新宿西教会オープン・チャーチ第一主日礼拝説教「いっぽんの木」詩篇第1篇 深谷春男牧師 2025年10月5日(日)
2018年4月1日のイースターの日を思い出の日です。それは、わたしどもにとって吉川教会から新宿西教会の牧師として招かれた伝道牧会の初めの日でした。朝の礼拝の後に、歓迎会をしていただきました。交わりの部屋に、赤い実をつけた大きな木のデザインの飾りがとても印象的でした。今考えてみると、あの一本の木のデザインは新宿西教会の象徴と思います。神の命の水、恵みの川の流れから養分を頂き、成長し、豊かな実を結ぶ一本の木。それが新宿西教会の姿だとも思います。ちょうど、詩篇の第1篇の象徴も同じですね。それは一本の木。流れのほとりにあり、神の御言葉、その命に流れに潤う一本の木。これは、詩篇全体の表紙の用に描かれた神様のデザインなのだと思います。
【 詩篇第1篇概略と区分 】
この詩篇には表題がありません。多分この詩は詩篇全体の序文のように添えられたのであろうと言われます。いわば、詩篇の表紙は「流れのほとりに植えられた一本の木」ですね。この詩の構造は以下のようです。神に従う者の祝福と神に従わない者の滅びが明瞭に語られます。こういう明瞭な対象は、「知恵の詩篇」の特徴でもあります。
1節 正しい者の消極的行為 神に従う者は罪と不信仰の世界を離れる
2節 正しい者の積極的行為 神に従う者は御言葉を愛し、口ずさむ
3節 正しい者の実例的描写 神に従う者は流れのほとりの実を結ぶ木
4節 悪しき者の実例的描写 神に逆らう者は風に吹き飛ばされる籾殻
5節 悪しき者の積極的行為 神に逆らう者は神の裁き集会に立てない6節 悪しき者の消極的行為 神に逆らう者の道は滅びに至る
【メッセージのポイント】
1)、1 いかに幸いなことか、 (1節)
⇒ 幸いなるかな!で始り、ハレルヤ!で終わる人生。
「幸いなるかな(アシュレー)!」は、詩篇の最初にある言葉です。この語は「直く歩む(アーシャール)」から来ていると言われます。「アシュレー!」幸いなるかな!この一語がいいですね。詩篇全体の基調をなす一語です。詩篇32:1や41:1、また詩篇で一番長い119:1、2や、詩篇128:1等もアシュレーから始まります。
モーセの「最後の言葉」も(申33:29)、また、新約聖書の主イエスの「山上の説教」も(マタイ5:3)この「幸いなるかな!」ではじまります。
詩篇はこの「アシュレー」の一語ではじまり、ハレルヤ歌集で終わります。クリスチャン人生も「幸いなるかな!」で始まり、「ハレルヤ」!で終わりたいものです。
でも実際は、わたしたちは、罪と死の支配している世界に生きていますので、多くの試練や感謝できない現実に直面します。ですから詩篇の中には多くの嘆きや神様への切なる訴えがあります。もしもそうだったとしても、「幸いなるかな!」という神の祝福と、「ハレルヤ」と言う神への感謝、わたしどもの生涯の初めであり、終わりですね。ハレルヤ
2)、1 悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。(1節)
⇒ 幸いなるかな! 罪の道に歩まず、立たず、座らぬ人!
ここには神様から遠く離れて行く人の罪の深まりが記されます。
「歩まず」は、生活の姿であり、実践の姿であると言われます。神様に逆らって行動して行く人の世界を表現しています。
「罪びとの道に立たず」は神に逆らう行為の継続を意味し、的外れの人生の繰り返し、その繰り返しが習慣となり、そしてその人の人生の性格を表わす「立場」を意味することになります。
「あざける者の座にすわらぬ人」の「座にすわる」は、更に悪の世界のリーダーとして座り、神様に従う正直な生活をあざけり、信仰の世界をあざけり、揶揄する反信仰的な立場の論客となり、その立場のリーダー、不信仰の世界の座主となることを意味しています。
3)、2 このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。 (2節)
⇒ 幸いな人 御言葉を喜び、それを口ずさむ人!
「主の教え(トーラー)」とは神の御言葉のことです。トーラーは律法をも意味していますが、もともと「射る」や「投げる」という言葉で、弓で射た矢(あるいは石)の軌跡を目で追う線を意味し、そこから、方向、教訓、基準の意味となりました。み言葉を「思う」は「口ずさむ」とか、「うなる」の意味もあります。獅子が「うなる」とも訳されます。ある方は、ライオンが獲物を捕食して「ウメ~」とつぶやくように、われらも御言葉を食べて、「ウメ~!」とつぶやきたいと言います。
わたしは、毎朝早天で御言葉を頂き、皆さんの黙想を聞いたり、祈り合うときに深い感動を覚えます。早天、木曜祈祷会、礼拝の祝福。「ウメ~」というライオンのつぶやきという言葉が心に残ります。
また、「イスラエルは蚕(かいこ)である。いつも口を動かしている。」蚕は桑の葉を食べるため、イスラエルは神の言葉を食べるため。
4)、3 このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。 (3節)
⇒ 幸いな人 流れのほとりの実を結ぶ木!
ユダヤの地域は砂漠地帯です。樹木が生えて行くのは大変なことです。枯れてしまう危険は至るところにあるのです。しかし、この木が栄えてゆくのは「流れのほとり」に植えられた木であると語られています。日照りの中にあっても永遠の大河である聖書の御言葉に「昼も夜も」根を張って、養分を頂いて、立派に成長するのです。
ここには、「流れのほとりに移植された木」と表現されています。「植えられた」は「移植させられた」と言う言葉です。わたしたちクリスチャンは、それぞれいろんな地域で育ったものですが、流れのほとりへと移されてきました。流れは神の言葉、神の福音です。「わたしたちはいのちの水の川から養分を頂き」、成長する「一本の木」です。
原登先生が、昔、長野県の喬木教会に行かれた時に、湯沢実先生と七重先生が5人御子供を抱えて、農村伝道に苦闘しておられた。色紙に「時が巡り来れば実を結ぶ」と書いてこられたと証しを伺ったことがあります。「あの子供たちが時を経て、3人が伝道者となり、皆、恵まれてクリスチャンとなって証しを立てておられる」と語られました。
大和カルバリーチャペルの大川従道先生が中学生の時、「どうしてうちは、こんなに貧乏なんだ、牧師の家庭なんて嫌だ!」と反抗した時に、「なあに、あなた方も主イエス様の愛に触れて、全世界に出て行く伝道者になるのよ!」とお母様は語り、事実、その通りになりました。
風の吹き去るもみがらのようだ。
5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
6 主は正しい者の道を知られる。
しかし、悪しき者の道は滅びる。 (4~6節)
⇒ 幸いな人、モーツ(もみがら)でなく、エーツ(木)!
4節からは「悪しき者(ラーシャー)」が出てきます。「神に逆らう者」(新共同訳)の意味です。この語は特にエレミヤ書では40回使用され、神への不服従、不真実を表す語です。神への反逆を続けている人は、人生の実質を失い、もみがらのように、風に吹かれて飛んでいってしまうような空虚なものとなります。実を結ぶ5)、4 悪しき者はそうでない、木とは対照的な喩えです。
ヘブル語ではエーツ、もみがらはモーツで、ここには語呂合わせがあると言われます。聖書は2つのうちの一つを選択することを迫ります。
豊かな実を結ぶ人生の木(エーツ)を選びますか?
空虚な実のならない籾殻(モーツ)のような人生を選びますか?
もっとも、新約聖書から見れば、人間は皆、裁きに耐え得ない、弱い愚かな、罪深い存在です。主イエスの十字架の恵みと聖霊様の助けなくして、わたしたちは豊かな実を木結ぶことはできません。
最後に、わたしはキングス・ガーデンの施設で益田泉先生のことを伺いました。彼女はこの施設に入ったときに一人の求道者と話をして、「信仰が分らない」と言う姉妹に、「わたしの最後を見ていてね」と話したと言います。彼女は神様にすべてを委ねて天国に凱旋。その姿を見て、この女性は洗礼を受けてクリスチャンになったそうです。
信仰にしっかり立って主の証し人としてともに歩みましょう
【 祈り 】 天の父よ。今日はオープン・チャーチ第一日曜日です。この日に詩篇の第一篇を感謝します。どうぞ、この詩篇で語られているとおり、不信仰と罪から遠ざかり、幸いなる生涯を歩むことができますように、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ生涯に導いて下さい。わたしどもは「流れのほとりに移植された一本の木」です。いのちの水なる御言葉から必要な養分を与えられ、風に吹き去られるもみがらではなく、豊かな実を結ぶ一本の木として証しがなしえますように。今日初めて教会に来られた皆様の上に、その健康、霊性を守り、恵みの日々をお与えください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
新宿西教会修養会礼拝説教「主からの祈りを」マタイ福音書6:11~15深谷美歌子牧師 2025年9月28日(日)
新宿西教会主日礼拝説教「主からの祈りを」マタイ福音書6:9~15 深谷美歌子牧師 2025年9月28日(日)
今日は新宿西教会の一日修養会の中での礼拝です。「祈りについて学びたい」との願いが起こされ、これがテーマです。
普段、お祈りをどのようにしておられるでしょうか?お祈りは、見えない神様との会話です。このチャンスに、お祈りが慕わしいものとされますように。
今回礼拝では「主の祈り」と呼ばれ、親しんだお祈りを学びます。
今日の聖書箇所の内容
9‐10節 天にいます父なる神様に、御心が行われる国が来ますようにと祈れ。
11節 日ごとの食物をお与えください。
12-15節 試みから守られ、赦されたものとして、負債をゆるしなさい。
1)家族として御国を求めて祈りましょう。
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 9-10節
よくこのお祈りを「主の祈りを祈りましょう」と言って唱和しますね。子供でも暗唱してお祈りできます。たぶん私も教会の子でしたから、意味も分からないうちから覚えてお祈りしていたと思います。この機会に意味を深く知って、心を込めておいのりできるものとされましょう。
まず第一のポイントのタイトルを「家族として」とつけました。「あなたは」こう祈りなさい。でなく「あなたがたは」と複数形で、求めなさい、と勧められています。「わたしたち」と祈る言葉が、原文では9回使われているそうです。
心を合わせて一つになって祈りなさいと語られていて、唱和の祈りは、ここで求められているいい祈り方ですね。教会で心を合わせてお祈りしましょう!
大きな世界中の教会も神の家族ですが、新宿西教会に集うとお互いが見える家族で、顔と顔を合わせて祈れますね。
コロナで、教会に来れなくなった教会の家族がいますね。幸いこの教会では、リモート礼拝ができるようになって、一緒に礼拝できます。聖書研究祈り会で、声も聞ける家族がいます。そのお互いが、心を込めて一つになって求めなさいと語られています。心を合わせてお祈りしましょう。
そして求めるのは「御名があがめられますように。10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」です。
今「あなたがた」が心を合わせて祈るのが主の祈りと聞きました。この家族は神の家族ですから、御国がきますようにというのは、天国がこの世界にきますようにとお祈りしなさいというお祈りですね。天国は、パーフェクトな国で、こころを込めて愛し合い、一つになって神様をあがめ、讃美しているところですね。その国を求めなさいです。
昔の戦争は、地上戦が主だったので、大きな川などがあると、先ず先発部隊が川向うに潜入し、そこに橋頭堡をつくり、そこを足掛かりに領土を広げて行ったそうです。
教会は神の国の橋頭堡です。まずこの世界に教会を天国の橋頭堡にしてくださいとお祈りしましょう。そして地上でも神の国、教会が広がっていきますように。
2)日ごとの食物をお与えください。
11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。11節
次の求めは日ごとの食物です。
これは、御言葉と解釈される方があります。確かに私たちが神の民として、天国の住民として生きるのに最も必要なのは、神の国の法則を悟らせてくれる御言葉です。27日の早天祈禱会は、箴言8章でした。箴 8:10 あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教を受けよ、精金よりも、むしろ知識を得よ。11 知恵は宝石にまさり、あなたがたの望むすべての物は、これと比べるにたりない。知恵を求めよ。のお言葉とそれに基づいたお証は、実は自分は神様の知恵を求めるより、今の困りごと、携帯が濡れでダメになったから、防水の新しい携帯が欲しいとかが先立つ。けれど神様のくださった命の法則こそ私を生かすものです。という証しでした。早天に集まって聞いた皆様のお分かち合いも素晴らしく、やはり、クリスチャンが生かされるのは御言葉ですねと思いました。まず御国を求めるためにも、神の言葉を日ごとの食物としていただきましょう。
しかし、この日ごとの食物をお与えくださいの言葉を、神様は人間に日ごとの食物が必要なことをご存じで、それを求めなさいと語ってくださっているのだと解釈されている方も多くあります。確かにこの地上で生きていくには食物が必要ですね。それを求めなさい。と語ってくださってもいるのでしょう。
先週、22-24日にかけて、山崎製パン箱根山荘で、「関東アシュラム」が開かれました。「イエスは主である」がいつも中心です。ですが、具体的には一人一人が御言葉に聞き、祈り、受けたものをお分かちし合い、それぞれの小グループが祈りの細胞として、祈りの課題を出し合って、一年間祈るために持ち帰ります。 今年も昨年祈りの細胞だった皆さんが集われて、「先生は金曜日でしたね、祈ってきました」と声を掛けられ感動しました。「ここで依頼した祈りが聞かれました」との証しがあり、励まされてまたそれぞれが書いて持ち帰りました。家庭問題で悩んできた姉妹にも「神様がここに来るように導かれたのかしら?」「そうに違いない。祈って行こう!来年のお分ちが楽しみです!」と別れてきました。今の必要の為に祈ることも教えて下さっているイエス様に感謝し、祈り合いましょう。
最近では田中佐百合さんの為にも神の家族が心を合わせて祈り合っていますね。
3)負い目をお赦し下さい。
12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。 12-15節
教会は神の国の出張所ですが、サタンも一生懸命働いて、何とか神の国を崩したいと働いています。神の国に生き続けられるように、求め続けましょう。悪しきものは、悪の力です。それは具体的に働きかけると聖書は記しています。イエス様も公生涯に立たれるために荒れ野で断食して祈った時、悪魔は様々な誘惑で働きかけました。マタ 4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。と退けました。十字架に向かわれる時も、マタ 26:38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。 イエス様がすでに勝利されていることに信頼しつつ、誘惑で何とか神の子たちの命の恵みを落とそうと働いている悪魔を自覚して、目を覚ましていて、助けられるように祈りましょう。
12節と14-15節は赦しの問題です。
聖書では負債は罪と同義に扱われています。ここを読みますと、赦しを先ず自分がしたら赦されるように書いてあります。が、負債のあるものが他人の借金を肩代わりすることはできませんね。お互いイ万タラント(1800億円)もの借金があるのが神様の前の人間です。だから、その人間がほかの人の罪の代価をはらうことはできません。それができないので、イエス様が十字架にかかってその計り知れないご宝血で全ての罪の代価を払ってくださいました。この赦しを頂いた者が、お互いの罪の負債も赦し合うのです。
マタ18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」赦されたものが赦すことを求められています。
私はどうなのか?振り返ってみました。家族に対してひどい言葉を言った記憶。
友達に親切でなかった記憶。それらすべて代価をイエス様が払ってくださいました。感謝します!なのに、私たちは人の過ちを赦せないものです。その弱さのためにイエス様が「真理の御霊を送る」と約束され、ペンテコステの日に聖霊様がおいで下さいました。聖霊様を心の王座に迎えるとイエス様の思いが悟られます。まさに、十字架、復活、聖霊の満たしですね。その心でお祈りしてまいりましょう!ハレルヤ!
祈り 天のお父様。イエス様が教えてくださったお祈りを学びました。教会が心を合わせて愛し合う、天国になるように祈り求めます。その上で御言葉と、今生きる全ての必要を祈ります。誘惑を見破り退け、赦された恵みをいっぱい味わい、互いに赦しあい、天国の命を生きさせてください。本当に赦しあえるために、聖霊様の愛の満たしが必要です。聖霊様を遣わしてください。主の御名によって。
新宿西教会主日礼拝説教ビデオ「恵みかい父なる神様」ルカ福音書15:11~32 西川穂伝道師 2025年9月21日(日)
新宿西教会主日礼拝説教ビデオ「われらを背負われる神」イザヤ46:1~4 深谷春男牧師 2025年9月14日
新宿西教会主日礼拝説教「われらを背負う神」イザヤ46:1~4 深谷春男牧師 2025年9月14日
聖書には「白髪」と言う言葉がしばしば出てまいります。
「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」箴言16:31
「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳。」箴言20:29
「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたし
は主である。」レビ19:32 と聖書は、高齢者を尊敬し、その働きを心から感謝するよう勧めています。
それと共に、年老いた者を励ます御言葉も多いですね。
「75歳から信仰による祝福の人生への出発」をしたアブラハム(創世12章)、「80歳にしてイスラエルの民をエジプトから救い出した」モーセのように、聖書の御言葉に立って、果敢にチャレンジする人生をも、聖書から聞くことも多くあります。祝福に満ちた高齢者!これが聖書のメッセージです。
【テキスト位置と区分】
イザヤ書46章1-4節は、新共同訳では「バビロンの偶像」と言う表題がつけられた一連の預言の中にあります。また、「担われたものたちと担うもの」(ベスターマン)とか「担われる神か、担う神か」(ハンセン)とかの説明がついていますように、ここは、バビロンの偶像と生ける真の神との対比が記されているところです。内容は以下のようです。
- バビロンの偶像は空しい。それは人を救い得ない。
- 「わたしに聞け、イスラエル!」 との神の語りかけ。
- 「わたしが担う!わたしが救う」白髪となるまで持ち運ぶとの宣言。
【メッセージのポイント】
1)1 ベルは伏し、ネボはかがみ、
彼らの像は獣と家畜との上にある。
あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、
疲れた獣の重荷となった。
2 彼らはかがみ、彼らは共に伏し、
重荷となった者を救うことができず
かえって、自分は捕われて行く。(1-2節)
⇒ 偶像はかがみこみ、倒れ伏す!
「ベル」というのは、バビロニア大帝国の神様の名前です。バビロニアの主神はマルドゥクという神様で、ベルとも呼ばれていました。へブル語のバアルに相当する「主」と言う意味です。そして、「ネボ」はこのベル、すなわち、マルドゥク神の使者あるいは子どもの名前です。ネボはアッカド語の「ナブー(告知者の意味)」から来ており、学問の神とあがめられて来ました。楔形文字の体系はネボの発明とされておりました。彼らの礼拝はボルシッパという町の神殿で行われました。このボルシッパからバビロンのマルドゥク神殿まで、新年ごとに聖なる行進行列が行われ、ネボの像は立派な船に乗せて運ばれたといわれます。ネボは新バビロニアの守護神で、王の名前は、ナボポラッサル、ネブカデネザル、ナボニドスなどとネボの名前を冠とした。矢内原先生の解説では、日本の八幡様から八幡太郎とか多聞天から多聞丸の如しとありました。
当時、イスラエルの民はバビロンに捕囚となっていました。紀元前586年、バビロニアのネブカデネザルの軍隊により、エルサレムの神殿は破壊され、主だったものたちはバビロンに連れてゆかれて、ユダヤの国は事実上崩壊しました。捕囚となって厳しい生活を強いられていたバビロニア帝国には、マルドゥク神をまつる荘厳な神殿があり、勇壮な華々しいお祭りが繰り広げられていました。ちょうど日本でも「ねぶたまつり」などは、かなり念入りの勇壮な武者像がつくられ、あの大きなちょうちんに火が入って、多くの青年たちが叫び声を挙げてそれを引く姿は、一種の感動と言いますか、民族の血が沸き返るような興奮があります。当時は、他国との戦争などが相次ぎ、国威高揚が必要でありましたから、バビロニアの祭儀は、大帝国あげての壮麗なものだったのでしょう。川に流れる極彩色の舟。その上にそびえるネボの像。世界の中心としての勝利の勢いに乗るバビロニアの人々は、笛や太鼓の音楽をならし、家族そろって花火を見に行く日本の夏の風物のように、皆でご馳走を食べ、にぎやかな、喜びと勝利感に満ちた民族のお祭りの時だったのでしょう。
しかし、そのとき、イスラエルはどうだったのでしょう。彼らはこのときには惨めな捕囚の民でした。バビロン軍に家族を殺され、家族が離れ離れにされ、自分の土地も仕事も奪われ、民族の誇りも文化も何も持っていない、惨めな囚われの難民だったのです。生きて行く気力もなかったのです。それと比べて、バビロンの民はまさに「世界の中心」そのもの。イスラエルの民は、傷心の中でこのバビロンの勝ち組の祭りを遠くから眺めるみじめな「難民」そのもの。
しかし、この46章で、第二イザヤは、驚くべきメッセージをいたします。この壮麗な神々の像。巨大な、人間を圧する神々の像。一説によれば5メートルの高さがあったとも言われますが、驚きと恐れをもって見上げたそれらの巨大なバビロンの神々の像に対して、預言者は厳しい批判の預言を始めるのです。ここでは二回同じ言葉が使われています。「かがみ込み、倒れ伏す」という言葉です。それは、どんなに驚くべきものに見えたとしても、それは生ける神ではない。所詮人間の作った偶像です。それは「かがみ込み、倒れ伏す」のです。リビングバイブル訳では「バビロンの偶像ベルとネボは、牛のひく荷車に載せられ、遠くへ運ばれます。ところが牛はよろめき、荷車はひっくり返り、神々は地面に放り出されます。自分が転げ落ちることさえ防げないのに、彼らを拝んでいるものを、クロスの手から救い出すことなどできない相談です」となっています。
わたしどもは偶像を信じているとは思わないでしょう。しかし、「人間の心は偶像を作る工場である」とのカルヴァンの言葉を待つまでもなく、わたしどもは主なる神により頼むのではなく、この世の何かに信頼を寄せるものです。それはお金であったり、地位であったり、才能であったり、美貌であったりします。でも、人生の究極の出来事に出会ったときに、それらはわたしどもを救うのでしょうか?最終的には健康だって損なわれてゆきます。偶像は「かがみ込み、倒れ伏す」のです。やがて人間に重荷となり、動物に重荷となり、人間を救い出すこともできず、民の敗北と共に自ら捕虜となってしまうのです。
2)3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、
生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、
わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。(3節)
⇒ わたしに聞け、ヤコブの家よ!
3節で新しいメッセージが始まります。バビロンの壮大な偶像に圧倒されている人々に神ご自身が語りかけます。「わたしに聞け、ヤコブの家よ」と。
この地上の様々な関心、特に、地上の支配者となっているバビロンの神々の巨大な偶像、永遠絶対のように見える偶像に心奪われそうになって、それらを見上げている人々の心に、天地の造り主なる神が語りかけられるのです。「わたしに聞け、ヤコブの家よ」。そうです、人間の手で作った偶像がどんなに大きくても、どんなに立派に見えたとしても、この世界を創造されたまことの神の偉大さの前には、チリのような存在に過ぎません。それはやがて崩れてゆく、土くれに過ぎないのです。
そこには、「イスラエルの家の残りの者よ」と続いています。「残りのもの」とは旧約聖書の中でしばしば出てくる大事な言葉です。神様は、神の民が裁きにあって滅んでしまうように見える存亡の危機に、「残りのもの」を残しておかれるのです。イザヤ6章の切り株のように。そしてそれらはやがて、深い悔い改めをもって、神に立ち返り、神の民を新たに形成してゆきます。新しい神の民の業は、神の御声を聞くことから、始まるのです。残りの者よ。「わたしに聞け!」と語られます。
それでは、わたしたちは、何を聞くのでしょうか?それが、4節の内容です。
3)4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。(4節)
⇒ わたしが背負い、わたしが救う!
この4節には「わたし(アニー)」という言葉が、5回繰り返されています。偶像が救うのではない。破れだらけの人間の努力でもない。この世界の造り主が、救い主が、「わたしが救う!」と5回も強調して語っておられるのです。しかも動詞の変化まで入れると、なんと10回も「わたしが!救うのだ」、「救うのはこのわたしだ!」と語られます。聖書の中でもこのような箇所はありません。分かりやすく直訳するとこうなります。
わたしは それ(変わらない) (あなたが)年老いるまで
わたしが (わたしが)背負う (あなたが)白髪まで
わたしが (わたしが)造った
わたしが (わたしが)担う
わたしが (わたしが)背負う
(わたしが)救う
ここは中沢冾樹が「旧約の中で最も感動的な一段」と言い、浅野順一が「宗教の本質に対する深き洞察」と言っておられる最も感銘の深い箇所です。
また、この短い3節・4節の中に「担う」とか、「背負う」という言葉が、何度も繰り返されています。特に「背負う(エスボール)」という言葉は、口語訳では「持ち運ばれる」と訳されている言葉です。聖書はこの「背負う」あるいは「持ち運ぶ」という言葉によって、救いを明らかに示しています。聖書学院長だった小林和夫先生は、小さい時におじいちゃん子だったそうです。風邪をひくとこのおじいちゃんは来て裸になり、赤ちゃんの和夫を裸にして紐でくくり半纏を着て「俺の体温で暖めればすぐに治る!」とその裸の体温で風邪を直したそうです。主イエスは十字架の上にわたしたちをあがない、人生の苦難を乗り越えさせ、最後は死の川も超えて永遠の天国まで、背負ってくださるのです。「わたしが背負い、わたしが救う!」ハレルヤ
【 祈り 】 主よ。人生の長い旅路を歩んでこられた方々と共に礼拝する時をお与え下さり感謝します。今日、わたしどもはこの世の偶像ではなく、造り主であり、救い主である、あなた御自身に聞きます。わたしども一人一人を「背負って」「持ち運んで」、元の牧場、神の家に連れ帰ってください。この敬老の時に、「白髪となるまで」わたしどもを、「わたしが担い、背負い、救い出す」と語られるあなたに深く信頼して、委ね、従う者としてください。我らの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン!
新宿西教会主日礼拝説教ビデオ「わたしはまことのぶどうの木である」ヨハネ福音書15:1~11 深谷春男牧師 2025年9月7日
新宿西教会主日礼拝説教「わたしはまことのぶどうの木である」ヨハネ福音書15:1~11 深谷春男牧師 2025年9月7日
岡山聖心教会という教会は、礼拝の時の聖書朗読は毎週、この聖書箇所だったとお聞きしたことがありました。この聖書箇所は、そのような不思議な力を持っている箇所とも言うことができるのだと思います。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」からはじまるこの聖書箇所は、とても優しくわたしたちの信仰生涯を教えています。
「4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
わたしどもは毎週、礼拝のたびに、主にしっかりと結びつき、神様から豊かな信仰と愛の滋養分を頂き、豊かな実を結ぶ枝となるように教えています。
しばらく前に、早天祈祷会でこの聖書の箇所をお読みしましたら、同じ言葉がたくさん続くので数えてみたら、9回づつ用いられている言葉が、3つありました。それは、「つながっていなさい」、「愛(アガペー)」「実を結ぶ」の三つでした。
【聖書箇所の概説】
今日の聖書箇所は、「主イエスはぶどうの木、わたしたちはその枝」という有名な主イエスのたとえの箇所です。この箇所は、以下のように、1-4節と、5-8節がほとんど同じ主題を繰り返しています。
- 主がぶどうの木、実を結ばないものは剪定される、幹につながれ。
- 主がぶどうの木、実を結ぶ枝と結ばない枝。幹につながれ。
- 愛(父→イエス→弟子)
服従(弟子→イエス→父)
喜び(イエス=弟子)
【メッセージのポイント】
1)、「わたしはまことのぶどうの木、
わたしの父は農夫である。」 (1節)
⇒ 主イエスこそ、まことのぶどうの木。
まず、今朝、わたしどもに語られるメッセージは、「主イエスこそ、まことのぶどうの木」という内容です。神の豊かな滋養分と命の象徴であるぶどう。神の愛と命の源が、主イエスご自身なのである、と今日の聖書はわたしどもに語りかけています。
ヨハネ福音書には、「わたしは・・・である」と言う宣言が7回なされています。これは「エゴー・エイミ・・・」という形式で、イエスキリストこそが終末的な神から遣わされた救い主であることを示しています。その中での最後の、第7番目の主張がなされています。
「わたしは命のパンである」(6章)、
「わたしは世の光である」(8章)、
「わたしは羊の門である」(10章)
「わたしはよい羊飼いである」(10章)
「わたしは甦りであり、命である」(11章)、
「わたしは道であり、真理であり、命である」(14章)
「わたしはまことのぶどうの木である」(15章)の二つ表象の中には、「良い」と「まことの」という言葉が加えられ、「排他的かつ挑戦的な主張がなされている」(シュルツ)と言われています。
つまり、今朝、語られる「わたしはまことのぶどうの木」と言う言葉は、多くの「まことならざるぶどうの木」があったことを予想させるのです。 ユダヤ人は自分たちが、神の植えたぶどうの木だと信じておりました。パレスチナはぶどうの産地であり、人々に親しみを持たれた植物でした。ですから旧約聖書にはイスラエルの民がぶどうの木であることを語る描写がたくさん出てきます(詩編80:8-15、イザヤ5:1-7、27:2-6、エレミヤ2:21、エゼキエル15:1-6、17:1-6,19:10-14、ホセア10:1など)。マカベヤ王朝の貨幣紋章はぶどうの木であり、神殿の栄光の一つは聖所の前面にある大きな黄金のぶどうの木であったと言われます。ぶどうの木はユダヤ民族の象徴だったのです。旧約の詩人は「 あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。」(詩編80:9)と歌っています。しかし、ご存知のように、イスラエルは神に反抗し、悪い実を結ぶ「野ぶどう」となって行ったのでした。イスラエルは自分たちが神の選びの民であると言いつつ「偽りのぶどうの木」となっていったのです。
現在、「まことのぶどうの木」、すなわち神の約束を真実に受け継ぐ者は、主イエスご自身であると聖書は、宣言しているのです。
2)、2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。・・・・・・・・・・・6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 (2-6節)
⇒ わたしにつながっていなさい!
ぶどうの木を栽培する時に、特に注意すべきことは剪定であり、念入りな整備であると言われます。ぶどうの剪定は結実時の終わりごろになされ、冬は幹とごく少数の枝のみになってしまうそうです。また、ぶどうの若木は植えられてから三年間は実を結ぶことが許されず、徹底的に刈り込まれることによって命を蓄え、よき実を結ぶように準備されるのだそうです。
しかし、これらの言葉には厳しい響きがあります。「わたしはまことのぶどうの木」と語られた後に、このような厳しい警告があるのは、イスカリオテのユダの堕罪と運命を暗示していると言う主張もあります。せっかく主イエスに結びつき新しい命と祝福の中を歩み始めたのに、自ら主を裏切り、命から堕ちてゆく存在を主は嘆かれたのでありましょう。
榊原康夫師の解説でも、ヨハネの福音書が書かれた歴史的状況についての説明がなされています。ヨハネ福音書は一世紀の末ごろに書かれた一番遅い福音書です。この頃には、教会は50年、あるいは60年の歴史があり、教会の中にも堕落した信徒が多く出てきたというのです。そして、神の民としての実質を保つためには厳しい警告を必要としたのだと言います。それから、榊原師は神学生時代のご自分の体験を書いておられます。母教会の長老宅に呼ばれ、ご馳走してくれるのかと思っていたら、「榊原さん、今のままではあなたは聖餐停止となりそうだ」と言われ、身を正したという証しです。彼は、この御自分の体験を通しつつ、「出来損ないのクリスチャンであってはいけない」と勧めています。
主の剪定は時には厳しいこともありますが、豊かに実を結ぶためと心得て、主の僕として、へりくだって、整えの時とさせていただきましょう。
3)父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 (4,5,9節)
⇒ わたしの愛に留まりなさい。
ここでは、「わたしにつながっていなさい」と言う言葉が、繰り返し出てきます。この「つながって」と言う言葉は「メンノウ」というギリシャ語で「わたしの愛にとどまりなさい」の「とどまる」も同じ言葉です。主イエスにつながっていなさいと言われます。幹につながって、樹液を受け、その命と養分に与ることがないといつの間にか、枝は枯れてしまうのです。わたしどもはぶどうの枝といわれています。枝が幹から離れてしまえば、養分も行き渡りません。乾ききってついに枯れてしまうのです。もしもつながっていなければ自分で実を結ぶことができなくなってしまうのです。
昔、アメリカのマサチューセッツ州ボストン郊外のメンタルケア病院の地下室に、アニーと呼ばれる少女が入れられていました。当時、メンタルな障害者は決して直らない、人目にさらしてはならない、と考えられていました。少女はこの小さな部屋で一生を過ごす運命にあったのです。しかし、その病院で働く一人の掃除婦がその少女を可哀想に想い、食事を運ぶ度に゛I Love you″と声をかけ続けたのです。すると、その結果その少女は心を開き、病も徐々に回復し、やがて学校を卒業し教師の資格を取りました。そして、ある家庭に家庭教師として遣わされました。その家庭には見えない、聞けない、話せないという三重苦の少女がいました。そうです、これがヘレン・ケラーとアン・サリバン先生との出会いです。一人の名もない掃除婦の励ましがなかったらアニーは教師になれなかったでしょう。そして、ヘレン・ケラーのその後の大きな働きもなかったはずです。私たちも、神の励ましを聞くべきです。「わたしの目に、あなたは高価で尊い。あなたを愛している。」と。
最後に「実を結べ」とのみ言葉に注目し、締めくくりましょう。 ガラテヤ5:22-23は有名。「御霊の実」は、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、 善意、忠実、柔和、自制」と知らされています。 ロマ6:22には「きよきに至る実」が記されます。その終局は「永遠の命」。 ピリピ1:11には、イエス・キリストによる「義の実」。神の救いの恵み。へブル13:15には「讃美のいけにえ」「くちびるの実」というのがあります。 ローマ1:13には、「救霊の実」が記されます。それは救われる魂のこと。
この週の初めの聖日に、「主がまことのぶどうの木であること」を学びました。は「わたしにつながっていなさい」「わが愛のうちにいなさい」「豊かな信仰の実、御霊の実を結びなさい」とお語り下さり感謝します。愛と喜びと平安の、恵み豊かな一週間を共に歩みましょう!ハレルヤ!
【祈り】 天の父よ。今朝は、「まことのぶどうの木」という題のもと、主にある恵みの生涯を学ばせていただきました。感謝します。わたしどもが「主イエス様、あなたこそまことのぶどうの木」であることを深く知るものとならせてください。偽りのぶどうの木、偶像の世界へ落っこちたり、恐ろしい不信仰に陥ることなく、深い信仰と祈りの中でまことのぶどうの幹であるあなたご自身の中に歩み、あなたの豊かな滋養分に与かる霊的な生活をしつつ、御霊の実、きよめの実、義の実に満たされ、こころは讃美に満たされ、救われた魂の実が、たわわに実る新宿西教会としてください。わたしたちのまことのぶどうの木である、主イエスの御名によって祈ります。アーメン!
