新宿西教会主日礼拝説教「われらを背負う神」イザヤ46:1~4 深谷春男牧師 2025年9月14日

 聖書には「白髪」と言う言葉がしばしば出てまいります。

「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」箴言16:31
「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳。」箴言20:29
「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたし  

は主である。」レビ19:32 と聖書は、高齢者を尊敬し、その働きを心から感謝するよう勧めています。

それと共に、年老いた者を励ます御言葉も多いですね。
「75歳から信仰による祝福の人生への出発」をしたアブラハム(創世12章)、「80歳にしてイスラエルの民をエジプトから救い出した」モーセのように、聖書の御言葉に立って、果敢にチャレンジする人生をも、聖書から聞くことも多くあります。祝福に満ちた高齢者!これが聖書のメッセージです。

【テキスト位置と区分】

イザヤ書46章1-4節は、新共同訳では「バビロンの偶像」と言う表題がつけられた一連の預言の中にあります。また、「担われたものたちと担うもの」(ベスターマン)とか「担われる神か、担う神か」(ハンセン)とかの説明がついていますように、ここは、バビロンの偶像と生ける真の神との対比が記されているところです。内容は以下のようです。

  1. バビロンの偶像は空しい。それは人を救い得ない。
  2. 「わたしに聞け、イスラエル!」 との神の語りかけ。
  3. 「わたしが担う!わたしが救う」白髪となるまで持ち運ぶとの宣言。

【メッセージのポイント】

1)1 ベルは伏し、ネボはかがみ、

彼らの像は獣と家畜との上にある。

あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、

疲れた獣の重荷となった。

2 彼らはかがみ、彼らは共に伏し、

重荷となった者を救うことができず

かえって、自分は捕われて行く。(1-2節)
    ⇒ 偶像はかがみこみ、倒れ伏す!

 「ベル」というのは、バビロニア大帝国の神様の名前です。バビロニアの主神はマルドゥクという神様で、ベルとも呼ばれていました。へブル語のバアルに相当する「主」と言う意味です。そして、「ネボ」はこのベル、すなわち、マルドゥク神の使者あるいは子どもの名前です。ネボはアッカド語の「ナブー(告知者の意味)」から来ており、学問の神とあがめられて来ました。楔形文字の体系はネボの発明とされておりました。彼らの礼拝はボルシッパという町の神殿で行われました。このボルシッパからバビロンのマルドゥク神殿まで、新年ごとに聖なる行進行列が行われ、ネボの像は立派な船に乗せて運ばれたといわれます。ネボは新バビロニアの守護神で、王の名前は、ナボポラッサル、ネブカデネザル、ナボニドスなどとネボの名前を冠とした。矢内原先生の解説では、日本の八幡様から八幡太郎とか多聞天から多聞丸の如しとありました。

当時、イスラエルの民はバビロンに捕囚となっていました。紀元前586年、バビロニアのネブカデネザルの軍隊により、エルサレムの神殿は破壊され、主だったものたちはバビロンに連れてゆかれて、ユダヤの国は事実上崩壊しました。捕囚となって厳しい生活を強いられていたバビロニア帝国には、マルドゥク神をまつる荘厳な神殿があり、勇壮な華々しいお祭りが繰り広げられていました。ちょうど日本でも「ねぶたまつり」などは、かなり念入りの勇壮な武者像がつくられ、あの大きなちょうちんに火が入って、多くの青年たちが叫び声を挙げてそれを引く姿は、一種の感動と言いますか、民族の血が沸き返るような興奮があります。当時は、他国との戦争などが相次ぎ、国威高揚が必要でありましたから、バビロニアの祭儀は、大帝国あげての壮麗なものだったのでしょう。川に流れる極彩色の舟。その上にそびえるネボの像。世界の中心としての勝利の勢いに乗るバビロニアの人々は、笛や太鼓の音楽をならし、家族そろって花火を見に行く日本の夏の風物のように、皆でご馳走を食べ、にぎやかな、喜びと勝利感に満ちた民族のお祭りの時だったのでしょう。

しかし、そのとき、イスラエルはどうだったのでしょう。彼らはこのときには惨めな捕囚の民でした。バビロン軍に家族を殺され、家族が離れ離れにされ、自分の土地も仕事も奪われ、民族の誇りも文化も何も持っていない、惨めな囚われの難民だったのです。生きて行く気力もなかったのです。それと比べて、バビロンの民はまさに「世界の中心」そのもの。イスラエルの民は、傷心の中でこのバビロンの勝ち組の祭りを遠くから眺めるみじめな「難民」そのもの。

しかし、この46章で、第二イザヤは、驚くべきメッセージをいたします。この壮麗な神々の像。巨大な、人間を圧する神々の像。一説によれば5メートルの高さがあったとも言われますが、驚きと恐れをもって見上げたそれらの巨大なバビロンの神々の像に対して、預言者は厳しい批判の預言を始めるのです。ここでは二回同じ言葉が使われています。「かがみ込み、倒れ伏す」という言葉です。それは、どんなに驚くべきものに見えたとしても、それは生ける神ではない。所詮人間の作った偶像です。それは「かがみ込み、倒れ伏す」のです。リビングバイブル訳では「バビロンの偶像ベルとネボは、牛のひく荷車に載せられ、遠くへ運ばれます。ところが牛はよろめき、荷車はひっくり返り、神々は地面に放り出されます。自分が転げ落ちることさえ防げないのに、彼らを拝んでいるものを、クロスの手から救い出すことなどできない相談です」となっています。

わたしどもは偶像を信じているとは思わないでしょう。しかし、「人間の心は偶像を作る工場である」とのカルヴァンの言葉を待つまでもなく、わたしどもは主なる神により頼むのではなく、この世の何かに信頼を寄せるものです。それはお金であったり、地位であったり、才能であったり、美貌であったりします。でも、人生の究極の出来事に出会ったときに、それらはわたしどもを救うのでしょうか?最終的には健康だって損なわれてゆきます。偶像は「かがみ込み、倒れ伏す」のです。やがて人間に重荷となり、動物に重荷となり、人間を救い出すこともできず、民の敗北と共に自ら捕虜となってしまうのです。

2)3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、

生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、

わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。(3節)

   ⇒ わたしに聞け、ヤコブの家よ!

  3節で新しいメッセージが始まります。バビロンの壮大な偶像に圧倒されている人々に神ご自身が語りかけます。「わたしに聞け、ヤコブの家よ」と。

この地上の様々な関心、特に、地上の支配者となっているバビロンの神々の巨大な偶像、永遠絶対のように見える偶像に心奪われそうになって、それらを見上げている人々の心に、天地の造り主なる神が語りかけられるのです。「わたしに聞け、ヤコブの家よ」。そうです、人間の手で作った偶像がどんなに大きくても、どんなに立派に見えたとしても、この世界を創造されたまことの神の偉大さの前には、チリのような存在に過ぎません。それはやがて崩れてゆく、土くれに過ぎないのです。

そこには、「イスラエルの家の残りの者よ」と続いています。「残りのもの」とは旧約聖書の中でしばしば出てくる大事な言葉です。神様は、神の民が裁きにあって滅んでしまうように見える存亡の危機に、「残りのもの」を残しておかれるのです。イザヤ6章の切り株のように。そしてそれらはやがて、深い悔い改めをもって、神に立ち返り、神の民を新たに形成してゆきます。新しい神の民の業は、神の御声を聞くことから、始まるのです。残りの者よ。「わたしに聞け!」と語られます。

それでは、わたしたちは、何を聞くのでしょうか?それが、4節の内容です。

3)4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、

白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。

わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。(4節)

   ⇒ わたしが背負い、わたしが救う!

この4節には「わたし(アニー)」という言葉が、5回繰り返されています。偶像が救うのではない。破れだらけの人間の努力でもない。この世界の造り主が、救い主が、「わたしが救う!」と5回も強調して語っておられるのです。しかも動詞の変化まで入れると、なんと10回も「わたしが!救うのだ」、「救うのはこのわたしだ!」と語られます。聖書の中でもこのような箇所はありません。分かりやすく直訳するとこうなります。

わたしは それ(変わらない)   (あなたが)年老いるまで

わたしが (わたしが)背負う  (あなたが)白髪まで

わたしが  (わたしが)造った

わたしが (わたしが)担う

わたしが  (わたしが)背負う

        (わたしが)救う

ここは中沢冾樹が「旧約の中で最も感動的な一段」と言い、浅野順一が「宗教の本質に対する深き洞察」と言っておられる最も感銘の深い箇所です。

また、この短い3節・4節の中に「担う」とか、「背負う」という言葉が、何度も繰り返されています。特に「背負う(エスボール)」という言葉は、口語訳では「持ち運ばれる」と訳されている言葉です。聖書はこの「背負う」あるいは「持ち運ぶ」という言葉によって、救いを明らかに示しています。聖書学院長だった小林和夫先生は、小さい時におじいちゃん子だったそうです。風邪をひくとこのおじいちゃんは来て裸になり、赤ちゃんの和夫を裸にして紐でくくり半纏を着て「俺の体温で暖めればすぐに治る!」とその裸の体温で風邪を直したそうです。主イエスは十字架の上にわたしたちをあがない、人生の苦難を乗り越えさせ、最後は死の川も超えて永遠の天国まで、背負ってくださるのです。「わたしが背負い、わたしが救う!」ハレルヤ

【 祈り 】  主よ。人生の長い旅路を歩んでこられた方々と共に礼拝する時をお与え下さり感謝します。今日、わたしどもはこの世の偶像ではなく、造り主であり、救い主である、あなた御自身に聞きます。わたしども一人一人を「背負って」「持ち運んで」、元の牧場、神の家に連れ帰ってください。この敬老の時に、「白髪となるまで」わたしどもを、「わたしが担い、背負い、救い出す」と語られるあなたに深く信頼して、委ね、従う者としてください。我らの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン!

新宿西教会主日礼拝説教「わたしはまことのぶどうの木である」ヨハネ福音書15:1~11 深谷春男牧師 2025年9月7日

 岡山聖心教会という教会は、礼拝の時の聖書朗読は毎週、この聖書箇所だったとお聞きしたことがありました。この聖書箇所は、そのような不思議な力を持っている箇所とも言うことができるのだと思います。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」からはじまるこの聖書箇所は、とても優しくわたしたちの信仰生涯を教えています。

「4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

わたしどもは毎週、礼拝のたびに、主にしっかりと結びつき、神様から豊かな信仰と愛の滋養分を頂き、豊かな実を結ぶ枝となるように教えています。

しばらく前に、早天祈祷会でこの聖書の箇所をお読みしましたら、同じ言葉がたくさん続くので数えてみたら、9回づつ用いられている言葉が、3つありました。それは、「つながっていなさい」、「愛(アガペー)」「実を結ぶ」の三つでした。

【聖書箇所の概説】

今日の聖書箇所は、「主イエスはぶどうの木、わたしたちはその枝」という有名な主イエスのたとえの箇所です。この箇所は、以下のように、1-4節と、5-8節がほとんど同じ主題を繰り返しています。

  1. 主がぶどうの木、実を結ばないものは剪定される、幹につながれ。
    1. 主がぶどうの木、実を結ぶ枝と結ばない枝。幹につながれ。
    1. 愛(父→イエス→弟子) 

服従(弟子→イエス→父)

喜び(イエス=弟子)

【メッセージのポイント】

1)、「わたしはまことのぶどうの木、

わたしの父は農夫である。」     (1節)

 ⇒ 主イエスこそ、まことのぶどうの木。

 まず、今朝、わたしどもに語られるメッセージは、「主イエスこそ、まことのぶどうの木」という内容です。神の豊かな滋養分と命の象徴であるぶどう。神の愛と命の源が、主イエスご自身なのである、と今日の聖書はわたしどもに語りかけています。

ヨハネ福音書には、「わたしは・・・である」と言う宣言が7回なされています。これは「エゴー・エイミ・・・」という形式で、イエスキリストこそが終末的な神から遣わされた救い主であることを示しています。その中での最後の、第7番目の主張がなされています。

「わたしは命のパンである」(6章)、

「わたしは世の光である」(8章)、

「わたしは羊の門である」(10章)

「わたしはよい羊飼いである」(10章)

「わたしは甦りであり、命である」(11章)、

「わたしは道であり、真理であり、命である」(14章)

「わたしはまことのぶどうの木である」(15章)の二つ表象の中には、「良い」と「まことの」という言葉が加えられ、「排他的かつ挑戦的な主張がなされている」(シュルツ)と言われています。

つまり、今朝、語られる「わたしはまことのぶどうの木」と言う言葉は、多くの「まことならざるぶどうの木」があったことを予想させるのです。  ユダヤ人は自分たちが、神の植えたぶどうの木だと信じておりました。パレスチナはぶどうの産地であり、人々に親しみを持たれた植物でした。ですから旧約聖書にはイスラエルの民がぶどうの木であることを語る描写がたくさん出てきます(詩編80:8-15、イザヤ5:1-7、27:2-6、エレミヤ2:21、エゼキエル15:1-6、17:1-6,19:10-14、ホセア10:1など)。マカベヤ王朝の貨幣紋章はぶどうの木であり、神殿の栄光の一つは聖所の前面にある大きな黄金のぶどうの木であったと言われます。ぶどうの木はユダヤ民族の象徴だったのです。旧約の詩人は「 あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。」(詩編80:9)と歌っています。しかし、ご存知のように、イスラエルは神に反抗し、悪い実を結ぶ「野ぶどう」となって行ったのでした。イスラエルは自分たちが神の選びの民であると言いつつ「偽りのぶどうの木」となっていったのです。

現在、「まことのぶどうの木」、すなわち神の約束を真実に受け継ぐ者は、主イエスご自身であると聖書は、宣言しているのです。

2)、2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。・・・・・・・・・・・6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。             (2-6節)

⇒ わたしにつながっていなさい!        

 ぶどうの木を栽培する時に、特に注意すべきことは剪定であり、念入りな整備であると言われます。ぶどうの剪定は結実時の終わりごろになされ、冬は幹とごく少数の枝のみになってしまうそうです。また、ぶどうの若木は植えられてから三年間は実を結ぶことが許されず、徹底的に刈り込まれることによって命を蓄え、よき実を結ぶように準備されるのだそうです。

しかし、これらの言葉には厳しい響きがあります。「わたしはまことのぶどうの木」と語られた後に、このような厳しい警告があるのは、イスカリオテのユダの堕罪と運命を暗示していると言う主張もあります。せっかく主イエスに結びつき新しい命と祝福の中を歩み始めたのに、自ら主を裏切り、命から堕ちてゆく存在を主は嘆かれたのでありましょう。

榊原康夫師の解説でも、ヨハネの福音書が書かれた歴史的状況についての説明がなされています。ヨハネ福音書は一世紀の末ごろに書かれた一番遅い福音書です。この頃には、教会は50年、あるいは60年の歴史があり、教会の中にも堕落した信徒が多く出てきたというのです。そして、神の民としての実質を保つためには厳しい警告を必要としたのだと言います。それから、榊原師は神学生時代のご自分の体験を書いておられます。母教会の長老宅に呼ばれ、ご馳走してくれるのかと思っていたら、「榊原さん、今のままではあなたは聖餐停止となりそうだ」と言われ、身を正したという証しです。彼は、この御自分の体験を通しつつ、「出来損ないのクリスチャンであってはいけない」と勧めています。

 主の剪定は時には厳しいこともありますが、豊かに実を結ぶためと心得て、主の僕として、へりくだって、整えの時とさせていただきましょう。

3)父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。                (4,5,9節)

⇒ わたしの愛に留まりなさい。              

 ここでは、「わたしにつながっていなさい」と言う言葉が、繰り返し出てきます。この「つながって」と言う言葉は「メンノウ」というギリシャ語で「わたしの愛にとどまりなさい」の「とどまる」も同じ言葉です。主イエスにつながっていなさいと言われます。幹につながって、樹液を受け、その命と養分に与ることがないといつの間にか、枝は枯れてしまうのです。わたしどもはぶどうの枝といわれています。枝が幹から離れてしまえば、養分も行き渡りません。乾ききってついに枯れてしまうのです。もしもつながっていなければ自分で実を結ぶことができなくなってしまうのです。

 昔、アメリカのマサチューセッツ州ボストン郊外のメンタルケア病院の地下室に、アニーと呼ばれる少女が入れられていました。当時、メンタルな障害者は決して直らない、人目にさらしてはならない、と考えられていました。少女はこの小さな部屋で一生を過ごす運命にあったのです。しかし、その病院で働く一人の掃除婦がその少女を可哀想に想い、食事を運ぶ度に゛I Love you″と声をかけ続けたのです。すると、その結果その少女は心を開き、病も徐々に回復し、やがて学校を卒業し教師の資格を取りました。そして、ある家庭に家庭教師として遣わされました。その家庭には見えない、聞けない、話せないという三重苦の少女がいました。そうです、これがヘレン・ケラーとアン・サリバン先生との出会いです。一人の名もない掃除婦の励ましがなかったらアニーは教師になれなかったでしょう。そして、ヘレン・ケラーのその後の大きな働きもなかったはずです。私たちも、神の励ましを聞くべきです。「わたしの目に、あなたは高価で尊い。あなたを愛している。」と。

最後に「実を結べ」とのみ言葉に注目し、締めくくりましょう。            ガラテヤ5:22-23は有名。「御霊の実」は、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、       善意、忠実、柔和、自制」と知らされています。                  ロマ6:22には「きよきに至る実」が記されます。その終局は「永遠の命」。                             ピリピ1:11には、イエス・キリストによる「義の実」。神の救いの恵み。へブル13:15には「讃美のいけにえ」「くちびるの実」というのがあります。                          ローマ1:13には、「救霊の実」が記されます。それは救われる魂のこと。

この週の初めの聖日に、「主がまことのぶどうの木であること」を学びました。は「わたしにつながっていなさい」「わが愛のうちにいなさい」「豊かな信仰の実、御霊の実を結びなさい」とお語り下さり感謝します。愛と喜びと平安の、恵み豊かな一週間を共に歩みましょう!ハレルヤ!

【祈り】 天の父よ。今朝は、「まことのぶどうの木」という題のもと、主にある恵みの生涯を学ばせていただきました。感謝します。わたしどもが「主イエス様、あなたこそまことのぶどうの木」であることを深く知るものとならせてください。偽りのぶどうの木、偶像の世界へ落っこちたり、恐ろしい不信仰に陥ることなく、深い信仰と祈りの中でまことのぶどうの幹であるあなたご自身の中に歩み、あなたの豊かな滋養分に与かる霊的な生活をしつつ、御霊の実、きよめの実、義の実に満たされ、こころは讃美に満たされ、救われた魂の実が、たわわに実る新宿西教会としてください。わたしたちのまことのぶどうの木である、主イエスの御名によって祈ります。アーメン!

新宿西教会主日礼拝説教「イエスによる罪の赦しの福音」使徒行伝13:26~37 深谷美歌子牧師 2025年8月31日

 

5月に使徒行伝を学んでからしばらく経ちました。本日はパウロ先生の説教の途中からです。それで、少し振り返ってから、今日の個所を学ぶことにしました。

会堂に入って手を振ってパウロが語り始めたのは、イスラエルが神に導か

れた歴史と、ダビデ王の子孫として生まれた、約束のキリスト・イエス様でした。そして、バプテスマのヨハネは自分で「わたしはキリストではないと宣言した。彼はキリストが来る前の備えをした器でした、と伝えたところまででした。

本日はイエス様の救いは、どのようにしてもたらされたかを語っています。

【聖書箇所の概説】

26節 この救いの言葉は、わたしたちに送られました

27-29節 どうやって救いがもたらされたのか語る。

30-37節 復活によって旧約の成就、死が打ち破られた事実を語る。

【メッセージのポイント】

1)救いの言葉はわたしたちに送られた

26 兄弟たち、アブラハムの子孫のかたがた、ならびに皆さんの中の神を敬う人たちよ。この救の言葉はわたしたちに送られたのである。 26節

 パウロはそこに集まっている聴衆に。この救の言葉はわたしたちに送られ

と語り始めました。「あなた方に」でもなく、「わたしに」でもなく「わ

たしたちに」でした。つまりそこに集う全員にでした。

 パウロはユダヤ人でした。アブラハム、モーセ、ダビデと、神の民としてメシヤ、救い主を待ち望んできた民の一員でした。しかし、イエス様をメシヤと認める前は、クリスチャンの迫害者でした。そのパウロがイエス様に直接語り掛けられ、アナニヤが送られ、バブテスマを受けてクリスチャンになりました。パウロの自覚は、一テモ1:13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。でした。そしてイエス様に出会ってから、全ての人に福音を宣べ伝える使命が与えられて、派遣されていると自覚していました。それで、そこにいる皆さん全員に救いの言葉を語ったのでした。

 7月29,30日と、ここで「日本伝道の幻を語る会」が持たれました。大嶋重徳先生が「この街には私の民が大勢いる」使徒18:10と語られました。パウロが恐れに捕らわれていた時に、神様がパウロに語られたお言葉でした。そして今、それぞれの置かれた地にも「私の民が大勢いる」と語られていると。ここ新宿にも神様の愛している人々が大勢いて、それは神様が導こうとしていて下さるのだと解りました。そして、それから、大嶋先生のお父様の救いの為に、お母様が47年間祈り続けたお証を伺いました。

クリスチャンが良い証し人であったらから救われた。とか言われると、「お前が良い証人でないから救われないんだ」とかしょんぼりしてしまいますね。でも解りました!神様がこの街の人々をご自分の民と見ていて下さる。私は導きに従えばいいのだと。意気消沈していたパウロはその言葉を聞いて、1年6か月にわたってコリントに滞在し、コリントの教会ができました。

2)それでも神様は勝利された

27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めずに刑に処し、それによって、安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した。28 また、なんら死に当る理由が見いだせなかったのに、ピラトに強要してイエスを殺してしまった。29 そして、イエスについて書いてあることを、皆なし遂げてから、人々はイエスを木から取りおろして墓に葬った。 27-29節

 パウロに説教の依頼があった時、彼はおもむろに立ち上がると、手を振って話し始めました。「イスラエルの人たち、ならびに神を敬うかたがたよ、お聞き下さい。17 この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び、エジプトの地に滞在中、この民を大いなるものとし、み腕を高くさし上げて、彼らをその地から導き出された。」と語りました。「23 神は約束にしたがって、このダビデの子孫の中から救主イエスをイスラエルに送られた」と。ダビデに約束した救い主がイエス様であったと語りました。ロマ1:2、3 この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、3 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、とパウロは一貫してダビデの末に約束された救い主がイエス様でしたと語ってきました。

 ところがユダヤ人の望んでいたのは、ダビデの時代がそうであったように、イスラエルの国が周りの国々を平定して君臨する王を求めていたのでした。

 しかし、イエス様はそのようには行動されませんでした。以前に言いましたが、「ベンハー」の映画で、十字架に向かわれるイエス様に「今でも兵が待機しています。」と語りかける場面がありましたね。

ユダヤ人の指導者ばかりでなく、エルサレムに住んでいた人々がなぜ数日前に「ダビデの子にホサナ!」と熱狂的に迎えながら「十字架に付けろ」と叫んだのか?いくらわいろをもらったとしても、と疑問でしたが、たぶん彼らの期待の行動を主イエス様はとられなかったからでしょう。

そして、直接の原因は、指導者たちの「妬み」でした。み言葉を学んでいても、日常生活とは関係なく、自分中心で行動していて、メシヤを見ることができませんでした。

ところが!全能の神様は、そうなることもご承知で、ご自分の救いの計画を完成されたのでした。

9月の「よろこびの泉」という雑誌の中で、水野源三さんの詩、「ひまわり」が紹介されています。

 庭から切ってきた大きな大きなひまわりの花が 

小さな小さな事にこだわるわが心に話しかける 

神さまは、大きな大きな愛を、すべての人間に注いでいてくださいます。世界を導いてくださっている神様がおられます。嬉しいですね。しかも全

能の神様は私一人を特別な存在として、愛してくださるのです。夫がただ一人の配偶者として愛してくれても完全ではありませんが、神様はパーフェクトです!

3)神がよみがえらせたかたは、朽ち果てることがなかった

30 しかし、神はイエスを死人の中から、よみがえらせたのである。31 イエスは、ガリラヤからエルサレムへ一緒に上った人たちに、幾日ものあいだ現れ、そして、彼らは今や、人々に対してイエスの証人となっている。32 わたしたちは、神が先祖たちに対してなされた約束を、ここに宣べ伝えているのである。33 神は、イエスをよみがえらせて、わたしたち子孫にこの約束を、お果しになった。それは詩篇の第二篇にも、『あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ』と書いてあるとおりである。34 また、神がイエスを死人の中からよみがえらせて、いつまでも朽ち果てることのないものとされたことについては、『わたしは、ダビデに約束した確かな聖なる祝福を、あなたがたに授けよう』と言われた。35 だから、ほかの箇所でもこう言っておられる、『あなたの聖者が朽ち果てるようなことは、お許しにならないであろう』。36 事実、ダビデは、その時代の人々に神のみ旨にしたがって仕えたが、やがて眠りにつき、先祖たちの中に加えられて、ついに朽ち果ててしまった。37 しかし、神がよみがえらせたかたは、朽ち果てることがなかったのである。           30-37節

ユダヤ人が殺したイエス様を、神がよみがえらせたと語ります。

キリスト教は宗教と言っても、単に生き方を伝えるものではありません。

事実起こった救いを伝えています。それも、旧約から待ち望まれた出来事だったと。   詩篇16:8~11節

8 わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。―この句が引用されています。11 あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。 この詩篇は、その時代に生きながら、神様が共に歩んでいて下さる経験に生き、やがて来るメシヤが救いを完成される日を先取りして歌っている詩です。パウロは今それが現実となったと伝えます。本当に甦って弟子たちに40日にわたって現れ、昇天され、聖霊様を送ってくださった時代ですと。

手塚治虫さんの「火の鳥」という漫画がありますね。中国の始皇帝?が不老不死の薬を探させたとか聞きます。死は百戦百勝のものでした。人類の希望は永遠の命ですね。でも、それはあり得ないと思っているのが多くの人々ではないでしょうか?

教会で伝える福音は、神の民の歴史に働き、救い主を送ると語られ続け、確かに来られたイエス様が、人間の思い及ばなかった救いを与えてくださったことを伝えるものです。信じた者に現実に与えられる罪の赦しと永遠のいのちです。

先週25,26日と赤羽教会で、「こころの友伝道全国大会」が持たれました。主講師は島隆三先生でした。先生はロマ書をどの教会に遣わされても取り次いでこられました。先生自身の信仰の確信を与えられたのもロマ書でした。信仰を失ったお兄さんに、自分の状態を書き始めて、ロマ書を読みながら書くうちに、信仰の確信が与えられ、信仰を促すような手紙になったそうです。ロマ書の中心は?との問いに即座に「8章1,2節」と返事が帰ってきました。

8:1 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。この命を伝えましょう。

一コリ15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。

祈り 神様、宣教の為に立ち上がり、復活の事実と、信じた者に罪の赦しと永遠の命を与えられる福音を語ったパウロでした。この街にはあなたの民が大勢います。これを受け取る方が起こされますように。

新宿西教会主日礼拝説教「わたしは道であり、真理であり、命である」ヨハネ福音書14:1~6 深谷春男牧師 2025年8月24日

 さる8月16~19日(火)は、日本キリスト伝道会の能登地震救援キャラバンという恵みの時を持ち、能登の地域の羽咋、七浦聖書教会の光の子保育園、門前町の公民館で炊き出し交流会など、現地で大活躍の趙相先生を入れて9人で奉仕してきました。3泊4日の短時間の奉仕の中でしたが、現地におられる趙先生の導きの中で、現地の方々に、神の慰めを語り、共なる礼拝の時を持ち、会食やゲームなどで交わりの時を持ち、祈りの時を持ちました。わたしは羽咋聖書教会の永井先生の牧される教会の礼拝で説教をし、「たとい死の陰の谷を歩むとも災いを恐れじ、汝共にいます」のメッセージ。キャラバン隊の兄弟姉妹も朝から晩まで奉仕され、体調を崩した隊員もありましたが、守られて帰ってきました。お祈りを感謝します。さて今日はヨハネ14:6を学びます。

【今日の聖書箇所の概略】

  今日の聖書箇所は、主イエス様の最後の晩餐でのお言葉です。この時は、

とても、試練の黒雲が、最後の晩餐の空気を重苦しくおおっているような状況

でした。主イエス様も、十字架にかかられる前日で緊張もあったでしょうし、

イスカリオテのユダが主イエス様を裏切るために出て行き、更に、最後まで

「わたしはついて行きます」と言ったペテロにも、「あなたはわたしの行くと

ころに来ることはできない」と言われ、弟子たちも不安や恐れが満ちていたと

きであろうと思われます。その時、主イエスは弟子たちに言われました。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。・・・あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。・・・・ 略 ・・・・6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

【メッセージのポイント】

1)1a  「あなたがたは、心を騒がせないがよい。」

⇒ 心を騒がせるな!

主イエス様は、このユダの裏切りのこと、ペテロへの言葉、三度主イエスを知らないと言うなどの言葉を語られました。聞いていた弟子たちは、聞いて、「これからどうなるのだろう」との不安と恐れにとらわれていたに相違なかったのです。その時に、言われた言葉が、今日、まず第一に取り上げてみたい御言葉「心を騒がせないがよい」であります。

実は、このヨハネによる福音書では「心を騒がせる」と言う言葉がしばしば語られてきました。その中でも、主イエス様が三度、「心を騒がせた」と語ります。第一は、11:33です。愛するラザロが、死の力によって奪い去られた時に、主イエスは、「心を騒がせ」ました。第二は12:27です。一粒の麦が死んで豊かな実を結ぶと語られた時です。第三に、13:21で、サタンがイスカリオテのユダに主イエスを裏切る思いを入れた時に、やはり「心が騒いだ」と記してあります。

わたしも、数年前のイースターの朝にこの所を話しました。吉川教会の最後(2018年3月)は忙しくて健康診断に行けず、新宿西教会から招かれて、一年間はあわただしく、3年近く、健康診断に行けませんでした。そして2020年、この年は、やはり受けておこうと病院に行きましたら、バリウムの結果で引っ掛かり、「精密検査を受けてみてください」と言われたのです。「胃に影のようなものがあります。がんでなければよいのですが・・。胃カメラを飲んで、精密検査をしてみましょう。」わたしは、今までこのようなことを言われたことがありませんので、とても、不安を覚えました。「大したことはありませんよ」とお医者さんは言われましたが、よく眠れない日が続きました。2020年4月8日に、胃カメラを飲んで精密検査をしていただきました。その結果は、「大丈夫のようです。胃が少し荒れています。ピロリ菌の除去などをしておきましょうか?」

家族や教会の方々に祈っていただき、本当に感謝をささげました。

「恐れるな。わたしはあなたと共にいる!」との御言葉が支えでした。

2)1b 神を信じ、またわたしを信じなさい。

  ⇒ 神を信じ、主イエスを信じなさい!

 「これから自分たちはどうなるのだろうか?」と心配して、心揺れ動く弟子たちに、主イエスは語られました。「神を信じ、またわたしを信じなさい!」これはまた何という、力強いお言葉でしょうか?不安や恐れにとらわれる時には、「神を信じ、主イエスを信じるのだ」と語られたのでした。

わたしはすぐに、「神を信じる信仰‼」。旧約聖書の信仰者の言葉を思い出しました。特に詩編の言葉などが、次ぎ次ぎと脳裏に浮かびました。

詩篇23篇 主はわが牧者乏しき事なし。死の陰を歩むとも災いを恐れじ。

詩篇27篇 主はわが光、わが救いの砦。わたしに恐れはありません。

詩篇46篇 神はわれらの避け所、また力。いと近き助け!

詩編62篇 民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。その御前にあなた方の心を注ぎだせ。神はわれらの避け所。

詩篇103篇 我らの罪を赦し、我らの病をいやし、命を墓から贖いだし・・

何と、聖書は全能神への信仰の言葉に満ちていることでしょう!ハレルヤ

以前、礼拝説教でロマ書3:2を語りましたが、聖書の言葉はすばらしいですね。「ユダヤ人の優れている点は幾つもあるがその第一は、神の言葉が与えられていること」神を信じ主イエスへの信仰の大切さが語られます。

「主は善にして善を行われる」詩篇119:68

「主は近い。何事も思い煩うな。事ごとに感謝をもって・」ピリピ4:4~7

「恐れるな.わたしはあなたと共にいる。驚くな、わたしはあなたの神である」イザヤ41:10

どんな暗黒の中にあっても、神の言葉が、唯一の光であり慰め。アーメン

ここではさらに、主イエスへの信仰も語られています。

「神を信じ、わたしを信じなさい!」  ヨハネ14:1

「主イエス様!あなたを信じます。」   マタイ16:16

わたしは、この個所を読むときに、滝元明先生が特別伝道会で語られた体験を思い起こします。幼い小学生のみち子ちゃんが夜中に大声で泣き出した。驚いた滝元先生が、「みっちゃん、どうしたの?」と聞くと、「お父さんが死んじゃった!死んじゃった!!」と泣いていたというのです。滝元先生はみち子ちゃんの手をぎゅっと握り、「みっちゃん!お父さんは生きているよ!」と話したら、みち子ちゃんは、お父さんをしっかりと見つめ、にこっとして、またぐっすりと眠りについた。という体験でした。

3) 2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

  ⇒ 父の家には住まいがたくさんある!

皆さん、主イエスは天に上り、わたしどもの「住む場所」を用意しに行かれ

ました。「住む場所」は、KJV(欽定訳)ではここをマンションと訳しました。ラテン語のブルガダ訳が「マンショーネ」と訳されていたからです。キリストはわたしたちのために、マンション(!)を用意しておられるのです。

4)6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

⇒ 主イエスこそ、道、真理、命 !

更に、ここには、主イエスの有名な言葉が記されます。主イエスこそ天の父の恵み世界に導く、唯一の道であり、だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と語られました。

主イエスこそ「道」である。

 「道」と聞いて、すぐに思い浮かべるのは三浦綾子さんの「道ありき」という小説ですね。

   17歳で、小学校教員となり、昭和20年の敗戦。それから、結核を発病。そして脊椎カリエスで、13年間苦しむ。短歌の会を通じて、前川正さんに出会い、信仰へと導かれる。前川さんは若くして、結核でなくなる。その後に、三浦光代さんに出会って結婚。

  「道」は、旧約聖書でも繰り返して出てくる。詩篇25篇など。

     また日本人の感覚では、その道を究める時に、剣道、柔道、華道、茶道・・・・。等使用する。「クリスチャン生涯はキリスト道」か?「この道のもの」・・・とも呼ばれる。

主イエスこそ「真理」である。

   キリストは「真理(アレーセイア)」であると言われる。

   ポンテオ・ピラトの主イエスへの質問。これは主イエスが十字架にかかる前に、ピラトが問う。「真理とは何か?」ヨハネ18:36,37。

主イエスこそ「命」である。

   「命」はいったい何なのか? ヨハネ17:3。

昔、わたしが神学校を卒業して伝道者になったころに、淀橋教会でケズイック・コンベンションで、村上宣道先生が話をされ、3日間の特別集会のチラシ。「道」、「真理」、「命」だった。

涙の谷のような人生。自分の愚かさを呪い、この世の冷酷さ、人生の不条理と虚無を呪う人生から、神の子供として、感謝と喜びに生きる人生が始まるのです。主イエスを心にお迎えする時、9回裏ツーアウトからの逆転満塁ホームランのような人生が始まります。罪と死に涙する悲しみに人生から、赦しと命の救いに与り、キリストの花嫁として歩みが始まるのですから。ハレルヤ!

三室泰平さん、内村鑑三先生、湯沢七重先生、滝元明先生、藤井武先生、小渕しず姉など天国凱旋の先輩たちの勝利の笑顔が浮かんできます。

 皆さん。神様と和解し、神様の永遠の命を頂いて復活の人生を歩みましょう。

【祈祷】父なる御神。ヨハネ14:6を感謝します。時として罪と死の支配する、涙の谷を通るわたしどもですが、あなたの復活の命を受け入れ、恵みのうちに生きる者としてください。道であり、真理であり、命なる神よ。どうぞ、この一週間を、あなたと共に歩ませてください。御名によって祈ります。アーメン