新宿西教会収穫感謝礼拝説教「神の祝福と人の感謝」詩篇67篇 深谷春男牧師 2025年11月23日

 今週は、週報のコラムに書きましたように、ホーリネスの群の機関誌から、「有馬歳弘先生を天に送る」と言う、文章を依頼されて、書き上げました。有馬先生は、ホーリネスの群の天門教会の伝道師でしたので、同じグループに属しておりました。しかし、先生は昭和16年生まれの方で、わたしより10歳近くも年上でしたので、親しくお交わりするチャンスを持つに至りませんでした。とても残念に思っております。しかし、教会の「50年記念誌」や、教会月報「シャローム」を、夜が更けるまで読ませていただきとても感銘受けました。特に先生が教会に足を向けたのは、高校2年生の時に、五味川純平さんの「人間の条件」を読んで感動し、激動の昭和史の中で、中国や韓国の方々を軍事政権のもと、恐ろしい罪を犯さざるを得なかった主人公の苦悩が描かれており、この小説は仲代達也さん主演の映画にもなりまして、わたしは友人と共に、5,6時間にわたるこの映画を見に行ったのを覚えています。わたしの20歳のころのことです。この小説を読んで、教会に行って、自分の罪や日本の犯した罪などを考え、自分の罪に気づき、洗礼を受けてクリスチャンになり、卒業の時には、自分は献身して牧師になろう!と考えた有馬先生の体験と自分の体験が重なってとても熱い思いを新たに示されました。

【さて今日の聖書の概略】                                              

さて、本日与えられている詩篇67篇は、「収穫感謝の詩篇」として読み

継がれて参りました。6節で「地はその産物を出しました。神、われらの神はわれらを祝福されました。」という言葉のゆえに「秋の収穫感謝の詩篇」と呼ばれたわけです。66篇は「春の感謝祭」とも言われます。

しかし、丁寧に学んでゆきますと、本詩篇には豊かな実りに対する感謝が

ありますが、それ以上のものがあります。つまり、この詩篇は収穫感謝の際に歌われたかもしれないが、その主題が「収穫への感謝」という以上に、「神の臨在への感謝」を歌っている詩篇だと言われています。

  この詩の構造は、ケンブリッジバイブル注解を書いたロジャーソン&マッケイによれば、良くバランスのとれたものになっていると解説されています。 

また、黒木安師の解説によりますと以下のように語られます。

この詩篇の祝福は「アロンの祝福」(民数6:24~26)を継承する。

「神からの祝福」こそは生きとし生けるものにとって不可欠のもの。何を手に入れたとしても「神の祝福」を失うならすべてが潰えてします。「神の祝福」とは神から与えられる何かでなく、神ご自身との生きた関係、神ご自身との豊かな関係である。その関係はアダムとエバの原罪の出来事で失われ、カインのアベル殺害の記事で、悲劇へと転化した。しかし、主イエスの「十字架の贖いはもう一度人間を「祝福を受け継ぐ(1ペテロ3:9)へと新しく造りかえたのである。主イエスキリスト信じる信仰が、信仰の人アブラハムと共に、祝福の人生を受け継ぐのである。

いまひとつ重要なことは「御顔の輝き」ということが2節で語られます。「神の御顔」という言葉は詩篇全体で43回、旧約聖書全体では65回語られ、神体験を語る直接的な表現となっている。いつも、主の御顔を仰ぐという「臨在の体験」に生かされたいものである。やがて、「顔と顔をあわせて見ることになる」(Ⅰコリント13:12)と約束された恵みの事である。

メッセージ・ポイント】                                                    

1)、聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせた歌、さんび

1 どうか、神がわれらをあわれみ、われらを祝福し、

そのみ顔をわれらの上に照されるように。〔セラ

2 これはあなたの道があまねく地に知られ、

あなたの救の力がもろもろの国民のうちに

知られるためです。 (1、2節)

  ⇒ 万物は神の祝福に依存する。(神の臨在なき人生は空虚である。)

   「礼拝者の顔は、収穫物からその与え主なる神へと向かう」(バイザー)。

この詩は「収穫の感謝の歌」でもありますが、詩人の思いは収穫物ではな

く、世界の造り主であり、歴史の審判者なる神に向かっています。ここで

詩人は「神の憐み」「神の祝福」「神のみ顔」の輝きを照らしたまえと祈っ

ています。この詩は収穫感謝、自然の実りへの感謝の祭りの際に歌われた

と一般に考えられていますが、実は、収穫感謝や大地の作物への言及は、7

節でようやく現われます。主題は「収穫物の豊かさ」ではなく、「創造主の

御顔」です。「自然を祝福する神」ではなくて「歴史を導く神」です。この

箇所はアロンの祝福(民数6:24‐26)の投影でもあります。それは「神の

命あふれる人格的な臨在」としての「神のみ顔」への祈りとなっています。

神の臨在こそ計り知れない祝福の源なのです。それは人格的出来事、救い、道、公正、裁きといった神の義への信仰です。カナン宗教の農耕民的な

豊穣信仰、それから来る性的混乱の世界とは正反対の世界を形成しています。  ここでは、神様の祝福の姿を、10の言葉で鮮やかに表現します。

  収穫のお祝い・神様の臨在のお祝いを表わす、万国旗のようです。

  • あわれみ(ヘーン):これは神様の恵みを表わす。神の豊かな恩寵。
  • 祝福し(バラカー):ここでは3回(1,6,7節)。神の命の充満。
  • 御顔を照らし(オール):光を放つ。神様ご自身の臨在の恵み。
  • あなたの道(デレク):神様に従って歩む生活の仕方。主の道を歩む。
  • あなたの救い(イシュア):神様の備えられた救い。主イエスの名前も。
  • 地は産物(イブラハ)を: 神様の与えられた大地の恵み。豊かな実り。
  • 公平(ミショール):貧しい者にも、豊かな者にも公平な裁判を。
  • 裁き(シャファート):これは神の裁き。被圧迫者にとっては解放の恵み。
  • 導かれる(ナーハム):神様が、正しい導きをする姿。

⑩ あなたに感謝する(ヨドゥーカー):感謝すべき対象。4回(3、3、5,5節)

2)、 3 神よ、民らにあなたをほめたたえさせ、

もろもろの民にあなたをほめたたえさせてください。

4 もろもろの国民を楽しませ、また喜び歌わせてください。

あなたは公平をもってもろもろの民をさばき、

地の上なるもろもろの国民を導かれるからです。〔セラ

5 神よ、民らにあなたをほめたたえさせ、

もろもろの民にあなたをほめたたえさせてください。

6 地はその産物を出しました。

神、われらの神はわれらを祝福されました。(3~6節)

⇒ すべての民よ、主に感謝をささげよ!(義と祝福のゆえに) 

  ここでは、3節と5節で、畳句として「もろもろの民にあなたをほめたたえさせてください。」と4回も繰り返されます。

「感謝をささげること」が、人間のなし得る最高の神への応答です。まず、「神の道」、「救い」(2節)、「公正」、「裁き」、「導き」(4節)のゆえに神に感謝を捧げる。これは新約聖書では、十字架、復活、再臨という神の歴史を貫く御経綸、神の歴史支配、義の業の貫徹を意味することになります。そし

て、2番目に「大地の作物」(6節)への感謝ということになります。

義のもたらす祝福として感謝がささげられます。「十字架と復活」への信仰を経て、それから「聖霊の満たし」へと進む、聖書の指し示す霊的な成長の順序がここにも見うけられると感じます。詩篇65篇も同じです。

 山室軍平先生は、この詩篇の表題を「世界はわが教区」というジョン・ウェスレーの言葉をもって飾りました。確かに、この詩篇には、イスラエルの民だけでなく、全世界の人々民族が、主に感謝を捧げると歌われております。

  • あまねく地に知られ     ②もろもろの国民のなかに
  • 民らに           ④もろもろの民に

➄ もろもろの国民に      ⑥もろもろの民を

⑦ 民らに           ⑧もろもろの民に

⑨ 地のもろもろの果てに    ⑩ことごとく

3)、 6 地はその産物を出しました。

神、われらの神はわれらを祝福されました。

7 神はわれらを祝福されました。

地のもろもろのはてにことごとく

神を恐れさせてください。(6~7節)

 ⇒ 神を畏れる者となれ!

   ここには神の祝福を願う民族的な祈りがあります。

神が、祝福してくださるように!魂の問題に解決を与え、主イエスの十字架を仰ぎ、救いを朝ごとに明確に示してください!そこから聖霊の著しい油注ぎとリバイバルの業がなされます。それは「神を畏れ敬う」(新共同訳)魂の状態から来るのです。 最後の締めくくりは、「主を恐れることは知恵のはじめ」(箴言1:7)の通り、神を畏れる者(新約で言えば、「神を信じる者」という意味。)として、新しい人生を歩みましょう。

歴史を導く主、祝福の主を見上げ、感謝して一年を締めくくりましょう。

主の御名は讃美すべきです。ハレルヤ

【祈祷】 全能の父なる御神。11月30日から、アドベント礼拝が始まります。教会暦の1年の始めはアドベントからです。そのような意味で、この一年を終わろうとしています。何よりも今は収穫の時です。あなたの豊かな祝福を心から感謝します。豊かな収穫に目を注ぐ前に、主よ、あなたの臨在に感謝するよう導いてください。そして迎える新年に、あなたの豊かな救い、御臨在、豊かな祝福の実を受ける一年となりますように。ハレルヤ、あなたの御祝福を感謝します。主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会主日礼拝説教「人生の究極の使命」マタイ福音書28:18~20 深谷春男牧師 2025年11月16日

さる10月2日の木曜日、聖書研究祈り会で美歌子先生が「マタイ福音書」の連続講解の説教が終わりました。2018年に始まった学びでしたが、1章1節から、ついに7年かけて28章20節を終わりました。ハレルヤですね。  

主イエスがクリスマスにお生まれになった記事から、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、荒野に退いて40日の断食。ガリラヤで宣教活動をはじめられました。それから12弟子を召され、訓練されて、ユダヤ地方を宣教されました。そして多くのたとえで語られて、16章のピリポ・カイザリアでのペテロの信仰告白のあとに、エルサレムに向かい、やがて21章でエルサレムに入城され、受難週をそこで過ごされ、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、裁判にかけられ、ついに十字架刑となり、全人類の罪を負い、我らの贖いとなられました。そして、陰府(よみ)下り、死を打ち砕き、復活されました。そして最後はガリラヤの山で弟子たちに会い、全世界に宣教の命令を下されるところまで、丁寧に語ってくださり、深い感銘を受けました。今日は、わたしどもの原点、「大宣教命令」を共に読んで、教会の使命、わたしたちの人生の究極的使命を再確認する時としたいと思います。

テキストの概略

さて、今日の聖書箇所は、11人の弟子が、復活された主イエスが行くように命じられた山に登ったところから始められます。そこで主イエスは、彼らに近寄ってきて、次の3つのことを言われました。

第1は、復活の主の「最高権威の宣言」です(18節)。

第2は、復活の主の「至上命令」です(19-20a節)。

第3は、復活の主の「絶対平安の約束」です(20b節)。   

ここは実に、マタイ福音書の締めくくりとしてふさわしい、すばらしい内容の込められた箇所です。ここからわたしどもの歩むべき道を学んでみましょう。

【メッセージのポイント】

 1)18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。   (18節)

  ⇒ 一切の権威を授かった主イエスを信じよう。

 第1は、復活の主の権威主張です。

マタイ福音書では、山に登るということがたくさん出てきます。

5~7章で「山上の説教」を語られました。

15章では、山に登ってデカポリスの病人を癒し、4千人を養いました。

17章では、「山上の変貌」が語られます。

山の上で栄光を表された主イエスは、復活の後もその後自身の栄光を山上で表されました。

 ユダヤ人は、厳密な意味での宇宙や世界を表す言葉がありません。彼らはそれを「天と地」と両極端の対句で表しました。「善と悪を知る実」「出ずるいるとを守る」等の表現があります。「天と地」の一切の権威を授けられたとは、そういう意味で、全被造物を意味する言葉です。主イエスは全被造物の上にあって全ての権威を与えられた存在となりました。

ピリピ2章6-11節にも同じような聖句があります。「6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」

2)19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。(19-20a節)

⇒ すべての民をわたしの弟子にしなさい !

さて、今日の主題の第2は、復活の主の命令です(19-20a節)。

主イエス様は、復活された後に、お弟子たちお命じになられました。19-20節の聖句は『大宣教命令』と言われる、非常に大事なものです。

この部分には動詞が4つ出てきます。

「行きなさい」、       「弟子にしなさい」、

「洗礼を授けなさい」、   「教えなさい」 の4つです。 

でも、厳密な意味では、主動詞は1つで、あとの4つは分詞形で表現されています。その主動詞とは『弟子にしなさい』と言う言葉です。一番の中心の命令は、「弟子にしなさい」という言葉です。ですから、もうすこし厳密に訳すと「全ての民を弟子にしなさい。出て行きつつ、バプテスマを施しつつ、教えつつ」となります。クリスチャンの生き方は、このところから見ると、自分が主の弟子となり、造りかえられ、他者を主の弟子と造りかえてゆく生涯であるということになります。

 数年前、Torch という集会に出ました。月曜日の夜に文京区シビックホールに1400人が集まりました。大変、熱のこもった集会で、ライトDeナイトなどが参加。最後にメッセンジャーがすばらしいメッセージをしました。その話の中で会衆にチャレンジをしました。「あなたはキリストのファンです?それとも弟子ですか?」。

 わたしはそれを聞いて1980年代の、「青年宣教大会」を思い出しました。あのころわたしも30代でした。会場は御殿場東山荘。あそこで守部さんや岸義紘先生、大川従道先生、田中信生先生、中野雄一郎先生、多胡元喜さんなどと出会い、多い時には1000人近くの青年たちが、集まった集会でした。そこで語られた宣教大会のメッセージも「主の弟子となれ!」というメッセージでした。

それならいったい「弟子」とはどのような人なのでしょうか?

主の弟子① 洗礼を受けて、主イエスにしっかりとつく人

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(19節b)と言われています。主の弟子になることのひとつは「父と子と聖霊の名によって洗礼を受ける」ことです。バプテスマを施しつつ弟子とせよと命じられています。厳密に訳せば「父と子と聖霊の名の中へと(into)バプテスマせよ」となっています。これは式としてのバプテスマはもちろんのことですが、更には、主イエス様の恵みに満たされ、その恵みの中に漬けられて、キリストの命を生きる人のことです。愛する兄弟姉妹。ご自分が洗礼を受けたときのことを思い起こしてください。わたしも自分の洗礼を受けた時は、19歳の時でした。今でも思い起こせば、人生の最善の時!でした。「生きるはキリスト、死ぬるは益なり」。キリストの恵みに生きる喜びの生涯のことです。ハレルヤ

主の弟子② 聖書をよく学び、教えることのできる人。

 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(20a節)と語られています。主の弟子の特徴の第2は「主イエスから良く教えられ、良く学び、また、他者に教えることのできる人」のことです。動物の世界や人間の世界でも、成人になった印のひとつは子供を生むことの出来ることではないでしょうか。クリスチャンも同じで、真のクリスチャンは自分が救われたのをはっきりと理解し、まわりの友人や家族に伝え、その伝えられた者が更に、他者に伝えるという方法です。現在多くの教会ではこれらの「弟子となる学び」を整えて、成熟したクリスチャンとして聖書を霊的に黙想しながら歩む手助けをしています。復活の主は成熟したクリスチャンを求めておられるのです。

主の弟子③ 積極的に、伝道に出てゆく人。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(19節a)、とあります。ここでは、更に主は、出て行きつつ弟子にしなさいと語られています。ここに積極的な生き方をするクリスチャンの人生観がありま す。弟子達はじっとしていないで外に伝道に出てゆきました。教会の歴史はこの宣教の歴史です。

3)見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。(20節b)

  ⇒ 見よ!わたしは共にいる、再臨の朝まで!

 さて、今日の第3は、復活の主の約束についてです(20b節)。

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語ってくださっています。「見よ!」があるのです。主の弟子として、世界宣教の大きなビジョンを前にすると、わたしどもは世界の大きさと自分自身の小ささに萎縮して出てゆけないのです。主はそのようなわたしどもに注意を促すかのように、「見なさい」とご自分を指し示しております。主イエスの臨在こそ、わたしどもの支えであり、助けなのです。

特に、マタイによる福音書は、その第1章23節に、主イエスの名前が「インれるとあり、ほぼ中央の18章19,20節でも、「主が共にいてくださる」こと、「二人三人が一緒にいるところにはわたしも共にいる」との約束があり、この福音書の、最後の部分、28章20節でも「見よ、わたしはあなたがたと共にいる」と主は語られます。

臨在の主を仰ぐ生涯!試練の時も、悲しみの時も、不安の時も、あるいはこの世のことに絶望する時も、この地上を去って御国に行く時にも、臨在の主を仰ぐのです。栄光の主を「仰瞻」するのです。「わが臨在汝と共に行くべし!」(出エジプト33:14)。これが勝利の中に歩む秘訣です。ハレルヤ

祈り 】 天の父なる神様!礼拝の恵みの時を感謝します。今日は「大宣教命令」の学びました。わたしたちの霊の目を開いて、復活の主イエスとその権威を、しっかり見上げることができますように。また、主の弟子として成長させていただけますように。ここから出て行き、父と子と聖霊の名によってバプテスマを施し、聖書の指し示す真理を学び続ける忠実な弟子としてください。臨在の主イエスをいつも見上げつつ歩む恵みの一週間としてください。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのこと感謝する日々としてください。罪の赦しと永遠の命を与えて下さった愛する主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会オープン・チャーチ第三主日礼拝説教「弱いわたしを助けてください」ロマ7:24,25 ジャーナリスト守部喜雅氏  2025年10月19日(日)

 今朝は、聖書の話の前に、みなさんが興味を持っておられる話題から話を始めたいと思います。今、NHKで朝の連続テレビ小説「ばけばけ」が放映されていますが、ごらんになっている方はおられますか。私も、録画をして暇なときに、観ています。今は、まだ、後にご主人となる小泉八雲との出会いの前の話が続いていますが、主人公のトキさんが、晩年になって、この新宿西教会の前身の大久保教会の礼拝に出席していたという驚くようなお話があるのです。

 小泉八雲(英名・ラフカディオ・ハーン)という名は、歴史の時間に、習った方もいると思いますが、アメリカで、新聞記者をしていた時代、日本についての記事を書くようにと頼まれ、1890年に来日、島根県の松江で英語の先生をしながら、古来からある日本文化に魅かれ、お化けの研究を始めます。 元々、厳格なカトリックの家に生まれたハーンでしたが、その律法的な教えに反発、キリスト教ぎらいになり、日本の鷹揚とした文化に心惹かれ、その探求に生涯を捧げました。テレビドラマに出てくる、トキさんは、独り暮らしのハーンのお手伝いとして一緒に暮らしていましたが、後に、二人は結婚します。ハーンは、後に、日本国籍を取り、小泉八雲と名乗り、ドラマの中ではトキという名で出ていますが、本名は、小泉節といいます。

 小泉八雲は、松江には1年余り滞在、のちに、転住して熊本に三年、神戸に二年、英語教師として働き、1896(明治26)年に上京、最初は、市谷に居を構え、東大の英文学講師として働き、1902年に新宿の西大久保にやって来たのです。しかし、病弱だった八雲は、二年後の、1904年に亡くなりました。54歳と言う短い生涯でした。その時、節さんは36歳で、三男一女の子供と共に、西大久保の森に囲まれた家で生活することとなりました。

その場所は、シャロームビルと職安道路を隔てた場所にあり、今は、その跡地に小泉八雲終焉の地という石碑が建っています。

 さて、今、ここに新宿西教会創立50周年記念誌という本があります。その中の、柳田研一さんというこの記念誌をまとめられた方のこんな文章があります。

「おそらく、この時代、今と違って、この辺も作家が落ち着いて執筆するのに適した閑静な場所だったろう。教会の右向かい、大久保小学校に向かう小道を行くと、今度は“小泉八雲終焉の地”と記されたところがある。この八雲亡き後の家族と私の祖父文吾の家族との間には、少なからず親しい交わりがあったらしく、当時、小学生だった父が晩年になって記した回顧録によると、節子夫人と四人の子供らの住む家は大きな竹藪のなかの人影少ない静かな所にあり、子供たちの中の一人は、大久保教会に通う熱心な信者で、讃美歌をテナーで歌う美声の持ち主だったという」。

生前、柳田研一さんから、「父から聞いたのだが、おじいちゃんの柳田文吾牧師の時代、小泉八雲の奥さんが子供をつれて、大久保教会にかよっていたらしい」という話を聞いたことがありました。その時は、ふんふんと聞いていたのですが、今「ばけばけ」が放映されているのを観て、松江のあの若いトキさんが、晩年になり、小泉八雲の死後、西大久保にあった大久保教会に子供たちとかよっていた、しかも、柳田文吾牧師の家庭と親しい関係にあったと知り、深い感動に包まれております。

柳田研一さんによると、文吾牧師は、心の広い方で、他の宗教を非難することはせず、キリストの福音を語ったということですが、キリスト教嫌いの小泉八雲の残された家族と親しい関係にあったということもその寛容な心が影響をしているのかも知れません。

 なお、大久保教会の会堂についてですが、柳田文吾牧師の時代に、今、このシャロームビルがある敷地に1923年(大正12)年に新会堂を建設、小泉節さんが訪れた会堂は、まさに、この地に建っていた会堂だったのです。その後、関東大震災が起こりますが、この会堂は無事で、婦人会が中心となって避難民の救助に当たったそうです。しかし、1945年5月の東京大空襲で全焼、戦後は、空き地になったままで、1955年に、岡田実牧師が開拓伝道の地としてこの場所が与えられ、新宿西教会の最初の会堂と西大久保幼稚園園舎が建てられ、45年が経った1980年にシャロームビルが建ち現在に至っています。

 

 おそらく、「ばけばけ」では、小泉節さんと子供たちが大久保教会と深い関係にあったことは描かれることはないでしょうが、これから、ドラマがどういう展開になるかはわかりませんが、歴史を支配される神が、そのような信仰のドラマを創ってくださったことを思い出していただきたいと思います

  さて、ここからは、本題の聖書のお話に入ります。

 今から、50年ほど前の話になりますが、当時は、今では考えられない程、若者たちが荒れていた時代でした。大学では、ベトナム戦争反対などの、学園紛争が、東京の大学を中心に起り、生きる意味を失った若者たちは、新宿駅東口場にたむろし、あちこちで、シンナーを吸っては、現実逃避をしていたのです。当時、新宿西教会では、日曜の夜に、アガぺ・インという伝道集会を開き、東口にたむろするフーテンの人々を、集会に誘う働きをしていました。

ある夜、姉妹二人が、シンナーを吸っている若者に、声をかけていました。その一人の青年に、「イエス様はあなたの人生を変えることができます!」と声をかけ、集会に連れて来たのです。

 その夜の集会では、人間の罪についてメッセージが語られました。人は、罪を犯すから罪人ではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯すのだ、という話です。そして、その罪から救われるためには、すべての人の罪を自らが負われ十字架にかかられたイエス・キリストを救い主として信じてください、と語られたのです。

 その話を聞いた、連れて来られたその青年は、カチンと来たのです。自分が罪を犯していることをズバリ糾弾されたのです。彼は、怒りを憶え、集会途中で、教会を出て行きました。そして、むしゃくしゃしながら、新宿の街を、あてどなく歩いていたのです。「あなたが、人生をやり直したいと思うなら、私がお手伝いをしますよ」

突然、そう声をかけられました。見ると、そこに一人の外人が微笑みをたたえ立っていました。

 その外人は、下落合にあるキリスト教会の宣教師でした。その青年は、その宣教師のやさしさに心を開きました。そして、宣教師の教会で、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われ、今も、全世界で、多くの人々が信じているイエス・キリストを救い主として信じたのです。

 しかし、新宿にいればまた、罪の世界に入っていくかもしれません。宣教師は、その青年を軽井沢にあるリトリートセンターに連れて行き、一か月にわたり、その青年を信仰の深みに導いたのです。

 ところが、青年は、自分の罪を告白する中で、自分が山口組のやくざであることをあかし、そのやくざから足を洗うといいます。宣教師は驚きましたが、青年の意志はかたく、どのような制裁をうけようと山口組からの離脱をすると新宿へもどっていったのです。

それから一年後、青年は新宿西教会を訪ねてきました。そして、山口組から脱退する時、全身が血だらけのリンチを受けたこと、しかし、心は平安だったこと、今は、クリスチャンの女性と結婚したことなどを話してくれました。

 当時、新宿の歌舞伎町界隈の喫茶店で、金曜日の夜、伝道を続けていたクリスチャングループが、喫茶店を借り切って伝道集会をしていました。新宿西教会の青年有志もその働きに加わっていたので、山口組から脱退したその青年に、証しをお願いしたのです。彼は語りました。

 「私の人生は、荒れ狂う海の中で、今にも溺れ死んでしまうという状態でした。助けを求めても、他の人々も、みんな海に溺れてもがいており誰も助けてはくれませんでした。その時、岸から、ロープについた救命用の浮き輪が投げられてきたのです。わたしはその浮き輪に、必死になってすがみつき救出されたのです。救命用の浮き輪はイエス様です。 今も、生きておられるイエス様を信じ、 そのお方にすべてをゆだねた時、私の人生は死から命へと変わりました」。

 

 今日、与えられている聖書の言葉を、読んでみます。

「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」

この聖書の言葉は、あの山口組から命がけで脱退し、イエス・キリストに出会うことによって、はじめて、喜びと平安を体験した青年に語られた言葉であると同時に、わたしたちにとっても語られている言葉ではないでしょうか。

自分が良い事と思うことができず、してはいけないことをしてしまうのがわたしたちです。私たちの心の中には闇があります。しかし、「主よ、弱いわたしたちを助けてください」と祈った時、闇のなかに光が来たのです。

かつて、新宿東口で、「イエス様は、あなたの人生を変えることができます」と、迷いの中にある若者たちに叫び続けたクリスチャンの姉妹方がいました。今、その叫びを、わたしたちが、迷いの中にいる人々に向かってする時ではないでしょうか。

新宿西教会オープン・チャーチ第二主日礼拝説教「一人の新しい人に」エペソ1:1~5、10~16 深谷美歌子牧師  2025年10月12日(日)

 本日は新宿西教会のオープンチャーチ第2週です。オープンキャンパスというのがありますね、大学を多くの人に開いて、構内を自由に見ていただいたり、様々な展示物で内容を紹介したりしますね。あるいは、体操を披露したりします。それで、大学を志願している学生は、自分が学びたいこと、したいことがここで得られるか、など知ることができるわけです。

 オープンチャーチは、教会でお伝えしているメッセージを一人でも多くの人に聞いていただき「ここに自分が必要としていた命があった」と見つけていただきたくて開いています。是非心を開いてお聞きください。

 エペソ人への手紙は、使徒パウロが書きました。

ユダヤ人で、中でも神様に仕えるために、一番厳格に律法を守っていた、パリサイ人で、最初はクリスチャンの迫害者だった人でした。が、十字架で死んだ人間と思っていたイエス様が、直接語り掛けられて、目が見えなくなりました。ダマスコに入って、アナニヤが送られ、イエス様の赦しを伝えられ、信じバプテスマを受け生まれ変わりました。それからは、イエス様による罪の赦しを述べ伝え、信じた人々の教会ができていきました。生みの親であるパウロがもう一度、自分たちが得た命がどのようなものかを送ったのがこの手紙です。

 教会の建物も見学して頂いてもいいですが、是非ともこの教会のメッセージをお聞きいただいて、この命を頂いてください。

今日の聖書箇所の内容

1‐5節 あなた方は、かつては死んでいたがキリスによって新しく生かされた。

10節  このキリストの命は善い行いのをするために造られたのです。

11-16節 教会はユダ人も異邦人も一人の新しい人に造られたところ。

1)死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かされた

1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、

2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。

3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。

4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである 1-5節

 オープンチャーチですから、教会の命の入り口をまずお知らせいたします。パウロは教会のメンバーに先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であった。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。といっています。パウロは教会の全ての人が死んでいたものだと言います。

ごく最近、この地域で、ひどい自傷行為をしている女の子のことや、異常に睡眠薬を服用している子のことを知らされました。ニュースでも「もう人生終わらせたかった」と全く見ず知らずの方を殺害した人を知らされました。彼らは見えるところで、死んでいると思えますね。でも、人間何の問題もないという方があるでしょうか?そして決定的なことは、全ての人に死が訪れるということです。

でも大丈夫です。あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かしてくださるのです。私もよく生きようとして生きられない自分を知ったとき、だからイエス様が十字架でこの私の罪を贖うために死んでくださったことを悟りました。イエス様を信じ洗礼を受けました。

救いがこの世界に与えられた次第をお話しします。見えない神様が、この世界に人間となってお生まれ下さいました。処女マリアに宿り、人々からのけ者にされていた羊飼いに先ずその到来が告げられました。成人して福音の到来を告げるようになってからは、取税人や遊女に開放を告げ、病気を癒し、5千人の給食、弟子のペテロは海の上を歩かせていただきました。全能の神の証しでした。

果ては、祭司長達の妬みによって、十字架にかけられました。しかしそれは全き愛の神様の人類の救済の計画でした。罪によって入ってきた死を罪のないイエス様の死によって死を打ち破り復活し、「私のもとに来なさい休ませてあげよう」と救いを完成してくださったのでした。イエス様は、多くの人の見ている前で昇天し、全ての権能を与えられたので、聖霊様をお送りくださいました。今やキリストイエスを信じ、バプテスマを受けたものは、罪に定められることはありません。新しい命に生まれ変わるのです。これが入口です。

2)良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。

10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。             10節

 救われたのは、神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。と書かれています。イエス様は使1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。と言い残されて天にお帰りになりました。同じパウロの手紙の言葉です。ガラ 5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。  22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。あります。神の国に入れられたら神の国の法則に生きるはずですね。御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。この天国の前味にです。ですが私たちはこの命ばかりに生きていないと思うのではないでしょうか?ここを調べて、それは信仰の問題だと言われている先生がいます。神様は神の子として私たちを生まれさせて下さった、それは欠陥ある神の子をおつくりになったのではない。神様に全服の信仰を向けるなら神様がしてくださるのですと。ベースは聖霊様への全幅の信仰ですね。「はい、そこにおらせてください」と祈ったら後は神様が実を結ばせて下さるでしょう。天国の前味を味わえますように

3)ひとりの新しい人に

11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。                         11-16節

次に述べているのは、教会の構成員についてです。教会には、ユダヤ人からクリスチャンになった人々と、異邦人からクリスチャンになった人々がいました。 元々ユダヤ人は、自分たちは、神様から特別に選ばれた民で、聖別の割礼を受けている。と自覚していました。けれどもパウロがそうであったように、本当の救いは、イエス様がご自分の血をもって贖ってくださった命によってのみ与えられました。異邦人からのクリスチャンも、真の神様を信じ、イエス様の贖いを信じて、バプテスマを受け、罪の赦しを受け新しく生まれた者でした。

エルサレム神殿には隔ての壁がありました。ここからは異邦人が入ってはいけない決まりでした。入ったら死刑とまで書いてあったようです。敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのであるとは、この差別が滅ぼされたという意味です。

教会は神様に罪赦され、死から命に移された新しい命に生き初めた人々の集まりです。2週間前に主の祈りを学びました。教会は天国の橋頭保ですね。神の国の法則は、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制の国です。聖霊様によってその命に生かされますように!

そして、「一人の新しい人になった」とも言われます。一人一人は不可分の大事な部分なのですね。イエス様が熱心に求め続けなさいと言われたのは、神の国と教えられました。熱心に求めましょう。イエス様の体なる教会になるために。

ワイヤット桂子さんの証。

5人姉妹の次女として育ちましたがよくケンカをしたそうです。お父さんからお前は頑固すぎるとよく言われたそうです。成人して色々な人や問題と出会う中で「内面から良い人間になりたい」と願い、自分の努力ではどうにもならない現実に気づき、お寺を訪ね親鸞に傾注していったそうです。そんなある日、友人が「マタ6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」のお言葉を送ってくれたそうです。そこから聖書に興味を持ち、米国でクリスチャンの家庭に導かれ、家族の愛と一致が心に深く残り「この人たちが信じている神様っていったいどんな方なのだろう」と興味を持ちました。教会に通うようになり、」ロマ書3:23,24すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。このみ言葉により、自分の罪に対して目が開かれ、神のみ前に心から悔い改めキリストを信じて洗礼を受けました。心に深い平安が訪れ、自分の罪がゆるされたという確信、死んだのちは天国に行けるという希望が与えられたのです。一番うれしかったのはもう自分の力で「良い人にならねば」と、がん張り続ける必要がないことでした。イエス様が一歩一歩導いて下さる」という喜びがこころにうまれたことでした。

祈り 全ての人がイエス様の命をいただき、新しい命がいただけますように。

聖霊様に心のイニシアチブを委ね、御霊の実が結ばれますように。お互いの弱さの為に、信仰の祈りをし合えますように。健康な一人の新しい人として成長させてください。       主の御名によって。アーメン