新宿西教会成人祝福礼拝説教「恵みをもて年の冠とせり」詩篇65編 深谷春男牧師 2026年1月11日

詩篇65篇の「神の川に水満ちたり」の一句は、神様の恵みの世界を表現しています。それを代表的な聖句です。昔、1978年頃、桜ヶ丘教会を訪問しましたら、礼拝堂の正面にこの聖句が掲げられておりました。

詩篇65篇は、  

個人の魂の問題としての罪の赦し、

人間社会の問題としての諸国民の平和、

被造物全体への神の恩寵充満と結実

を讃美した典型的な讃美の歌です。目を上げれば、神の川に水満ちて、その恵みの流れがあふれ出て、地上に流れくだり、主イエスの十字架となり、復活となり、ペンテコステのできごととなって現れました。2026年をすばらしい。神の恩寵に充ち満ちる恵みの1年として歩みましょう。

 【 詩篇65篇の概略 】

この詩篇65篇はしばしば新年聖会で読まれます。それは11節に文語訳ですと「恵みをもて年の冠となしたまえり」とありまして、年の冠、一年の初めに神様の恵みでいっぱいに満たされて出発しようという意味で引用されることが多いと思います。しかし、後で詳細を見てゆきますが、むしろ「年の冠」は、収穫の時の黄金の穂波を美しく表現したもので、必ずしも、一年の初めを歌ったものではないようです。旧約学者の左近淑先生の解説によりますと「詩篇65篇は賛美とは何かを教える」典型的な詩であると言われます。この詩は多くの学者によって「民族の賛美」に分類されます。ここには神を讃美するとはどういうことか、また、聖書の記す讃美にふさわしい神様とはどのようなお方かと歌われています。つまりこの詩は、聖書の中心的な問題は何かを歌いあげています。この詩の構造に、はっきりと次の三部分に分かれて記されます。

1―4節   救済の神への賛美(特に魂への集中=罪を赦す主)。

5―8節   創造の神への賛美(特に歴史を導く主)。

9―13節   祝福の神への賛美(特に自然界を導く主)。

ある人々はこの詩があまりにも明白に三つに分かれているために、元来、独立していた詩を一つに編集したのではないかとさえ主張します。しかし、神讃美という共通項で貫かれております。この詩篇は「神讃美とは何か」を教えると共に、聖書の語る神の救いの業とは何かをもわたしどもに語っています。聖書の語る神の恵みの完全縮小版のような詩篇です。

【メッセージのポイント】

1)2 ,3祈を聞かれる方よ、

すべての肉なる者は罪のゆえにあなたに来る。

われらのとががわれらに打ち勝つとき、

あなたはこれをゆるされる。

4 あなたに選ばれ、あなたに近づけられて、

あなたの大庭に住む人はさいわいである。

われらはあなたの家、あなたの聖なる宮の

恵みによって飽くことができる。(2~4節)。      

⇒ 神をたたえよ。罪の赦しのゆえに。

2―4節の第一の部分では、神こそ万民の礼拝を受けられるべきお方であることが歌われます。即ち、

「神はシオンに臨在される」(1節)、

「神は祈りを聞いてくださる」(2節)、

「神はわたしどもの罪を赦される」(3節)、

「神の大庭でその恵みにて充足を与えられる」(4節)。

特に、注意したいのは2,3節です。「罪の力の強いこと、自分の力では勝てないこと、神の赦しなくして、問題は解決しないこと」を歌っています。ここには「魂への集中」(関根正雄)があり、この詩の深さがあります。

人間は魂の深いところで、救いを求めております。神様を礼拝し、その臨在に触れ、祈りを聞いていただき、罪を赦していただいて、聖なるお方と交わりを回復し、神の大庭、礼拝の場所で、その恵みに充足を与えられると歌われます。神讃美の原点はまず、「魂の救い」ということです。魂が恵まれていなければ、どのような経済的に豊かな生活をしていても、どのような業績をあげても、魂の奥底から沸き起こるような喜び、生きている実感がわいてきません。その中でも、特に、4節には「罪の赦し」という主題がはっきりと出てきます。人間は心の奥底で罪の赦しを求めているというのです。

優れた人格者が、ある時に、神様からの信仰的な迫りを感じて、特定の休みを取り、ホテルの一室でひたすら聖書を読んだそうです。彼は、全ての寝食を忘れて、聖書に没頭したそうです。彼は数日で聖書を通読しました。祈りの心で読んだのですが、それでもよく分からなかったということです。そして、ある方に相談したところその方は「聖書は主イエス様とその十字架を中心に読むのだよ」とアドバイスしてくれました。彼がもう一度、自分自身の罪と主イエスの身代わりの十字架を見ているときに、聖書全巻の言おうとしたことがよくわかり、洗礼を受けてクリスチャンとなり、最後は献身して、牧師になったというのです。

人間の罪と死の力に対して、最終的な勝利を与え、贖いを全うされるには、新約の主イエスの十字架と復活まで待たねばなりません。しかし、ここには、人間の深い罪性があばかれ、その罪の赦しなくして人間の平安はどこにもないことが明らかにされます。豊かな生涯を期待するなら、わたしどもはまず、魂の問題に集中するのです。そして、その本質的な、罪の問題に集中するのです。そして、罪の赦しの福音に触れて新しい人生が始まるのです。

2)7 あなたは海の響き、大波の響き、

もろもろの民の騒ぎを静められる。(7節)。

⇒神をほめたたえよ。歴史支配のゆえに。

  第二の部分(5節―8節)では神の創造の力と歴史を導く大能が歌われます。ここでは人間の歴史の支配者なるがゆえに神をほめたたえよと奨められます。 即ち、

「救いの神が、驚くべき業をなされ、地の果てに住む人々まで全人類が救いを受ける」(5節)、

「神こそ人間の歴史の山々(=背骨)を創造し、支える方」(6節)、

「神こそ人間世界の戦争を静められるお方」(7節)、

「全世界が神の救いを得て、喜び歌う」(8節)。

ここでは、人間の歴史を導かれる神が大きなテーマとなっています。この箇所にはイザヤ書40章~55章の、いわゆる「イザヤ書第二部」の影響があると言われます。それは思想面と用語法の方面から見ることができます。人間の罪の力が、大波のどよめきのように、波のどよめきのように世界を被う時があります。ロシアのウクライナ侵攻の事件!これは神が創造の時にその力を閉じ込めた「混沌」の怪物が、地の底から復活し、世界を混乱と破滅へと投げ込む様なできごとです。しかし、主は、人間のあらゆる悪しき力を砕き、混沌を秩序へと整えたもうと力強く歌われています。    

神学生の時にはじめて韓国を訪問しました。パゴダ公園のレリーフに彫られた独立万歳運動とその陰惨な弾圧の場面や水原近くの提岩里教会の虐殺場面を見学した時、日本の韓半島支配の歴史の罪の重さに軽いめまいを感じました。人間の罪の深さは驚くべきものです。神の歴史支配を信じることなくしてこの世界に希望はないと思いました。

3) 9 あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、

これを大いに豊かにされる。

神の川は水で満ちている。

あなたはそのように備えして、彼らに穀物を与えられる。

10 あなたはその田みぞを豊かにうるおし、

そのうねを整え、夕立をもってそれを柔らかにし、  

そのもえ出るのを祝福し、

11 またその恵みをもって年の冠とされる。

あなたの道にはあぶらがしたたる。(9~11節)。   

⇒ 主をほめたたえよ。大自然の祝福のゆえに。

この詩篇65篇の第三部分(9―13節)では、この世界をあらゆる良きもので充満させる神の祝福が歌われます。

「神の川に水満ちたり。神はそこから雨をふらせ給う」(9節)、

「畝(うね)を潤し、土をならし、雨を注いで芽生えを祝福される」(10節)、

「神の愛により、小麦は黄金の冠のように風にゆれ、オリーブは豊作で満載した荷馬車からこぼれ落ち、次々と通る荷馬車の轍(わだち)には、つぶされたオリーブの油が道路に染み渡り、夕陽に、てかてかと光ってみえる」(10節) (後藤光一郎訳参照)、

「荒れ野にさえ、その恵みは滴り落ちどの丘も喜びにあふれ」(11節)「牧場は多くの羊であふれてセーターを着ているように見え、谷は麦の豊作で黄金のスカートをはいているようだ。大自然、大宇宙が皆、歌い、喜び、踊っている!」(12、13節)。ほむべきかな!祝福に満ちたる神。

  韓国のクリスチャン・リーダーが日本に来て講演をされた時に語られました。「神の時、キリストの季節がやがて日本に訪れます。一つのストーブで山の木に花は咲かせることはできません。寒い冬のような季節も、神が太陽をめぐらし、春の季節が訪れると、山々の枯れ木のようになっている木の枝に一斉に芽が吹き出し、枯れ木は萌黄色となり、やがて青葉の茂る山となるのです。そのように、神が歴史の歯車を回されます」と。

  わたしは日本中に、罪を悔いて、十字架を仰ぎ、新しい人生に入る人々が起こされること、ここかしこの教会に人々が満ち溢れ、主をたたえる人々の起こるのを信じています。ちょうどこの詩の中でオリーブの豊作で、道がその油でてかてかに光っているというユダヤの田舎道のように、恵みで潤うその時を信じています。詩篇65篇は、聖書の信仰の粋を示しています。

 

【 祈 り 】 主よ、わたしどもは、詩篇65篇を通して「神讃美の本質」を見ました。それはわたしどもの聖書の信仰そのものです。人間の魂の問題、特に罪の赦しを与え救いたもう主、歴史を導きたもう主、全被造物を恵み祝したもう主あなたを讃えつつ、福音を告げ示す1年としてください。主よ、リバイバルの年としてください。御名によって祈ります。アーメン。 

新宿西教会2025年末主日礼拝説教「荒野で叫ぶ声」ヨハネ福音書1:19~23 深谷美歌子牧師

 今年も最後の日曜日となりました。足りないものですが、主にあって、肝要と愛の一年間。お祈りとお支えをありがとうございました。

 この一年を振り返りますと、4月には深谷牧師の兄、利春兄さんが50年近くの祈りが答えられて、受洗の恵みに預かりました。今一緒に祈ると「アーメン」と和し、自身でもついて祈るようになっています。

 7月にはマノズ兄が受洗に預かりました。今、呉佳恵姉が責任者で、青年会を立ち上げ「フレッシュフルーツ」と命名し、活動しています。イブコンサートでは鈴木香穂理姉と中野夏鈴姉がラインの交換もすることができました。若い人が活動しているのは喜びです。

そして90代80代の兄姉が喜んで奉仕し、交わっておられることも喜びです。新宿西の神の家族を愛しています。ますます愛し合い、神の国の橋頭堡が新宿の街に広がって行きますように。祈っています。

さて本日は、クリスマスの直後の礼拝ですが、今年のクリスマスは、深谷牧師が、ヨハネによる福音書から取り次いでくださったので、その続きを開かせていただきました。クリスマスの出来事からはしばらく経った時の出来事ですが、前回はヨハネによる福音書の序文までの学びでしたから、ここからが本文と言えます。キリストに出会った者の姿を学びましょう。

【聖書箇所の概説】

19-20節 ユダヤ人たちがヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ね、キリストではない」と答えた。

21節  「エリヤですか」「違う」「「あの預言者ですか」「違う」と答えた。

22-23節 「それでは誰なのですか」「荒れ野で呼ばわる声」である。

【メッセージのポイント】

1)「あなたはどなたですか」「わたしはキリストではない」

19 さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。

20 すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。       19-20節

 ユダヤ人がヨハネのもとに使者を遣わしたと書かれています。これは、バプテスマのヨハネの働きが、国にとって無視できない存在となったからです。

 バプテスマのヨハネの誕生については、ルカの福音書にマリヤが受胎告知を天使から受けたとき、「どうしてそんなことがありえましょう」と言った時、「あなたの叔母エリサベツも老年ながら子を宿しています。はや6か月です」と告げられ、エリサベツを尋ねたと書かれています。今年の新宿西のカレンダーはその時の絵ですね。この時のエリサベツが身ごもっていた赤ちゃんがヨハネでした。ルカ 3:2 アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。3 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。

4 それは、預言者イザヤ40:3に書いてあるとおりである。すなわち/「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。5 すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、6 人はみな神の救を見るであろう」。7 さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。

彼は祭司ゼカリヤの息子でした。当時、祭司職は、祭司の息子でなければ

なれませんでした。信仰の指導的な立場が与えられた者でした。その彼が荒れ野で叫んでいました。当時の人々の中に「エッセネ派」と言って、聖書の言葉を忠実に守る生活ということで、普通の人々の生活を離れ、隠遁生活をしている人々がいました。その人々のように清廉潔白、荒れ野で野蜜を食し、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。と叫んでいたのでした。

このメッセージを聞いた人びとは、国中からきてバプテスマを受けました。

この働きは、国の指導者たちも無視できないものでした。それで、使者を遣わしたのでした。そして「あなたはどなたですか」と尋ねました。彼は「わたしはキリストではない」と告白した。のでした。この「告白した」という言葉は法廷で証言する時に使われる表現だそうです。これまでの序文の中でもヨハ 1:6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。15節も ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。とヨハネのことを書いています。

 ヨハネの福音書は、エペソの町で書かれたと言われています。聖研祈禱会で、エペソ書を学び始めましたが、当時、教会に異端が入り込もうとしていることに手紙で注意をするように書かれたと言われています。ですから、同じ危険を感じてヨハネの福音書も書かれたと思われます。当時ヨハネをキリストと信じる人々がいたようです。

 18:24 さて、アレキサンデリヤ生れで、聖書に精通し、しかも、雄弁なアポロというユダヤ人が、エペソにきた。

 18:25 この人は主の道に通じており、また、霊に燃えてイエスのことを詳しく語ったり教えたりしていたが、ただヨハネのバプテスマしか知っていなかった。アポロという伝道者が「「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」ので、アクㇻとプリスキラが詳しく教えたという記事がありますね。

 これらの人々に対しハッキリ、ヨハネは「キリストではない」とヨハネ自身が証言したのでした。

2)エリヤですか」「そうではない」「あの預言者ですか」。「いいえ」

21 そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。      21節

 ここからの質問は、当時キリスト、メシヤが現れる前にはエリヤが現れると信じられていました。マラキ4:5。申命記18:15 ではあなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。とモーセのような卓越した指導者が現れるのを待ち望んでいたユダヤ人の思いです。権威をもってバプテスマを授けているのなら、そのような方なのですかという質問です。

 ここでお知らせしておきますが、ユダヤ人の待ち望んでいた「メシヤ」は神様のご計画とは程遠いものでした。彼らが待ち望んでいたのはユダヤ人を世界に君臨する国にしてくれる王でした。

 しかし、ヨハネの答えはどちらに対しても「いいえ」でした。彼はイエス様の言葉によれば、マタ 11:11 あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。12 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。13 すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。

 14 そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、たるべきエリヤなのである。と語られた方でした。人間として最高の力を持ったヨハネを、イエス様は本とうの意味で道備えをするエリヤだった。ユダヤ人が望んだものではなかったが。というものでした。ヨハネは、自分はあなたたちが待ち望んでいるものではない。とハッキリ宣言したのでした。

3)『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』

22 そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。

23 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。    22-23節 

 とうとうユダヤ人の使者たちは「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。と質問しました。ヨハネ自身に何者と考えているのですか?と言ったのです。

 ヨハネの答えは 「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」でした。彼は自分の立場をこう表現しました。神様の業は、確かに旧約時代から着々と進んでいる。「私はイザヤの預言の成就である」でした。

今回教えられたのは、イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声という内要でした「イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者』でもなく「」だというのです。声というのは、見えませんね。

イエス様も言われたように本当の意味でのエリヤだったのでした。彼は人間的に力があった方でした。しかし、彼は自分の役割は本当のメシヤ「キリスト」を指し示すだけのものだということを心から自覚していました。この世界では偉業を残した人を記念しますが、彼は何も残そうとしていません。やがて首を切られて死んで行きました。

本日私たちが御言葉で聞き取りたいのは、このことです。天国で一番偉いのは、幼子の様に自分を低くするものだとイエス様は語ってくださいました。

今年の幻を語る会で得たものは、「この街には私の民が大勢いる」でした。

私はただ、イエス様に赦された者、そのことだけを自覚し、証して生きればいいのだということでした。それにしても教会は天国の前味のところですねお互い祈り合い、愛し合って神の家族が整えられて参りましょう。

祈り 神様、今日はバプテスマのヨハネがイエス様を指し示す声とのみ自覚していたことを学びました。今生かされている私たちも、そのような「声」としてこの世界におらせてください。天国の前味の教会としてください。  

新宿西教会クリスマス礼拝説教「めぐみとまこと!」ヨハネ福音書1:14~18 説教者:深谷春男牧師

  クリスマスおめでとうございます。このクリスマスの良き日に、心を開いて、主イエス様を受け入れて新しい生涯へと導かれてまいりましょう。

説教準備をしている時に途中で気がつきました。「あ、今年はクリスマス礼拝が12月21日だ!僕の洗礼記念の日でもある!今年は2025年。ということは今日は56年目の洗礼記念日!」。共に再出発の時としたいですね。

【テキストの解説】

すでに2回にわたってヨハネ伝の「ロゴス(言)賛歌」と呼ばれる箇所を学んできました。今日はその最終回であり、「ロゴス賛歌」の結論です。

賛歌1( 1ー 5節)、創造者であるロゴス(言)を讃えるもの

賛歌2(10ー14節)、人となったロゴス(言)を讃えるもの

賛歌3(16ー18節)、恵みと真理の与え主であるロゴス(言)を讃える。

14節:ロゴス(言)は肉体を取り、神の栄光、恵みとまことの存在となる。
15節:洗礼者ヨハネの証。キリストは先在のロゴス。わたしより優れた方。

16節:キリストにある神の充満の中からめぐみに代えてさらに恵みを頂く。

17節:律法はモーセを通して、めぐみとまことはキリストを通して来た。

18節:キリストは「独り子なる神」、この方だけが神を示された。

【基本的メッセージ】

1)16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。 (16節)

 キリストのうちにある豊かさ。「めぐみの上に、さらにめぐみを」   ヨハネはキリストの中にこそ「満ち満ちているもの(プレーローマ)」であると語ります。それはパウロが「無尽蔵の富」(エぺソ3:8)の内容と同じです。「恵みの上に、さらに恵み」が増し加えられる歩みであると言います。この言葉は、「恵みに代えて恵みを」とも「恵みの上に更に恵みを」とも訳されます。

 登山の体験から、この「恵みに恵みを加えられ」を考えてみましょう。神学生の終わりの時に、石川県の金沢教会で、夏期伝道の経験を持ちました。40日間の夏期伝道でしたが、その期間中に、近くの白山に上りました。白山は標高2702mの高い山で、実にさわやかな経験でした。青年会の10人ぐらいで登りました。出発は山のふもとでした。次第に家がまばらになり、杉の木などが茂ってきれいな水の流れる小川の脇を通って、男女こもごも冗談を言いながら、笑いが林の中にこだましたりしていました。更に登ってゆく

と峠があり、そこから町々が見渡せます。家がマッチ箱のようでした。山の中腹を過ぎるころにはもう高い木は見当たりません。まわりも緑の山々に囲まれています。草花や茂みの間を、登ってゆきました。26歳のころでしたので体力はあったと思いますが、なかなか息も激しくなりました。更に登ってゆくと高山植物が生えており、地元の青年が、植物の名前や高山蝶の特徴などを教えてくれました。途中で、讃美歌を歌ったりしたのを覚えています。

 山の頂上が近くなったころには、高山植物もまばらになり、岩肌が多くなりました。やがて霧がかかって見通しが悪くなりました。そのうちに、1m先も見えなくなって、足元を見ながら、リーダーの阿部先生が「おーい、みんな、いるか~」などと声をかけています。20分ぐらいその霧の中を進むと、目の前がさーっと開けてきました。少しして後ろを見ると、後ろは雲海が広がっており、雲海のはるかかなたに高い山の頂上が顔を出しております。日も暮れて夕方に近くなっており、石のごつごつした頂上近くの光景は何か、神々しいような、日常生活から離れた神聖さのような空気がありました。翌朝、暗いうちに、朝日を見に山の頂上に出かけました。少しずつ明るくなってゆく東の空は雲海がどこまでも広がっています。しばらくするとその雲海の端が金色に輝き、太陽が昇り始めました。創世記1章1節を思い起こす、すばらしい光景でした。「恵みに恵みが加えられ」、「恵みに代えて恵みが与えられる状況」に似ていました。

信仰の生涯も、その出発の時期もあります。信仰の最初の頃は律法によって救われると勘違いしたり、自分の愚かさを知らされつつも、神様のおられることを悟り始め、先輩のやさしさに感動し、新しい人生の喜びを讃美することから始まります。しかし、信仰生涯の中腹は、新生の恵みを越えて、自分の愚かさや人間の限界性につまずいたり、失望したりしながら、高山植物との出会いのような不思議な体験をしつつ成長してゆきます。そして、信仰の高嶺は、不信仰の疑惑の雲を突っ切り、清朗の頂き、恩寵の充満、天国の確信、濃厚なる臨在、御言葉の確証、再臨への希望、永遠の命の先取り・・あらゆる困難を越え、栄光の主にまみゆる信仰の完成へと進むのです。

2)17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。(17節)。

⇒ めぐみみとまことはキリストを通してきた

 人間の本当に必要な神の「めぐみとまこと」はキリストの中にある、と聖書は語ります。人間の「罪の赦し(恵み)」と、わたしたちを「生かす真理(まこと)」はキリストの中にあるのです。

「めぐみとまこと」がイエスキリストを通してきた。人間が求めている者の最終的なもの、究極的なものは「罪の赦しと永遠の命」です。ロマ書風に言えば、主の十字架の恵みによる救いと聖霊なる真理の啓示です。更に言えば、神の愛、アガペーの充満の世界です。

モーセを通して律法はシナイ山で与えられ、神の民としてシナイ契約が結ばれました。旧約聖書で一番大きな事件はこのシナイ山での、神の民の出発であり、律法の授与でした。律法は神の真実な法則であり、命なのです。神を愛し、人を愛して生きる人生の基礎を教えているからです。でも、罪ある人間は、それを守ることができなかったのです。しかし、ここではそれ以上の「恵み」と「真理」がイエスキリストを通して来たとヨハネは語ります。それはイエスキリストを通して神の愛と救いが来たことを告げるのです。

3)18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。(18節)。

⇒ 主イエスは、ひとり子なる神!

  ヨハネはかなり思い切って語ります。この1~18節の序文のところで、イエスキリストは、神のふところにおられるひとり子なる「神」であると宣言します。キリストは「神」であると告白しています。この表現は「神の子」でなく「子なる神」です。これはキリストの「神性」の強調です。

またヨハネ20章の終りにおいてトマスの信仰告白を通して「わが主よ、わが神よ」という告白をしています。当時はユダヤ的な色彩の強い信仰の中でキリストを「神」と告白することは、多くの困難がありました。しかし、ここに信仰告白の原点があります。キリストは神なのです。

小松川教会牧師の原登先生の救いと献身の証し。「百万人の福音」から。

わたしが16歳の時に、川崎の三等郵便局に勤めていた。そこで一緒に働

いていた小泉さんという同僚がいた。彼の兄さんは仕事師をしていたが、ある日、仕事の最中に、上から丸太が落ちてきて、死んだ。

 わたしは友人の兄のお葬式に、参列することになった。目の前についさっきまで元気で働いていた人が、突然死ぬという厳粛な事実にぶつかり、大きなショックを受けた。わたしは生まれつき、からだが弱く、病気ばかりしていた。そのため常々、死に対する恐れを心の中にいだいていた。小学校から旧制中学校へと進んで、実社会に出ても、わたしの健康はあまりにすぐれず、いつ死ぬかしれないと考えていた。そうした矢先に、友人の兄の死に直面したのである。 わたしはいても立ってもいられなくなった。人間はいつか地

上から姿を消す。死は必ず訪れるのだ。しかし、その後どうなるのか、それがわたしの悩みであった。

昭和12年12月12日は、非常に暗い晩であった。暗い気持ちになってい

たわたしは、友人に誘われて、蒲田の賜恩教会に行った。民家を改造した古い教会であったが、40人ばかりの人が集まっていた。生まれて初めて教会の門をくぐったわたしは、まず、明るい雰囲気に驚いた。わたしは、なぜであったか知らないが、「ここに生きる道がある!」と直感した。

  講壇の上で話をなさったのは砂山先生であった。先生は説教の後で、講壇の上の十字架を指さし、「この十字架を信じなさい!」と叫んだ。信仰の決心をすすめられた時、わたしは瞬間的に手を上げ、前へ出た。それは、わたしの人生の歴史にとって、回れ右をする、重大な一瞬であった。それからわたしの、まったく新しい人生が始まるのである。

 わたしは救われると、こんなすばらしい福音を人々に伝える伝道者になりたいと考えるようになった。この願望を語ると、まず、牧師が反対した。数え年17だから若すぎるという。また、同僚も極力引き留めようとした。

 わたしの勤めていた郵便局の局長が、いつの間にかわたしの父宛に、わたしがヤソの伝道者になりたいと言っていると手紙で連絡してしまった。怒ったのは父親である。わたしはさっそく、実家に呼び戻され、父にどなりつけられた。それでもわたしの決心が変わらぬので、父はわたしのシャツをびりびりになるまでせっかんし、小川の水を汲んで来てかぶせようとした。母は母で、泣いてわたしの翻意を勧めた。その夜、わたしは離れ屋で寝たが、このままであったら永久に伝道者になれぬと思い、両親あてに長い置手紙を記して家を飛び出した。ひとまず私は、教会に下宿させてもらうことにした。

 (文章はまだ続きますが、原登先生の救いと献身の生々しい証しです。)

クリスマスの日は、神の大きな愛がわたしたちの心に激突した日です!【祈り】  天の御父!クリスマス礼拝を感謝します。主イエスこそ、暗黒を照らす「まことの光」。そしてまた、命であり、恵みである、受肉のロゴスであることを学び、更に「この独り子なる神」を心に受け入れ、成長することを学びました。新しく迎える2026年、輝く勝利の日々へと導いてください。救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会アドベント第三主日礼拝説教「その名を信じた人々」ヨハネ福音書1:6~14 説教者:深谷春男牧師

  クリスマス・アドベントはすばらしいですね。

  アドベント第一週は、希望のろうそく。

  アドベント第二週は、平和のろうそく。

  アドベント第三週は、喜びのろうそく。

  アドベント第四週は、愛のろうそく。

   今週は、「喜びのろうそく」を心に灯して歩みましょう。

【聖書箇所の概略】

先週は「道、命、光なる主イエス」の姿を学びました。

今日は、バプテスマのヨハネから、主イエスを迎える備えを学びます。

 今日の箇所を詳細に分けるとこうなります。

6―8節  バプテスマのヨハネについて。

彼は光ではなく光の証言者。

9―12節 主イエスについて。彼は光そのもの。

  • 真の光なる方、②世に来られた方、  ③先在の方、

④ この世を造られた方 ⑤世に認められなかった方、 

⑥世に拒絶された方、⑦信じた者に神の子となる力を与えた方。

【メッセージのポイント】

1)6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。   (6-7節)

⇒ バプテスマのヨハネについての記事!   

 6―8節はヨハネについて記されています。ここで言われているのはバプテスマのヨハネです。でも、なぜ突然ヨハネが出てくるのでしょう。ヨハネによる福音書はエペソの町で書かれたとされますが、当時のエペソはバプテスマのヨハネの弟子達がいたことが知られています(使徒19:3)。バプテスマのヨハネは主イエスより半年ほど年上でした。彼の力強い預言とその栄光は「女の産んだ者のうち、バプテスマのヨハネより大いなる者はない」とまで言われました。多くの人々はヨハネに期待をかけ、彼こそ、預言された救い主ではないかと考えたほどでした。しかし聖書は言います。彼は光ではありませんでした。どんなに偉大な働きをしたとしても、光りそのものでない限り、その働きには時代的な限界があります。そのことをはっきりさせるために、わざわざ彼は光ではなく光を証しするために遣わされた者と挿入されたのだと考えられます。彼は光ではありません。しかし、彼の証言があって、光なる主が明瞭に立証されたということは大事なことです。現代にまで主イエスとその福音が伝えられたのは、その時代その時代で証言する者があったからです。ヨハネ福音書は主イエスが光であることとその光を証しする者が語られているのです。わたしどもも主の証し人として歩みたいものです。

2)8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。

 ⇒ 証しの人生、「使徒的人生を生きる!」      (8節)

 このことはとても大事なことであろうと思います。わたしどもは光ではありません。光について証しをするのだと言います。バプテスマのヨハネは偉大な人格者でしたが、光そのものではありません。彼は光について証しするというたいへん偉大な任務を持って、地上生涯を歩まれました。それは証し人の人生です。キリストの使徒たちも証し人として歩みました。それは救い主である主イエスの光を証しする任務を負うた人生、「使徒的人生」です。

 新宿西教会でとても有名な先生が創立記念か何かの説教をされたことがありましたね。わたしは昔、月報か何かで読みました。その先生は、クリスチャンは「バプテスマのヨハネの指」なのだと語られました。バプテスマのヨハネの指は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」を指し示しております。バプテスマのヨハネの指が美しいか美しくないかではなくて、その指の存在価値は、主イエスを指し示しているかどうかにかかっていると語られておられ、とても印象深い説教でした。

 先日、東京聖書学校のクリスマスで、東京聖書学校で校長をしておられた、久多良木和夫先生の救いと献身の証しを聞きました。先生は1956年、大分県にて生を受けられました。家は代々農家。お祖父ちゃんは村長もしておられました。お父は数学の教師でした。中学3年の時、衝撃的な事件に遭いました。右目の眼底出血。即、入院。運動は禁止。高校一年の時網膜剥。右目は完全失明。高校の時には理数系の大学を目指して猛勉強。一年浪人して宮崎医科大学に入学されました。はじめは真理を求めてセブンスデーの教会に通い、その後、宮崎清水町教会で求道生活。なかなか十字架の救いが分からなかった。大学2年生のKGKの春期学校にて、片岡伸光主事に出会ったそうです。彼と一時間、歩きつつ話し、悩む久多良木青年のためにヨハネ1:18の御言葉を下さった。その後、奇跡を見れば信じてもいい、と言う傲慢な自分の姿や、思春期の特有の自分の醜さをも示され、「自分は罪人だ」とわかった。二日目の夜に招きに応じて主イエスの十字架を受け入れた。そして大学3年生のペンテコステの日に洗礼を受けられました。その後、主の恩寵のもと、献身に導かれた。卒業の2か月前に両親にそのこと話しました。医科大を卒業し、医師となることを楽しみにしていた両親を、失意の中に落としてしまいました。医師の国家試験は合格しましたが、彼は東京聖書学校の門を叩きました。卒業後、小見川教会、都農教会、現在の北九州復興教会を牧会。その間、彼が牧師になることを反対していたお父様も、お母様も洗礼を受けられました。奥様のお母様も、お父様も信仰を持って洗礼を受けられました。「親不孝をしたが、永遠の命を紹介したので両親への恩も返せたかなと思う。」と語られました。6年間、医学部で学び、卒業間近かになって、最も大切なこと、永遠の命を伝える直接献身へと導かれ牧師になられた!改めてすごいと思いました。

3)9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。  (9節―11節)

⇒ すべての人を照らすまことの光を拒絶してはいけない!

先週も語りましたが、主イエスは「言(ロゴス)」であり、「命」であり、「光」なるお方です。この光なるお方が、世を造られた方でした。しかし、この世は主イエスを拒みました。「世はロゴスを認めなかった」「民は(言を)受け入れなかった」と繰り返されています。人々は本来、王として迎えるべき主イエスを、王とは認めませんでした。そして主を拒んだのです。それは、主イエスを拒み、侮辱し、殺してしまった、あの十字架の出来事を指し示しています。創造のはじめの時には、「良かった」「良かった」「はなはだ良かった」とたたえられたこの世界が、人間の罪によって、混乱が、闇が、死が入り込んでしまったのです。

9節で、主イエスの本性が描かれています。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」と。しかし、まことの光がこころを照らすのが面白くなくて、人々は暗闇を愛し、光を憎んで、主イエスを拒んだのです。神様は何と悲しかったことでしょう。しかし、皆さん、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々に、彼は神の子となる力を与えた」とあります。

 数年前に、日曜日の午後に、当教会で、チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」の演劇を見ました。この公演は、2019年2月3日、突然天に召された西田正兄が主催していたキリスト教伝道劇団新宿新生館のアガペー・インの兄弟姉妹の公演で、長い時間をかけて準備し、熱のこもったすばらし演劇でした。わたしは委員会で遅くなったので午後5時半からの公演を観劇しました。

ロンドンの町の、霧の濃いクリスマス・イブの晩の出来事を印象深く、表現していました。クリスマスの劇としては多分、一番有名な作品ではないでしょうか?お金持ちで、けちで、人を人とも思わない、嫌われ者のスクルージが主人公で、彼が事務所で見る夢の出来事が物語の内容でした。

彼の見た夢が、天使に導かれて見た「スクルージの、過去、現在、未来の姿」であっことが印象的でした。

過去は、とてもみじめな少年時代。クリスマス・イブの家庭の楽しい最高の時なのに、家は貧しく、両親がけんかしていて、家に帰れず一人ぼっちでうずくまっている少年の自分。やさしい妹が慰めてくれた。それから青年の時。クリスマスイブの夜、皆で楽しいダンス。ああ、そこに結婚相手になったかわいい女性。彼女が元気で、笑っている。彼はその世界に吸い込まれていった。ああ、素晴らしい青春の思い出・・・。

現在は。お金の亡者になり、金ぴかの衣装は着けているけれども、皆に嫌われて、自分自身も生きるのが嫌になっている寂しい、孤独な老人。

そして最後は未来。ここは天使ではなく、昔、仕事の同僚だったマーレイが死後の世界から、彼を連れてゆく。行き着いたところは墓場。寒い、人気のないくらい墓場。そこに市の職員が二人で、孤独な老人の死骸を埋葬して帰ってゆく。見るとそれは自分の死骸、自分の墓だった。スクルージは寒さとみじめさと恐れで、そこでさめざめと泣く。

目が覚めると、それは夢だった。彼は自分の罪深い生活を悔い改めて、神に立ち帰り、クリスマスの恵みの与ることとなったのでした。彼を受けいれた者、即ち、その名を信じた人々には彼は神の子となる力を与えたのです!

【祈祷】 主よ、わたしどもは破れの多く、罪深い者です。しかし、主イエスを信じ、受け入れた時に、神の子としてくださり、内側に光を持つものとしてくださいます。聖霊の助けによって、燃えて輝く、主の証し人、現代のヨハネのように、人々に証しする者として下さい。喜びの一週間を歩みましょう。御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会アドベント第二礼拝説教「言・命・光」ヨハネ福音書1:1~5 説教者:深谷春男牧師

 今年も、アドベントの時季を迎えました。教会暦で行くと、このアドベントから一年が始まります。アドベントは、もともと adventus というラテン語で「到着」の意味だそうです。キリストの到来、出現を待つ時期という意味です。これからクリスマスまでの時、わたしどもは主イエスに会う備えの時といたします。王の王、主の主なる恵みのお方が来られる。教会暦にはひとつの教えがあります。人生が真実に始まるのは、主イエスを心に迎えるための「備え」から始まるのです。また、このアドベントという言葉から adventure(冒険)という言葉が出たと言われます。神様が御子イエスをこの世に送って冒険をしてくださった。そして、主イエスを心に迎えるクリスチャン生涯は、素晴らしい可能性に満ちた愛と信仰の冒険であることを語っているのです。

さあ、今日から素晴らしい冒険の旅に出かけましょう。

【この聖書箇所の概略】

 さて、ヨハネ福音書は「はじめに言があった」と有名な書き出しで始まります。「ことば」とはギリシャ語でlogos。宇宙の法則、道理の意味で、天地宇宙を貫く「真理」としてのキリストを指し示します。ここは「ロゴス賛歌」と呼ばれる箇所です。

 賛歌1( 1ー 5節)創造者であるロゴス=キリストを讃える

 賛歌2(10ー14節)人となったロゴス=キリストを讃える

 賛歌3(16ー18節)恵みとまことの主であるロゴス=キリストを讃える

更にヨハネ福音書は「しるしの書」(主イエスの7つの奇跡1:19ー12章)と「栄光の書」 (特に主イエスの十字架と復活 13ー20章)とで構成されています。

【メッセージのポイント】

1)1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は初めに神と共にあった。3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(1~3節)

⇒ キリストは神の言(ロゴス)

 マタイの福音書は旧約で預言されたメシヤ(油注がれた方=救い主)としてのキリスト、マルコ福音書は僕として仕えるキリスト、ルカ福音書は全人類の救い主としてのキリスト、ヨハネ福音書は全宇宙的な広がりの中で神の子としてのキリストが描かれています。ヨハネはここでキリストの姿を「肉体を取った神」という姿でわたしたちに伝えています。ヨハネはイエスキリストを受肉前と受肉後に分けて説明しています。受肉前の主イエスは神の「言」(=ロゴス)であり、「独り子なる神」と語っています。

 この箇所は天地創造の記事創世記1:1ー2)とよく似ています。その箇所と照らしあわせて福音書記者は書き始めています。その第一は天地創造の初めにロゴスなるお方=キリストがおられたという内容です。

ロゴスは「論理」「道理」「知恵」「真理」「理性」等様々な言葉に訳されます。ロゴスとは一言で言えば「混沌」の反対で、神の秩序、神の論理を意味します。この世は空虚な混沌ではありません。この世は美しい秩序あふれる神の恵みの最高傑作なのです。世界は神の理性の壮大な創造物であり、醜悪なる空虚な世界とは違うのです。その原点はキリストの愛と恵みの秩序ある世界。ここに深い神への信仰告白とこの世に生かされて行くことの意味を見ることができるのです。キリストはこの混沌のカオスから救う神の真理なのです。

  皆様の同じではないかと思うのですが、主イエスに出会うまでのわたしどもの生涯を考えると、わたしどもは「混沌の嵐」の中を歩んでいました。わたしも自分の青春時代を思い起こすと、実に、神の救いを受ける前の、混沌の世界を思い出します。どのようにして自分の人生を生きてゆくのか?当時、若者をひきつけた共産主義思想にひかれたり、仏教にひかれたり、自分の欲望に振り回されたり、高ぶったり、醜さに絶望したり、激流に翻弄される枯れ葉のような、混沌そのものの人生でした。主イエスに出会わなかったら、自分の醜さと様々な重荷で人生そのものを棄権していたかもしれないと思います。実に主イエスはわたしにとって混沌の怪物から救ってくださった真理の君なのです。神のロゴス、これは「神の真理」という意味です。主をたたえよ。

2)4 この言に命があった。

⇒ キリストは永遠の命!        (4節a)

 さらにヨハネはこのロゴス(=キリスト)のうちに「命」があった、と語っています。「生命」は「死」の反対語です。命の世界、すなわち、摂取や排泄を繰り返し、成長し完成をめざし、喜びや感動、切れば、暖かい血潮が流れてくるような存在として、生命は存在します。そして最後は高度な知的、霊的能力をもって、創造者なるお方を認識し、霊的な交流を持ちつつ、本来の創造者の意志すなわち創造の完成をめざして共に働く存在として命が創造されたのです。命の最高形態は愛です。この生命の根源は神のロゴスなるキリストの内にあると聖書は語っています。

今年は、礼拝説教で、ヨハネ福音書の「わたしは~である」という言葉を7つ全部を読むことができました。これはとても大きな恵みの体験でした。

以前、週報に書きました。

《歌舞伎町の牧師館から》 2025.8.10

「最近、示される聖句」        谷春男

ヨハネ福音書に「わたしは・・・である」と言う主イエス様の宣言が7つ出てきます。この「エゴー エイミ・・・」というところを学んでいてとても啓発されています。これはイエス様の自己紹介、救いの宣言ですね。

「わたしは命のパンである」(6:48)、

「わたしは世の光である」(8:12)、

「わたしは門である」(10:9)、

「わたしは羊飼いである」10:11)、

「わたしはよみがえりであり、命である」 (11:25)、

「わたしは道であり、真理であり命である」(14:6)、

「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)。

これらの言葉は暗唱しましょう!

霊的な飢えや人生の空しさの時・・

⇒ キリストこそ命のパン!

人生の真っ暗な試練の時・・・

⇒ キリストこそ世の光!

荒野で迷い、道が見えない時・・

⇒ キリストこそ人生の門!

孤独や愛の欠如、救いの切望の時・・

⇒ 牧者なるキリストを呼べ!

愛する人の死に出会ったら・・・

⇒ キリストこそ復活の命!

道に迷い、真理、命の不明の時・・

⇒ キリストこそ道、真理、命!

自分を潤し、霊的命の渇望の時・・・

⇒キリストこそ真の葡萄の木!

いつも良き牧者なる主イエスと共に。ハレルヤ。

わたしどものうちに頂いているキリストはまさに永遠の生命なのです。我らは主にあがなわれ、死を超えた永遠の生命の中に歩んでいるのですから。クリスマスの主がまさに命であることを語り告げてゆきましょう。ハレルヤ。

3)そしてこの命は人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

⇒ キリストはまことの光(4b、5節) 

最後にヨハネはこの先在のロゴス(=キリスト)こそ人間の暗黒を照らし出すまことの光であると語っています。光は闇の反対の言葉です。人間は暗闇を恐れます。現在の日本で本当の暗闇を経験することは難しいものです。

あるところで事故に巻き込まれ、地下で閉じ込められたという事があったそうです。その時に、閉じ込められた人々は真っ暗闇の中で恐れを感じました。その時、誰かが携帯をつけました。淡い、青白いその光であっても、その光で多くの人は慰めを感じたと言います。真っ暗闇は、本能的な恐怖や不安を感じさせるものです。聖書は神から遠く離れた人間は、本質的にこの暗闇を心の奥底に持っていると告げます。それは霊的な暗さです。しかし、クリスマスのメッセージはすばらしい。どんなに人間の罪や死や絶望的な暗黒の深淵にあろうとも、神は光であり、命であり、愛であり、世界の暗黒を打ち破る力なのだと語っています。クリスマスはまさにこの光の到来なのです。

今日はアドベント第二聖日です。「アパルーム」誌によれば、アドベントの備えの第1週目は「希望」、第2週目は「平和」、第3週目は「喜び」、第4週目は「愛」と記されています。まず、深い悔い改めを持って御前に立ちましょう。

主イエスこそ「まことの希望」です。絶望的な罪と死の支配の中から、キリストの永遠の命の中に歩み始めましょう。

また、主イエスこそ「まことの平和」なるお方です。暗闇の中で手さぐりし、絶望と悲しみの中に歩んだ生涯から、平安の源なる主イエス様をこころにお迎えいたしましょう。ヨハネ14:27。

そして主イエスこそ「まことの喜び」です。人間の「混沌」「死」「暗黒」そのものであるがゆえに、それらを打ち破る、キリストの救いを迎えましょう!ここから本当に神の恵みの「愛」が輝くのです。この一週間、冒険に満ちた、アドベンチュアな、勝利に満ちた喜びの日々が始まるのです。ハレルヤ

【祈り】  天のお父様!今日はアドベント第二主日を感謝します。今週は「平和のろうそく」の火を灯しました。新しい一年の歩み、主イエスよ、愛する兄弟、姉妹と共に祈ります。わたしどもの心に来て住んでください。神の言なるキリストよ。わたしのうちに来て、魂の内側から滾々と湧く永遠の命を与えてください。神の光なる主イエスよ、今来たりて、わたしどもの暗黒を照らし出し、恵みの光と平安で満たしてください。まことの勝利者なる主よ。十字架の血潮の贖いにより、聖霊なる神様の愛と救いの計画への確信により、圧倒的勝利者として下さい。「キリストの平和、ここにあり!」ハレルヤ!クリスマスの主である、主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会アドベント特別礼拝説教「新しい契約に生きる」エレミヤ31:31~34 説教者:べアンテ・ボーマン宣教師

《新宿西アドベント礼拝》  「新しい契約の下で生きる」   2025.11.30
エレミヤ31:31~34                    ベアンテ・ボーマン宣教師

I. はじめに
 神様は一連の契約を通じて、段階的な贖いの計画を明らかにされました。

  1. ノアの契約: 
    創世記6章に記される、全人類が堕落した時、地は呪われました。それが「ノアの洪水」の記事です。しかし、今は、さいわいなことに、その呪いは解かれ、季節は途切れることなく続き、もはや裁きの洪水はありません。虹がその印であることを聖書は語ります。(創8:21-22; 9:11-13)。
  2. アブラハムの契約:
    アブラハムは、この地上の土地、国民、そしてすべての者への祝福の約束を受けました(創12:1-3)。
  3. モーセの契約:
    モーセの契約の時は、祭司はイスラエルの民と神様との間の仲介者でした。生活のための規則(十戒、613の律法があると言われます)、罪を覆うための儀式。これは条件付きで、祝福は、わたしたちが神様の導きに従順であった時の報酬でした(出19-24)。
  4. ダビデの契約:
    永遠の支配の約束と神の愛と恵みの最初の啓示です(撒下7:12-16)。メシア(ヘブル語=油注がれた者、ギリシャ語ではキリスト)はダビデの血筋から来る。

II. エレミヤ書31:31-34   新しい契約

エレミヤは、当時まだ未来である新しい契約について語っています。
それはモーセの契約のようなものではありません。主イエスはまさに、新しい契約の発案者であり、完成者です。主イエスが十字架にかかられる前の夜、ぶどう酒を取り言われました。「これは[新しい]契約の私の血です」(マタイ26:28)。十字架は始まりであり、ペンテコステの日が新しい契約の完成となります。

A. エレミヤ31:33a, 34a 霊による内住
 新しい契約は、外面の規則ではなく、内面における霊の働きです。体は霊の宮です(ヨハネ3:5-7; コリント第一6:19)。神に従うように私たちを動かし(エゼキエル36:27)、神の意志を成し遂げる力を与えます(エペソ3:16)。そして私たちに教え、助けるのです(ヨハネ14:26; ローマ8:26-27)。

B. エレミヤ31:33b わたしたちを神の御前に導くのです。
 主イエスの称号は、インマヌエル「神、私たちとともにいます」(マタイ1:23)。主イエスが死んだとき、「宮の幕は上から下まで二つに裂けた」(マタイ27:51)。旧契約では、大祭司だけが年に一度至聖所に入ることができました。キリストは、すべての人に神の前への道を開かれました(ヘブライ10:19-22; 4:16)。

C. エレミヤ31:34 完全な義
 新しい契約は愛と恵みに基づいています。神は十字架の完成した業を通して、わたしたちの罪を赦し、それを消し去るのです。

D. 新しい契約の中で生きる。
神様を愛することは律法の完成であり、成就なのです(マタイ22:37-38)
主イエスを愛することが従順の鍵です(ヨハネ14:15)。よみがえった主イエ
スは規則よりも、愛を好まれました(ヨハネ21:15-17)。新約聖書には「新しい契約の栄光」が、処々に記されます(コリント二3:7-18)。