新宿西教会クリスマス礼拝説教「めぐみとまこと!」ヨハネ福音書1:14~18 説教者:深谷春男牧師

  クリスマスおめでとうございます。このクリスマスの良き日に、心を開いて、主イエス様を受け入れて新しい生涯へと導かれてまいりましょう。

説教準備をしている時に途中で気がつきました。「あ、今年はクリスマス礼拝が12月21日だ!僕の洗礼記念の日でもある!今年は2025年。ということは今日は56年目の洗礼記念日!」。共に再出発の時としたいですね。

【テキストの解説】

すでに2回にわたってヨハネ伝の「ロゴス(言)賛歌」と呼ばれる箇所を学んできました。今日はその最終回であり、「ロゴス賛歌」の結論です。

賛歌1( 1ー 5節)、創造者であるロゴス(言)を讃えるもの

賛歌2(10ー14節)、人となったロゴス(言)を讃えるもの

賛歌3(16ー18節)、恵みと真理の与え主であるロゴス(言)を讃える。

14節:ロゴス(言)は肉体を取り、神の栄光、恵みとまことの存在となる。
15節:洗礼者ヨハネの証。キリストは先在のロゴス。わたしより優れた方。

16節:キリストにある神の充満の中からめぐみに代えてさらに恵みを頂く。

17節:律法はモーセを通して、めぐみとまことはキリストを通して来た。

18節:キリストは「独り子なる神」、この方だけが神を示された。

【基本的メッセージ】

1)16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。 (16節)

 キリストのうちにある豊かさ。「めぐみの上に、さらにめぐみを」   ヨハネはキリストの中にこそ「満ち満ちているもの(プレーローマ)」であると語ります。それはパウロが「無尽蔵の富」(エぺソ3:8)の内容と同じです。「恵みの上に、さらに恵み」が増し加えられる歩みであると言います。この言葉は、「恵みに代えて恵みを」とも「恵みの上に更に恵みを」とも訳されます。

 登山の体験から、この「恵みに恵みを加えられ」を考えてみましょう。神学生の終わりの時に、石川県の金沢教会で、夏期伝道の経験を持ちました。40日間の夏期伝道でしたが、その期間中に、近くの白山に上りました。白山は標高2702mの高い山で、実にさわやかな経験でした。青年会の10人ぐらいで登りました。出発は山のふもとでした。次第に家がまばらになり、杉の木などが茂ってきれいな水の流れる小川の脇を通って、男女こもごも冗談を言いながら、笑いが林の中にこだましたりしていました。更に登ってゆく

と峠があり、そこから町々が見渡せます。家がマッチ箱のようでした。山の中腹を過ぎるころにはもう高い木は見当たりません。まわりも緑の山々に囲まれています。草花や茂みの間を、登ってゆきました。26歳のころでしたので体力はあったと思いますが、なかなか息も激しくなりました。更に登ってゆくと高山植物が生えており、地元の青年が、植物の名前や高山蝶の特徴などを教えてくれました。途中で、讃美歌を歌ったりしたのを覚えています。

 山の頂上が近くなったころには、高山植物もまばらになり、岩肌が多くなりました。やがて霧がかかって見通しが悪くなりました。そのうちに、1m先も見えなくなって、足元を見ながら、リーダーの阿部先生が「おーい、みんな、いるか~」などと声をかけています。20分ぐらいその霧の中を進むと、目の前がさーっと開けてきました。少しして後ろを見ると、後ろは雲海が広がっており、雲海のはるかかなたに高い山の頂上が顔を出しております。日も暮れて夕方に近くなっており、石のごつごつした頂上近くの光景は何か、神々しいような、日常生活から離れた神聖さのような空気がありました。翌朝、暗いうちに、朝日を見に山の頂上に出かけました。少しずつ明るくなってゆく東の空は雲海がどこまでも広がっています。しばらくするとその雲海の端が金色に輝き、太陽が昇り始めました。創世記1章1節を思い起こす、すばらしい光景でした。「恵みに恵みが加えられ」、「恵みに代えて恵みが与えられる状況」に似ていました。

信仰の生涯も、その出発の時期もあります。信仰の最初の頃は律法によって救われると勘違いしたり、自分の愚かさを知らされつつも、神様のおられることを悟り始め、先輩のやさしさに感動し、新しい人生の喜びを讃美することから始まります。しかし、信仰生涯の中腹は、新生の恵みを越えて、自分の愚かさや人間の限界性につまずいたり、失望したりしながら、高山植物との出会いのような不思議な体験をしつつ成長してゆきます。そして、信仰の高嶺は、不信仰の疑惑の雲を突っ切り、清朗の頂き、恩寵の充満、天国の確信、濃厚なる臨在、御言葉の確証、再臨への希望、永遠の命の先取り・・あらゆる困難を越え、栄光の主にまみゆる信仰の完成へと進むのです。

2)17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。(17節)。

⇒ めぐみみとまことはキリストを通してきた

 人間の本当に必要な神の「めぐみとまこと」はキリストの中にある、と聖書は語ります。人間の「罪の赦し(恵み)」と、わたしたちを「生かす真理(まこと)」はキリストの中にあるのです。

「めぐみとまこと」がイエスキリストを通してきた。人間が求めている者の最終的なもの、究極的なものは「罪の赦しと永遠の命」です。ロマ書風に言えば、主の十字架の恵みによる救いと聖霊なる真理の啓示です。更に言えば、神の愛、アガペーの充満の世界です。

モーセを通して律法はシナイ山で与えられ、神の民としてシナイ契約が結ばれました。旧約聖書で一番大きな事件はこのシナイ山での、神の民の出発であり、律法の授与でした。律法は神の真実な法則であり、命なのです。神を愛し、人を愛して生きる人生の基礎を教えているからです。でも、罪ある人間は、それを守ることができなかったのです。しかし、ここではそれ以上の「恵み」と「真理」がイエスキリストを通して来たとヨハネは語ります。それはイエスキリストを通して神の愛と救いが来たことを告げるのです。

3)18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。(18節)。

⇒ 主イエスは、ひとり子なる神!

  ヨハネはかなり思い切って語ります。この1~18節の序文のところで、イエスキリストは、神のふところにおられるひとり子なる「神」であると宣言します。キリストは「神」であると告白しています。この表現は「神の子」でなく「子なる神」です。これはキリストの「神性」の強調です。

またヨハネ20章の終りにおいてトマスの信仰告白を通して「わが主よ、わが神よ」という告白をしています。当時はユダヤ的な色彩の強い信仰の中でキリストを「神」と告白することは、多くの困難がありました。しかし、ここに信仰告白の原点があります。キリストは神なのです。

小松川教会牧師の原登先生の救いと献身の証し。「百万人の福音」から。

わたしが16歳の時に、川崎の三等郵便局に勤めていた。そこで一緒に働

いていた小泉さんという同僚がいた。彼の兄さんは仕事師をしていたが、ある日、仕事の最中に、上から丸太が落ちてきて、死んだ。

 わたしは友人の兄のお葬式に、参列することになった。目の前についさっきまで元気で働いていた人が、突然死ぬという厳粛な事実にぶつかり、大きなショックを受けた。わたしは生まれつき、からだが弱く、病気ばかりしていた。そのため常々、死に対する恐れを心の中にいだいていた。小学校から旧制中学校へと進んで、実社会に出ても、わたしの健康はあまりにすぐれず、いつ死ぬかしれないと考えていた。そうした矢先に、友人の兄の死に直面したのである。 わたしはいても立ってもいられなくなった。人間はいつか地

上から姿を消す。死は必ず訪れるのだ。しかし、その後どうなるのか、それがわたしの悩みであった。

昭和12年12月12日は、非常に暗い晩であった。暗い気持ちになってい

たわたしは、友人に誘われて、蒲田の賜恩教会に行った。民家を改造した古い教会であったが、40人ばかりの人が集まっていた。生まれて初めて教会の門をくぐったわたしは、まず、明るい雰囲気に驚いた。わたしは、なぜであったか知らないが、「ここに生きる道がある!」と直感した。

  講壇の上で話をなさったのは砂山先生であった。先生は説教の後で、講壇の上の十字架を指さし、「この十字架を信じなさい!」と叫んだ。信仰の決心をすすめられた時、わたしは瞬間的に手を上げ、前へ出た。それは、わたしの人生の歴史にとって、回れ右をする、重大な一瞬であった。それからわたしの、まったく新しい人生が始まるのである。

 わたしは救われると、こんなすばらしい福音を人々に伝える伝道者になりたいと考えるようになった。この願望を語ると、まず、牧師が反対した。数え年17だから若すぎるという。また、同僚も極力引き留めようとした。

 わたしの勤めていた郵便局の局長が、いつの間にかわたしの父宛に、わたしがヤソの伝道者になりたいと言っていると手紙で連絡してしまった。怒ったのは父親である。わたしはさっそく、実家に呼び戻され、父にどなりつけられた。それでもわたしの決心が変わらぬので、父はわたしのシャツをびりびりになるまでせっかんし、小川の水を汲んで来てかぶせようとした。母は母で、泣いてわたしの翻意を勧めた。その夜、わたしは離れ屋で寝たが、このままであったら永久に伝道者になれぬと思い、両親あてに長い置手紙を記して家を飛び出した。ひとまず私は、教会に下宿させてもらうことにした。

 (文章はまだ続きますが、原登先生の救いと献身の生々しい証しです。)

クリスマスの日は、神の大きな愛がわたしたちの心に激突した日です!【祈り】  天の御父!クリスマス礼拝を感謝します。主イエスこそ、暗黒を照らす「まことの光」。そしてまた、命であり、恵みである、受肉のロゴスであることを学び、更に「この独り子なる神」を心に受け入れ、成長することを学びました。新しく迎える2026年、輝く勝利の日々へと導いてください。救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会アドベント第三主日礼拝説教「その名を信じた人々」ヨハネ福音書1:6~14 説教者:深谷春男牧師

  クリスマス・アドベントはすばらしいですね。

  アドベント第一週は、希望のろうそく。

  アドベント第二週は、平和のろうそく。

  アドベント第三週は、喜びのろうそく。

  アドベント第四週は、愛のろうそく。

   今週は、「喜びのろうそく」を心に灯して歩みましょう。

【聖書箇所の概略】

先週は「道、命、光なる主イエス」の姿を学びました。

今日は、バプテスマのヨハネから、主イエスを迎える備えを学びます。

 今日の箇所を詳細に分けるとこうなります。

6―8節  バプテスマのヨハネについて。

彼は光ではなく光の証言者。

9―12節 主イエスについて。彼は光そのもの。

  • 真の光なる方、②世に来られた方、  ③先在の方、

④ この世を造られた方 ⑤世に認められなかった方、 

⑥世に拒絶された方、⑦信じた者に神の子となる力を与えた方。

【メッセージのポイント】

1)6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。   (6-7節)

⇒ バプテスマのヨハネについての記事!   

 6―8節はヨハネについて記されています。ここで言われているのはバプテスマのヨハネです。でも、なぜ突然ヨハネが出てくるのでしょう。ヨハネによる福音書はエペソの町で書かれたとされますが、当時のエペソはバプテスマのヨハネの弟子達がいたことが知られています(使徒19:3)。バプテスマのヨハネは主イエスより半年ほど年上でした。彼の力強い預言とその栄光は「女の産んだ者のうち、バプテスマのヨハネより大いなる者はない」とまで言われました。多くの人々はヨハネに期待をかけ、彼こそ、預言された救い主ではないかと考えたほどでした。しかし聖書は言います。彼は光ではありませんでした。どんなに偉大な働きをしたとしても、光りそのものでない限り、その働きには時代的な限界があります。そのことをはっきりさせるために、わざわざ彼は光ではなく光を証しするために遣わされた者と挿入されたのだと考えられます。彼は光ではありません。しかし、彼の証言があって、光なる主が明瞭に立証されたということは大事なことです。現代にまで主イエスとその福音が伝えられたのは、その時代その時代で証言する者があったからです。ヨハネ福音書は主イエスが光であることとその光を証しする者が語られているのです。わたしどもも主の証し人として歩みたいものです。

2)8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。

 ⇒ 証しの人生、「使徒的人生を生きる!」      (8節)

 このことはとても大事なことであろうと思います。わたしどもは光ではありません。光について証しをするのだと言います。バプテスマのヨハネは偉大な人格者でしたが、光そのものではありません。彼は光について証しするというたいへん偉大な任務を持って、地上生涯を歩まれました。それは証し人の人生です。キリストの使徒たちも証し人として歩みました。それは救い主である主イエスの光を証しする任務を負うた人生、「使徒的人生」です。

 新宿西教会でとても有名な先生が創立記念か何かの説教をされたことがありましたね。わたしは昔、月報か何かで読みました。その先生は、クリスチャンは「バプテスマのヨハネの指」なのだと語られました。バプテスマのヨハネの指は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」を指し示しております。バプテスマのヨハネの指が美しいか美しくないかではなくて、その指の存在価値は、主イエスを指し示しているかどうかにかかっていると語られておられ、とても印象深い説教でした。

 先日、東京聖書学校のクリスマスで、東京聖書学校で校長をしておられた、久多良木和夫先生の救いと献身の証しを聞きました。先生は1956年、大分県にて生を受けられました。家は代々農家。お祖父ちゃんは村長もしておられました。お父は数学の教師でした。中学3年の時、衝撃的な事件に遭いました。右目の眼底出血。即、入院。運動は禁止。高校一年の時網膜剥。右目は完全失明。高校の時には理数系の大学を目指して猛勉強。一年浪人して宮崎医科大学に入学されました。はじめは真理を求めてセブンスデーの教会に通い、その後、宮崎清水町教会で求道生活。なかなか十字架の救いが分からなかった。大学2年生のKGKの春期学校にて、片岡伸光主事に出会ったそうです。彼と一時間、歩きつつ話し、悩む久多良木青年のためにヨハネ1:18の御言葉を下さった。その後、奇跡を見れば信じてもいい、と言う傲慢な自分の姿や、思春期の特有の自分の醜さをも示され、「自分は罪人だ」とわかった。二日目の夜に招きに応じて主イエスの十字架を受け入れた。そして大学3年生のペンテコステの日に洗礼を受けられました。その後、主の恩寵のもと、献身に導かれた。卒業の2か月前に両親にそのこと話しました。医科大を卒業し、医師となることを楽しみにしていた両親を、失意の中に落としてしまいました。医師の国家試験は合格しましたが、彼は東京聖書学校の門を叩きました。卒業後、小見川教会、都農教会、現在の北九州復興教会を牧会。その間、彼が牧師になることを反対していたお父様も、お母様も洗礼を受けられました。奥様のお母様も、お父様も信仰を持って洗礼を受けられました。「親不孝をしたが、永遠の命を紹介したので両親への恩も返せたかなと思う。」と語られました。6年間、医学部で学び、卒業間近かになって、最も大切なこと、永遠の命を伝える直接献身へと導かれ牧師になられた!改めてすごいと思いました。

3)9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。  (9節―11節)

⇒ すべての人を照らすまことの光を拒絶してはいけない!

先週も語りましたが、主イエスは「言(ロゴス)」であり、「命」であり、「光」なるお方です。この光なるお方が、世を造られた方でした。しかし、この世は主イエスを拒みました。「世はロゴスを認めなかった」「民は(言を)受け入れなかった」と繰り返されています。人々は本来、王として迎えるべき主イエスを、王とは認めませんでした。そして主を拒んだのです。それは、主イエスを拒み、侮辱し、殺してしまった、あの十字架の出来事を指し示しています。創造のはじめの時には、「良かった」「良かった」「はなはだ良かった」とたたえられたこの世界が、人間の罪によって、混乱が、闇が、死が入り込んでしまったのです。

9節で、主イエスの本性が描かれています。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」と。しかし、まことの光がこころを照らすのが面白くなくて、人々は暗闇を愛し、光を憎んで、主イエスを拒んだのです。神様は何と悲しかったことでしょう。しかし、皆さん、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々に、彼は神の子となる力を与えた」とあります。

 数年前に、日曜日の午後に、当教会で、チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」の演劇を見ました。この公演は、2019年2月3日、突然天に召された西田正兄が主催していたキリスト教伝道劇団新宿新生館のアガペー・インの兄弟姉妹の公演で、長い時間をかけて準備し、熱のこもったすばらし演劇でした。わたしは委員会で遅くなったので午後5時半からの公演を観劇しました。

ロンドンの町の、霧の濃いクリスマス・イブの晩の出来事を印象深く、表現していました。クリスマスの劇としては多分、一番有名な作品ではないでしょうか?お金持ちで、けちで、人を人とも思わない、嫌われ者のスクルージが主人公で、彼が事務所で見る夢の出来事が物語の内容でした。

彼の見た夢が、天使に導かれて見た「スクルージの、過去、現在、未来の姿」であっことが印象的でした。

過去は、とてもみじめな少年時代。クリスマス・イブの家庭の楽しい最高の時なのに、家は貧しく、両親がけんかしていて、家に帰れず一人ぼっちでうずくまっている少年の自分。やさしい妹が慰めてくれた。それから青年の時。クリスマスイブの夜、皆で楽しいダンス。ああ、そこに結婚相手になったかわいい女性。彼女が元気で、笑っている。彼はその世界に吸い込まれていった。ああ、素晴らしい青春の思い出・・・。

現在は。お金の亡者になり、金ぴかの衣装は着けているけれども、皆に嫌われて、自分自身も生きるのが嫌になっている寂しい、孤独な老人。

そして最後は未来。ここは天使ではなく、昔、仕事の同僚だったマーレイが死後の世界から、彼を連れてゆく。行き着いたところは墓場。寒い、人気のないくらい墓場。そこに市の職員が二人で、孤独な老人の死骸を埋葬して帰ってゆく。見るとそれは自分の死骸、自分の墓だった。スクルージは寒さとみじめさと恐れで、そこでさめざめと泣く。

目が覚めると、それは夢だった。彼は自分の罪深い生活を悔い改めて、神に立ち帰り、クリスマスの恵みの与ることとなったのでした。彼を受けいれた者、即ち、その名を信じた人々には彼は神の子となる力を与えたのです!

【祈祷】 主よ、わたしどもは破れの多く、罪深い者です。しかし、主イエスを信じ、受け入れた時に、神の子としてくださり、内側に光を持つものとしてくださいます。聖霊の助けによって、燃えて輝く、主の証し人、現代のヨハネのように、人々に証しする者として下さい。喜びの一週間を歩みましょう。御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会アドベント第二礼拝説教「言・命・光」ヨハネ福音書1:1~5 説教者:深谷春男牧師

 今年も、アドベントの時季を迎えました。教会暦で行くと、このアドベントから一年が始まります。アドベントは、もともと adventus というラテン語で「到着」の意味だそうです。キリストの到来、出現を待つ時期という意味です。これからクリスマスまでの時、わたしどもは主イエスに会う備えの時といたします。王の王、主の主なる恵みのお方が来られる。教会暦にはひとつの教えがあります。人生が真実に始まるのは、主イエスを心に迎えるための「備え」から始まるのです。また、このアドベントという言葉から adventure(冒険)という言葉が出たと言われます。神様が御子イエスをこの世に送って冒険をしてくださった。そして、主イエスを心に迎えるクリスチャン生涯は、素晴らしい可能性に満ちた愛と信仰の冒険であることを語っているのです。

さあ、今日から素晴らしい冒険の旅に出かけましょう。

【この聖書箇所の概略】

 さて、ヨハネ福音書は「はじめに言があった」と有名な書き出しで始まります。「ことば」とはギリシャ語でlogos。宇宙の法則、道理の意味で、天地宇宙を貫く「真理」としてのキリストを指し示します。ここは「ロゴス賛歌」と呼ばれる箇所です。

 賛歌1( 1ー 5節)創造者であるロゴス=キリストを讃える

 賛歌2(10ー14節)人となったロゴス=キリストを讃える

 賛歌3(16ー18節)恵みとまことの主であるロゴス=キリストを讃える

更にヨハネ福音書は「しるしの書」(主イエスの7つの奇跡1:19ー12章)と「栄光の書」 (特に主イエスの十字架と復活 13ー20章)とで構成されています。

【メッセージのポイント】

1)1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は初めに神と共にあった。3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(1~3節)

⇒ キリストは神の言(ロゴス)

 マタイの福音書は旧約で預言されたメシヤ(油注がれた方=救い主)としてのキリスト、マルコ福音書は僕として仕えるキリスト、ルカ福音書は全人類の救い主としてのキリスト、ヨハネ福音書は全宇宙的な広がりの中で神の子としてのキリストが描かれています。ヨハネはここでキリストの姿を「肉体を取った神」という姿でわたしたちに伝えています。ヨハネはイエスキリストを受肉前と受肉後に分けて説明しています。受肉前の主イエスは神の「言」(=ロゴス)であり、「独り子なる神」と語っています。

 この箇所は天地創造の記事創世記1:1ー2)とよく似ています。その箇所と照らしあわせて福音書記者は書き始めています。その第一は天地創造の初めにロゴスなるお方=キリストがおられたという内容です。

ロゴスは「論理」「道理」「知恵」「真理」「理性」等様々な言葉に訳されます。ロゴスとは一言で言えば「混沌」の反対で、神の秩序、神の論理を意味します。この世は空虚な混沌ではありません。この世は美しい秩序あふれる神の恵みの最高傑作なのです。世界は神の理性の壮大な創造物であり、醜悪なる空虚な世界とは違うのです。その原点はキリストの愛と恵みの秩序ある世界。ここに深い神への信仰告白とこの世に生かされて行くことの意味を見ることができるのです。キリストはこの混沌のカオスから救う神の真理なのです。

  皆様の同じではないかと思うのですが、主イエスに出会うまでのわたしどもの生涯を考えると、わたしどもは「混沌の嵐」の中を歩んでいました。わたしも自分の青春時代を思い起こすと、実に、神の救いを受ける前の、混沌の世界を思い出します。どのようにして自分の人生を生きてゆくのか?当時、若者をひきつけた共産主義思想にひかれたり、仏教にひかれたり、自分の欲望に振り回されたり、高ぶったり、醜さに絶望したり、激流に翻弄される枯れ葉のような、混沌そのものの人生でした。主イエスに出会わなかったら、自分の醜さと様々な重荷で人生そのものを棄権していたかもしれないと思います。実に主イエスはわたしにとって混沌の怪物から救ってくださった真理の君なのです。神のロゴス、これは「神の真理」という意味です。主をたたえよ。

2)4 この言に命があった。

⇒ キリストは永遠の命!        (4節a)

 さらにヨハネはこのロゴス(=キリスト)のうちに「命」があった、と語っています。「生命」は「死」の反対語です。命の世界、すなわち、摂取や排泄を繰り返し、成長し完成をめざし、喜びや感動、切れば、暖かい血潮が流れてくるような存在として、生命は存在します。そして最後は高度な知的、霊的能力をもって、創造者なるお方を認識し、霊的な交流を持ちつつ、本来の創造者の意志すなわち創造の完成をめざして共に働く存在として命が創造されたのです。命の最高形態は愛です。この生命の根源は神のロゴスなるキリストの内にあると聖書は語っています。

今年は、礼拝説教で、ヨハネ福音書の「わたしは~である」という言葉を7つ全部を読むことができました。これはとても大きな恵みの体験でした。

以前、週報に書きました。

《歌舞伎町の牧師館から》 2025.8.10

「最近、示される聖句」        谷春男

ヨハネ福音書に「わたしは・・・である」と言う主イエス様の宣言が7つ出てきます。この「エゴー エイミ・・・」というところを学んでいてとても啓発されています。これはイエス様の自己紹介、救いの宣言ですね。

「わたしは命のパンである」(6:48)、

「わたしは世の光である」(8:12)、

「わたしは門である」(10:9)、

「わたしは羊飼いである」10:11)、

「わたしはよみがえりであり、命である」 (11:25)、

「わたしは道であり、真理であり命である」(14:6)、

「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)。

これらの言葉は暗唱しましょう!

霊的な飢えや人生の空しさの時・・

⇒ キリストこそ命のパン!

人生の真っ暗な試練の時・・・

⇒ キリストこそ世の光!

荒野で迷い、道が見えない時・・

⇒ キリストこそ人生の門!

孤独や愛の欠如、救いの切望の時・・

⇒ 牧者なるキリストを呼べ!

愛する人の死に出会ったら・・・

⇒ キリストこそ復活の命!

道に迷い、真理、命の不明の時・・

⇒ キリストこそ道、真理、命!

自分を潤し、霊的命の渇望の時・・・

⇒キリストこそ真の葡萄の木!

いつも良き牧者なる主イエスと共に。ハレルヤ。

わたしどものうちに頂いているキリストはまさに永遠の生命なのです。我らは主にあがなわれ、死を超えた永遠の生命の中に歩んでいるのですから。クリスマスの主がまさに命であることを語り告げてゆきましょう。ハレルヤ。

3)そしてこの命は人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

⇒ キリストはまことの光(4b、5節) 

最後にヨハネはこの先在のロゴス(=キリスト)こそ人間の暗黒を照らし出すまことの光であると語っています。光は闇の反対の言葉です。人間は暗闇を恐れます。現在の日本で本当の暗闇を経験することは難しいものです。

あるところで事故に巻き込まれ、地下で閉じ込められたという事があったそうです。その時に、閉じ込められた人々は真っ暗闇の中で恐れを感じました。その時、誰かが携帯をつけました。淡い、青白いその光であっても、その光で多くの人は慰めを感じたと言います。真っ暗闇は、本能的な恐怖や不安を感じさせるものです。聖書は神から遠く離れた人間は、本質的にこの暗闇を心の奥底に持っていると告げます。それは霊的な暗さです。しかし、クリスマスのメッセージはすばらしい。どんなに人間の罪や死や絶望的な暗黒の深淵にあろうとも、神は光であり、命であり、愛であり、世界の暗黒を打ち破る力なのだと語っています。クリスマスはまさにこの光の到来なのです。

今日はアドベント第二聖日です。「アパルーム」誌によれば、アドベントの備えの第1週目は「希望」、第2週目は「平和」、第3週目は「喜び」、第4週目は「愛」と記されています。まず、深い悔い改めを持って御前に立ちましょう。

主イエスこそ「まことの希望」です。絶望的な罪と死の支配の中から、キリストの永遠の命の中に歩み始めましょう。

また、主イエスこそ「まことの平和」なるお方です。暗闇の中で手さぐりし、絶望と悲しみの中に歩んだ生涯から、平安の源なる主イエス様をこころにお迎えいたしましょう。ヨハネ14:27。

そして主イエスこそ「まことの喜び」です。人間の「混沌」「死」「暗黒」そのものであるがゆえに、それらを打ち破る、キリストの救いを迎えましょう!ここから本当に神の恵みの「愛」が輝くのです。この一週間、冒険に満ちた、アドベンチュアな、勝利に満ちた喜びの日々が始まるのです。ハレルヤ

【祈り】  天のお父様!今日はアドベント第二主日を感謝します。今週は「平和のろうそく」の火を灯しました。新しい一年の歩み、主イエスよ、愛する兄弟、姉妹と共に祈ります。わたしどもの心に来て住んでください。神の言なるキリストよ。わたしのうちに来て、魂の内側から滾々と湧く永遠の命を与えてください。神の光なる主イエスよ、今来たりて、わたしどもの暗黒を照らし出し、恵みの光と平安で満たしてください。まことの勝利者なる主よ。十字架の血潮の贖いにより、聖霊なる神様の愛と救いの計画への確信により、圧倒的勝利者として下さい。「キリストの平和、ここにあり!」ハレルヤ!クリスマスの主である、主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会アドベント特別礼拝説教「新しい契約に生きる」エレミヤ31:31~34 説教者:べアンテ・ボーマン宣教師

《新宿西アドベント礼拝》  「新しい契約の下で生きる」   2025.11.30
エレミヤ31:31~34                    ベアンテ・ボーマン宣教師

I. はじめに
 神様は一連の契約を通じて、段階的な贖いの計画を明らかにされました。

  1. ノアの契約: 
    創世記6章に記される、全人類が堕落した時、地は呪われました。それが「ノアの洪水」の記事です。しかし、今は、さいわいなことに、その呪いは解かれ、季節は途切れることなく続き、もはや裁きの洪水はありません。虹がその印であることを聖書は語ります。(創8:21-22; 9:11-13)。
  2. アブラハムの契約:
    アブラハムは、この地上の土地、国民、そしてすべての者への祝福の約束を受けました(創12:1-3)。
  3. モーセの契約:
    モーセの契約の時は、祭司はイスラエルの民と神様との間の仲介者でした。生活のための規則(十戒、613の律法があると言われます)、罪を覆うための儀式。これは条件付きで、祝福は、わたしたちが神様の導きに従順であった時の報酬でした(出19-24)。
  4. ダビデの契約:
    永遠の支配の約束と神の愛と恵みの最初の啓示です(撒下7:12-16)。メシア(ヘブル語=油注がれた者、ギリシャ語ではキリスト)はダビデの血筋から来る。

II. エレミヤ書31:31-34   新しい契約

エレミヤは、当時まだ未来である新しい契約について語っています。
それはモーセの契約のようなものではありません。主イエスはまさに、新しい契約の発案者であり、完成者です。主イエスが十字架にかかられる前の夜、ぶどう酒を取り言われました。「これは[新しい]契約の私の血です」(マタイ26:28)。十字架は始まりであり、ペンテコステの日が新しい契約の完成となります。

A. エレミヤ31:33a, 34a 霊による内住
 新しい契約は、外面の規則ではなく、内面における霊の働きです。体は霊の宮です(ヨハネ3:5-7; コリント第一6:19)。神に従うように私たちを動かし(エゼキエル36:27)、神の意志を成し遂げる力を与えます(エペソ3:16)。そして私たちに教え、助けるのです(ヨハネ14:26; ローマ8:26-27)。

B. エレミヤ31:33b わたしたちを神の御前に導くのです。
 主イエスの称号は、インマヌエル「神、私たちとともにいます」(マタイ1:23)。主イエスが死んだとき、「宮の幕は上から下まで二つに裂けた」(マタイ27:51)。旧契約では、大祭司だけが年に一度至聖所に入ることができました。キリストは、すべての人に神の前への道を開かれました(ヘブライ10:19-22; 4:16)。

C. エレミヤ31:34 完全な義
 新しい契約は愛と恵みに基づいています。神は十字架の完成した業を通して、わたしたちの罪を赦し、それを消し去るのです。

D. 新しい契約の中で生きる。
神様を愛することは律法の完成であり、成就なのです(マタイ22:37-38)
主イエスを愛することが従順の鍵です(ヨハネ14:15)。よみがえった主イエ
スは規則よりも、愛を好まれました(ヨハネ21:15-17)。新約聖書には「新しい契約の栄光」が、処々に記されます(コリント二3:7-18)。

新宿西教会収穫感謝礼拝説教「神の祝福と人の感謝」詩篇67篇 深谷春男牧師 2025年11月23日

 今週は、週報のコラムに書きましたように、ホーリネスの群の機関誌から、「有馬歳弘先生を天に送る」と言う、文章を依頼されて、書き上げました。有馬先生は、ホーリネスの群の天門教会の伝道師でしたので、同じグループに属しておりました。しかし、先生は昭和16年生まれの方で、わたしより10歳近くも年上でしたので、親しくお交わりするチャンスを持つに至りませんでした。とても残念に思っております。しかし、教会の「50年記念誌」や、教会月報「シャローム」を、夜が更けるまで読ませていただきとても感銘受けました。特に先生が教会に足を向けたのは、高校2年生の時に、五味川純平さんの「人間の条件」を読んで感動し、激動の昭和史の中で、中国や韓国の方々を軍事政権のもと、恐ろしい罪を犯さざるを得なかった主人公の苦悩が描かれており、この小説は仲代達也さん主演の映画にもなりまして、わたしは友人と共に、5,6時間にわたるこの映画を見に行ったのを覚えています。わたしの20歳のころのことです。この小説を読んで、教会に行って、自分の罪や日本の犯した罪などを考え、自分の罪に気づき、洗礼を受けてクリスチャンになり、卒業の時には、自分は献身して牧師になろう!と考えた有馬先生の体験と自分の体験が重なってとても熱い思いを新たに示されました。

【さて今日の聖書の概略】                                              

さて、本日与えられている詩篇67篇は、「収穫感謝の詩篇」として読み

継がれて参りました。6節で「地はその産物を出しました。神、われらの神はわれらを祝福されました。」という言葉のゆえに「秋の収穫感謝の詩篇」と呼ばれたわけです。66篇は「春の感謝祭」とも言われます。

しかし、丁寧に学んでゆきますと、本詩篇には豊かな実りに対する感謝が

ありますが、それ以上のものがあります。つまり、この詩篇は収穫感謝の際に歌われたかもしれないが、その主題が「収穫への感謝」という以上に、「神の臨在への感謝」を歌っている詩篇だと言われています。

  この詩の構造は、ケンブリッジバイブル注解を書いたロジャーソン&マッケイによれば、良くバランスのとれたものになっていると解説されています。 

また、黒木安師の解説によりますと以下のように語られます。

この詩篇の祝福は「アロンの祝福」(民数6:24~26)を継承する。

「神からの祝福」こそは生きとし生けるものにとって不可欠のもの。何を手に入れたとしても「神の祝福」を失うならすべてが潰えてします。「神の祝福」とは神から与えられる何かでなく、神ご自身との生きた関係、神ご自身との豊かな関係である。その関係はアダムとエバの原罪の出来事で失われ、カインのアベル殺害の記事で、悲劇へと転化した。しかし、主イエスの「十字架の贖いはもう一度人間を「祝福を受け継ぐ(1ペテロ3:9)へと新しく造りかえたのである。主イエスキリスト信じる信仰が、信仰の人アブラハムと共に、祝福の人生を受け継ぐのである。

いまひとつ重要なことは「御顔の輝き」ということが2節で語られます。「神の御顔」という言葉は詩篇全体で43回、旧約聖書全体では65回語られ、神体験を語る直接的な表現となっている。いつも、主の御顔を仰ぐという「臨在の体験」に生かされたいものである。やがて、「顔と顔をあわせて見ることになる」(Ⅰコリント13:12)と約束された恵みの事である。

メッセージ・ポイント】                                                    

1)、聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせた歌、さんび

1 どうか、神がわれらをあわれみ、われらを祝福し、

そのみ顔をわれらの上に照されるように。〔セラ

2 これはあなたの道があまねく地に知られ、

あなたの救の力がもろもろの国民のうちに

知られるためです。 (1、2節)

  ⇒ 万物は神の祝福に依存する。(神の臨在なき人生は空虚である。)

   「礼拝者の顔は、収穫物からその与え主なる神へと向かう」(バイザー)。

この詩は「収穫の感謝の歌」でもありますが、詩人の思いは収穫物ではな

く、世界の造り主であり、歴史の審判者なる神に向かっています。ここで

詩人は「神の憐み」「神の祝福」「神のみ顔」の輝きを照らしたまえと祈っ

ています。この詩は収穫感謝、自然の実りへの感謝の祭りの際に歌われた

と一般に考えられていますが、実は、収穫感謝や大地の作物への言及は、7

節でようやく現われます。主題は「収穫物の豊かさ」ではなく、「創造主の

御顔」です。「自然を祝福する神」ではなくて「歴史を導く神」です。この

箇所はアロンの祝福(民数6:24‐26)の投影でもあります。それは「神の

命あふれる人格的な臨在」としての「神のみ顔」への祈りとなっています。

神の臨在こそ計り知れない祝福の源なのです。それは人格的出来事、救い、道、公正、裁きといった神の義への信仰です。カナン宗教の農耕民的な

豊穣信仰、それから来る性的混乱の世界とは正反対の世界を形成しています。  ここでは、神様の祝福の姿を、10の言葉で鮮やかに表現します。

  収穫のお祝い・神様の臨在のお祝いを表わす、万国旗のようです。

  • あわれみ(ヘーン):これは神様の恵みを表わす。神の豊かな恩寵。
  • 祝福し(バラカー):ここでは3回(1,6,7節)。神の命の充満。
  • 御顔を照らし(オール):光を放つ。神様ご自身の臨在の恵み。
  • あなたの道(デレク):神様に従って歩む生活の仕方。主の道を歩む。
  • あなたの救い(イシュア):神様の備えられた救い。主イエスの名前も。
  • 地は産物(イブラハ)を: 神様の与えられた大地の恵み。豊かな実り。
  • 公平(ミショール):貧しい者にも、豊かな者にも公平な裁判を。
  • 裁き(シャファート):これは神の裁き。被圧迫者にとっては解放の恵み。
  • 導かれる(ナーハム):神様が、正しい導きをする姿。

⑩ あなたに感謝する(ヨドゥーカー):感謝すべき対象。4回(3、3、5,5節)

2)、 3 神よ、民らにあなたをほめたたえさせ、

もろもろの民にあなたをほめたたえさせてください。

4 もろもろの国民を楽しませ、また喜び歌わせてください。

あなたは公平をもってもろもろの民をさばき、

地の上なるもろもろの国民を導かれるからです。〔セラ

5 神よ、民らにあなたをほめたたえさせ、

もろもろの民にあなたをほめたたえさせてください。

6 地はその産物を出しました。

神、われらの神はわれらを祝福されました。(3~6節)

⇒ すべての民よ、主に感謝をささげよ!(義と祝福のゆえに) 

  ここでは、3節と5節で、畳句として「もろもろの民にあなたをほめたたえさせてください。」と4回も繰り返されます。

「感謝をささげること」が、人間のなし得る最高の神への応答です。まず、「神の道」、「救い」(2節)、「公正」、「裁き」、「導き」(4節)のゆえに神に感謝を捧げる。これは新約聖書では、十字架、復活、再臨という神の歴史を貫く御経綸、神の歴史支配、義の業の貫徹を意味することになります。そし

て、2番目に「大地の作物」(6節)への感謝ということになります。

義のもたらす祝福として感謝がささげられます。「十字架と復活」への信仰を経て、それから「聖霊の満たし」へと進む、聖書の指し示す霊的な成長の順序がここにも見うけられると感じます。詩篇65篇も同じです。

 山室軍平先生は、この詩篇の表題を「世界はわが教区」というジョン・ウェスレーの言葉をもって飾りました。確かに、この詩篇には、イスラエルの民だけでなく、全世界の人々民族が、主に感謝を捧げると歌われております。

  • あまねく地に知られ     ②もろもろの国民のなかに
  • 民らに           ④もろもろの民に

➄ もろもろの国民に      ⑥もろもろの民を

⑦ 民らに           ⑧もろもろの民に

⑨ 地のもろもろの果てに    ⑩ことごとく

3)、 6 地はその産物を出しました。

神、われらの神はわれらを祝福されました。

7 神はわれらを祝福されました。

地のもろもろのはてにことごとく

神を恐れさせてください。(6~7節)

 ⇒ 神を畏れる者となれ!

   ここには神の祝福を願う民族的な祈りがあります。

神が、祝福してくださるように!魂の問題に解決を与え、主イエスの十字架を仰ぎ、救いを朝ごとに明確に示してください!そこから聖霊の著しい油注ぎとリバイバルの業がなされます。それは「神を畏れ敬う」(新共同訳)魂の状態から来るのです。 最後の締めくくりは、「主を恐れることは知恵のはじめ」(箴言1:7)の通り、神を畏れる者(新約で言えば、「神を信じる者」という意味。)として、新しい人生を歩みましょう。

歴史を導く主、祝福の主を見上げ、感謝して一年を締めくくりましょう。

主の御名は讃美すべきです。ハレルヤ

【祈祷】 全能の父なる御神。11月30日から、アドベント礼拝が始まります。教会暦の1年の始めはアドベントからです。そのような意味で、この一年を終わろうとしています。何よりも今は収穫の時です。あなたの豊かな祝福を心から感謝します。豊かな収穫に目を注ぐ前に、主よ、あなたの臨在に感謝するよう導いてください。そして迎える新年に、あなたの豊かな救い、御臨在、豊かな祝福の実を受ける一年となりますように。ハレルヤ、あなたの御祝福を感謝します。主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会主日礼拝説教「人生の究極の使命」マタイ福音書28:18~20 深谷春男牧師 2025年11月16日

さる10月2日の木曜日、聖書研究祈り会で美歌子先生が「マタイ福音書」の連続講解の説教が終わりました。2018年に始まった学びでしたが、1章1節から、ついに7年かけて28章20節を終わりました。ハレルヤですね。  

主イエスがクリスマスにお生まれになった記事から、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、荒野に退いて40日の断食。ガリラヤで宣教活動をはじめられました。それから12弟子を召され、訓練されて、ユダヤ地方を宣教されました。そして多くのたとえで語られて、16章のピリポ・カイザリアでのペテロの信仰告白のあとに、エルサレムに向かい、やがて21章でエルサレムに入城され、受難週をそこで過ごされ、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、裁判にかけられ、ついに十字架刑となり、全人類の罪を負い、我らの贖いとなられました。そして、陰府(よみ)下り、死を打ち砕き、復活されました。そして最後はガリラヤの山で弟子たちに会い、全世界に宣教の命令を下されるところまで、丁寧に語ってくださり、深い感銘を受けました。今日は、わたしどもの原点、「大宣教命令」を共に読んで、教会の使命、わたしたちの人生の究極的使命を再確認する時としたいと思います。

テキストの概略

さて、今日の聖書箇所は、11人の弟子が、復活された主イエスが行くように命じられた山に登ったところから始められます。そこで主イエスは、彼らに近寄ってきて、次の3つのことを言われました。

第1は、復活の主の「最高権威の宣言」です(18節)。

第2は、復活の主の「至上命令」です(19-20a節)。

第3は、復活の主の「絶対平安の約束」です(20b節)。   

ここは実に、マタイ福音書の締めくくりとしてふさわしい、すばらしい内容の込められた箇所です。ここからわたしどもの歩むべき道を学んでみましょう。

【メッセージのポイント】

 1)18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。   (18節)

  ⇒ 一切の権威を授かった主イエスを信じよう。

 第1は、復活の主の権威主張です。

マタイ福音書では、山に登るということがたくさん出てきます。

5~7章で「山上の説教」を語られました。

15章では、山に登ってデカポリスの病人を癒し、4千人を養いました。

17章では、「山上の変貌」が語られます。

山の上で栄光を表された主イエスは、復活の後もその後自身の栄光を山上で表されました。

 ユダヤ人は、厳密な意味での宇宙や世界を表す言葉がありません。彼らはそれを「天と地」と両極端の対句で表しました。「善と悪を知る実」「出ずるいるとを守る」等の表現があります。「天と地」の一切の権威を授けられたとは、そういう意味で、全被造物を意味する言葉です。主イエスは全被造物の上にあって全ての権威を与えられた存在となりました。

ピリピ2章6-11節にも同じような聖句があります。「6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」

2)19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。(19-20a節)

⇒ すべての民をわたしの弟子にしなさい !

さて、今日の主題の第2は、復活の主の命令です(19-20a節)。

主イエス様は、復活された後に、お弟子たちお命じになられました。19-20節の聖句は『大宣教命令』と言われる、非常に大事なものです。

この部分には動詞が4つ出てきます。

「行きなさい」、       「弟子にしなさい」、

「洗礼を授けなさい」、   「教えなさい」 の4つです。 

でも、厳密な意味では、主動詞は1つで、あとの4つは分詞形で表現されています。その主動詞とは『弟子にしなさい』と言う言葉です。一番の中心の命令は、「弟子にしなさい」という言葉です。ですから、もうすこし厳密に訳すと「全ての民を弟子にしなさい。出て行きつつ、バプテスマを施しつつ、教えつつ」となります。クリスチャンの生き方は、このところから見ると、自分が主の弟子となり、造りかえられ、他者を主の弟子と造りかえてゆく生涯であるということになります。

 数年前、Torch という集会に出ました。月曜日の夜に文京区シビックホールに1400人が集まりました。大変、熱のこもった集会で、ライトDeナイトなどが参加。最後にメッセンジャーがすばらしいメッセージをしました。その話の中で会衆にチャレンジをしました。「あなたはキリストのファンです?それとも弟子ですか?」。

 わたしはそれを聞いて1980年代の、「青年宣教大会」を思い出しました。あのころわたしも30代でした。会場は御殿場東山荘。あそこで守部さんや岸義紘先生、大川従道先生、田中信生先生、中野雄一郎先生、多胡元喜さんなどと出会い、多い時には1000人近くの青年たちが、集まった集会でした。そこで語られた宣教大会のメッセージも「主の弟子となれ!」というメッセージでした。

それならいったい「弟子」とはどのような人なのでしょうか?

主の弟子① 洗礼を受けて、主イエスにしっかりとつく人

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(19節b)と言われています。主の弟子になることのひとつは「父と子と聖霊の名によって洗礼を受ける」ことです。バプテスマを施しつつ弟子とせよと命じられています。厳密に訳せば「父と子と聖霊の名の中へと(into)バプテスマせよ」となっています。これは式としてのバプテスマはもちろんのことですが、更には、主イエス様の恵みに満たされ、その恵みの中に漬けられて、キリストの命を生きる人のことです。愛する兄弟姉妹。ご自分が洗礼を受けたときのことを思い起こしてください。わたしも自分の洗礼を受けた時は、19歳の時でした。今でも思い起こせば、人生の最善の時!でした。「生きるはキリスト、死ぬるは益なり」。キリストの恵みに生きる喜びの生涯のことです。ハレルヤ

主の弟子② 聖書をよく学び、教えることのできる人。

 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(20a節)と語られています。主の弟子の特徴の第2は「主イエスから良く教えられ、良く学び、また、他者に教えることのできる人」のことです。動物の世界や人間の世界でも、成人になった印のひとつは子供を生むことの出来ることではないでしょうか。クリスチャンも同じで、真のクリスチャンは自分が救われたのをはっきりと理解し、まわりの友人や家族に伝え、その伝えられた者が更に、他者に伝えるという方法です。現在多くの教会ではこれらの「弟子となる学び」を整えて、成熟したクリスチャンとして聖書を霊的に黙想しながら歩む手助けをしています。復活の主は成熟したクリスチャンを求めておられるのです。

主の弟子③ 積極的に、伝道に出てゆく人。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(19節a)、とあります。ここでは、更に主は、出て行きつつ弟子にしなさいと語られています。ここに積極的な生き方をするクリスチャンの人生観がありま す。弟子達はじっとしていないで外に伝道に出てゆきました。教会の歴史はこの宣教の歴史です。

3)見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。(20節b)

  ⇒ 見よ!わたしは共にいる、再臨の朝まで!

 さて、今日の第3は、復活の主の約束についてです(20b節)。

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語ってくださっています。「見よ!」があるのです。主の弟子として、世界宣教の大きなビジョンを前にすると、わたしどもは世界の大きさと自分自身の小ささに萎縮して出てゆけないのです。主はそのようなわたしどもに注意を促すかのように、「見なさい」とご自分を指し示しております。主イエスの臨在こそ、わたしどもの支えであり、助けなのです。

特に、マタイによる福音書は、その第1章23節に、主イエスの名前が「インれるとあり、ほぼ中央の18章19,20節でも、「主が共にいてくださる」こと、「二人三人が一緒にいるところにはわたしも共にいる」との約束があり、この福音書の、最後の部分、28章20節でも「見よ、わたしはあなたがたと共にいる」と主は語られます。

臨在の主を仰ぐ生涯!試練の時も、悲しみの時も、不安の時も、あるいはこの世のことに絶望する時も、この地上を去って御国に行く時にも、臨在の主を仰ぐのです。栄光の主を「仰瞻」するのです。「わが臨在汝と共に行くべし!」(出エジプト33:14)。これが勝利の中に歩む秘訣です。ハレルヤ

祈り 】 天の父なる神様!礼拝の恵みの時を感謝します。今日は「大宣教命令」の学びました。わたしたちの霊の目を開いて、復活の主イエスとその権威を、しっかり見上げることができますように。また、主の弟子として成長させていただけますように。ここから出て行き、父と子と聖霊の名によってバプテスマを施し、聖書の指し示す真理を学び続ける忠実な弟子としてください。臨在の主イエスをいつも見上げつつ歩む恵みの一週間としてください。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのこと感謝する日々としてください。罪の赦しと永遠の命を与えて下さった愛する主イエスの御名によって祈ります。アーメン