新宿西教会主日礼拝説教「神の恵みにとどまる」使徒行伝13:37~43 深谷美歌子牧師 2026年1月18日

8月に使徒行伝を学んでからしばらく経ちました。まだパウロの説教の途中です。それで、前回までを思い出してから今日の個所を学ぶことに致しました。

ピシデヤのアンテオケに来て、ユダヤ人の会堂に入った時、何かお話しく

ださい。と依頼されたて、手を振ってパウロが語り始めました。パウロの説教が全部記されているのはここだけです。

話したのは、イスラエル人が神に導かれた歴史と、ダビデ王の子孫として生まれた、約束のキリスト(メシヤ)・イエス様でした。そして、バプテスマのヨハネのことにも言及して、彼は自分で「わたしはキリストではない」と宣言した。彼はキリストが来る前の備えをした器でしたと伝えました。

そして、この救いは全ての人、つまり、神の民と思っていたユダヤ人ばかりでなくこの会堂に集っている、異邦人から改宗した人々や、神を恐れる人々に贈られたと語り掛けたのでした。

そして、このメシヤはユダヤ人の陰謀によって十字架につけられ、死にましたが、それをも超えて、神様は朽ち果てることはないと預言されていたように、死を打ち破り復活させました。多くの証人がいいます。と語りました。この内容は使徒行伝2;24ー31でペテロが語った説教と重なっています。

本日はイエス様の救いを受け取る信仰について語ります。

【聖書箇所の概説】

38-39節 モーセの律法で義とされ得なかったが、信仰によって義とされる。

40-41節 ハバクク書1:5を引用して、不信仰に対する警告を聞かなかくて、捕囚になった轍を踏むまないようにと警告します。

42-43節 なお話を聞こうと付いてきた人々に恵みに留まるようにすすめた。

【メッセージのポイント】

1)信じる者はもれなく、イエスによって義とされる

38 だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、39 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。

38-39節

 パウロはそこに集まっている聴衆に。この救の言葉はわたしたちに送られ

と語り始めました。「あなた方に」でもなく、「わたしに」でもなく「わ

たしたちに」でした。つまりそこに集う全員にでした。

 15日の聖研祈祷会でも学びましたが、パウロはユダヤ人で、メシヤを待ち望んだ民の一員でした。イエス様をメシヤと認める前は、クリスチャンの迫害者でした。そのパウロがイエス様に直接語り掛けられ、アナニヤが送られ、バブテスマを受けてクリスチャンになりました。パウロの自覚は、一テモ1:13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。でした。そしてイエス様に出会ってから、異邦人と言われていた全ての人にも、この救いが備えられていることが分かり、いまピシデヤアンテオケまで来て伝えています。そこには、異邦人から改宗した人も、神を畏れ、聞き従おうと集まっていた人々が集まっていましたが、そこにいる全ての人々に福音を語ったのでした。

 内容は、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、39 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。

と語りました。これは、パウロ自身の経験でした。彼は律法の一点一画ももれなく忠実に守っていた人でした。しかし、その彼の心はロマ書7:19口すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。でした。

日本人は、罪という自覚が少ないと言う方があります。罪は神様に対して犯すものだが、日本人は「恥」が行動の原因になっていることが多い。思いは「人」の目だと言うのです。思い当たります。

 バケバケをできるだけ見ていますが、噓も人間関係を円滑にすることが日本の文化にあることを伝える場面がありました。人と人との関係だけで生きるとそうなりますね。しかしパウロは神様の律法が、心から神を愛し、隣人を愛する。が元だと分かっていましたが、外側は守っても、心からそうなっていない自分を「なんというみじめな人間なのだろう」と言っています。

ごまかさないで神様の前に出るなら義と認められないと彼は思っていたでしょう。しかし、律法を守れば救われると自分にいいきかせていたのではないでしょうか?
 ところが神様は、イエス様が罪の攻めを負って死んで、罪によって入ってきた死を打ち破って、信じるものを義とする道を備えてくださったのでした。

この義とするという言葉は「開放する」とも訳せる言葉です。何とか義とされようと一生懸命に律法を守っていたものが、行いによらず、イエス様の赦しを信じるだけで救われる道が開かれたと語ったのでした。

2)預言者の書のようなことが、起らないように気をつけなさい。

40 だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい。

41 『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、/あなたがたのとうてい信じないような事なのであ/る』」40-41節

 この言葉は、旧約聖書のハバクク書1:5節の言葉の引用です。目の前に迫った外敵の侵攻による危険を、神の名において警告したが聞けなかった過去のてつを踏まないようにと警告しています。

せっかくの神様の恵みを無視することは、滅びを選ぶことですと語られています。聖書はあまり滅びのことを記しませんが、この恵みが語られている今は、確かに恵みの時です。 せっかく神様が備えてくださった救いを、心を開いていただきましょう。今はそれを頂くことができる時です。

3)神のめぐみにとどまっているように

42 ふたりが会堂を出る時、人々は次の安息日にも、これと同じ話をしてくれるようにと、しきりに願った。

43 そして集会が終ってからも、大ぜいのユダヤ人や信心深い改宗者たちが、パウロとバルナバとについてきたので、ふたりは、彼らが引きつづき神のめぐみにとどまっているようにと、説きすすめた。42-43節

パウロ達が話し終えて会堂を出ようとしたとき、人々は次の安息日にもこれと同じ話をしてくれるようにとしきりに願った。とあります。

この時は、突然訪れたパウロ達が、初めて聞くイエス様の福音を、パウロ自身がその命に生きている姿を現しながら語ったのでした。

当時は、この地域には、女性を簡単に裏切ることが当たり前常識があったようです。それで、ユダヤ教が結婚を重んじ、清潔な教えだったので、多くの婦人の改宗者があったそうです。高級な身分の人もいたそうです。それらの人々は律法を一生懸命守って生活していました。

勿論、律法は良いものですが、それを守っても心の底からの救いはありません。

パウロ自身もイエス様を信じたとき、真の義を頂きました。真の命、解放でした。これこそ、福音でした。この福音を聞いた時、人々はもっと知りたいと思いついてきました。

赤羽教会にいた頃、ゴダイゴという音楽グループがありました。そのベースで音楽エンジニアリングも担当していたステイーブフォックスという方が1988年、伝道者になって来てくれたことがありました。会堂のとなりの4畳半くらいの部屋でお茶?してた時、大勢の女の子たちが窓に押し寄せてきたことがありました。「こんなのは久しぶりだな」と語ったのを覚えています。   

イエス様を信じる信仰によって義とされる福音は、ステイーブフォックスも得た命でした。その命がどれ程伝わったかお話しに感動したというよりは元人気歌手のステイーブにアクセスしたくて押し寄せた感がありましたが。人々は、感動するといつまでも。一緒にいたいと願うものですね。

大事なのは、感動の空気に浸っていたいというのではなく、与えられた恵みの命に生き続けていくことです。

毎週の礼拝で神様を礼拝することは、今も生ける神様に自分をささげ、真理のみ言葉に生かされることですね。

毎日「今日、あなたのみことばを悟らせてください」とお祈りして御言葉に聞きましょう。聖書の言葉をいただいていますか?

赤羽の早天祈祷会のある時から黙想の時間を取るようになりました。聖書通読は一年に一回はしていましたが、この黙想し、また、皆さんのお分かちを頂くようになって、本当に御言葉に聞くということが楽しみになりました。 

義務的に通読していたのが、そこにある真理を聞く恵みをいただくようにされました。

毎日三度のご飯は楽しみですね?

もし、楽しみでないなら、少し体が弱っているかもしれません。全く食べなくなったら死んでしまいます。無理に食べている人もいるかもしれません。

最近断食聖会に参加しました。決して義務ではありませんが、リバイバルが起こされるために少しでもこの祈りが組み入れられるならば、と願って参加しています。それでも、二日で、足がふらつくようで、帰りの荷物が重く感じられました。立って電車に乗っているのに疲れました。

食べようと思ったら手の届くところにいくらでも食物があるのはもったいないことです。清潔な食べ物もなく、飢餓に苦しんでいる地球の多くの人々を思いやる機会かもしれません。世界人口の。8,2%6億7300万人が飢餓人口。

もう一度お勧めします。礼拝は命です。御言葉を悟らせてくださいと祈っていただいてください。引き続き神の恵みにとどまる秘訣です。

できれば早天祈禱会で、御言葉を頂いて下さい。木曜日は聖書研究祈り会をしています。御言葉を頂いた後で、皆様のお分かちを頂くと恵みが倍増します。恵みにとどまり続けましょう。

祈り 

 神様、イエス様を信じた者に罪の赦しと永遠の命が与えられる福音を、自分も受け取ったと証言しながら語ったパウロでした。この街にはあなたの民が大勢います。罪の赦しと、死からの解放、永遠の命を受け取って、喜びに生きる方が次々と起こされますように。御名によってアーメン

新宿西教会主日礼拝説教「恵みをもて年の冠とせり」詩篇65篇 深谷春男牧師 2026年1月1日

詩篇65篇の「神の川に水満ちたり」の一句は、神様の恵みの世界を表現しています。それを代表的な聖句です。昔、1978年頃、桜ヶ丘教会を訪問しましたら、礼拝堂の正面にこの聖句が掲げられておりました。

詩篇65篇は、  

個人の魂の問題としての罪の赦し、

人間社会の問題としての諸国民の平和、

被造物全体への神の恩寵充満と結実

を讃美した典型的な讃美の歌です。目を上げれば、神の川に水満ちて、その恵みの流れがあふれ出て、地上に流れくだり、主イエスの十字架となり、復活となり、ペンテコステのできごととなって現れました。2026年をすばらしい。神の恩寵に充ち満ちる恵みの1年として歩みましょう。

 【 詩篇65篇の概略 】

この詩篇65篇はしばしば新年聖会で読まれます。それは11節に文語訳ですと「恵みをもて年の冠となしたまえり」とありまして、年の冠、一年の初めに神様の恵みでいっぱいに満たされて出発しようという意味で引用されることが多いと思います。しかし、後で詳細を見てゆきますが、むしろ「年の冠」は、収穫の時の黄金の穂波を美しく表現したもので、必ずしも、一年の初めを歌ったものではないようです。旧約学者の左近淑先生の解説によりますと「詩篇65篇は賛美とは何かを教える」典型的な詩であると言われます。この詩は多くの学者によって「民族の賛美」に分類されます。ここには神を讃美するとはどういうことか、また、聖書の記す讃美にふさわしい神様とはどのようなお方かと歌われています。つまりこの詩は、聖書の中心的な問題は何かを歌いあげています。この詩の構造に、はっきりと次の三部分に分かれて記されます。

1―4節   救済の神への賛美(特に魂への集中=罪を赦す主)。

5―8節   創造の神への賛美(特に歴史を導く主)。

9―13節   祝福の神への賛美(特に自然界を導く主)。

ある人々はこの詩があまりにも明白に三つに分かれているために、元来、独立していた詩を一つに編集したのではないかとさえ主張します。しかし、神讃美という共通項で貫かれております。この詩篇は「神讃美とは何か」を教えると共に、聖書の語る神の救いの業とは何かをもわたしどもに語っています。聖書の語る神の恵みの完全縮小版のような詩篇です。

【メッセージのポイント】

1)2 ,3祈を聞かれる方よ、

すべての肉なる者は罪のゆえにあなたに来る。

われらのとががわれらに打ち勝つとき、

あなたはこれをゆるされる。

4 あなたに選ばれ、あなたに近づけられて、

あなたの大庭に住む人はさいわいである。

われらはあなたの家、あなたの聖なる宮の

恵みによって飽くことができる。(2~4節)。      

⇒ 神をたたえよ。罪の赦しのゆえに。

2―4節の第一の部分では、神こそ万民の礼拝を受けられるべきお方であることが歌われます。即ち、

「神はシオンに臨在される」(1節)、

「神は祈りを聞いてくださる」(2節)、

「神はわたしどもの罪を赦される」(3節)、

「神の大庭でその恵みにて充足を与えられる」(4節)。

特に、注意したいのは2,3節です。「罪の力の強いこと、自分の力では勝てないこと、神の赦しなくして、問題は解決しないこと」を歌っています。ここには「魂への集中」(関根正雄)があり、この詩の深さがあります。

人間は魂の深いところで、救いを求めております。神様を礼拝し、その臨在に触れ、祈りを聞いていただき、罪を赦していただいて、聖なるお方と交わりを回復し、神の大庭、礼拝の場所で、その恵みに充足を与えられると歌われます。神讃美の原点はまず、「魂の救い」ということです。魂が恵まれていなければ、どのような経済的に豊かな生活をしていても、どのような業績をあげても、魂の奥底から沸き起こるような喜び、生きている実感がわいてきません。その中でも、特に、4節には「罪の赦し」という主題がはっきりと出てきます。人間は心の奥底で罪の赦しを求めているというのです。

優れた人格者が、ある時に、神様からの信仰的な迫りを感じて、特定の休みを取り、ホテルの一室でひたすら聖書を読んだそうです。彼は、全ての寝食を忘れて、聖書に没頭したそうです。彼は数日で聖書を通読しました。祈りの心で読んだのですが、それでもよく分からなかったということです。そして、ある方に相談したところその方は「聖書は主イエス様とその十字架を中心に読むのだよ」とアドバイスしてくれました。彼がもう一度、自分自身の罪と主イエスの身代わりの十字架を見ているときに、聖書全巻の言おうとしたことがよくわかり、洗礼を受けてクリスチャンとなり、最後は献身して、牧師になったというのです。人間の罪と死の力に対して、最終的な勝利を与え、贖いを全うされるには、新約の主イエスの十字架と復活まで待たねばなりません。しかし、ここには、人間の深い罪性があばかれ、その罪の赦しなくして人間の平安はどこにもないことが明らかにされます。豊かな生涯を期待するなら、わたしどもはまず、魂の問題に集中するのです。そして、その本質的な、罪の問題に集中するのです。そして、罪の赦しの福音に触れて新しい人生が始まるのです。

2)7 あなたは海の響き、大波の響き、

もろもろの民の騒ぎを静められる。(7節)。

⇒神をほめたたえよ。歴史支配のゆえに。

  第二の部分(5節―8節)では神の創造の力と歴史を導く大能が歌われます。ここでは人間の歴史の支配者なるがゆえに神をほめたたえよと奨められます。 即ち、

「救いの神が、驚くべき業をなされ、地の果てに住む人々まで全人類が救いを受ける」(5節)、

「神こそ人間の歴史の山々(=背骨)を創造し、支える方」(6節)、

「神こそ人間世界の戦争を静められるお方」(7節)、

「全世界が神の救いを得て、喜び歌う」(8節)。

ここでは、人間の歴史を導かれる神が大きなテーマとなっています。この箇所にはイザヤ書40章~55章の、いわゆる「イザヤ書第二部」の影響があると言われます。それは思想面と用語法の方面から見ることができます。人間の罪の力が、大波のどよめきのように、波のどよめきのように世界を被う時があります。ロシアのウクライナ侵攻の事件!これは神が創造の時にその力を閉じ込めた「混沌」の怪物が、地の底から復活し、世界を混乱と破滅へと投げ込む様なできごとです。しかし、主は、人間のあらゆる悪しき力を砕き、混沌を秩序へと整えたもうと力強く歌われています。    

神学生の時にはじめて韓国を訪問しました。パゴダ公園のレリーフに彫られた独立万歳運動とその陰惨な弾圧の場面や水原近くの提岩里教会の虐殺場面を見学した時、日本の韓半島支配の歴史の罪の重さに軽いめまいを感じました。人間の罪の深さは驚くべきものです。神の歴史支配を信じることなくしてこの世界に希望はないと思いました。

3) 9 あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、

これを大いに豊かにされる。

神の川は水で満ちている。

あなたはそのように備えして、彼らに穀物を与えられる。

10 あなたはその田みぞを豊かにうるおし、

そのうねを整え、夕立をもってそれを柔らかにし、  

そのもえ出るのを祝福し、

11 またその恵みをもって年の冠とされる。

あなたの道にはあぶらがしたたる。(9~11節)。   

⇒ 主をほめたたえよ。大自然の祝福のゆえに。

この詩篇65篇の第三部分(9―13節)では、この世界をあらゆる良きもので充満させる神の祝福が歌われます。

「神の川に水満ちたり。神はそこから雨をふらせ給う」(9節)、

「畝(うね)を潤し、土をならし、雨を注いで芽生えを祝福される」(10節)、

「神の愛により、小麦は黄金の冠のように風にゆれ、オリーブは豊作で満載した荷馬車からこぼれ落ち、次々と通る荷馬車の轍(わだち)には、つぶされたオリーブの油が道路に染み渡り、夕陽に、てかてかと光ってみえる」(10節) (後藤光一郎訳参照)、

「荒れ野にさえ、その恵みは滴り落ちどの丘も喜びにあふれ」(11節)「牧場は多くの羊であふれてセーターを着ているように見え、谷は麦の豊作で黄金のスカートをはいているようだ。大自然、大宇宙が皆、歌い、喜び、踊っている!」(12、13節)。ほむべきかな!祝福に満ちたる神。

  韓国のクリスチャン・リーダーが日本に来て講演をされた時に語られました。「神の時、キリストの季節がやがて日本に訪れます。一つのストーブで山の木に花は咲かせることはできません。寒い冬のような季節も、神が太陽をめぐらし、春の季節が訪れると、山々の枯れ木のようになっている木の枝に一斉に芽が吹き出し、枯れ木は萌黄色となり、やがて青葉の茂る山となるのです。そのように、神が歴史の歯車を回されます」と。

  わたしは日本中に、罪を悔いて、十字架を仰ぎ、新しい人生に入る人々が起こされること、ここかしこの教会に人々が満ち溢れ、主をたたえる人々の起こるのを信じています。ちょうどこの詩の中でオリーブの豊作で、道がその油でてかてかに光っているというユダヤの田舎道のように、恵みで潤うその時を信じています。詩篇65篇は、聖書の信仰の粋を示しています。

【 祈 り 】 主よ、わたしどもは、詩篇65篇を通して「神讃美の本質」を見ました。それはわたしどもの聖書の信仰そのものです。人間の魂の問題、特に罪の赦しを与え救いたもう主、歴史を導きたもう主、全被造物を恵み祝したもう主あなたを讃えつつ、福音を告げ示す1年としてください。主よ、リバイバルの年としてください。御名によって祈ります。アーメン

 

 

新宿西教会主日礼拝説教「平安・将来・希望を与える計画」エレミヤ29:11 深谷春男牧師 2026年1月4日

《新宿西教会説教》「平安・将来・希望を与える計画」2026,01,04

エレミヤ29:11~14               深谷春男牧師

 皆さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

②026年が始まりました。元旦には、すでに元旦礼拝があり「喜びにあふれて一年を!」とのメッセージを受けて、新しい出発をいたしました。「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい!」、「ハレルヤ、主よ、感謝します!」との歩みをと願っています。また、2日は、ホーリネスの群の新年聖会で「あなた方はキリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、彼を信じて、言葉につくせない、輝きに満ちた喜びにあふれている。それは信仰の結果なる魂の救いを得ているからである」(ペテロ第一の手紙1章8,9節)の御言葉を受け、愛する兄弟姉妹と熱い祈りの時を持ち、新しい一年を始めました。特に、講師の伊奈聡先生が、「ワクワクして生きよう!」との説教。「信仰を持つといつもワクワクして生きられる。わくんですね、喜びがわき、信仰がわき、愛がわいてくる…。」ハレルヤ。

今日の聖書箇所は、KGK(キリスト者学生会)などでよく読まれます。若い方々にとって、とても共感する慰めの聖書箇所なんだ・・・と感心したことがありました。この聖句には不思議な力があります。新宿西教会では、毎朝6:00~7:00は早天祈祷会の恵みの時を持っておりますが、「アパルーム」というデボーション誌の人気のテキストですね。毎年、この箇所は読まれます。ここには「神の計画」という主題が記されます。この言葉はとても深い内容を持ち、神の福音の本質の理解とわたしたちの人生の転機を促す言葉と感じるので、この新しい年に共に学びたいと思っています。

【聖書箇所の概説】

 さて、エレミヤという人物は、聖書の中ではとても重要な人物です。彼は「真実の預言者」、「涙の預言者」とも呼ばれ、「真実」ということを大切にしました。そして彼は、イスラエルの歴史にとって最大の暗黒時代、「バビロン捕囚」の時代を生き、人々に真実の信仰を指し示した預言者です。エレミヤは、イスラエルの民のかたくなさゆえに、選民失格として、国を失う悲しみの中で、涙を流し続ける預言者でした。レンブラントの描いた「エルサレムの崩壊を嘆くエレミヤ」やミケランジェロの「エレミヤ」はいずれも深い嘆きの預言者の像となっています。しかし、その、歴史の炉で練られ、真実に神により頼むところから新しい世界、「神の歴史経綸の世界」が明らかにされてゆきます。それが31:31にある「新しい契約」です。

エレミヤ書29章には、エレミヤの驚くべきメッセージがあります。これは、バビロンで捕囚になっている人々へ書かれたエレミヤの手紙です。イスラエルは紀元前597年にバビロニアに国を占領され、主だった人々は捕囚として首都バビロンに連行されました。王や貴族、祭司、軍人、技術者等1万人が捕囚になったと列王記下24章は伝えています。捕囚から4年たった前594年頃にこの手紙は書かれたと言われています。この箇所の内容を学ぶときのキーワードは「神の計画」という言葉だと言われます。

【メッセージのポイント】

1)8 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたのうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。また彼らの見る夢に聞き従ってはならない。9 それは、彼らがわたしの名によってあなたがたに偽りを預言しているからである。わたしが彼らをつかわしたのではないと主は言われる。

⇒ 偽りの預言にだまされてはならない!        (8-9節)

 まず、偽りの預言者にだまされるな!というこの言葉から考えてみたいと思います。これは別の言葉で言えば、「神の歴史計画」を誤って考えてはならないというメッセージです。神様の御心に沿った「神の計画」を知らないと、とんでもない破局を招くというのです。

当時、捕囚をめぐってはいろいろな考えがありました。そしていろんな考えを持つ「預言者」と言われる人々が活動しておりました。故国エレサレムにおいては、バビロニアの支配から逃れるためにエジプトに頼って国を救おうという運動も活発化していました。エレミヤは、このような偽預言者にだまされるな!と語ります。捕囚地バビロンでは、早期に帰還できるのではないかという楽観論も出ておりました。イスラエルの民の前途に希望はないという悲観論も出ておりました。この人々にエレミヤは手紙を書きました。

今日読みました聖書の少し前、5-6節にはこのように記しています。「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。 妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない」。つまり、捕囚は簡単には終わらない。それは、イスラエルの民への訓練であり、あなた方の背きの罪を悔い改めるべく、主が与えた訓練の時です。それは2年や3年で終らず、70年続く。だから、捕らわれていったバビロンの地で、あなた方は家を建て、園に果樹を植えて自立できるようにしなさい。また、帰還はあなた方の子や孫の時代になるから、妻をめとり、子を生み、その子たちにも子を生ませ、民を増やして帰還に備えるように」と、この手紙は語ります。

しかし、これは、当時の人たちにとっては、慰めになりませんでした。70年もの間!そんなに長く、捕囚となったら、自分は異国で死んでしまうではないか!結局、捕囚民はエレミヤの預言を無視し、祖国に残った人たちと手を組んで、バビロニアに反乱を起こし、その結果、紀元前586年にはエレサレムの町は再度占領され、壮麗な神殿は破壊され、イスラエルの民は実質、崩壊の破局を迎えることになります。捕囚民が帰還を許されたのはバビロニアが滅び、ペルシャの賢王キュロスの勅令、紀元前538年を待たねばなりませんでした。これは、最初の捕囚から60年後のことでした。

2)11 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え希望を与えようとするものである。                       

  ⇒ 平安、将来、希望を与える神の計画!            (11節)

今日の説教はこの11節が中心です。ここから説教題も取りました。ここには大切な言葉が、慰めに満ちて3つ語られます。

その一つは、「わたしの計画は、災いを与えるのではなく平安を与える計画」

二つ目は「将来を与える」、未来を与えるという言葉です。

そして三つ目は「希望を与える」という言葉です。

改めて考えてみると、信仰とは「神様との人格的な交わり」であり、「神様の計画」を知ることではないでしょうか?神様を信じることは、神様への「全幅の信頼」であり、それは神様の「計画を知る」ことなのだと思います。

エペソ人への手紙などは、実に、この「神様の奥義に満ちた計画」を知るようにと語ります。神さまの計画は、「平和の計画」である。なんという恵み!

神様は「計画」を持っておられます。それは、小さく言えば、わたしたち

個人々々の人生に不思議な恵みに満ちた計画を持っておられますし、イスラエル民族にとっても、更に、全人類にとっても「不思議な恵みに満ちた計画」。

それは、教会の歴史の中では、「恵みの御計画」とか、「恩寵の御経綸」とか「不可思議なる御摂理」とか呼ばれてきました。そもそも「計画」という言葉は不思議な響きを持っていると思います。計画は、一つのことを指すのではなく、いくつかの場面を併せ持つ言葉ではないでしょうか?たとえば「旅行の計画」を立てる時には、あそこに行って、あそこに行ってそれから、次はあそこに行くとか、重要なスポットを複数考えて立案します。「アメリカ旅行の計画」なら、ワシントンDCを見て、ニューヨークのビルに上り、ボストンの古い街並みを見学、さらにナイアガラの滝だ、・・・。とか、「計画」にはポイントがあります。聖書の中にも、神様の「恵みの計画」、重要な出来事が記されています。

  • 神の愛による天地創造と人間の創造。

②人間の堕罪と、罪と死に支配された人間の歴史。

③呪いの世界を祝福に変える先祖アブラハムの選びと召命。

④奴隷の地エジプトからの脱出と、シナイ山での十戒の授与と契約。

⑤ダビデによる王国の制定。ダビデ契約。

⑥王国の分裂と、選民失格としてのバビロン捕囚。

⑦究極の救いの啓示。イザヤ53章の苦難のメシヤの代贖。

⑧救い主の誕生。クリスマス。メシヤの受肉。

⑨キリストによる十字架と復活による罪と死からの解放。

⑩聖霊なる神の降臨と、救いの確信、力の付与。

⑪全民族への福音の宣教と、世界的リバイバル。

⑫救いの完成としての主イエスの再臨と永遠の世界の到来。

聖書全体の語る神の歴史経綸を理解し、エレミヤ29章11節の聖句に、、「神の平和の計画」、確実な将来と希望を与える祝福の聖句です。

3)12 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、14 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。         (12~14節)

⇒ わたしはあなたの祈りを聞き、わたしはあなたに会う!

神様はわたしどもを深く深くご存じで、わたしたちを愛しておられます。神様は深い人類への愛と平安の計画を持っておられます。それなのに、地上にいるわたしたちは、その広大な計画が分からずに、目の前の一つ一つで一喜一憂し、時には失望に落ちてしまう。しかしこの12,13,14節で神様は、熱情を持って、語っておられます。

あなたがたが私のもとに礼拝に来て、祈るなら、わたしはその祈りを聞く!

あなたがたは、わたしを尋ね求めるならば、わたしは会う。一心に求めるならわたしはあなたと会う!(「会う」は2回繰り返される。)

そして、わたしはあなたがたの繁栄を回復し、捕囚で全世界に散らばったけれどもそこから集め、もとの所に導きかえる!

【祈り】 主よ。2026年の初主日礼拝で、エレミヤ29:11の「平安・将来・希望を与える計画」を聞きました。どうぞ、霊の目を開き、あなたの人類や個人への計画を知らしめ、将来と希望に生きる者とならせてください。長かったコロナ禍も遠く過ぎ去り、自由に伝道活動や家庭集会ができそうです。何よりも、あなたの救いの計画、御摂理の恩寵を知り、一心に、あなたの救いを求める者としてください。御顔を仰ぎつつ、御臨在の中で、輝く喜びの一日一日を与えてください。主の御名によって。アーメン

新宿西教会2025年末主日礼拝説教「荒野で叫ぶ声」ヨハネ福音書1:19~23 深谷美歌子牧師

 今年も最後の日曜日となりました。足りないものですが、主にあって、肝要と愛の一年間。お祈りとお支えをありがとうございました。

 この一年を振り返りますと、4月には深谷牧師の兄、利春兄さんが50年近くの祈りが答えられて、受洗の恵みに預かりました。今一緒に祈ると「アーメン」と和し、自身でもついて祈るようになっています。

 7月にはマノズ兄が受洗に預かりました。今、呉佳恵姉が責任者で、青年会を立ち上げ「フレッシュフルーツ」と命名し、活動しています。イブコンサートでは鈴木香穂理姉と中野夏鈴姉がラインの交換もすることができました。若い人が活動しているのは喜びです。

そして90代80代の兄姉が喜んで奉仕し、交わっておられることも喜びです。新宿西の神の家族を愛しています。ますます愛し合い、神の国の橋頭堡が新宿の街に広がって行きますように。祈っています。

さて本日は、クリスマスの直後の礼拝ですが、今年のクリスマスは、深谷牧師が、ヨハネによる福音書から取り次いでくださったので、その続きを開かせていただきました。クリスマスの出来事からはしばらく経った時の出来事ですが、前回はヨハネによる福音書の序文までの学びでしたから、ここからが本文と言えます。キリストに出会った者の姿を学びましょう。

【聖書箇所の概説】

19-20節 ユダヤ人たちがヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ね、キリストではない」と答えた。

21節  「エリヤですか」「違う」「「あの預言者ですか」「違う」と答えた。

22-23節 「それでは誰なのですか」「荒れ野で呼ばわる声」である。

【メッセージのポイント】

1)「あなたはどなたですか」「わたしはキリストではない」

19 さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。

20 すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。       19-20節

 ユダヤ人がヨハネのもとに使者を遣わしたと書かれています。これは、バプテスマのヨハネの働きが、国にとって無視できない存在となったからです。

 バプテスマのヨハネの誕生については、ルカの福音書にマリヤが受胎告知を天使から受けたとき、「どうしてそんなことがありえましょう」と言った時、「あなたの叔母エリサベツも老年ながら子を宿しています。はや6か月です」と告げられ、エリサベツを尋ねたと書かれています。今年の新宿西のカレンダーはその時の絵ですね。この時のエリサベツが身ごもっていた赤ちゃんがヨハネでした。ルカ 3:2 アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。3 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。

4 それは、預言者イザヤ40:3に書いてあるとおりである。すなわち/「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。5 すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、6 人はみな神の救を見るであろう」。7 さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。

彼は祭司ゼカリヤの息子でした。当時、祭司職は、祭司の息子でなければ

なれませんでした。信仰の指導的な立場が与えられた者でした。その彼が荒れ野で叫んでいました。当時の人々の中に「エッセネ派」と言って、聖書の言葉を忠実に守る生活ということで、普通の人々の生活を離れ、隠遁生活をしている人々がいました。その人々のように清廉潔白、荒れ野で野蜜を食し、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。と叫んでいたのでした。

このメッセージを聞いた人びとは、国中からきてバプテスマを受けました。

この働きは、国の指導者たちも無視できないものでした。それで、使者を遣わしたのでした。そして「あなたはどなたですか」と尋ねました。彼は「わたしはキリストではない」と告白した。のでした。この「告白した」という言葉は法廷で証言する時に使われる表現だそうです。これまでの序文の中でもヨハ 1:6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。15節も ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。とヨハネのことを書いています。

 ヨハネの福音書は、エペソの町で書かれたと言われています。聖研祈禱会で、エペソ書を学び始めましたが、当時、教会に異端が入り込もうとしていることに手紙で注意をするように書かれたと言われています。ですから、同じ危険を感じてヨハネの福音書も書かれたと思われます。当時ヨハネをキリストと信じる人々がいたようです。

 18:24 さて、アレキサンデリヤ生れで、聖書に精通し、しかも、雄弁なアポロというユダヤ人が、エペソにきた。

 18:25 この人は主の道に通じており、また、霊に燃えてイエスのことを詳しく語ったり教えたりしていたが、ただヨハネのバプテスマしか知っていなかった。アポロという伝道者が「「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」ので、アクㇻとプリスキラが詳しく教えたという記事がありますね。

 これらの人々に対しハッキリ、ヨハネは「キリストではない」とヨハネ自身が証言したのでした。

2)エリヤですか」「そうではない」「あの預言者ですか」。「いいえ」

21 そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。      21節

 ここからの質問は、当時キリスト、メシヤが現れる前にはエリヤが現れると信じられていました。マラキ4:5。申命記18:15 ではあなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。とモーセのような卓越した指導者が現れるのを待ち望んでいたユダヤ人の思いです。権威をもってバプテスマを授けているのなら、そのような方なのですかという質問です。

 ここでお知らせしておきますが、ユダヤ人の待ち望んでいた「メシヤ」は神様のご計画とは程遠いものでした。彼らが待ち望んでいたのはユダヤ人を世界に君臨する国にしてくれる王でした。

 しかし、ヨハネの答えはどちらに対しても「いいえ」でした。彼はイエス様の言葉によれば、マタ 11:11 あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。12 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。13 すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。

 14 そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、たるべきエリヤなのである。と語られた方でした。人間として最高の力を持ったヨハネを、イエス様は本とうの意味で道備えをするエリヤだった。ユダヤ人が望んだものではなかったが。というものでした。ヨハネは、自分はあなたたちが待ち望んでいるものではない。とハッキリ宣言したのでした。

3)『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』

22 そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。

23 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。    22-23節 

 とうとうユダヤ人の使者たちは「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。と質問しました。ヨハネ自身に何者と考えているのですか?と言ったのです。

 ヨハネの答えは 「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」でした。彼は自分の立場をこう表現しました。神様の業は、確かに旧約時代から着々と進んでいる。「私はイザヤの預言の成就である」でした。

今回教えられたのは、イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声という内要でした「イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者』でもなく「」だというのです。声というのは、見えませんね。

イエス様も言われたように本当の意味でのエリヤだったのでした。彼は人間的に力があった方でした。しかし、彼は自分の役割は本当のメシヤ「キリスト」を指し示すだけのものだということを心から自覚していました。この世界では偉業を残した人を記念しますが、彼は何も残そうとしていません。やがて首を切られて死んで行きました。

本日私たちが御言葉で聞き取りたいのは、このことです。天国で一番偉いのは、幼子の様に自分を低くするものだとイエス様は語ってくださいました。

今年の幻を語る会で得たものは、「この街には私の民が大勢いる」でした。

私はただ、イエス様に赦された者、そのことだけを自覚し、証して生きればいいのだということでした。それにしても教会は天国の前味のところですねお互い祈り合い、愛し合って神の家族が整えられて参りましょう。

祈り 神様、今日はバプテスマのヨハネがイエス様を指し示す声とのみ自覚していたことを学びました。今生かされている私たちも、そのような「声」としてこの世界におらせてください。天国の前味の教会としてください。