新宿西教会主日礼拝説教「イエスによる罪の赦しの福音」使徒行伝13:26~37 深谷美歌子牧師 2025年8月31日

 

5月に使徒行伝を学んでからしばらく経ちました。本日はパウロ先生の説教の途中からです。それで、少し振り返ってから、今日の個所を学ぶことにしました。

会堂に入って手を振ってパウロが語り始めたのは、イスラエルが神に導か

れた歴史と、ダビデ王の子孫として生まれた、約束のキリスト・イエス様でした。そして、バプテスマのヨハネは自分で「わたしはキリストではないと宣言した。彼はキリストが来る前の備えをした器でした、と伝えたところまででした。

本日はイエス様の救いは、どのようにしてもたらされたかを語っています。

【聖書箇所の概説】

26節 この救いの言葉は、わたしたちに送られました

27-29節 どうやって救いがもたらされたのか語る。

30-37節 復活によって旧約の成就、死が打ち破られた事実を語る。

【メッセージのポイント】

1)救いの言葉はわたしたちに送られた

26 兄弟たち、アブラハムの子孫のかたがた、ならびに皆さんの中の神を敬う人たちよ。この救の言葉はわたしたちに送られたのである。 26節

 パウロはそこに集まっている聴衆に。この救の言葉はわたしたちに送られ

と語り始めました。「あなた方に」でもなく、「わたしに」でもなく「わ

たしたちに」でした。つまりそこに集う全員にでした。

 パウロはユダヤ人でした。アブラハム、モーセ、ダビデと、神の民としてメシヤ、救い主を待ち望んできた民の一員でした。しかし、イエス様をメシヤと認める前は、クリスチャンの迫害者でした。そのパウロがイエス様に直接語り掛けられ、アナニヤが送られ、バブテスマを受けてクリスチャンになりました。パウロの自覚は、一テモ1:13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。でした。そしてイエス様に出会ってから、全ての人に福音を宣べ伝える使命が与えられて、派遣されていると自覚していました。それで、そこにいる皆さん全員に救いの言葉を語ったのでした。

 7月29,30日と、ここで「日本伝道の幻を語る会」が持たれました。大嶋重徳先生が「この街には私の民が大勢いる」使徒18:10と語られました。パウロが恐れに捕らわれていた時に、神様がパウロに語られたお言葉でした。そして今、それぞれの置かれた地にも「私の民が大勢いる」と語られていると。ここ新宿にも神様の愛している人々が大勢いて、それは神様が導こうとしていて下さるのだと解りました。そして、それから、大嶋先生のお父様の救いの為に、お母様が47年間祈り続けたお証を伺いました。

クリスチャンが良い証し人であったらから救われた。とか言われると、「お前が良い証人でないから救われないんだ」とかしょんぼりしてしまいますね。でも解りました!神様がこの街の人々をご自分の民と見ていて下さる。私は導きに従えばいいのだと。意気消沈していたパウロはその言葉を聞いて、1年6か月にわたってコリントに滞在し、コリントの教会ができました。

2)それでも神様は勝利された

27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めずに刑に処し、それによって、安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した。28 また、なんら死に当る理由が見いだせなかったのに、ピラトに強要してイエスを殺してしまった。29 そして、イエスについて書いてあることを、皆なし遂げてから、人々はイエスを木から取りおろして墓に葬った。 27-29節

 パウロに説教の依頼があった時、彼はおもむろに立ち上がると、手を振って話し始めました。「イスラエルの人たち、ならびに神を敬うかたがたよ、お聞き下さい。17 この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び、エジプトの地に滞在中、この民を大いなるものとし、み腕を高くさし上げて、彼らをその地から導き出された。」と語りました。「23 神は約束にしたがって、このダビデの子孫の中から救主イエスをイスラエルに送られた」と。ダビデに約束した救い主がイエス様であったと語りました。ロマ1:2、3 この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、3 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、とパウロは一貫してダビデの末に約束された救い主がイエス様でしたと語ってきました。

 ところがユダヤ人の望んでいたのは、ダビデの時代がそうであったように、イスラエルの国が周りの国々を平定して君臨する王を求めていたのでした。

 しかし、イエス様はそのようには行動されませんでした。以前に言いましたが、「ベンハー」の映画で、十字架に向かわれるイエス様に「今でも兵が待機しています。」と語りかける場面がありましたね。

ユダヤ人の指導者ばかりでなく、エルサレムに住んでいた人々がなぜ数日前に「ダビデの子にホサナ!」と熱狂的に迎えながら「十字架に付けろ」と叫んだのか?いくらわいろをもらったとしても、と疑問でしたが、たぶん彼らの期待の行動を主イエス様はとられなかったからでしょう。

そして、直接の原因は、指導者たちの「妬み」でした。み言葉を学んでいても、日常生活とは関係なく、自分中心で行動していて、メシヤを見ることができませんでした。

ところが!全能の神様は、そうなることもご承知で、ご自分の救いの計画を完成されたのでした。

9月の「よろこびの泉」という雑誌の中で、水野源三さんの詩、「ひまわり」が紹介されています。

 庭から切ってきた大きな大きなひまわりの花が 

小さな小さな事にこだわるわが心に話しかける 

神さまは、大きな大きな愛を、すべての人間に注いでいてくださいます。世界を導いてくださっている神様がおられます。嬉しいですね。しかも全

能の神様は私一人を特別な存在として、愛してくださるのです。夫がただ一人の配偶者として愛してくれても完全ではありませんが、神様はパーフェクトです!

3)神がよみがえらせたかたは、朽ち果てることがなかった

30 しかし、神はイエスを死人の中から、よみがえらせたのである。31 イエスは、ガリラヤからエルサレムへ一緒に上った人たちに、幾日ものあいだ現れ、そして、彼らは今や、人々に対してイエスの証人となっている。32 わたしたちは、神が先祖たちに対してなされた約束を、ここに宣べ伝えているのである。33 神は、イエスをよみがえらせて、わたしたち子孫にこの約束を、お果しになった。それは詩篇の第二篇にも、『あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ』と書いてあるとおりである。34 また、神がイエスを死人の中からよみがえらせて、いつまでも朽ち果てることのないものとされたことについては、『わたしは、ダビデに約束した確かな聖なる祝福を、あなたがたに授けよう』と言われた。35 だから、ほかの箇所でもこう言っておられる、『あなたの聖者が朽ち果てるようなことは、お許しにならないであろう』。36 事実、ダビデは、その時代の人々に神のみ旨にしたがって仕えたが、やがて眠りにつき、先祖たちの中に加えられて、ついに朽ち果ててしまった。37 しかし、神がよみがえらせたかたは、朽ち果てることがなかったのである。           30-37節

ユダヤ人が殺したイエス様を、神がよみがえらせたと語ります。

キリスト教は宗教と言っても、単に生き方を伝えるものではありません。

事実起こった救いを伝えています。それも、旧約から待ち望まれた出来事だったと。   詩篇16:8~11節

8 わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。―この句が引用されています。11 あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。 この詩篇は、その時代に生きながら、神様が共に歩んでいて下さる経験に生き、やがて来るメシヤが救いを完成される日を先取りして歌っている詩です。パウロは今それが現実となったと伝えます。本当に甦って弟子たちに40日にわたって現れ、昇天され、聖霊様を送ってくださった時代ですと。

手塚治虫さんの「火の鳥」という漫画がありますね。中国の始皇帝?が不老不死の薬を探させたとか聞きます。死は百戦百勝のものでした。人類の希望は永遠の命ですね。でも、それはあり得ないと思っているのが多くの人々ではないでしょうか?

教会で伝える福音は、神の民の歴史に働き、救い主を送ると語られ続け、確かに来られたイエス様が、人間の思い及ばなかった救いを与えてくださったことを伝えるものです。信じた者に現実に与えられる罪の赦しと永遠のいのちです。

先週25,26日と赤羽教会で、「こころの友伝道全国大会」が持たれました。主講師は島隆三先生でした。先生はロマ書をどの教会に遣わされても取り次いでこられました。先生自身の信仰の確信を与えられたのもロマ書でした。信仰を失ったお兄さんに、自分の状態を書き始めて、ロマ書を読みながら書くうちに、信仰の確信が与えられ、信仰を促すような手紙になったそうです。ロマ書の中心は?との問いに即座に「8章1,2節」と返事が帰ってきました。

8:1 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。この命を伝えましょう。

一コリ15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。

祈り 神様、宣教の為に立ち上がり、復活の事実と、信じた者に罪の赦しと永遠の命を与えられる福音を語ったパウロでした。この街にはあなたの民が大勢います。これを受け取る方が起こされますように。

新宿西教会主日礼拝説教「わたしは道であり、真理であり、命である」ヨハネ福音書14:1~6 深谷春男牧師 2025年8月24日

 さる8月16~19日(火)は、日本キリスト伝道会の能登地震救援キャラバンという恵みの時を持ち、能登の地域の羽咋、七浦聖書教会の光の子保育園、門前町の公民館で炊き出し交流会など、現地で大活躍の趙相先生を入れて9人で奉仕してきました。3泊4日の短時間の奉仕の中でしたが、現地におられる趙先生の導きの中で、現地の方々に、神の慰めを語り、共なる礼拝の時を持ち、会食やゲームなどで交わりの時を持ち、祈りの時を持ちました。わたしは羽咋聖書教会の永井先生の牧される教会の礼拝で説教をし、「たとい死の陰の谷を歩むとも災いを恐れじ、汝共にいます」のメッセージ。キャラバン隊の兄弟姉妹も朝から晩まで奉仕され、体調を崩した隊員もありましたが、守られて帰ってきました。お祈りを感謝します。さて今日はヨハネ14:6を学びます。

【今日の聖書箇所の概略】

  今日の聖書箇所は、主イエス様の最後の晩餐でのお言葉です。この時は、

とても、試練の黒雲が、最後の晩餐の空気を重苦しくおおっているような状況

でした。主イエス様も、十字架にかかられる前日で緊張もあったでしょうし、

イスカリオテのユダが主イエス様を裏切るために出て行き、更に、最後まで

「わたしはついて行きます」と言ったペテロにも、「あなたはわたしの行くと

ころに来ることはできない」と言われ、弟子たちも不安や恐れが満ちていたと

きであろうと思われます。その時、主イエスは弟子たちに言われました。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。・・・あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。・・・・ 略 ・・・・6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

【メッセージのポイント】

1)1a  「あなたがたは、心を騒がせないがよい。」

⇒ 心を騒がせるな!

主イエス様は、このユダの裏切りのこと、ペテロへの言葉、三度主イエスを知らないと言うなどの言葉を語られました。聞いていた弟子たちは、聞いて、「これからどうなるのだろう」との不安と恐れにとらわれていたに相違なかったのです。その時に、言われた言葉が、今日、まず第一に取り上げてみたい御言葉「心を騒がせないがよい」であります。

実は、このヨハネによる福音書では「心を騒がせる」と言う言葉がしばしば語られてきました。その中でも、主イエス様が三度、「心を騒がせた」と語ります。第一は、11:33です。愛するラザロが、死の力によって奪い去られた時に、主イエスは、「心を騒がせ」ました。第二は12:27です。一粒の麦が死んで豊かな実を結ぶと語られた時です。第三に、13:21で、サタンがイスカリオテのユダに主イエスを裏切る思いを入れた時に、やはり「心が騒いだ」と記してあります。

わたしも、数年前のイースターの朝にこの所を話しました。吉川教会の最後(2018年3月)は忙しくて健康診断に行けず、新宿西教会から招かれて、一年間はあわただしく、3年近く、健康診断に行けませんでした。そして2020年、この年は、やはり受けておこうと病院に行きましたら、バリウムの結果で引っ掛かり、「精密検査を受けてみてください」と言われたのです。「胃に影のようなものがあります。がんでなければよいのですが・・。胃カメラを飲んで、精密検査をしてみましょう。」わたしは、今までこのようなことを言われたことがありませんので、とても、不安を覚えました。「大したことはありませんよ」とお医者さんは言われましたが、よく眠れない日が続きました。2020年4月8日に、胃カメラを飲んで精密検査をしていただきました。その結果は、「大丈夫のようです。胃が少し荒れています。ピロリ菌の除去などをしておきましょうか?」

家族や教会の方々に祈っていただき、本当に感謝をささげました。

「恐れるな。わたしはあなたと共にいる!」との御言葉が支えでした。

2)1b 神を信じ、またわたしを信じなさい。

  ⇒ 神を信じ、主イエスを信じなさい!

 「これから自分たちはどうなるのだろうか?」と心配して、心揺れ動く弟子たちに、主イエスは語られました。「神を信じ、またわたしを信じなさい!」これはまた何という、力強いお言葉でしょうか?不安や恐れにとらわれる時には、「神を信じ、主イエスを信じるのだ」と語られたのでした。

わたしはすぐに、「神を信じる信仰‼」。旧約聖書の信仰者の言葉を思い出しました。特に詩編の言葉などが、次ぎ次ぎと脳裏に浮かびました。

詩篇23篇 主はわが牧者乏しき事なし。死の陰を歩むとも災いを恐れじ。

詩篇27篇 主はわが光、わが救いの砦。わたしに恐れはありません。

詩篇46篇 神はわれらの避け所、また力。いと近き助け!

詩編62篇 民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。その御前にあなた方の心を注ぎだせ。神はわれらの避け所。

詩篇103篇 我らの罪を赦し、我らの病をいやし、命を墓から贖いだし・・

何と、聖書は全能神への信仰の言葉に満ちていることでしょう!ハレルヤ

以前、礼拝説教でロマ書3:2を語りましたが、聖書の言葉はすばらしいですね。「ユダヤ人の優れている点は幾つもあるがその第一は、神の言葉が与えられていること」神を信じ主イエスへの信仰の大切さが語られます。

「主は善にして善を行われる」詩篇119:68

「主は近い。何事も思い煩うな。事ごとに感謝をもって・」ピリピ4:4~7

「恐れるな.わたしはあなたと共にいる。驚くな、わたしはあなたの神である」イザヤ41:10

どんな暗黒の中にあっても、神の言葉が、唯一の光であり慰め。アーメン

ここではさらに、主イエスへの信仰も語られています。

「神を信じ、わたしを信じなさい!」  ヨハネ14:1

「主イエス様!あなたを信じます。」   マタイ16:16

わたしは、この個所を読むときに、滝元明先生が特別伝道会で語られた体験を思い起こします。幼い小学生のみち子ちゃんが夜中に大声で泣き出した。驚いた滝元先生が、「みっちゃん、どうしたの?」と聞くと、「お父さんが死んじゃった!死んじゃった!!」と泣いていたというのです。滝元先生はみち子ちゃんの手をぎゅっと握り、「みっちゃん!お父さんは生きているよ!」と話したら、みち子ちゃんは、お父さんをしっかりと見つめ、にこっとして、またぐっすりと眠りについた。という体験でした。

3) 2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

  ⇒ 父の家には住まいがたくさんある!

皆さん、主イエスは天に上り、わたしどもの「住む場所」を用意しに行かれ

ました。「住む場所」は、KJV(欽定訳)ではここをマンションと訳しました。ラテン語のブルガダ訳が「マンショーネ」と訳されていたからです。キリストはわたしたちのために、マンション(!)を用意しておられるのです。

4)6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

⇒ 主イエスこそ、道、真理、命 !

更に、ここには、主イエスの有名な言葉が記されます。主イエスこそ天の父の恵み世界に導く、唯一の道であり、だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と語られました。

主イエスこそ「道」である。

 「道」と聞いて、すぐに思い浮かべるのは三浦綾子さんの「道ありき」という小説ですね。

   17歳で、小学校教員となり、昭和20年の敗戦。それから、結核を発病。そして脊椎カリエスで、13年間苦しむ。短歌の会を通じて、前川正さんに出会い、信仰へと導かれる。前川さんは若くして、結核でなくなる。その後に、三浦光代さんに出会って結婚。

  「道」は、旧約聖書でも繰り返して出てくる。詩篇25篇など。

     また日本人の感覚では、その道を究める時に、剣道、柔道、華道、茶道・・・・。等使用する。「クリスチャン生涯はキリスト道」か?「この道のもの」・・・とも呼ばれる。

主イエスこそ「真理」である。

   キリストは「真理(アレーセイア)」であると言われる。

   ポンテオ・ピラトの主イエスへの質問。これは主イエスが十字架にかかる前に、ピラトが問う。「真理とは何か?」ヨハネ18:36,37。

主イエスこそ「命」である。

   「命」はいったい何なのか? ヨハネ17:3。

昔、わたしが神学校を卒業して伝道者になったころに、淀橋教会でケズイック・コンベンションで、村上宣道先生が話をされ、3日間の特別集会のチラシ。「道」、「真理」、「命」だった。

涙の谷のような人生。自分の愚かさを呪い、この世の冷酷さ、人生の不条理と虚無を呪う人生から、神の子供として、感謝と喜びに生きる人生が始まるのです。主イエスを心にお迎えする時、9回裏ツーアウトからの逆転満塁ホームランのような人生が始まります。罪と死に涙する悲しみに人生から、赦しと命の救いに与り、キリストの花嫁として歩みが始まるのですから。ハレルヤ!

三室泰平さん、内村鑑三先生、湯沢七重先生、滝元明先生、藤井武先生、小渕しず姉など天国凱旋の先輩たちの勝利の笑顔が浮かんできます。

 皆さん。神様と和解し、神様の永遠の命を頂いて復活の人生を歩みましょう。

【祈祷】父なる御神。ヨハネ14:6を感謝します。時として罪と死の支配する、涙の谷を通るわたしどもですが、あなたの復活の命を受け入れ、恵みのうちに生きる者としてください。道であり、真理であり、命なる神よ。どうぞ、この一週間を、あなたと共に歩ませてください。御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会主日礼拝説教「詩とさんびと霊の歌によりて生きる」コロサイ書3:12~17西川穂伝道師 2025年8月17日

コロサイ人への手紙3章15、16、17節は三回、感謝という言葉がでてきます。15節  いつも感謝していなさい

16節  キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、

感謝して心から神をほめたたえなさい

17節  そして、あなたのすることはすべて、言葉によると わざによるとを問わず、

いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい

何もない所に、ありがとうという言葉は、私たちは言えません。私たちは、神様に、たくさんして頂いたから、神様の恵みに感謝していくことができるのです。信仰とは、感謝です。感謝がキリスト者を生むのです。感謝をもって教会がたつのです。 

「キリストの御言葉」に感謝するということを中心に、3章15、16、17節から、私たちが神様の恵みに感謝する、三つの理由について、分かち合いたいと思います。

【聖書箇所の概説と内容区分】

12~14節    父なる神様に愛されている者であるから、愛することができる。

15節       「主イエス・キリストの御言葉」が宿る時、平和が来る。

16~17節   「主イエス・キリストの御言葉」に基づいて感謝と賛美が生まれる。

1. 神様の御言葉に 喜んで生きることができるのを感謝します。

3章16節、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」。

この御言葉は、一人一人に言われているという事もあるのですが、それ以上に、このコロサイ教会の交わりの中に向かって言われています。このようにして、主がこの教会へと私たちを召してくださった結果、教会の兄弟姉妹と、時と場所を共にするようになり、福音の使命を共有することになりました。同時に、私たちには、主に贖われたキリストにある、人々の交わりが教会内外を通しても与えられています。そうして、私たちの信仰の旅路で、神様は所属教会を超えた信仰の仲間を私たちに備えられているのです。それは、「キリストの御言葉に生きる」ように知恵を尽くしてお互に励まし合う為です。キリストの御言葉に立つように、そこから落ちないように、励まし合う為、信仰の仲間を備えられたのです。落ち込んでいるならば、誰かが側に行って助けるのです。そして単なる慰めではなく、私たちを「キリストの御言葉」へと向かわせていく為に、励まし合うのです。

2. 詩とさんびと霊の歌とによって生きることができるのを感謝します。

コロサイ3章16節、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。

そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、

感謝して心から神をほめたたえなさい」。

ここは、お互いに教え、また訓戒するのは、「賛美」によってであるという解釈が可能なのです。言い換えるならば、「詩とさんびと霊の歌を歌うことによって」、知恵をつくして互に教え、また訓戒しなさい、と読めるのです。

コロサイの教会に深く関係している、エペソ人への手紙の中でも、同じ書き方を見ることができます。この手紙はエペソ人への手紙と比較すると判りやすい所があります。エペソ5章19節では、「詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。」とあります。詩と賛美と霊の歌とをもって互いに歌うのではなく、「語り合う」ということについてですが、古代ローマ帝国の総督で小プリニウスという人が書いた文書(112年)にある記録が残っています。小プリニウスは、次のように、初代キリスト教会の様子を描いています。「キリスト者たちは、夜明けに、『神であるキリスト』に向かって、交唱の形で讃美している」、と。交唱というのは集会をリードする人が先に歌って、次に会衆が歌うというものです。

礼拝のはじめに「交読文」を読んでいる様な形式で交互に歌い交わすのです。

今日の教会でも、御言葉に基づいて詩と讃美と霊の歌とをもって、お互いに励まし合っているのです。

例えば、感謝できない時でも、私たちが神様を賛美している時、その態度が相手に励ましとなり、メッセージを発信しているという事があるかと思います。

『わが涙よわが歌となれ』という本があります。それは原崎百子先生というクリスチャンの病床日記です。その本に、牧師である夫から肺癌であるとの告知を受け、亡くなるまでの四十四日間の記録が綴られています。ガンの進行が具体的になり、体力が衰弱した時、「わが礼拝」という詩を書きます。「わがうめきよ わが讃美の歌となれ わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ わが涙よ わが歌となれ 主をほめまつるわが歌となれ わが病む肉体から発する すべての吐息よ 呼吸困難よ 咳よ 主を賛美せよ わが熱よ 汗よ わが息よ 最後まで 主をほめたたえてあれ」。臨終の際、お姉さんに、「お姉さま!信仰を持たなければ駄目ですよ!信仰は力ですよ!」と叫びます。夜になって、讃美歌を歌い、突然、「キリスト!」と叫んで、あとは指で「ニヨルカイホウ(解放)」と書いてから亡くなられたそうです。

次のように、夫の原崎清先生は、語っております。「妻が、ガンと知りつつ、何ゆえにあのようにも明るく希望に満ちて生き得たかということの秘訣は、一にかかって、『伝道者としての召命の自覚』に拠っていたものであることは 彼女の死を考える場合、最大のキーポイントだと思う。つまり、気負いとか痩せ我慢とかいうことでは全くなしに、自分をかくも豊かに生かし給う主キリストの恵みと、実際自分でも思いもかけなかった今ある平安とを、少しでも他人に証し得たならば、という喜びが彼女を満たし支えていたということである」、と。原崎百子先生は、自分が幸せになるというこだわりではなく、主イエス様を賛美して生きるという使命において解放されていたのです。原崎百子先生は、主の愛により、「詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえ」たのです。

3. 「聖霊なる神様の恵み」に生きることができるのを感謝します。

3章17節、「すべてを主イエスの名によって行い、イエス様によって、父である神に感謝しなさい」、とあります。イエス・キリストを信じる者が、祈る時に、祈りが、はじきとばされないのは、イエス様の御名が私たちに与えられているからです

3章17節で、全ての事を主イエス様の名前に基づいて行うようにと、コロサイの教会の人々に命じています。

3章23節、24節でも、「あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。」とあります。私たちは、皆、恵みの中に招かれていて、クリスチャンとしての特別な立場と特別な待遇に置かれていて、そして、主イエス様にお仕えするという特権が与えられているのです。これは、イエス様を受け入れ、新しく生まれ変わったクリスチャンに向けていわれたことです。「キリストの言葉が豊かに住んでくださった」、その結果、私たちにイエス・キリストの心と、聖霊なる神様が与えられているのです。現実に、聖霊なる神様が私たちの中に住んでいてくださるのです。

3章16節、「御言葉を宿らせなさい」の「御言葉」は、ギリシア語で「ロゴス」です。「ロゴス」とは神様の「命の御言葉」という意味に捉えることができます。

即ち、「イエス様」です。イエス様の霊が、「聖霊なる神様」です。

冒頭で三つの感謝があるといいました。16節の「感謝して」は、聖書協会共同訳注では、「感謝して」ではなく、「恵みの内に」と書いてあります。

私たちは、自分の力でここまで生きてきたのではなく、本当は、父なる神様から、私たちは立ち直る為に、生き抜いていく為に、必要なことは、主が全てしてくださったのです。このように、全ては、「神様の恵み」です。

「恵みの内に」心から神様をほめたたえなさい、とありました。「恵み」とは辞書では「無償のイエス様の贈りもの、恩恵」という意味があります。

ヨハネ福音書1章14節、「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。…めぐみとまこととに満ちていた」。イエス様は、この罪に満てる世界に足を踏み入れて、私たち一人一人に目を留めて、心の中に宿ってくださったのです。

そうして、失われていた私たちをイエス様の御救いの中に導かれたのです。

父なる神様が私たちを超えた神様で、御子なるイエス様が私たちと共にいる神様であるとすれば、聖霊なる神様は、私たちの内に働かれる神様です。

ある神学者が次のように語っています。「聖霊なる神様がキリストの全ての恵みを携えて、貧しい私の心の家に来てくださいました。聖霊なる神様は、何か特別な人だけに与えられるのではありません。神様を幼子のように慕い求める人々すべてに、天の父がくださる愛のプレゼントです。ルカ福音書11章13節、「自分の子どもには、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」とあります。真の神である聖霊なる神様が与えられるとは、天国が私の元に与えられるのに等しいことです。私が天国に上るのではなく、天国が私の内に来てくださるのです。地上にいながら、いまだ罪人でありながら、神の国が私の中に、訪れてくださるのです!」。聖霊なる神様は、天へとあげられた主イエス様に代わり、「永遠に私たちと共にいてくださる」お方です。聖霊なる神様が私たちの内に住まわれることにより、私たちの内に再び生きる力と希望が与えられたのです(ローマ15:13)。

このようにして、父なる神様は、私たちを憐れんで愛してくださり、聖霊なる神様の恵みをもって、私たちのために、感謝して生きる人間へと呼び起してくださるのです。 そこに、神様の力は発揮されて、神様の命の御言葉が輝き渡るのです。  

どうにもならない人間を見捨てる神様ではなく、どうにもならない不可能な人間だからこそ、この人の為にイエス・キリストを送るという決意をして、その道を選んでくださり、愛し抜いてくださったのです。そして、この地上の生涯において、聖霊なる神様が私たちを最善のご計画へと導いてくださるのです。誰よりも神様へ大きく、深く感謝をする人というのは、誰よりも自分の罪深さを本当に知っている人です。

そのように、父なる神様は、まっすぐに感謝をできる人を御言葉により立ち上がらせ、神様である主を愛して、隣人を愛して仕えるように祝福をもって、今も、「恵みの内に」送り出してくださるのです。祈り)イエス様が私たちに恵みの上に更に恵みを与え、最善のご計画へとお導きください。キリストの言葉が豊かに宿りますように、イエス様のお名前によりアーメン

 

新宿西教会主日礼拝説教「わたしはよみがえりであり、命である」ヨハネ福音書11:25~27 深谷春男牧師 2025年8月10日

 小学生のころ、わたしはりんごをかじると時々、歯ぐきから血が出ました。当時、友人の誰かが言いました。「歯ぐきから血が出るのは白血病 といって恐ろしい病気なんだ。やがて血が止まらなくなって死ぬんだよ」。わたしは幼い心ながらとても不安になって、白いりんごのかじりかけの部分にうっすらと血がにじんでいるのを見て「ああ、ぼくはきっと恐ろしい病気で近いうちに死ぬんだ。恐いなー」。結局、深谷少年の場合は歯をあまり研かないために起こった軽い歯槽膿漏であって白血病ではなかったようです。しかし、あの幼い日の「死への恐怖」というのはこの年になっても忘れられません。

ここ数週間は、ヨハネ福音書にある「わたしは・・・である」と言う宣言が7回なされていることを学んでいます。声に出してお読みしてみましょうか。

「わたしは命のパンである」(6:48)、

「わたしは世の光である」(8:12)、

「わたしは門である」(10:9)、

「わたしはよい羊飼いである」(10:11)、

「わたしはよみがえりであり、命である」(11:25)、

「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)、

「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)。

  これらの言葉は暗唱しましょう!

 霊的な飢えや渇きを覚えたら、・・・・・⇒ キリストこそ命のパン!

 人生の試練にあって、真っ暗な時・・・・⇒ キリストこそ世の光!

 人生の荒野で地に迷った時・・・・・・・⇒ キリストこそ人生の門!

 誰の声を聞いたらいいのかと思った時・・⇒ キリストこそが牧者!

 人生で親しい人の死に出会ったら ・・・⇒ キリストこそ復活の命!

人生の生き方、真理、本当の命か?・・⇒キリストこそ 道、真理、命!

わたしのそばの命、成長、恵みの主は・・⇒キリストこそわがぶどうの幹

                       

【聖書箇所の概説】

今日の聖書箇所は、「ラザロの復活」として、とても有名な箇所です。ヨハネはこの福音書の第一部としてまず「7つの奇跡物語」を記しています。2章で「カナの結婚式での水をぶどう酒に変える奇跡」から始まって、7つの奇跡が語られ、このラザロの復活はこの7つの奇跡物語のなかの最後に位置しており、福音書の前半のクライマックスとなっております。主イエスは人間の悲しみの世界、特にここでは死んで4日経って臭くなったラザロをよみがえらせたことを大胆に告白しています。

【メッセージのポイント】

1)、21 マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。(21節)

 ⇒ memento mori 死を覚えよ。

 主イエスのなさったもっとも大きな奇跡のわざは「死人をよみがえらせることだった」とヨハネは叫んでいます。言うまでもなく、「死」は人生のもっとも大きな課題です。すべての人はこの死に立ち向かわなくてはなりません。わたしどもが地上で生きてゆくには、時間的な制限があります。memento moriという言葉はラテン語で「死を覚えよ」という意味です。中世の修道院では「合い言葉」のように、この言葉が使われたというのです。

 台湾から来られた頼炳炯先生が、台湾の格言を教えてくださいました。「深谷先生。台湾には『7年8月9日』という言葉があるのですが、聞いたことありますか?」と先生は聞かれましたがわかりませんでした。先生はおもむろに教えてくださいました。「これは70歳代は一年のうちにいつ死ぬかわからない、80歳代は一ヶ月のうちにいつ死ぬかわからない、90歳代になると一日のうちにいつ死がやってくるかわかりません。いつでも神様に会う心の備えをしておくようにという教えですよ」と語られました。

 わたし達は地上で永遠に生きることはできません。やがて、天の父のもとに帰らねばなりません。あなたはいかがですか?天のお父様のもとに帰る備えはできておられるでしょうか?

2)、25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。27 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。

⇒ 我はよみがえりなり、生命なり!         (25-27節)

 何という驚くべきことばなのでしょう。主イエスは「わたしはよみがえりであり、命である」と語られました。主イエスは一度死を経験し、死を克服したよみがえりの命である、とご自身を示されました。そして、主イエスは命そのものだといわれるのです。そして主イエスと信仰によって、結びついていると、わたしどもは命そのものを得るのだというのです。その時、「信じる者は死んでも生きる」と言われます。「生きていて、主イエスを信じるものは死ぬことはない」とも言われました。ここには主イエスを信じることの大切なことがくり返されます。信仰という電線で主イエスにつながっているようなものです。マルタに尋ねられます。「あなたはこれを信じるか?」と。彼女の答えはこうでした。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。ここに信仰の救いが語られています。

以前、教会であるところに出かけようといたしました。いつものように教会の車に乗り、エンジンをかけようと思ってスイッチを入れたところが、カチッと小さな音がするだけで、エンジンがかかりませんでした。何度やっても同じ。「ああ、バッテリーがあがった!」と悟りました。去る兄弟にそのことを告げたら、コードを持ってきてくれて、自分の車のバッテリーと教会の車のバッテリーをつないでエンジンをかけると、「ブウウン!」と一発でエンジンがかかったのでした。運転しながら考えました。わたしどもの生涯もいろんなことが起る。魂が擦り切れてしまうような、バッテリーがあがってしまうようなことが起こる。でも、キリストの命、永遠の命に信仰によってつながると、死んだバッテリーが生き返るように、わたしどもの魂も生きる。バッテリー同士をつなぐコードが「信仰」なのだと示されました。皆さん、今日、マルタのように「主よ、信じます。あなたが来るべきキリストです」と告白しましょう!

3)イエスは涙を流された。(35節)

⇒ イエス 涙す。              

 さて、このラザロの復活の物語のなかでひときわ目立つことばは「イエス涙す」の一節です。この言葉は聖書全体の中で、いちばん短い節であると言われます。ギリシャ語原典ではわずか3つの語が並んでいるだけです。口語訳ふうに「イエスは涙を流された」と訳すと少し長くなりすぎて、ヨハネ福音書の持つ簡潔な、しかし、無限の余韻を残した表現が伝えられなくなってしまうといわれます。「イエス、涙す」という文語訳が簡潔で、この節のもともともっている響きを伝えています。

主イエスは涙を流された。ここにわたしどもの希望があります。神はわたしどもの苦しみを共に分かち、悲しみの涙を流されるのです。神の御子、主イエスが涙を流され、われらの重荷を共に、担ってくださるのです。この主イエスの愛に触れるときに、もうすでに人生の重荷は重荷でなくなり、悲しみは悲しみでなくなってしまうのです。神の愛が現われるとき、神の恵みと救いに触れるときに、わたしどもは、すでに死から命に移されているのを悟るのです。

 

4)43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。⇒ ラザロよ!出てきなさい!           (43節)

 主イエスは今日語られます。「ラザロよ!出てきなさい!」。赤羽で牧会していたときは洗礼名をつけました。何人かは、「ラザロと付けてください」と言いました。家庭崩壊を経験した方、路上生活を経験した方、たくさんのラザロがいました。福音に触れたわたしどもは、いわば、ラザロの二世です。以前、週報のコラムにのせた文章です。

「ラザロとラスコーリニコフ」  

 聖書の中心的なメッセージは、主イエスの十字架の贖いと復活の出来事です。ロシアの文豪ドストエフスキーは、「罪と罰」の中で主人公の青年ラスコーリニコフの復活を語っています。貧しい者を救うために世の醜悪な金持ちを殺害し、その富を有意義に使うことは賢いことであり、歴史の中に現れる英雄的な人物はその殺人も許されるのだという思想にとらわれて、彼は年老いた金貸しの女性を殺害して、その金品を奪います。しかし、歴史は単純には割り切れず、金貸しの老女の殺害の際に、その現場に入ってきたその金貸しのおばあさんの妹、善良なるクリスチャン、エリザベータをも殺害することになってしまいました。殺人という恐ろしい罪を犯して、罪意識と恐怖に悩み、精神的に限界状況に陥る主人公。田舎から上京してくる信仰深い母親と妹の心配と愛。そのまわりに集まるロシアの青年たちの逞しい姿。農奴制の崩壊やロシア皇帝の支配をめぐるロシア革命前夜を背景に、矛盾に満ちた社会と不条理の現実を描きつつ、実際に殺人者となってしまったラスコーリニコフの絶望的な、苦悩と葛藤。彼は、真っ暗闇の中で、ソ―ニャという女性に出会います。彼女もまた自分の家族を養うために、自分の身を売る淪落の道を歩まざるをえない女性でした。彼はソーニャの苦悩と悲しみの中に、一縷の光を見て、彼女に自分の殺人の罪を告白します。二人きりになったときに、ラスコーリニコフはソーニャにヨハネ福音書11章にある「ラザロの復活」の箇所を読んでくれと頼みます。ラザロの復活!これはラスコーリニコフの復活の原点でした。罪と死の支配を歩むわたしどもの復活の原点でもあります。

【祈り】 天の父よ。わたしどもの人生には多くのことが起こります。バッテリーが上がって魂が動かなくなるような時もあります。この世的には人生の最後は死です。でも、主よ、あなたを信じて、魂のコードをあなたにつないで歩みはじめるとき、わたしどもは「生き返る」のです。その時、罪と死の呪いは消えて行き、神の命、永遠の命がわたしどもの内側に始まるのです。主よ、「わたしを信じるものはいつまでも死なない」「あなたはこれを信じるか?」。この質問に、わたしどもは今日喜びを持って、答えます。「主よ、信じます。あなたこそ、神の御子、永遠の命をもたれるお方、救い主」と。ラザロのように、ラスコーリニコフのように復活の命に歩ませてください。イエスの御名によって。アーメン。

新宿西教会平和主日礼拝説教「わたしは良い牧者である」ヨハネ福音書10:11~18 深谷春男牧師 2025年8月3日(日)

 

 去る7月29,30日の「第56回日本伝道の幻を語る会」は豊かな祝福を得ました。特別講師として立てられた大嶋重徳先生、須郷裕介先生、守部喜雅兄、川村秀夫兄、それに松浦剛・みち子先生、司会の実行委員の先生方、分科会のリーダたち。隠れたところでの奉仕者、愛の交わり、背後の祈り、感謝、感激の集会でした。「若者も年配者も共に居場所となる教会」の説教のように、大きな励ましを受けました。「聖霊に満たされる時、若者は幻を見、老人は夢を見る!」。いつも主の「夢と幻」を心に映し出しましょう。

【聖書箇所の解説と区分】

さて、この聖書箇所ヨハネ福音書10章は、たいへん有名で、イメージの強い箇所ですね。詩編23編の「主はわたしの羊飼い。わたしは乏しいことがない」との告白が、見事に、主イエスこそ「良き羊飼い」であると語られています。主イエスが良き羊飼いであり、ユダヤのリーダーや、異邦人のにせキリストが、「こっちだ、こっちだ」というが「盗人、強盗」(1,8,10節)のようなもの。気をつけよ!との警告もなされています。概略は以下のようです。

1~ 6節  「羊の囲い」のたとえ。

7~ 10節  主イエスは羊の門である。  

11~ 15節  主イエスは良い羊飼い。羊は羊飼いを知っている。

   16節  この囲いの中にいない羊も一つの群れとなる。

17~ 18節  主イエスは自分から命を捨てる。命がけの愛!

19~ 42節 これを聞いたユダヤ人は主イエスを憎み殺そうとする。

【メッセージ・ポイント】                                                     

1)主イエスの言葉、「わたしは良い羊飼いである。」(11節)

   ⇒ 主イエスは良い羊飼い。             

  ここにも、きっぱりとした主の宣言文があります。「わたしは良き羊飼いである」という宣言です。主イエスこそ、わたしどもを導き、救う、神からの良き羊飼いだからです。  

 ここ数週間は、ヨハネ福音書にある「わたしは・・・である」と言う宣言が7回なされていることを学んでいます。イエスキリストこそが終末的な神から遣わされた救い主であることを示している表現と学びました。その7つ、皆さんと共に、声に出してお読みしてみましょうか。ここに聖書語る、神様の救いと愛の宣言がある。

「わたしは命のパンである」(6:48)、

「わたしは世の光である」(8:12)、

「わたしは門である」(10:9)、

「わたしはよい羊飼いである」(10:11)、

「わたしは甦りであり、命である」(11:25)、

「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)、

「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)。

  これらの言葉は暗唱しましょう!

霊的な飢えや渇きを覚えたら・・・・⇒ キリストこそ命のパン!

人生の試練にあって、真っ暗な時・・・⇒ キリストこそ世の光!

人生の荒野で地に迷った時・・・・・⇒ キリストこそ人生の門!

誰の声を聞いたらいいのか分からない時・⇒キリストこそが牧者!

人生で親しい人の死に出会ったら・・・⇒キリストこそ復活の命!

道に迷い、真理、命の不明の時・・⇒キリストこそ道、真理、命!

自分の所属、平安、成長、霊的命の源泉・⇒キリストこそ葡萄の幹

                   ハレルヤですね。

 ご存じのとおり、聖書には羊と羊飼いの話がよく出てきます。創世記12章の聖書の信仰者の出発は、アブラハム。彼は職業は羊飼いでした。その子イサクも、イサクの子ヤコブもまた羊飼い。モーセはミデアンの地で羊飼いをしている時に神の召命を受け、ダビデも若い時は羊飼。羊はユダヤ人にとってなじみの深い動物でした。
 また聖書では指導者が羊飼い、民が羊として描かれることも多くあります。更に旧約聖書で重要なことは、羊は人間の罪を代わりに担う贖罪の羊として、犠牲として捧げられました。キリストが十字架で死なれた時、人々は自分たちの代わりにキリストが血を流されたと理解し、彼を「贖罪の子羊」と呼んだのでした。


2.いろいろな羊飼いがいる

主イエスははっきりと「わたしは良い羊飼いである。」と言われました(ヨハネ10:11)。主イエスが活動された時代は、ローマがユダヤを支配しており、ユダヤの人々は、ローマの植民地支配に対して複雑な思いを持っていました。パリサイ派は、いわば、民族派・国粋派で、異邦人であるローマの支配を快く思わず、いつの日か、メシヤが現れてローマを追放すると期待していました。熱心党などは、メシヤを待たずに自分たちの武力でローマを倒そうと考えていたようです。体制派のサドカイ派は積極的にギリシャ・ローマの文化を取り入れ、ローマとの円滑な関係を築こうとしていたようです。また、エッセネ派と呼ばれる人々は、現実の世界から離れ、荒野に逃れ、隠遁生活を行っていました。これらの多くの考えが一つの方向に流れ出し、反ローマで一致し、ユダヤはローマに反乱を起こし紀元66-70年「ユダヤ戦争」が起こり、ユダヤの国は、ローマによって完全に滅ぼされてしまいました。この時代、あまりに多くの指導者がいて、いろいろなことを言うので、右往左往していた時代でもあったようです。

ヨハネ10章の羊と羊飼いはこのような文脈の中で語られています。羊は群衆、羊飼いは指導者です。

ある方はここに、三種類の羊飼いが出てくると言います。

第一の「羊飼い」は、「盗人」であり「強盗」と言われる人々です。これらの指導者は、民のことよりも利益を図るために人々をむさぼっていたパリサイ人やサドカイ人を指しています。いつの時代でも世の指導者はこのようなものですね。この間の参議院選挙などは、日本においても、様々な意見の対立で、選挙は、大変でした。
 第二の「羊飼い」は「雇い人」の羊飼いです。雇い人は報酬のために働くのです。彼の関心は報酬であり、羊ではありません。だから狼が来るような、困難な情況になると逃げてしまうのです。


3.良い羊飼い

第三は、「良い羊飼い」ですね。良い羊飼いは自分の羊のことをよく知り、羊もまた羊飼いを慕う(10:15)。 

わたしたちはこの良い羊飼いの姿にイエス・キリストを見る。

  • 主イエスは良い羊飼い。羊と共に生き、そばにいて守られる。

 主イエスはベツレヘムの馬小屋に生まれ、ナザレの貧しいうちに育ち、弟子たちと共に生き、多くの群衆に語り、病んでいる人を癒し、神の国の福音を語り、共に歩んでくださいました。

  • 主イエスは良い羊飼い、羊のために命を捨てる。

この所では「良い羊飼い」は「羊のために命を捨てる」と4回(11,15,17,17節)も言われて強調されています。これはイザヤ53章の「苦難の僕」、ロマ書3;21~26の「キリストの十字架の贖い」、「救いの御業」が語られます。救いはキリストの十字架にあり!アーメン

  • 主イエスは良い羊飼い、永遠の命を与える。

主イエスが来られたのは、羊に命を与え、豊かに与えるためです(10節)。この言葉はキャンパス・クルセードの「4つの法則」に引用されており、わたしの若い時からの暗唱聖句です。更に29節で「わたしは彼らに永遠の命を与える。だから彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪いさる者はないい。」と語られました。ヨハネ3:16,14:2,3。参照

  • 主イエスは良い羊飼い。この囲いにいない羊も導かれる。

「この囲いにいない羊も導かれる。」主イエスは、ユダヤ人々だけでなく、異邦人と言われる全世界の人々をも救いに導かれる。韓国でも、中国でも、インドでも、ナイジェリアでも、日本でも、すべての人が、罪と死の呪いの世界から救いを得るのです。この間インドの「毎週30万人が礼拝に集う教会」のYouTubeを見ました。

今日、はっきりと告白しましょう。「主イエスはわたしは良い羊飼いです!」と。 

【祈祷】主よ、今日も、素晴らしい御言葉を感謝します。「わたしは良い羊飼いである」との御言葉を感謝します。主イエスの十字架の救いの正門から入って、救いの道をまっすぐに歩ませてください。特にこの8月3日は、礼拝においてネパールの留学生、マノズ兄が洗礼の恵みに与ります。彼の人生を導いてください。恩寵充満の日々を歩ませてください。命をも捨てたもうほどに、われらを愛して下さる主イエスの御名によって祈ります。アーメン