは自発的な行為でした。アナニヤとサッピラが「全部です」と土地の代金をごまかして持ってきた時、「聖霊を欺いた。売らずにもっていても売ってもあなたの自由になったはずではないか。」と言っているからです。

罪の赦しを得るための悔い改めとイエスキリストの名によるバプテスマを受け、聖霊に満たされたとき、教会が生まれ、それぞれが持てるものをもって愛し合う神の国が生まれたのでした。

3)日々心を一つにして 食事を共にし   

 46 そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、47 神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。    (46,47節)

これまで、聖霊様が来られたのは、信仰者の確信のためであったと思ってきました。この度、学びながら、目的は教会であったと分かりました。すべてのものを共有にし、ひたすら神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、食事を一緒にし、神を讃美したとあります。

全ての表現は、「食事を一緒にした。」にかかっているのだそうです。

家族は食事を共にするものですね。神の国は神の家族、「食事を一緒にする」ものです。しかしこの最初のあり様は、エルサレム教会だけだったらしいです。再臨がすぐにも起こると思っていたので、このようにしたのではないかと推測している方もあります。でも今の教会も原則は変わりません。それぞれの生活の場から、教会に集い神を礼拝し、讃美を捧げ、御言葉に生かされ、赦しを頂き、愛し合い、祈り合い、捧げものをささげます。ここではだれひとり欠けてはならないのです。誰が偉い、誰は必要ないという世界ではありません。家族ですから。

ここを学んでいて、ある方が、御業が進まないのは、なまぬるいからだと書いていて、あーと思いました。ラオデキヤの教会は、「なまぬるいので吐き出そう。」と言われています。でも自分の力ではできません。聖霊様により頼みましょう。互いに赦され合って。ひとつにされますように。

テモテへの手紙の2章1節に「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とを全ての人々のために捧げなさい。」とあります。

最初の教会がひとつになって祈っていた時に聖霊が降ったことを見ました。初代教会が救われる人が加えられたのは、神の国がそこにあったからでしょう。心を一つにして祈り求められるようにまず祈りましょう。

老いも若きもお金持ちも、貧乏人も、秀才も、そうでない人も神の家族として礼拝し、食事を共にする神の国、教会が広がって行かれますように。

祈り

神様、一つになって祈っていた時、聖霊様がきてくださいました。人々が悔い改めて、バプテスマを受け、聖霊の注ぎを受け、それぞれの持てるものを出し合って、ひとつにされました。今この原則に生かしてください。互いに祈り合い聖霊様の助けを与えて、愛し合うものとしてください。 御名によって祈ります。アーメン

説教「万軍の主、共におられる」

2019年6月23日 主日礼拝
聖書箇所:詩篇46
説教:深谷春男牧師

先週はチャペルシアターで中村啓子さんの朗読と渡辺康子さんのバイオリンで本当に素晴らしい時を持ちました。担当された「ぶどうの実」のスタッフの皆さんに感謝を表したいと思います。それにしても先週は、三浦綾子さんの「道ありき」「氷点」の朗読テープを聞きながら、今さらながら、三浦文学に感動しました。主の十字架の贖いによって、救われるのでなければ、どんなにすばらしく、この世でエリートとして働いたとしてもすべては空しいこと、神様の救いの真実を再確認し、週報のコラムにも書かせていただきました。

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