新宿西教会オープン・チャーチ第三主日礼拝説教「弱いわたしを助けてください」ロマ7:24,25 ジャーナリスト守部喜雅氏  2025年10月19日(日)

 今朝は、聖書の話の前に、みなさんが興味を持っておられる話題から話を始めたいと思います。今、NHKで朝の連続テレビ小説「ばけばけ」が放映されていますが、ごらんになっている方はおられますか。私も、録画をして暇なときに、観ています。今は、まだ、後にご主人となる小泉八雲との出会いの前の話が続いていますが、主人公のトキさんが、晩年になって、この新宿西教会の前身の大久保教会の礼拝に出席していたという驚くようなお話があるのです。

 小泉八雲(英名・ラフカディオ・ハーン)という名は、歴史の時間に、習った方もいると思いますが、アメリカで、新聞記者をしていた時代、日本についての記事を書くようにと頼まれ、1890年に来日、島根県の松江で英語の先生をしながら、古来からある日本文化に魅かれ、お化けの研究を始めます。 元々、厳格なカトリックの家に生まれたハーンでしたが、その律法的な教えに反発、キリスト教ぎらいになり、日本の鷹揚とした文化に心惹かれ、その探求に生涯を捧げました。テレビドラマに出てくる、トキさんは、独り暮らしのハーンのお手伝いとして一緒に暮らしていましたが、後に、二人は結婚します。ハーンは、後に、日本国籍を取り、小泉八雲と名乗り、ドラマの中ではトキという名で出ていますが、本名は、小泉節といいます。

 小泉八雲は、松江には1年余り滞在、のちに、転住して熊本に三年、神戸に二年、英語教師として働き、1896(明治26)年に上京、最初は、市谷に居を構え、東大の英文学講師として働き、1902年に新宿の西大久保にやって来たのです。しかし、病弱だった八雲は、二年後の、1904年に亡くなりました。54歳と言う短い生涯でした。その時、節さんは36歳で、三男一女の子供と共に、西大久保の森に囲まれた家で生活することとなりました。

その場所は、シャロームビルと職安道路を隔てた場所にあり、今は、その跡地に小泉八雲終焉の地という石碑が建っています。

 さて、今、ここに新宿西教会創立50周年記念誌という本があります。その中の、柳田研一さんというこの記念誌をまとめられた方のこんな文章があります。

「おそらく、この時代、今と違って、この辺も作家が落ち着いて執筆するのに適した閑静な場所だったろう。教会の右向かい、大久保小学校に向かう小道を行くと、今度は“小泉八雲終焉の地”と記されたところがある。この八雲亡き後の家族と私の祖父文吾の家族との間には、少なからず親しい交わりがあったらしく、当時、小学生だった父が晩年になって記した回顧録によると、節子夫人と四人の子供らの住む家は大きな竹藪のなかの人影少ない静かな所にあり、子供たちの中の一人は、大久保教会に通う熱心な信者で、讃美歌をテナーで歌う美声の持ち主だったという」。

生前、柳田研一さんから、「父から聞いたのだが、おじいちゃんの柳田文吾牧師の時代、小泉八雲の奥さんが子供をつれて、大久保教会にかよっていたらしい」という話を聞いたことがありました。その時は、ふんふんと聞いていたのですが、今「ばけばけ」が放映されているのを観て、松江のあの若いトキさんが、晩年になり、小泉八雲の死後、西大久保にあった大久保教会に子供たちとかよっていた、しかも、柳田文吾牧師の家庭と親しい関係にあったと知り、深い感動に包まれております。

柳田研一さんによると、文吾牧師は、心の広い方で、他の宗教を非難することはせず、キリストの福音を語ったということですが、キリスト教嫌いの小泉八雲の残された家族と親しい関係にあったということもその寛容な心が影響をしているのかも知れません。

 なお、大久保教会の会堂についてですが、柳田文吾牧師の時代に、今、このシャロームビルがある敷地に1923年(大正12)年に新会堂を建設、小泉節さんが訪れた会堂は、まさに、この地に建っていた会堂だったのです。その後、関東大震災が起こりますが、この会堂は無事で、婦人会が中心となって避難民の救助に当たったそうです。しかし、1945年5月の東京大空襲で全焼、戦後は、空き地になったままで、1955年に、岡田実牧師が開拓伝道の地としてこの場所が与えられ、新宿西教会の最初の会堂と西大久保幼稚園園舎が建てられ、45年が経った1980年にシャロームビルが建ち現在に至っています。

 

 おそらく、「ばけばけ」では、小泉節さんと子供たちが大久保教会と深い関係にあったことは描かれることはないでしょうが、これから、ドラマがどういう展開になるかはわかりませんが、歴史を支配される神が、そのような信仰のドラマを創ってくださったことを思い出していただきたいと思います

  さて、ここからは、本題の聖書のお話に入ります。

 今から、50年ほど前の話になりますが、当時は、今では考えられない程、若者たちが荒れていた時代でした。大学では、ベトナム戦争反対などの、学園紛争が、東京の大学を中心に起り、生きる意味を失った若者たちは、新宿駅東口場にたむろし、あちこちで、シンナーを吸っては、現実逃避をしていたのです。当時、新宿西教会では、日曜の夜に、アガぺ・インという伝道集会を開き、東口にたむろするフーテンの人々を、集会に誘う働きをしていました。

ある夜、姉妹二人が、シンナーを吸っている若者に、声をかけていました。その一人の青年に、「イエス様はあなたの人生を変えることができます!」と声をかけ、集会に連れて来たのです。

 その夜の集会では、人間の罪についてメッセージが語られました。人は、罪を犯すから罪人ではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯すのだ、という話です。そして、その罪から救われるためには、すべての人の罪を自らが負われ十字架にかかられたイエス・キリストを救い主として信じてください、と語られたのです。

 その話を聞いた、連れて来られたその青年は、カチンと来たのです。自分が罪を犯していることをズバリ糾弾されたのです。彼は、怒りを憶え、集会途中で、教会を出て行きました。そして、むしゃくしゃしながら、新宿の街を、あてどなく歩いていたのです。「あなたが、人生をやり直したいと思うなら、私がお手伝いをしますよ」

突然、そう声をかけられました。見ると、そこに一人の外人が微笑みをたたえ立っていました。

 その外人は、下落合にあるキリスト教会の宣教師でした。その青年は、その宣教師のやさしさに心を開きました。そして、宣教師の教会で、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われ、今も、全世界で、多くの人々が信じているイエス・キリストを救い主として信じたのです。

 しかし、新宿にいればまた、罪の世界に入っていくかもしれません。宣教師は、その青年を軽井沢にあるリトリートセンターに連れて行き、一か月にわたり、その青年を信仰の深みに導いたのです。

 ところが、青年は、自分の罪を告白する中で、自分が山口組のやくざであることをあかし、そのやくざから足を洗うといいます。宣教師は驚きましたが、青年の意志はかたく、どのような制裁をうけようと山口組からの離脱をすると新宿へもどっていったのです。

それから一年後、青年は新宿西教会を訪ねてきました。そして、山口組から脱退する時、全身が血だらけのリンチを受けたこと、しかし、心は平安だったこと、今は、クリスチャンの女性と結婚したことなどを話してくれました。

 当時、新宿の歌舞伎町界隈の喫茶店で、金曜日の夜、伝道を続けていたクリスチャングループが、喫茶店を借り切って伝道集会をしていました。新宿西教会の青年有志もその働きに加わっていたので、山口組から脱退したその青年に、証しをお願いしたのです。彼は語りました。

 「私の人生は、荒れ狂う海の中で、今にも溺れ死んでしまうという状態でした。助けを求めても、他の人々も、みんな海に溺れてもがいており誰も助けてはくれませんでした。その時、岸から、ロープについた救命用の浮き輪が投げられてきたのです。わたしはその浮き輪に、必死になってすがみつき救出されたのです。救命用の浮き輪はイエス様です。 今も、生きておられるイエス様を信じ、 そのお方にすべてをゆだねた時、私の人生は死から命へと変わりました」。

 

 今日、与えられている聖書の言葉を、読んでみます。

「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」

この聖書の言葉は、あの山口組から命がけで脱退し、イエス・キリストに出会うことによって、はじめて、喜びと平安を体験した青年に語られた言葉であると同時に、わたしたちにとっても語られている言葉ではないでしょうか。

自分が良い事と思うことができず、してはいけないことをしてしまうのがわたしたちです。私たちの心の中には闇があります。しかし、「主よ、弱いわたしたちを助けてください」と祈った時、闇のなかに光が来たのです。

かつて、新宿東口で、「イエス様は、あなたの人生を変えることができます」と、迷いの中にある若者たちに叫び続けたクリスチャンの姉妹方がいました。今、その叫びを、わたしたちが、迷いの中にいる人々に向かってする時ではないでしょうか。

新宿西教会オープン・チャーチ第二主日礼拝説教「一人の新しい人に」エペソ1:1~5、10~16 深谷美歌子牧師  2025年10月12日(日)

 本日は新宿西教会のオープンチャーチ第2週です。オープンキャンパスというのがありますね、大学を多くの人に開いて、構内を自由に見ていただいたり、様々な展示物で内容を紹介したりしますね。あるいは、体操を披露したりします。それで、大学を志願している学生は、自分が学びたいこと、したいことがここで得られるか、など知ることができるわけです。

 オープンチャーチは、教会でお伝えしているメッセージを一人でも多くの人に聞いていただき「ここに自分が必要としていた命があった」と見つけていただきたくて開いています。是非心を開いてお聞きください。

 エペソ人への手紙は、使徒パウロが書きました。

ユダヤ人で、中でも神様に仕えるために、一番厳格に律法を守っていた、パリサイ人で、最初はクリスチャンの迫害者だった人でした。が、十字架で死んだ人間と思っていたイエス様が、直接語り掛けられて、目が見えなくなりました。ダマスコに入って、アナニヤが送られ、イエス様の赦しを伝えられ、信じバプテスマを受け生まれ変わりました。それからは、イエス様による罪の赦しを述べ伝え、信じた人々の教会ができていきました。生みの親であるパウロがもう一度、自分たちが得た命がどのようなものかを送ったのがこの手紙です。

 教会の建物も見学して頂いてもいいですが、是非ともこの教会のメッセージをお聞きいただいて、この命を頂いてください。

今日の聖書箇所の内容

1‐5節 あなた方は、かつては死んでいたがキリスによって新しく生かされた。

10節  このキリストの命は善い行いのをするために造られたのです。

11-16節 教会はユダ人も異邦人も一人の新しい人に造られたところ。

1)死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かされた

1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、

2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。

3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。

4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである 1-5節

 オープンチャーチですから、教会の命の入り口をまずお知らせいたします。パウロは教会のメンバーに先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であった。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。といっています。パウロは教会の全ての人が死んでいたものだと言います。

ごく最近、この地域で、ひどい自傷行為をしている女の子のことや、異常に睡眠薬を服用している子のことを知らされました。ニュースでも「もう人生終わらせたかった」と全く見ず知らずの方を殺害した人を知らされました。彼らは見えるところで、死んでいると思えますね。でも、人間何の問題もないという方があるでしょうか?そして決定的なことは、全ての人に死が訪れるということです。

でも大丈夫です。あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かしてくださるのです。私もよく生きようとして生きられない自分を知ったとき、だからイエス様が十字架でこの私の罪を贖うために死んでくださったことを悟りました。イエス様を信じ洗礼を受けました。

救いがこの世界に与えられた次第をお話しします。見えない神様が、この世界に人間となってお生まれ下さいました。処女マリアに宿り、人々からのけ者にされていた羊飼いに先ずその到来が告げられました。成人して福音の到来を告げるようになってからは、取税人や遊女に開放を告げ、病気を癒し、5千人の給食、弟子のペテロは海の上を歩かせていただきました。全能の神の証しでした。

果ては、祭司長達の妬みによって、十字架にかけられました。しかしそれは全き愛の神様の人類の救済の計画でした。罪によって入ってきた死を罪のないイエス様の死によって死を打ち破り復活し、「私のもとに来なさい休ませてあげよう」と救いを完成してくださったのでした。イエス様は、多くの人の見ている前で昇天し、全ての権能を与えられたので、聖霊様をお送りくださいました。今やキリストイエスを信じ、バプテスマを受けたものは、罪に定められることはありません。新しい命に生まれ変わるのです。これが入口です。

2)良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。

10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。             10節

 救われたのは、神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。と書かれています。イエス様は使1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。と言い残されて天にお帰りになりました。同じパウロの手紙の言葉です。ガラ 5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。  22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。あります。神の国に入れられたら神の国の法則に生きるはずですね。御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。この天国の前味にです。ですが私たちはこの命ばかりに生きていないと思うのではないでしょうか?ここを調べて、それは信仰の問題だと言われている先生がいます。神様は神の子として私たちを生まれさせて下さった、それは欠陥ある神の子をおつくりになったのではない。神様に全服の信仰を向けるなら神様がしてくださるのですと。ベースは聖霊様への全幅の信仰ですね。「はい、そこにおらせてください」と祈ったら後は神様が実を結ばせて下さるでしょう。天国の前味を味わえますように

3)ひとりの新しい人に

11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。                         11-16節

次に述べているのは、教会の構成員についてです。教会には、ユダヤ人からクリスチャンになった人々と、異邦人からクリスチャンになった人々がいました。 元々ユダヤ人は、自分たちは、神様から特別に選ばれた民で、聖別の割礼を受けている。と自覚していました。けれどもパウロがそうであったように、本当の救いは、イエス様がご自分の血をもって贖ってくださった命によってのみ与えられました。異邦人からのクリスチャンも、真の神様を信じ、イエス様の贖いを信じて、バプテスマを受け、罪の赦しを受け新しく生まれた者でした。

エルサレム神殿には隔ての壁がありました。ここからは異邦人が入ってはいけない決まりでした。入ったら死刑とまで書いてあったようです。敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのであるとは、この差別が滅ぼされたという意味です。

教会は神様に罪赦され、死から命に移された新しい命に生き初めた人々の集まりです。2週間前に主の祈りを学びました。教会は天国の橋頭保ですね。神の国の法則は、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制の国です。聖霊様によってその命に生かされますように!

そして、「一人の新しい人になった」とも言われます。一人一人は不可分の大事な部分なのですね。イエス様が熱心に求め続けなさいと言われたのは、神の国と教えられました。熱心に求めましょう。イエス様の体なる教会になるために。

ワイヤット桂子さんの証。

5人姉妹の次女として育ちましたがよくケンカをしたそうです。お父さんからお前は頑固すぎるとよく言われたそうです。成人して色々な人や問題と出会う中で「内面から良い人間になりたい」と願い、自分の努力ではどうにもならない現実に気づき、お寺を訪ね親鸞に傾注していったそうです。そんなある日、友人が「マタ6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」のお言葉を送ってくれたそうです。そこから聖書に興味を持ち、米国でクリスチャンの家庭に導かれ、家族の愛と一致が心に深く残り「この人たちが信じている神様っていったいどんな方なのだろう」と興味を持ちました。教会に通うようになり、」ロマ書3:23,24すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。このみ言葉により、自分の罪に対して目が開かれ、神のみ前に心から悔い改めキリストを信じて洗礼を受けました。心に深い平安が訪れ、自分の罪がゆるされたという確信、死んだのちは天国に行けるという希望が与えられたのです。一番うれしかったのはもう自分の力で「良い人にならねば」と、がん張り続ける必要がないことでした。イエス様が一歩一歩導いて下さる」という喜びがこころにうまれたことでした。

祈り 全ての人がイエス様の命をいただき、新しい命がいただけますように。

聖霊様に心のイニシアチブを委ね、御霊の実が結ばれますように。お互いの弱さの為に、信仰の祈りをし合えますように。健康な一人の新しい人として成長させてください。       主の御名によって。アーメン

新宿西教会オープン・チャーチ第一主日礼拝説教「いっぽんの木」詩篇第1篇 深谷春男牧師  2025年10月5日(日)

2018年4月1日のイースターの日を思い出の日です。それは、わたしどもにとって吉川教会から新宿西教会の牧師として招かれた伝道牧会の初めの日でした。朝の礼拝の後に、歓迎会をしていただきました。交わりの部屋に、赤い実をつけた大きな木のデザインの飾りがとても印象的でした。今考えてみると、あの一本の木のデザインは新宿西教会の象徴と思います。神の命の水、恵みの川の流れから養分を頂き、成長し、豊かな実を結ぶ一本の木。それが新宿西教会の姿だとも思います。ちょうど、詩篇の第1篇の象徴も同じですね。それは一本の木。流れのほとりにあり、神の御言葉、その命に流れに潤う一本の木。これは、詩篇全体の表紙の用に描かれた神様のデザインなのだと思います。

【 詩篇第1篇概略と区分 】 

 この詩篇には表題がありません。多分この詩は詩篇全体の序文のように添えられたのであろうと言われます。いわば、詩篇の表紙は「流れのほとりに植えられた一本の木」ですね。この詩の構造は以下のようです。神に従う者の祝福と神に従わない者の滅びが明瞭に語られます。こういう明瞭な対象は、「知恵の詩篇」の特徴でもあります。

1節  正しい者の消極的行為  神に従う者は罪と不信仰の世界を離れる

2節  正しい者の積極的行為 神に従う者は御言葉を愛し、口ずさむ

3節  正しい者の実例的描写 神に従う者は流れのほとりの実を結ぶ木

4節  悪しき者の実例的描写 神に逆らう者は風に吹き飛ばされる籾殻

5節  悪しき者の積極的行為 神に逆らう者は神の裁き集会に立てない6節  悪しき者の消極的行為  神に逆らう者の道は滅びに至る

【メッセージのポイント】

1)、1 いかに幸いなことか、        (1節)

⇒ 幸いなるかな!で始り、ハレルヤ!で終わる人生。

  「幸いなるかな(アシュレー)!」は、詩篇の最初にある言葉です。この語は「直く歩む(アーシャール)」から来ていると言われます。「アシュレー!」幸いなるかな!この一語がいいですね。詩篇全体の基調をなす一語です。詩篇32:1や41:1、また詩篇で一番長い119:1、2や、詩篇128:1等もアシュレーから始まります。

モーセの「最後の言葉」も(申33:29)、また、新約聖書の主イエスの「山上の説教」も(マタイ5:3)この「幸いなるかな!」ではじまります。

詩篇はこの「アシュレー」の一語ではじまり、ハレルヤ歌集で終わります。クリスチャン人生も「幸いなるかな!」で始まり、「ハレルヤ」!で終わりたいものです。

でも実際は、わたしたちは、罪と死の支配している世界に生きていますので、多くの試練や感謝できない現実に直面します。ですから詩篇の中には多くの嘆きや神様への切なる訴えがあります。もしもそうだったとしても、「幸いなるかな!」という神の祝福と、「ハレルヤ」と言う神への感謝、わたしどもの生涯の初めであり、終わりですね。ハレルヤ

 

2)、1 悪しき者のはかりごとに歩まず、

罪びとの道に立たず、

あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。(1節)

⇒ 幸いなるかな!  罪の道に歩まず、立たず、座らぬ人!

  ここには神様から遠く離れて行く人の罪の深まりが記されます。

「歩まず」は、生活の姿であり、実践の姿であると言われます。神様に逆らって行動して行く人の世界を表現しています。

「罪びとの道に立たず」は神に逆らう行為の継続を意味し、的外れの人生の繰り返し、その繰り返しが習慣となり、そしてその人の人生の性格を表わす「立場」を意味することになります。

「あざける者の座にすわらぬ人」の「座にすわる」は、更に悪の世界のリーダーとして座り、神様に従う正直な生活をあざけり、信仰の世界をあざけり、揶揄する反信仰的な立場の論客となり、その立場のリーダー、不信仰の世界の座主となることを意味しています。       

 

3)、2 このような人は主のおきてをよろこび、

昼も夜もそのおきてを思う。    (2節)

⇒ 幸いな人  御言葉を喜び、それを口ずさむ人!

   「主の教え(トーラー)」とは神の御言葉のことです。トーラーは律法をも意味していますが、もともと「射る」や「投げる」という言葉で、弓で射た矢(あるいは石)の軌跡を目で追う線を意味し、そこから、方向、教訓、基準の意味となりました。み言葉を「思う」は「口ずさむ」とか、「うなる」の意味もあります。獅子が「うなる」とも訳されます。ある方は、ライオンが獲物を捕食して「ウメ~」とつぶやくように、われらも御言葉を食べて、「ウメ~!」とつぶやきたいと言います。

 わたしは、毎朝早天で御言葉を頂き、皆さんの黙想を聞いたり、祈り合うときに深い感動を覚えます。早天、木曜祈祷会、礼拝の祝福。「ウメ~」というライオンのつぶやきという言葉が心に残ります。

 また、「イスラエルは蚕(かいこ)である。いつも口を動かしている。」蚕は桑の葉を食べるため、イスラエルは神の言葉を食べるため。

4)、3 このような人は流れのほとりに植えられた木の

時が来ると実を結び、

その葉もしぼまないように、

そのなすところは皆栄える。  (3節)

⇒ 幸いな人  流れのほとりの実を結ぶ木!

ユダヤの地域は砂漠地帯です。樹木が生えて行くのは大変なことです。枯れてしまう危険は至るところにあるのです。しかし、この木が栄えてゆくのは「流れのほとり」に植えられた木であると語られています。日照りの中にあっても永遠の大河である聖書の御言葉に「昼も夜も」根を張って、養分を頂いて、立派に成長するのです。

ここには、「流れのほとりに移植された木」と表現されています。「植えられた」は「移植させられた」と言う言葉です。わたしたちクリスチャンは、それぞれいろんな地域で育ったものですが、流れのほとりへと移されてきました。流れは神の言葉、神の福音です。「わたしたちはいのちの水の川から養分を頂き」、成長する「一本の木」です。

 原登先生が、昔、長野県の喬木教会に行かれた時に、湯沢実先生と七重先生が5人御子供を抱えて、農村伝道に苦闘しておられた。色紙に「時が巡り来れば実を結ぶ」と書いてこられたと証しを伺ったことがあります。「あの子供たちが時を経て、3人が伝道者となり、皆、恵まれてクリスチャンとなって証しを立てておられる」と語られました。

 大和カルバリーチャペルの大川従道先生が中学生の時、「どうしてうちは、こんなに貧乏なんだ、牧師の家庭なんて嫌だ!」と反抗した時に、「なあに、あなた方も主イエス様の愛に触れて、全世界に出て行く伝道者になるのよ!」とお母様は語り、事実、その通りになりました。

風の吹き去るもみがらのようだ。

5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。

罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

6 主は正しい者の道を知られる。

しかし、悪しき者の道は滅びる。   (4~6節)

⇒ 幸いな人、モーツ(もみがら)でなく、エーツ(木)!

4節からは「悪しき者(ラーシャー)」が出てきます。「神に逆らう者」(新共同訳)の意味です。この語は特にエレミヤ書では40回使用され、神への不服従、不真実を表す語です。神への反逆を続けている人は、人生の実質を失い、もみがらのように、風に吹かれて飛んでいってしまうような空虚なものとなります。実を結ぶ5)、4 悪しき者はそうでない、木とは対照的な喩えです。

ヘブル語ではエーツ、もみがらはモーツで、ここには語呂合わせがあると言われます。聖書は2つのうちの一つを選択することを迫ります。

豊かな実を結ぶ人生の木(エーツ)を選びますか?

空虚な実のならない籾殻(モーツ)のような人生を選びますか?

もっとも、新約聖書から見れば、人間は皆、裁きに耐え得ない、弱い愚かな、罪深い存在です。主イエスの十字架の恵みと聖霊様の助けなくして、わたしたちは豊かな実を木結ぶことはできません。

最後に、わたしはキングス・ガーデンの施設で益田泉先生のことを伺いました。彼女はこの施設に入ったときに一人の求道者と話をして、「信仰が分らない」と言う姉妹に、「わたしの最後を見ていてね」と話したと言います。彼女は神様にすべてを委ねて天国に凱旋。その姿を見て、この女性は洗礼を受けてクリスチャンになったそうです。

信仰にしっかり立って主の証し人としてともに歩みましょう

【 祈り 】 天の父よ。今日はオープン・チャーチ第一日曜日です。この日に詩篇の第一篇を感謝します。どうぞ、この詩篇で語られているとおり、不信仰と罪から遠ざかり、幸いなる生涯を歩むことができますように、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ生涯に導いて下さい。わたしどもは「流れのほとりに移植された一本の木」です。いのちの水なる御言葉から必要な養分を与えられ、風に吹き去られるもみがらではなく、豊かな実を結ぶ一本の木として証しがなしえますように。今日初めて教会に来られた皆様の上に、その健康、霊性を守り、恵みの日々をお与えください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

新宿西教会主日礼拝説教「主からの祈りを」マタイ福音書6:9~15 深谷美歌子牧師  2025年9月28日(日)

今日は新宿西教会の一日修養会の中での礼拝です。「祈りについて学びたい」との願いが起こされ、これがテーマです。

普段、お祈りをどのようにしておられるでしょうか?お祈りは、見えない神様との会話です。このチャンスに、お祈りが慕わしいものとされますように。

今回礼拝では「主の祈り」と呼ばれ、親しんだお祈りを学びます。

今日の聖書箇所の内容

9‐10節 天にいます父なる神様に、御心が行われる国が来ますようにと祈れ。

11節 日ごとの食物をお与えください。

12-15節 試みから守られ、赦されたものとして、負債をゆるしなさい。

1)家族として御国を求めて祈りましょう。

9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。

10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。                     9-10節

 よくこのお祈りを「主の祈りを祈りましょう」と言って唱和しますね。子供でも暗唱してお祈りできます。たぶん私も教会の子でしたから、意味も分からないうちから覚えてお祈りしていたと思います。この機会に意味を深く知って、心を込めておいのりできるものとされましょう。

 まず第一のポイントのタイトルを「家族として」とつけました。「あなたは」こう祈りなさい。でなく「あなたがたは」と複数形で、求めなさい、と勧められています。「わたしたち」と祈る言葉が、原文では9回使われているそうです。 

心を合わせて一つになって祈りなさいと語られていて、唱和の祈りは、ここで求められているいい祈り方ですね。教会で心を合わせてお祈りしましょう!

大きな世界中の教会も神の家族ですが、新宿西教会に集うとお互いが見える家族で、顔と顔を合わせて祈れますね。

 コロナで、教会に来れなくなった教会の家族がいますね。幸いこの教会では、リモート礼拝ができるようになって、一緒に礼拝できます。聖書研究祈り会で、声も聞ける家族がいます。そのお互いが、心を込めて一つになって求めなさいと語られています。心を合わせてお祈りしましょう。

 そして求めるのは「御名があがめられますように。10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」です。

今「あなたがた」が心を合わせて祈るのが主の祈りと聞きました。この家族は神の家族ですから、御国がきますようにというのは、天国がこの世界にきますようにとお祈りしなさいというお祈りですね。天国は、パーフェクトな国で、こころを込めて愛し合い、一つになって神様をあがめ、讃美しているところですね。その国を求めなさいです。

昔の戦争は、地上戦が主だったので、大きな川などがあると、先ず先発部隊が川向うに潜入し、そこに橋頭堡をつくり、そこを足掛かりに領土を広げて行ったそうです。

教会は神の国の橋頭堡です。まずこの世界に教会を天国の橋頭堡にしてくださいとお祈りしましょう。そして地上でも神の国、教会が広がっていきますように。

2)日ごとの食物をお与えください。

11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。11節

 次の求めは日ごとの食物です。

これは、御言葉と解釈される方があります。確かに私たちが神の民として、天国の住民として生きるのに最も必要なのは、神の国の法則を悟らせてくれる御言葉です。27日の早天祈禱会は、箴言8章でした。箴 8:10 あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教を受けよ、精金よりも、むしろ知識を得よ。11 知恵は宝石にまさり、あなたがたの望むすべての物は、これと比べるにたりない。知恵を求めよ。のお言葉とそれに基づいたお証は、実は自分は神様の知恵を求めるより、今の困りごと、携帯が濡れでダメになったから、防水の新しい携帯が欲しいとかが先立つ。けれど神様のくださった命の法則こそ私を生かすものです。という証しでした。早天に集まって聞いた皆様のお分かち合いも素晴らしく、やはり、クリスチャンが生かされるのは御言葉ですねと思いました。まず御国を求めるためにも、神の言葉を日ごとの食物としていただきましょう。

しかし、この日ごとの食物をお与えくださいの言葉を、神様は人間に日ごとの食物が必要なことをご存じで、それを求めなさいと語ってくださっているのだと解釈されている方も多くあります。確かにこの地上で生きていくには食物が必要ですね。それを求めなさい。と語ってくださってもいるのでしょう。

先週、22-24日にかけて、山崎製パン箱根山荘で、「関東アシュラム」が開かれました。「イエスは主である」がいつも中心です。ですが、具体的には一人一人が御言葉に聞き、祈り、受けたものをお分かちし合い、それぞれの小グループが祈りの細胞として、祈りの課題を出し合って、一年間祈るために持ち帰ります。 今年も昨年祈りの細胞だった皆さんが集われて、「先生は金曜日でしたね、祈ってきました」と声を掛けられ感動しました。「ここで依頼した祈りが聞かれました」との証しがあり、励まされてまたそれぞれが書いて持ち帰りました。家庭問題で悩んできた姉妹にも「神様がここに来るように導かれたのかしら?」「そうに違いない。祈って行こう!来年のお分ちが楽しみです!」と別れてきました。今の必要の為に祈ることも教えて下さっているイエス様に感謝し、祈り合いましょう。

最近では田中佐百合さんの為にも神の家族が心を合わせて祈り合っていますね。

3)負い目をお赦し下さい。

 12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。                 12-15節

教会は神の国の出張所ですが、サタンも一生懸命働いて、何とか神の国を崩したいと働いています。神の国に生き続けられるように、求め続けましょう。悪しきものは、悪の力です。それは具体的に働きかけると聖書は記しています。イエス様も公生涯に立たれるために荒れ野で断食して祈った時、悪魔は様々な誘惑で働きかけました。マタ 4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。と退けました。十字架に向かわれる時も、マタ 26:38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。 イエス様がすでに勝利されていることに信頼しつつ、誘惑で何とか神の子たちの命の恵みを落とそうと働いている悪魔を自覚して、目を覚ましていて、助けられるように祈りましょう。

12節と14-15節は赦しの問題です

聖書では負債は罪と同義に扱われています。ここを読みますと、赦しを先ず自分がしたら赦されるように書いてあります。が、負債のあるものが他人の借金を肩代わりすることはできませんね。お互いイ万タラント(1800億円)もの借金があるのが神様の前の人間です。だから、その人間がほかの人の罪の代価をはらうことはできません。それができないので、イエス様が十字架にかかってその計り知れないご宝血で全ての罪の代価を払ってくださいました。この赦しを頂いた者が、お互いの罪の負債も赦し合うのです。

マタ18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」赦されたものが赦すことを求められています。

私はどうなのか?振り返ってみました。家族に対してひどい言葉を言った記憶。

友達に親切でなかった記憶。それらすべて代価をイエス様が払ってくださいました。感謝します!なのに、私たちは人の過ちを赦せないものです。その弱さのためにイエス様が「真理の御霊を送る」と約束され、ペンテコステの日に聖霊様がおいで下さいました。聖霊様を心の王座に迎えるとイエス様の思いが悟られます。まさに、十字架、復活、聖霊の満たしですね。その心でお祈りしてまいりましょう!ハレルヤ!

祈り 天のお父様。イエス様が教えてくださったお祈りを学びました。教会が心を合わせて愛し合う、天国になるように祈り求めます。その上で御言葉と、今生きる全ての必要を祈ります。誘惑を見破り退け、赦された恵みをいっぱい味わい、互いに赦しあい、天国の命を生きさせてください。本当に赦しあえるために、聖霊様の愛の満たしが必要です。聖霊様を遣わしてください。主の御名によって。