新宿西教会主日礼拝説教「人生の究極の使命」マタイ福音書28:18~20 深谷春男牧師 2025年11月16日

さる10月2日の木曜日、聖書研究祈り会で美歌子先生が「マタイ福音書」の連続講解の説教が終わりました。2018年に始まった学びでしたが、1章1節から、ついに7年かけて28章20節を終わりました。ハレルヤですね。  

主イエスがクリスマスにお生まれになった記事から、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、荒野に退いて40日の断食。ガリラヤで宣教活動をはじめられました。それから12弟子を召され、訓練されて、ユダヤ地方を宣教されました。そして多くのたとえで語られて、16章のピリポ・カイザリアでのペテロの信仰告白のあとに、エルサレムに向かい、やがて21章でエルサレムに入城され、受難週をそこで過ごされ、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、裁判にかけられ、ついに十字架刑となり、全人類の罪を負い、我らの贖いとなられました。そして、陰府(よみ)下り、死を打ち砕き、復活されました。そして最後はガリラヤの山で弟子たちに会い、全世界に宣教の命令を下されるところまで、丁寧に語ってくださり、深い感銘を受けました。今日は、わたしどもの原点、「大宣教命令」を共に読んで、教会の使命、わたしたちの人生の究極的使命を再確認する時としたいと思います。

テキストの概略

さて、今日の聖書箇所は、11人の弟子が、復活された主イエスが行くように命じられた山に登ったところから始められます。そこで主イエスは、彼らに近寄ってきて、次の3つのことを言われました。

第1は、復活の主の「最高権威の宣言」です(18節)。

第2は、復活の主の「至上命令」です(19-20a節)。

第3は、復活の主の「絶対平安の約束」です(20b節)。   

ここは実に、マタイ福音書の締めくくりとしてふさわしい、すばらしい内容の込められた箇所です。ここからわたしどもの歩むべき道を学んでみましょう。

【メッセージのポイント】

 1)18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。   (18節)

  ⇒ 一切の権威を授かった主イエスを信じよう。

 第1は、復活の主の権威主張です。

マタイ福音書では、山に登るということがたくさん出てきます。

5~7章で「山上の説教」を語られました。

15章では、山に登ってデカポリスの病人を癒し、4千人を養いました。

17章では、「山上の変貌」が語られます。

山の上で栄光を表された主イエスは、復活の後もその後自身の栄光を山上で表されました。

 ユダヤ人は、厳密な意味での宇宙や世界を表す言葉がありません。彼らはそれを「天と地」と両極端の対句で表しました。「善と悪を知る実」「出ずるいるとを守る」等の表現があります。「天と地」の一切の権威を授けられたとは、そういう意味で、全被造物を意味する言葉です。主イエスは全被造物の上にあって全ての権威を与えられた存在となりました。

ピリピ2章6-11節にも同じような聖句があります。「6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」

2)19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。(19-20a節)

⇒ すべての民をわたしの弟子にしなさい !

さて、今日の主題の第2は、復活の主の命令です(19-20a節)。

主イエス様は、復活された後に、お弟子たちお命じになられました。19-20節の聖句は『大宣教命令』と言われる、非常に大事なものです。

この部分には動詞が4つ出てきます。

「行きなさい」、       「弟子にしなさい」、

「洗礼を授けなさい」、   「教えなさい」 の4つです。 

でも、厳密な意味では、主動詞は1つで、あとの4つは分詞形で表現されています。その主動詞とは『弟子にしなさい』と言う言葉です。一番の中心の命令は、「弟子にしなさい」という言葉です。ですから、もうすこし厳密に訳すと「全ての民を弟子にしなさい。出て行きつつ、バプテスマを施しつつ、教えつつ」となります。クリスチャンの生き方は、このところから見ると、自分が主の弟子となり、造りかえられ、他者を主の弟子と造りかえてゆく生涯であるということになります。

 数年前、Torch という集会に出ました。月曜日の夜に文京区シビックホールに1400人が集まりました。大変、熱のこもった集会で、ライトDeナイトなどが参加。最後にメッセンジャーがすばらしいメッセージをしました。その話の中で会衆にチャレンジをしました。「あなたはキリストのファンです?それとも弟子ですか?」。

 わたしはそれを聞いて1980年代の、「青年宣教大会」を思い出しました。あのころわたしも30代でした。会場は御殿場東山荘。あそこで守部さんや岸義紘先生、大川従道先生、田中信生先生、中野雄一郎先生、多胡元喜さんなどと出会い、多い時には1000人近くの青年たちが、集まった集会でした。そこで語られた宣教大会のメッセージも「主の弟子となれ!」というメッセージでした。

それならいったい「弟子」とはどのような人なのでしょうか?

主の弟子① 洗礼を受けて、主イエスにしっかりとつく人

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(19節b)と言われています。主の弟子になることのひとつは「父と子と聖霊の名によって洗礼を受ける」ことです。バプテスマを施しつつ弟子とせよと命じられています。厳密に訳せば「父と子と聖霊の名の中へと(into)バプテスマせよ」となっています。これは式としてのバプテスマはもちろんのことですが、更には、主イエス様の恵みに満たされ、その恵みの中に漬けられて、キリストの命を生きる人のことです。愛する兄弟姉妹。ご自分が洗礼を受けたときのことを思い起こしてください。わたしも自分の洗礼を受けた時は、19歳の時でした。今でも思い起こせば、人生の最善の時!でした。「生きるはキリスト、死ぬるは益なり」。キリストの恵みに生きる喜びの生涯のことです。ハレルヤ

主の弟子② 聖書をよく学び、教えることのできる人。

 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(20a節)と語られています。主の弟子の特徴の第2は「主イエスから良く教えられ、良く学び、また、他者に教えることのできる人」のことです。動物の世界や人間の世界でも、成人になった印のひとつは子供を生むことの出来ることではないでしょうか。クリスチャンも同じで、真のクリスチャンは自分が救われたのをはっきりと理解し、まわりの友人や家族に伝え、その伝えられた者が更に、他者に伝えるという方法です。現在多くの教会ではこれらの「弟子となる学び」を整えて、成熟したクリスチャンとして聖書を霊的に黙想しながら歩む手助けをしています。復活の主は成熟したクリスチャンを求めておられるのです。

主の弟子③ 積極的に、伝道に出てゆく人。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(19節a)、とあります。ここでは、更に主は、出て行きつつ弟子にしなさいと語られています。ここに積極的な生き方をするクリスチャンの人生観がありま す。弟子達はじっとしていないで外に伝道に出てゆきました。教会の歴史はこの宣教の歴史です。

3)見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。(20節b)

  ⇒ 見よ!わたしは共にいる、再臨の朝まで!

 さて、今日の第3は、復活の主の約束についてです(20b節)。

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語ってくださっています。「見よ!」があるのです。主の弟子として、世界宣教の大きなビジョンを前にすると、わたしどもは世界の大きさと自分自身の小ささに萎縮して出てゆけないのです。主はそのようなわたしどもに注意を促すかのように、「見なさい」とご自分を指し示しております。主イエスの臨在こそ、わたしどもの支えであり、助けなのです。

特に、マタイによる福音書は、その第1章23節に、主イエスの名前が「インれるとあり、ほぼ中央の18章19,20節でも、「主が共にいてくださる」こと、「二人三人が一緒にいるところにはわたしも共にいる」との約束があり、この福音書の、最後の部分、28章20節でも「見よ、わたしはあなたがたと共にいる」と主は語られます。

臨在の主を仰ぐ生涯!試練の時も、悲しみの時も、不安の時も、あるいはこの世のことに絶望する時も、この地上を去って御国に行く時にも、臨在の主を仰ぐのです。栄光の主を「仰瞻」するのです。「わが臨在汝と共に行くべし!」(出エジプト33:14)。これが勝利の中に歩む秘訣です。ハレルヤ

祈り 】 天の父なる神様!礼拝の恵みの時を感謝します。今日は「大宣教命令」の学びました。わたしたちの霊の目を開いて、復活の主イエスとその権威を、しっかり見上げることができますように。また、主の弟子として成長させていただけますように。ここから出て行き、父と子と聖霊の名によってバプテスマを施し、聖書の指し示す真理を学び続ける忠実な弟子としてください。臨在の主イエスをいつも見上げつつ歩む恵みの一週間としてください。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのこと感謝する日々としてください。罪の赦しと永遠の命を与えて下さった愛する主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会オープンチャーチ第四週主日礼拝説教「哀れに思って走り寄る神様」ルカ15:25~6:4 西川穂伝道師 2025年10月26日

ある父親に二人の息子がいました。父親は神様をたとえています。弟息子ですが、ある日、次のように言いました。「お父さん、お願いがあります。お父さんが死んだ時、遺産の内、今、僕がもらえる分をください」、と。お父さんの遺産を弟息子が受け取ると、遠い町に行って、毎日、弟息子は遊びながら過ごします。弟息子は、お金を使い果たした時、「本心に立ちかえって、そうだ、自分が悪かった。お父さんにごめんなさいと言おう」(15:17)と思いました。そうして父親の家に帰りました。父親は、毎日、まだかまだかと弟息子の帰りを待っていました。ある日、弟息子を見つけると、お父さんは哀れに思って走り寄りました。ここに、「神様との生きた交流」が見られます。これが、ルカ15章の最大のテーマです。父親は、弟息子が救われた事を喜んで、パーティーを開きました。けれども、兄息子が帰ってきた時、やけに騒がしいので尋ねました。しもべは、「あなたの弟がお帰りになりました。あなたもそのパーティーに参加してください」と言ったら、兄息子が怒りました。

そんな兄息子に向かって父は、弟息子と同様、哀れに思って走り寄ったのです。

15:28 「兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると」

兄の怒りは、ふつふつと煮えたぎって、爆発寸前の状態がずっと続くようなものだったのでしょう。その兄息子に対し、父親は「なだめた」のです。兄息子は、「もう一人の放蕩息子」といえるのかも知れません。この兄息子は、父親のすぐそばで長年働いていましたが、その事を喜んでいなかったようです。29節、「何か年もあなたに仕えて」は、長年奴隷のようにお父さんに仕えてきた、という意味になります。

映像: キスト岡崎エイブラハム&さゆ里先生作成、「放蕩息子の譬話」5分33秒

映像を見る前の説明) 次のように、キスト岡崎さゆ里先生は説明しています。「父親は弟息子を見つけて走り寄っていきます。そして、ここでは兄に対しても同じ思いを持っていることが表現されています。ルカ15:28の父親が出てきて「なだめると」という言葉は原語では「嘆願する」という意味です。アニメーションでは、父親が頭を地面にこすりつけるようにして兄に「パーティーに加わってくれ」と願っている様子を描いています。ここで神様は、兄息子を象徴する宗教指導者の人々にこそ父親の喜びを分かち合ってほしいのだ、というメッセージを表現しました。」、と。

15:28、「父が出てきてなだめると」の「なだめる」という言葉は、完了しないで続いているという意味があります。「慰め続けていた」という意味です。

また、「なだめる」は、「慰められる事により、他者を力づける」とも解釈できます。

今日は、永眠者記念礼拝です。イエス様と結ばれて地上の生涯を走り終えた、パウロは、次のように語っています。テモテへの第二の手紙4章7節、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」。

  8節、「今や義の冠がわたしを待っているばかりである」。主イエス様が天国でお一人お一人に朽ちない冠を授けてくださる、というのが私達の大きな慰めです。

放蕩息子の話は、人生を終えて、神様のみ元へ帰るその時に、父なる神様が、その両腕を広げて天国へと迎え入れてくださる、「神様との永遠のつながり」として読むことができます。先月も話しましたが、スペインで急死した、父の安らかな顔は、父の救われた大きな証であり、今でも、私にとっては大きな慰めとして受け止めております。昨年、母と久しぶりに再会した時は、知人と母のいる病室で祈り合って讃美しました。母は、私を見つめてしっかりと私の手を握りしめて天国での再会を待ち望んでいるかのようでした。母が亡くなった知らせは、心が痛みましたが、天国でイエス様が母を受け止めてくださった、という事が確信できました。

本日は、ルカ15章25~32節より、父親が兄息子に対して、どのような言葉をもって慰め続けたのかということを、三つのポイントから分かち合いたいと思います。

1. 子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいる。 ルカ15章31節前半

神様が与えてくださる、いろいろな恵みというものがあります。しかし、どんな恵みに勝って、神様から与えられている祝福で最も幸いな事は、「いつも私と一緒にいる。」ということです。「あなたは、いつもわたしと一緒にいる」とは、泣いている時も、笑っている時も、目には見えませんが、そこに、神様がいつも一緒におられるという事です。私にとってなによりの喜びは、神様といつでも一緒にいる事です。 

父なる神様は、私たちと一緒に何でも共有して、話し合い、一緒に暮らすのが何より嬉しいのです。いろいろな祝福があるけれど、これに勝る祝福はないし、もしこれがなかったとしたら、今日、神様の所へ帰る決断をしてほしい、と思います。

2. わたしのものは「全部」あなたのものだ。 ルカ15章31節後半

父なる神様は、御子イエス様を私達にお与えになるほど、愛しているのです

ローマ人への手紙8章31、32節、「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。

このように、私達は、イエス様からあらゆる賜物を預かっているのです。

15章と16章とをつないで理解する重要な言葉は、「浪費する」という言葉です。

16章1 節、「イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった」。

「主人の財産を無駄遣いしている」と訴えられた管理人が取り上げられていて、ここで、イエス様は、「賜物の使い方」を語っておられるのです。神様からの賜物は、人の救いの為、互いの益となる為に用いてはじめてその真価が発揮されます。

ヘンリ・ナウエンは、『放蕩息子の帰郷』で、イエス様が私達の為に「放蕩息子」になられたといっています。イエス様は父の家を去り、この地上に遣わされ、持っていた全てを人の救いの為に惜しみなく与え尽くし、十字架につけられました。

16:10、 「小事に忠実な人は大事にも忠実である」。「小事・小さなこと」の「こと」は人とモノのどちらでも使えます。「忠実な」という言葉は「真実な」という意味です。

マタイ25:40、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、即ち、わたしにしたのである」。ある先生が、「最も小さい者の一人」とは敵対する者である、と解釈しています。イエス様は敵対する者に対しても真実に愛し抜いたのです。次に、15:28、父の宥めるという嘆願を23章で、イエス様が実行します。

ルカ23:35、「彼は他人を救った…自分自身を救うがよい」。ここで、イエス様を

迫害する人々は、「他人を救ったが、自分は救えない」、とイエス様をののしったのです。宗教指導者らは自らが正しいと主張して、イエス様を責め立てたのです。

ルカ23:34、「イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください』」。

イエス様は、この十字架で、「自分を救わなかったのです」。イエス様は自分を捨てたからです。イエス様は自らを十字架の苦しみから救いだすことを放棄しながら、人間の苦しみを全て背負って、その十字架の死を全うすることにより、私達を救っているのです。そうやって私達は、救われたのです。自分を救わないことを通して、十字架で苦しみを受けて、他人を救ったのです。救い主らしくない十字架の弱いお姿です。隣りの犯罪人にも、「自分を救ってみよ」と、悪口を言い続けられました。「なんだ、その弱い姿は」、といわれる十字架の地点に、まさにイエス様が来てくださったのです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)。神様に逆らい、神様を傷つけていた時からイエス様は十字架で死んでくださいました。神様によって罪に気がつかされた時、イエス様の十字架の恵みを注いでくださるのです。

その目的がルカ15:32にあります。それは、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」(15:32)。死んでいた私達を生き返らせ、失った私達を見出す為です。神様との関係がつながる為にイエス様が十字架と復活とを通し、永遠の命を与えてくださいました。

ヨハネによる福音書17章3節、「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。

神様とイエス様とを知るとは親しい関係を意味します。神様から愛される喜びであり、愛する喜びです。そうして人の命は輝くのです。イエス様に赦されたという恵みに生かされ、イエス様につらなって十字架のふもとから一緒に復活するのです。 

3. 喜び祝うのは、あたりまえである。 ルカ15章32節                  

「あたりまえである」は、原語で、「必然」を表しています。神様が「失われた者」を見つけた時に喜ぶという、神様の必然です。神様が私達を「喜び祝ってくださる」という、「その神様の喜び」が、私達の心に響いて私たちに喜びが生まれてきます。

私達が喜んでいるかどうかに関わらず、神様が私達を喜んでおられるのです。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。  

イエス様を信じることにより、神様との交流が永遠に続いていくのです。つまり、イエス様を信じて神様の救いにあずかる者は「今」既に永遠の命を受けるのです。 

天国に行ってからではなく、この生涯において、既に永遠の命を生き始めているのです。真面目な兄息子の様な人が天国に近いと思われるかも知れませんが、弟息子の様に歩んでいた人でも、「気がついて神様、助けてください」、といったら神様は受け入れてくださいます。99%立派だから天国ではなく、「憐れんでください」といった人にも、神様の愛が届き、そこから神様との交流が永遠に続くのです。

ですから、イエス様は十字架で今も私達の為にとりなしてくださっているのです。 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日」です。

ルカ1:30、31で、マリヤに突然、あなたは、子を宿して、『イエス』と名づけるようにいわれます。1:38、マリヤが言います、お言葉どおりこの身に成りますように」、と。

マリヤの信仰のように、御言葉が私達の中に響いて、その応答として信仰が生まれていきます。この信仰は御言葉信仰です。「神様のご計画の確かさ」への信仰です。救いの確信というのは、人間の信念の強さによって救われるのではなく、もうあなたを救うことに決めたよ、という神様のご計画の力強い宣言であったのです。

証)永遠の命、神様との生きたつながりを通し、試練の荒波を乗り越えたコーリー・テン・ブームの証をします。祈り)イエス様、永遠の命を感謝いたします。アーメン。

新宿西教会オープンチャーチ第四週主日礼拝説教「哀れに思って走り寄る神様」ルカ15:25~6:4 西川穂伝道師 2025年10月26日

ある父親に二人の息子がいました。父親は神様をたとえています。弟息子ですが、ある日、次のように言いました。「お父さん、お願いがあります。お父さんが死んだ時、遺産の内、今、僕がもらえる分をください」、と。お父さんの遺産を弟息子が受け取ると、遠い町に行って、毎日、弟息子は遊びながら過ごします。弟息子は、お金を使い果たした時、「本心に立ちかえって、そうだ、自分が悪かった。お父さんにごめんなさいと言おう」(15:17)と思いました。そうして父親の家に帰りました。父親は、毎日、まだかまだかと弟息子の帰りを待っていました。ある日、弟息子を見つけると、お父さんは哀れに思って走り寄りました。ここに、「神様との生きた交流」が見られます。これが、ルカ15章の最大のテーマです。父親は、弟息子が救われた事を喜んで、パーティーを開きました。けれども、兄息子が帰ってきた時、やけに騒がしいので尋ねました。しもべは、「あなたの弟がお帰りになりました。あなたもそのパーティーに参加してください」と言ったら、兄息子が怒りました。

そんな兄息子に向かって父は、弟息子と同様、哀れに思って走り寄ったのです。

15:28 「兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると」

兄の怒りは、ふつふつと煮えたぎって、爆発寸前の状態がずっと続くようなものだったのでしょう。その兄息子に対し、父親は「なだめた」のです。兄息子は、「もう一人の放蕩息子」といえるのかも知れません。この兄息子は、父親のすぐそばで長年働いていましたが、その事を喜んでいなかったようです。29節、「何か年もあなたに仕えて」は、長年奴隷のようにお父さんに仕えてきた、という意味になります。

映像: キスト岡崎エイブラハム&さゆ里先生作成、「放蕩息子の譬話」5分33秒

映像を見る前の説明) 次のように、キスト岡崎さゆ里先生は説明しています。「父親は弟息子を見つけて走り寄っていきます。そして、ここでは兄に対しても同じ思いを持っていることが表現されています。ルカ15:28の父親が出てきて「なだめると」という言葉は原語では「嘆願する」という意味です。アニメーションでは、父親が頭を地面にこすりつけるようにして兄に「パーティーに加わってくれ」と願っている様子を描いています。ここで神様は、兄息子を象徴する宗教指導者の人々にこそ父親の喜びを分かち合ってほしいのだ、というメッセージを表現しました。」、と。

15:28、「父が出てきてなだめると」の「なだめる」という言葉は、完了しないで続いているという意味があります。「慰め続けていた」という意味です。

また、「なだめる」は、「慰められる事により、他者を力づける」とも解釈できます。

今日は、永眠者記念礼拝です。イエス様と結ばれて地上の生涯を走り終えた、パウロは、次のように語っています。テモテへの第二の手紙4章7節、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」。

  8節、「今や義の冠がわたしを待っているばかりである」。主イエス様が天国でお一人お一人に朽ちない冠を授けてくださる、というのが私達の大きな慰めです。

放蕩息子の話は、人生を終えて、神様のみ元へ帰るその時に、父なる神様が、その両腕を広げて天国へと迎え入れてくださる、「神様との永遠のつながり」として読むことができます。先月も話しましたが、スペインで急死した、父の安らかな顔は、父の救われた大きな証であり、今でも、私にとっては大きな慰めとして受け止めております。昨年、母と久しぶりに再会した時は、知人と母のいる病室で祈り合って讃美しました。母は、私を見つめてしっかりと私の手を握りしめて天国での再会を待ち望んでいるかのようでした。母が亡くなった知らせは、心が痛みましたが、天国でイエス様が母を受け止めてくださった、という事が確信できました。

本日は、ルカ15章25~32節より、父親が兄息子に対して、どのような言葉をもって慰め続けたのかということを、三つのポイントから分かち合いたいと思います。

1. 子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいる。 ルカ15章31節前半

神様が与えてくださる、いろいろな恵みというものがあります。しかし、どんな恵みに勝って、神様から与えられている祝福で最も幸いな事は、「いつも私と一緒にいる。」ということです。「あなたは、いつもわたしと一緒にいる」とは、泣いている時も、笑っている時も、目には見えませんが、そこに、神様がいつも一緒におられるという事です。私にとってなによりの喜びは、神様といつでも一緒にいる事です。 

父なる神様は、私たちと一緒に何でも共有して、話し合い、一緒に暮らすのが何より嬉しいのです。いろいろな祝福があるけれど、これに勝る祝福はないし、もしこれがなかったとしたら、今日、神様の所へ帰る決断をしてほしい、と思います。

2. わたしのものは「全部」あなたのものだ。 ルカ15章31節後半

父なる神様は、御子イエス様を私達にお与えになるほど、愛しているのです

ローマ人への手紙8章31、32節、「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。

このように、私達は、イエス様からあらゆる賜物を預かっているのです。

15章と16章とをつないで理解する重要な言葉は、「浪費する」という言葉です。

16章1 節、「イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった」。

「主人の財産を無駄遣いしている」と訴えられた管理人が取り上げられていて、ここで、イエス様は、「賜物の使い方」を語っておられるのです。神様からの賜物は、人の救いの為、互いの益となる為に用いてはじめてその真価が発揮されます。

ヘンリ・ナウエンは、『放蕩息子の帰郷』で、イエス様が私達の為に「放蕩息子」になられたといっています。イエス様は父の家を去り、この地上に遣わされ、持っていた全てを人の救いの為に惜しみなく与え尽くし、十字架につけられました。

16:10、 「小事に忠実な人は大事にも忠実である」。「小事・小さなこと」の「こと」は人とモノのどちらでも使えます。「忠実な」という言葉は「真実な」という意味です。

マタイ25:40、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、即ち、わたしにしたのである」。ある先生が、「最も小さい者の一人」とは敵対する者である、と解釈しています。イエス様は敵対する者に対しても真実に愛し抜いたのです。次に、15:28、父の宥めるという嘆願を23章で、イエス様が実行します。

ルカ23:35、「彼は他人を救った…自分自身を救うがよい」。ここで、イエス様を

迫害する人々は、「他人を救ったが、自分は救えない」、とイエス様をののしったのです。宗教指導者らは自らが正しいと主張して、イエス様を責め立てたのです。

ルカ23:34、「イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください』」。

イエス様は、この十字架で、「自分を救わなかったのです」。イエス様は自分を捨てたからです。イエス様は自らを十字架の苦しみから救いだすことを放棄しながら、人間の苦しみを全て背負って、その十字架の死を全うすることにより、私達を救っているのです。そうやって私達は、救われたのです。自分を救わないことを通して、十字架で苦しみを受けて、他人を救ったのです。救い主らしくない十字架の弱いお姿です。隣りの犯罪人にも、「自分を救ってみよ」と、悪口を言い続けられました。「なんだ、その弱い姿は」、といわれる十字架の地点に、まさにイエス様が来てくださったのです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)。神様に逆らい、神様を傷つけていた時からイエス様は十字架で死んでくださいました。神様によって罪に気がつかされた時、イエス様の十字架の恵みを注いでくださるのです。

その目的がルカ15:32にあります。それは、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」(15:32)。死んでいた私達を生き返らせ、失った私達を見出す為です。神様との関係がつながる為にイエス様が十字架と復活とを通し、永遠の命を与えてくださいました。

ヨハネによる福音書17章3節、「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。

神様とイエス様とを知るとは親しい関係を意味します。神様から愛される喜びであり、愛する喜びです。そうして人の命は輝くのです。イエス様に赦されたという恵みに生かされ、イエス様につらなって十字架のふもとから一緒に復活するのです。 

3. 喜び祝うのは、あたりまえである。 ルカ15章32節                  

「あたりまえである」は、原語で、「必然」を表しています。神様が「失われた者」を見つけた時に喜ぶという、神様の必然です。神様が私達を「喜び祝ってくださる」という、「その神様の喜び」が、私達の心に響いて私たちに喜びが生まれてきます。

私達が喜んでいるかどうかに関わらず、神様が私達を喜んでおられるのです。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。  

イエス様を信じることにより、神様との交流が永遠に続いていくのです。つまり、イエス様を信じて神様の救いにあずかる者は「今」既に永遠の命を受けるのです。 

天国に行ってからではなく、この生涯において、既に永遠の命を生き始めているのです。真面目な兄息子の様な人が天国に近いと思われるかも知れませんが、弟息子の様に歩んでいた人でも、「気がついて神様、助けてください」、といったら神様は受け入れてくださいます。99%立派だから天国ではなく、「憐れんでください」といった人にも、神様の愛が届き、そこから神様との交流が永遠に続くのです。

ですから、イエス様は十字架で今も私達の為にとりなしてくださっているのです。 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日」です。

ルカ1:30、31で、マリヤに突然、あなたは、子を宿して、『イエス』と名づけるようにいわれます。1:38、マリヤが言います、お言葉どおりこの身に成りますように」、と。

マリヤの信仰のように、御言葉が私達の中に響いて、その応答として信仰が生まれていきます。この信仰は御言葉信仰です。「神様のご計画の確かさ」への信仰です。救いの確信というのは、人間の信念の強さによって救われるのではなく、もうあなたを救うことに決めたよ、という神様のご計画の力強い宣言であったのです。

証)永遠の命、神様との生きたつながりを通し、試練の荒波を乗り越えたコーリー・テン・ブームの証をします。祈り)イエス様、永遠の命を感謝いたします。アーメン。

新宿西教会平和主日礼拝説教「わたしは良い牧者である」ヨハネ福音書10:11~18 深谷春男牧師 2025年8月3日

 去る7月29,30日の「第56回日本伝道の幻を語る会」は豊かな祝福を得ました。特別講師として立てられた大嶋重徳先生、須郷裕介先生、守部喜雅兄、川村秀夫兄、それに松浦剛・みち子先生、司会の実行委員の先生方、分科会のリーダたち。隠れたところでの奉仕者、愛の交わり、背後の祈り、感謝、感激の集会でした。「若者も年配者も共に居場所となる教会」の説教のように、大きな励ましを受けました。「聖霊に満たされる時、若者は幻を見、老人は夢を見る!」。いつも主の「夢と幻」を心に映し出しましょう。

【聖書箇所の解説と区分】

さて、この聖書箇所ヨハネ福音書10章は、たいへん有名で、イメージの強い箇所ですね。詩編23編の「主はわたしの羊飼い。わたしは乏しいことがない」との告白が、見事に、主イエスこそ「良き羊飼い」であると語られています。主イエスが良き羊飼いであり、ユダヤのリーダーや、異邦人のにせキリストが、「こっちだ、こっちだ」というが「盗人、強盗」(1,8,10節)のようなもの。気をつけよ!との警告もなされています。概略は以下のようです。

1~ 6節  「羊の囲い」のたとえ。

7~ 10節  主イエスは羊の門である。  

11~ 15節  主イエスは良い羊飼い。羊は羊飼いを知っている。

   16節  この囲いの中にいない羊も一つの群れとなる。

17~ 18節  主イエスは自分から命を捨てる。命がけの愛!

19~ 42節 これを聞いたユダヤ人は主イエスを憎み殺そうとする。

【メッセージ・ポイント】                                                     

1)主イエスの言葉、「わたしは良い羊飼いである。」(11節)

   ⇒ 主イエスは良い羊飼い。             

  ここにも、きっぱりとした主の宣言文があります。「わたしは良き羊飼いである」という宣言です。主イエスこそ、わたしどもを導き、救う、神からの良き羊飼いだからです。  

 ここ数週間は、ヨハネ福音書にある「わたしは・・・である」と言う宣言が7回なされていることを学んでいます。イエスキリストこそが終末的な神から遣わされた救い主であることを示している表現と学びました。その7つ、皆さんと共に、声に出してお読みしてみましょうか。ここに聖書語る、神様の救いと愛の宣言がある。

「わたしは命のパンである」(6:48)、

「わたしは世の光である」(8:12)、

「わたしは門である」(10:9)、

「わたしはよい羊飼いである」(10:11)、

「わたしは甦りであり、命である」(11:25)、

「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)、

「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)。

  これらの言葉は暗唱しましょう!

霊的な飢えや渇きを覚えたら・・・・⇒ キリストこそ命のパン!

人生の試練にあって、真っ暗な時・・・⇒ キリストこそ世の光!

人生の荒野で地に迷った時・・・・・⇒ キリストこそ人生の門!

誰の声を聞いたらいいのか分からない時・⇒キリストこそが牧者!

人生で親しい人の死に出会ったら・・・⇒キリストこそ復活の命!

道に迷い、真理、命の不明の時・・⇒キリストこそ道、真理、命!

自分の所属、平安、成長、霊的命の源泉・⇒キリストこそ葡萄の幹

                   ハレルヤですね。

 ご存じのとおり、聖書には羊と羊飼いの話がよく出てきます。創世記12章の聖書の信仰者の出発は、アブラハム。彼は職業は羊飼いでした。その子イサクも、イサクの子ヤコブもまた羊飼い。モーセはミデアンの地で羊飼いをしている時に神の召命を受け、ダビデも若い時は羊飼。羊はユダヤ人にとってなじみの深い動物でした。
 また聖書では指導者が羊飼い、民が羊として描かれることも多くあります。更に旧約聖書で重要なことは、羊は人間の罪を代わりに担う贖罪の羊として、犠牲として捧げられました。キリストが十字架で死なれた時、人々は自分たちの代わりにキリストが血を流されたと理解し、彼を「贖罪の子羊」と呼んだのでした。


2.いろいろな羊飼いがいる

主イエスははっきりと「わたしは良い羊飼いである。」と言われました(ヨハネ10:11)。主イエスが活動された時代は、ローマがユダヤを支配しており、ユダヤの人々は、ローマの植民地支配に対して複雑な思いを持っていました。パリサイ派は、いわば、民族派・国粋派で、異邦人であるローマの支配を快く思わず、いつの日か、メシヤが現れてローマを追放すると期待していました。熱心党などは、メシヤを待たずに自分たちの武力でローマを倒そうと考えていたようです。体制派のサドカイ派は積極的にギリシャ・ローマの文化を取り入れ、ローマとの円滑な関係を築こうとしていたようです。また、エッセネ派と呼ばれる人々は、現実の世界から離れ、荒野に逃れ、隠遁生活を行っていました。これらの多くの考えが一つの方向に流れ出し、反ローマで一致し、ユダヤはローマに反乱を起こし紀元66-70年「ユダヤ戦争」が起こり、ユダヤの国は、ローマによって完全に滅ぼされてしまいました。この時代、あまりに多くの指導者がいて、いろいろなことを言うので、右往左往していた時代でもあったようです。

ヨハネ10章の羊と羊飼いはこのような文脈の中で語られています。羊は群衆、羊飼いは指導者です。

ある方はここに、三種類の羊飼いが出てくると言います。

第一の「羊飼い」は、「盗人」であり「強盗」と言われる人々です。これらの指導者は、民のことよりも利益を図るために人々をむさぼっていたパリサイ人やサドカイ人を指しています。いつの時代でも世の指導者はこのようなものですね。この間の参議院選挙などは、日本においても、様々な意見の対立で、選挙は、大変でした。
 第二の「羊飼い」は「雇い人」の羊飼いです。雇い人は報酬のために働くのです。彼の関心は報酬であり、羊ではありません。だから狼が来るような、困難な情況になると逃げてしまうのです。


3.良い羊飼い

第三は、「良い羊飼い」ですね。良い羊飼いは自分の羊のことをよく知り、羊もまた羊飼いを慕う(10:15)。 

わたしたちはこの良い羊飼いの姿にイエス・キリストを見る。

  • 主イエスは良い羊飼い。羊と共に生き、そばにいて守られる。

 主イエスはベツレヘムの馬小屋に生まれ、ナザレの貧しいうちに育ち、弟子たちと共に生き、多くの群衆に語り、病んでいる人を癒し、神の国の福音を語り、共に歩んでくださいました。

  • 主イエスは良い羊飼い、羊のために命を捨てる。

この所では「良い羊飼い」は「羊のために命を捨てる」と4回(11,15,17,17節)も言われて強調されています。これはイザヤ53章の「苦難の僕」、ロマ書3;21~26の「キリストの十字架の贖い」、「救いの御業」が語られます。救いはキリストの十字架にあり!アーメン

  • 主イエスは良い羊飼い、永遠の命を与える。

主イエスが来られたのは、羊に命を与え、豊かに与えるためです(10節)。この言葉はキャンパス・クルセードの「4つの法則」に引用されており、わたしの若い時からの暗唱聖句です。更に29節で「わたしは彼らに永遠の命を与える。だから彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪いさる者はないい。」と語られました。ヨハネ3:16,14:2,3。参照

  • 主イエスは良い羊飼い。この囲いにいない羊も導かれる。

「この囲いにいない羊も導かれる。」主イエスは、ユダヤ人々だけでなく、異邦人と言われる全世界の人々をも救いに導かれる。韓国でも、中国でも、インドでも、ナイジェリアでも、日本でも、すべての人が、罪と死の呪いの世界から救いを得るのです。この間インドの「毎週30万人が礼拝に集う教会」のYouTubeを見ました。

今日、はっきりと告白しましょう。

先日、北支区連合祈祷会で小石川白山教会の佐々木姉の証し。 

【祈祷】主よ、今日も、素晴らしい御言葉を感謝します。「わたしは良い羊飼いである」との御言葉を感謝します。主イエスの十字架の救いの正門から入って、救いの道をまっすぐに歩ませてください。特にこの8月3日は、礼拝においてネパールの留学生、マノズ兄が洗礼の恵みに与ります。彼の人生を導いてください。恩寵充満の日々を歩ませてください。命をも捨てたもうほどに、われらを愛して下さる主イエスの御名によって祈ります。アーメン