新宿西教会主日礼拝説教「詩とさんびと霊の歌によりて生きる」コロサイ書3:12~17西川穂伝道師 2025年8月17日

コロサイ人への手紙3章15、16、17節は三回、感謝という言葉がでてきます。15節  いつも感謝していなさい

16節  キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、

感謝して心から神をほめたたえなさい

17節  そして、あなたのすることはすべて、言葉によると わざによるとを問わず、

いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい

何もない所に、ありがとうという言葉は、私たちは言えません。私たちは、神様に、たくさんして頂いたから、神様の恵みに感謝していくことができるのです。信仰とは、感謝です。感謝がキリスト者を生むのです。感謝をもって教会がたつのです。 

「キリストの御言葉」に感謝するということを中心に、3章15、16、17節から、私たちが神様の恵みに感謝する、三つの理由について、分かち合いたいと思います。

【聖書箇所の概説と内容区分】

12~14節    父なる神様に愛されている者であるから、愛することができる。

15節       「主イエス・キリストの御言葉」が宿る時、平和が来る。

16~17節   「主イエス・キリストの御言葉」に基づいて感謝と賛美が生まれる。

1. 神様の御言葉に 喜んで生きることができるのを感謝します。

3章16節、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」。

この御言葉は、一人一人に言われているという事もあるのですが、それ以上に、このコロサイ教会の交わりの中に向かって言われています。このようにして、主がこの教会へと私たちを召してくださった結果、教会の兄弟姉妹と、時と場所を共にするようになり、福音の使命を共有することになりました。同時に、私たちには、主に贖われたキリストにある、人々の交わりが教会内外を通しても与えられています。そうして、私たちの信仰の旅路で、神様は所属教会を超えた信仰の仲間を私たちに備えられているのです。それは、「キリストの御言葉に生きる」ように知恵を尽くしてお互に励まし合う為です。キリストの御言葉に立つように、そこから落ちないように、励まし合う為、信仰の仲間を備えられたのです。落ち込んでいるならば、誰かが側に行って助けるのです。そして単なる慰めではなく、私たちを「キリストの御言葉」へと向かわせていく為に、励まし合うのです。

2. 詩とさんびと霊の歌とによって生きることができるのを感謝します。

コロサイ3章16節、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。

そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、

感謝して心から神をほめたたえなさい」。

ここは、お互いに教え、また訓戒するのは、「賛美」によってであるという解釈が可能なのです。言い換えるならば、「詩とさんびと霊の歌を歌うことによって」、知恵をつくして互に教え、また訓戒しなさい、と読めるのです。

コロサイの教会に深く関係している、エペソ人への手紙の中でも、同じ書き方を見ることができます。この手紙はエペソ人への手紙と比較すると判りやすい所があります。エペソ5章19節では、「詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。」とあります。詩と賛美と霊の歌とをもって互いに歌うのではなく、「語り合う」ということについてですが、古代ローマ帝国の総督で小プリニウスという人が書いた文書(112年)にある記録が残っています。小プリニウスは、次のように、初代キリスト教会の様子を描いています。「キリスト者たちは、夜明けに、『神であるキリスト』に向かって、交唱の形で讃美している」、と。交唱というのは集会をリードする人が先に歌って、次に会衆が歌うというものです。

礼拝のはじめに「交読文」を読んでいる様な形式で交互に歌い交わすのです。

今日の教会でも、御言葉に基づいて詩と讃美と霊の歌とをもって、お互いに励まし合っているのです。

例えば、感謝できない時でも、私たちが神様を賛美している時、その態度が相手に励ましとなり、メッセージを発信しているという事があるかと思います。

『わが涙よわが歌となれ』という本があります。それは原崎百子先生というクリスチャンの病床日記です。その本に、牧師である夫から肺癌であるとの告知を受け、亡くなるまでの四十四日間の記録が綴られています。ガンの進行が具体的になり、体力が衰弱した時、「わが礼拝」という詩を書きます。「わがうめきよ わが讃美の歌となれ わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ わが涙よ わが歌となれ 主をほめまつるわが歌となれ わが病む肉体から発する すべての吐息よ 呼吸困難よ 咳よ 主を賛美せよ わが熱よ 汗よ わが息よ 最後まで 主をほめたたえてあれ」。臨終の際、お姉さんに、「お姉さま!信仰を持たなければ駄目ですよ!信仰は力ですよ!」と叫びます。夜になって、讃美歌を歌い、突然、「キリスト!」と叫んで、あとは指で「ニヨルカイホウ(解放)」と書いてから亡くなられたそうです。

次のように、夫の原崎清先生は、語っております。「妻が、ガンと知りつつ、何ゆえにあのようにも明るく希望に満ちて生き得たかということの秘訣は、一にかかって、『伝道者としての召命の自覚』に拠っていたものであることは 彼女の死を考える場合、最大のキーポイントだと思う。つまり、気負いとか痩せ我慢とかいうことでは全くなしに、自分をかくも豊かに生かし給う主キリストの恵みと、実際自分でも思いもかけなかった今ある平安とを、少しでも他人に証し得たならば、という喜びが彼女を満たし支えていたということである」、と。原崎百子先生は、自分が幸せになるというこだわりではなく、主イエス様を賛美して生きるという使命において解放されていたのです。原崎百子先生は、主の愛により、「詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえ」たのです。

3. 「聖霊なる神様の恵み」に生きることができるのを感謝します。

3章17節、「すべてを主イエスの名によって行い、イエス様によって、父である神に感謝しなさい」、とあります。イエス・キリストを信じる者が、祈る時に、祈りが、はじきとばされないのは、イエス様の御名が私たちに与えられているからです

3章17節で、全ての事を主イエス様の名前に基づいて行うようにと、コロサイの教会の人々に命じています。

3章23節、24節でも、「あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。」とあります。私たちは、皆、恵みの中に招かれていて、クリスチャンとしての特別な立場と特別な待遇に置かれていて、そして、主イエス様にお仕えするという特権が与えられているのです。これは、イエス様を受け入れ、新しく生まれ変わったクリスチャンに向けていわれたことです。「キリストの言葉が豊かに住んでくださった」、その結果、私たちにイエス・キリストの心と、聖霊なる神様が与えられているのです。現実に、聖霊なる神様が私たちの中に住んでいてくださるのです。

3章16節、「御言葉を宿らせなさい」の「御言葉」は、ギリシア語で「ロゴス」です。「ロゴス」とは神様の「命の御言葉」という意味に捉えることができます。

即ち、「イエス様」です。イエス様の霊が、「聖霊なる神様」です。

冒頭で三つの感謝があるといいました。16節の「感謝して」は、聖書協会共同訳注では、「感謝して」ではなく、「恵みの内に」と書いてあります。

私たちは、自分の力でここまで生きてきたのではなく、本当は、父なる神様から、私たちは立ち直る為に、生き抜いていく為に、必要なことは、主が全てしてくださったのです。このように、全ては、「神様の恵み」です。

「恵みの内に」心から神様をほめたたえなさい、とありました。「恵み」とは辞書では「無償のイエス様の贈りもの、恩恵」という意味があります。

ヨハネ福音書1章14節、「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。…めぐみとまこととに満ちていた」。イエス様は、この罪に満てる世界に足を踏み入れて、私たち一人一人に目を留めて、心の中に宿ってくださったのです。

そうして、失われていた私たちをイエス様の御救いの中に導かれたのです。

父なる神様が私たちを超えた神様で、御子なるイエス様が私たちと共にいる神様であるとすれば、聖霊なる神様は、私たちの内に働かれる神様です。

ある神学者が次のように語っています。「聖霊なる神様がキリストの全ての恵みを携えて、貧しい私の心の家に来てくださいました。聖霊なる神様は、何か特別な人だけに与えられるのではありません。神様を幼子のように慕い求める人々すべてに、天の父がくださる愛のプレゼントです。ルカ福音書11章13節、「自分の子どもには、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」とあります。真の神である聖霊なる神様が与えられるとは、天国が私の元に与えられるのに等しいことです。私が天国に上るのではなく、天国が私の内に来てくださるのです。地上にいながら、いまだ罪人でありながら、神の国が私の中に、訪れてくださるのです!」。聖霊なる神様は、天へとあげられた主イエス様に代わり、「永遠に私たちと共にいてくださる」お方です。聖霊なる神様が私たちの内に住まわれることにより、私たちの内に再び生きる力と希望が与えられたのです(ローマ15:13)。

このようにして、父なる神様は、私たちを憐れんで愛してくださり、聖霊なる神様の恵みをもって、私たちのために、感謝して生きる人間へと呼び起してくださるのです。 そこに、神様の力は発揮されて、神様の命の御言葉が輝き渡るのです。  

どうにもならない人間を見捨てる神様ではなく、どうにもならない不可能な人間だからこそ、この人の為にイエス・キリストを送るという決意をして、その道を選んでくださり、愛し抜いてくださったのです。そして、この地上の生涯において、聖霊なる神様が私たちを最善のご計画へと導いてくださるのです。誰よりも神様へ大きく、深く感謝をする人というのは、誰よりも自分の罪深さを本当に知っている人です。

そのように、父なる神様は、まっすぐに感謝をできる人を御言葉により立ち上がらせ、神様である主を愛して、隣人を愛して仕えるように祝福をもって、今も、「恵みの内に」送り出してくださるのです。祈り)イエス様が私たちに恵みの上に更に恵みを与え、最善のご計画へとお導きください。キリストの言葉が豊かに宿りますように、イエス様のお名前によりアーメン

 

新宿西教会主日礼拝説教「わたしはよみがえりであり、命である」ヨハネ福音書11:25~27 深谷春男牧師 2025年8月10日

 小学生のころ、わたしはりんごをかじると時々、歯ぐきから血が出ました。当時、友人の誰かが言いました。「歯ぐきから血が出るのは白血病 といって恐ろしい病気なんだ。やがて血が止まらなくなって死ぬんだよ」。わたしは幼い心ながらとても不安になって、白いりんごのかじりかけの部分にうっすらと血がにじんでいるのを見て「ああ、ぼくはきっと恐ろしい病気で近いうちに死ぬんだ。恐いなー」。結局、深谷少年の場合は歯をあまり研かないために起こった軽い歯槽膿漏であって白血病ではなかったようです。しかし、あの幼い日の「死への恐怖」というのはこの年になっても忘れられません。

ここ数週間は、ヨハネ福音書にある「わたしは・・・である」と言う宣言が7回なされていることを学んでいます。声に出してお読みしてみましょうか。

「わたしは命のパンである」(6:48)、

「わたしは世の光である」(8:12)、

「わたしは門である」(10:9)、

「わたしはよい羊飼いである」(10:11)、

「わたしはよみがえりであり、命である」(11:25)、

「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)、

「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)。

  これらの言葉は暗唱しましょう!

 霊的な飢えや渇きを覚えたら、・・・・・⇒ キリストこそ命のパン!

 人生の試練にあって、真っ暗な時・・・・⇒ キリストこそ世の光!

 人生の荒野で地に迷った時・・・・・・・⇒ キリストこそ人生の門!

 誰の声を聞いたらいいのかと思った時・・⇒ キリストこそが牧者!

 人生で親しい人の死に出会ったら ・・・⇒ キリストこそ復活の命!

人生の生き方、真理、本当の命か?・・⇒キリストこそ 道、真理、命!

わたしのそばの命、成長、恵みの主は・・⇒キリストこそわがぶどうの幹

                       

【聖書箇所の概説】

今日の聖書箇所は、「ラザロの復活」として、とても有名な箇所です。ヨハネはこの福音書の第一部としてまず「7つの奇跡物語」を記しています。2章で「カナの結婚式での水をぶどう酒に変える奇跡」から始まって、7つの奇跡が語られ、このラザロの復活はこの7つの奇跡物語のなかの最後に位置しており、福音書の前半のクライマックスとなっております。主イエスは人間の悲しみの世界、特にここでは死んで4日経って臭くなったラザロをよみがえらせたことを大胆に告白しています。

【メッセージのポイント】

1)、21 マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。(21節)

 ⇒ memento mori 死を覚えよ。

 主イエスのなさったもっとも大きな奇跡のわざは「死人をよみがえらせることだった」とヨハネは叫んでいます。言うまでもなく、「死」は人生のもっとも大きな課題です。すべての人はこの死に立ち向かわなくてはなりません。わたしどもが地上で生きてゆくには、時間的な制限があります。memento moriという言葉はラテン語で「死を覚えよ」という意味です。中世の修道院では「合い言葉」のように、この言葉が使われたというのです。

 台湾から来られた頼炳炯先生が、台湾の格言を教えてくださいました。「深谷先生。台湾には『7年8月9日』という言葉があるのですが、聞いたことありますか?」と先生は聞かれましたがわかりませんでした。先生はおもむろに教えてくださいました。「これは70歳代は一年のうちにいつ死ぬかわからない、80歳代は一ヶ月のうちにいつ死ぬかわからない、90歳代になると一日のうちにいつ死がやってくるかわかりません。いつでも神様に会う心の備えをしておくようにという教えですよ」と語られました。

 わたし達は地上で永遠に生きることはできません。やがて、天の父のもとに帰らねばなりません。あなたはいかがですか?天のお父様のもとに帰る備えはできておられるでしょうか?

2)、25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。27 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。

⇒ 我はよみがえりなり、生命なり!         (25-27節)

 何という驚くべきことばなのでしょう。主イエスは「わたしはよみがえりであり、命である」と語られました。主イエスは一度死を経験し、死を克服したよみがえりの命である、とご自身を示されました。そして、主イエスは命そのものだといわれるのです。そして主イエスと信仰によって、結びついていると、わたしどもは命そのものを得るのだというのです。その時、「信じる者は死んでも生きる」と言われます。「生きていて、主イエスを信じるものは死ぬことはない」とも言われました。ここには主イエスを信じることの大切なことがくり返されます。信仰という電線で主イエスにつながっているようなものです。マルタに尋ねられます。「あなたはこれを信じるか?」と。彼女の答えはこうでした。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。ここに信仰の救いが語られています。

以前、教会であるところに出かけようといたしました。いつものように教会の車に乗り、エンジンをかけようと思ってスイッチを入れたところが、カチッと小さな音がするだけで、エンジンがかかりませんでした。何度やっても同じ。「ああ、バッテリーがあがった!」と悟りました。去る兄弟にそのことを告げたら、コードを持ってきてくれて、自分の車のバッテリーと教会の車のバッテリーをつないでエンジンをかけると、「ブウウン!」と一発でエンジンがかかったのでした。運転しながら考えました。わたしどもの生涯もいろんなことが起る。魂が擦り切れてしまうような、バッテリーがあがってしまうようなことが起こる。でも、キリストの命、永遠の命に信仰によってつながると、死んだバッテリーが生き返るように、わたしどもの魂も生きる。バッテリー同士をつなぐコードが「信仰」なのだと示されました。皆さん、今日、マルタのように「主よ、信じます。あなたが来るべきキリストです」と告白しましょう!

3)イエスは涙を流された。(35節)

⇒ イエス 涙す。              

 さて、このラザロの復活の物語のなかでひときわ目立つことばは「イエス涙す」の一節です。この言葉は聖書全体の中で、いちばん短い節であると言われます。ギリシャ語原典ではわずか3つの語が並んでいるだけです。口語訳ふうに「イエスは涙を流された」と訳すと少し長くなりすぎて、ヨハネ福音書の持つ簡潔な、しかし、無限の余韻を残した表現が伝えられなくなってしまうといわれます。「イエス、涙す」という文語訳が簡潔で、この節のもともともっている響きを伝えています。

主イエスは涙を流された。ここにわたしどもの希望があります。神はわたしどもの苦しみを共に分かち、悲しみの涙を流されるのです。神の御子、主イエスが涙を流され、われらの重荷を共に、担ってくださるのです。この主イエスの愛に触れるときに、もうすでに人生の重荷は重荷でなくなり、悲しみは悲しみでなくなってしまうのです。神の愛が現われるとき、神の恵みと救いに触れるときに、わたしどもは、すでに死から命に移されているのを悟るのです。

 

4)43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。⇒ ラザロよ!出てきなさい!           (43節)

 主イエスは今日語られます。「ラザロよ!出てきなさい!」。赤羽で牧会していたときは洗礼名をつけました。何人かは、「ラザロと付けてください」と言いました。家庭崩壊を経験した方、路上生活を経験した方、たくさんのラザロがいました。福音に触れたわたしどもは、いわば、ラザロの二世です。以前、週報のコラムにのせた文章です。

「ラザロとラスコーリニコフ」  

 聖書の中心的なメッセージは、主イエスの十字架の贖いと復活の出来事です。ロシアの文豪ドストエフスキーは、「罪と罰」の中で主人公の青年ラスコーリニコフの復活を語っています。貧しい者を救うために世の醜悪な金持ちを殺害し、その富を有意義に使うことは賢いことであり、歴史の中に現れる英雄的な人物はその殺人も許されるのだという思想にとらわれて、彼は年老いた金貸しの女性を殺害して、その金品を奪います。しかし、歴史は単純には割り切れず、金貸しの老女の殺害の際に、その現場に入ってきたその金貸しのおばあさんの妹、善良なるクリスチャン、エリザベータをも殺害することになってしまいました。殺人という恐ろしい罪を犯して、罪意識と恐怖に悩み、精神的に限界状況に陥る主人公。田舎から上京してくる信仰深い母親と妹の心配と愛。そのまわりに集まるロシアの青年たちの逞しい姿。農奴制の崩壊やロシア皇帝の支配をめぐるロシア革命前夜を背景に、矛盾に満ちた社会と不条理の現実を描きつつ、実際に殺人者となってしまったラスコーリニコフの絶望的な、苦悩と葛藤。彼は、真っ暗闇の中で、ソ―ニャという女性に出会います。彼女もまた自分の家族を養うために、自分の身を売る淪落の道を歩まざるをえない女性でした。彼はソーニャの苦悩と悲しみの中に、一縷の光を見て、彼女に自分の殺人の罪を告白します。二人きりになったときに、ラスコーリニコフはソーニャにヨハネ福音書11章にある「ラザロの復活」の箇所を読んでくれと頼みます。ラザロの復活!これはラスコーリニコフの復活の原点でした。罪と死の支配を歩むわたしどもの復活の原点でもあります。

【祈り】 天の父よ。わたしどもの人生には多くのことが起こります。バッテリーが上がって魂が動かなくなるような時もあります。この世的には人生の最後は死です。でも、主よ、あなたを信じて、魂のコードをあなたにつないで歩みはじめるとき、わたしどもは「生き返る」のです。その時、罪と死の呪いは消えて行き、神の命、永遠の命がわたしどもの内側に始まるのです。主よ、「わたしを信じるものはいつまでも死なない」「あなたはこれを信じるか?」。この質問に、わたしどもは今日喜びを持って、答えます。「主よ、信じます。あなたこそ、神の御子、永遠の命をもたれるお方、救い主」と。ラザロのように、ラスコーリニコフのように復活の命に歩ませてください。イエスの御名によって。アーメン。

新宿西教会平和主日礼拝説教「わたしは良い牧者である」ヨハネ福音書10:11~18 深谷春男牧師 2025年8月3日(日)

 

 去る7月29,30日の「第56回日本伝道の幻を語る会」は豊かな祝福を得ました。特別講師として立てられた大嶋重徳先生、須郷裕介先生、守部喜雅兄、川村秀夫兄、それに松浦剛・みち子先生、司会の実行委員の先生方、分科会のリーダたち。隠れたところでの奉仕者、愛の交わり、背後の祈り、感謝、感激の集会でした。「若者も年配者も共に居場所となる教会」の説教のように、大きな励ましを受けました。「聖霊に満たされる時、若者は幻を見、老人は夢を見る!」。いつも主の「夢と幻」を心に映し出しましょう。

【聖書箇所の解説と区分】

さて、この聖書箇所ヨハネ福音書10章は、たいへん有名で、イメージの強い箇所ですね。詩編23編の「主はわたしの羊飼い。わたしは乏しいことがない」との告白が、見事に、主イエスこそ「良き羊飼い」であると語られています。主イエスが良き羊飼いであり、ユダヤのリーダーや、異邦人のにせキリストが、「こっちだ、こっちだ」というが「盗人、強盗」(1,8,10節)のようなもの。気をつけよ!との警告もなされています。概略は以下のようです。

1~ 6節  「羊の囲い」のたとえ。

7~ 10節  主イエスは羊の門である。  

11~ 15節  主イエスは良い羊飼い。羊は羊飼いを知っている。

   16節  この囲いの中にいない羊も一つの群れとなる。

17~ 18節  主イエスは自分から命を捨てる。命がけの愛!

19~ 42節 これを聞いたユダヤ人は主イエスを憎み殺そうとする。

【メッセージ・ポイント】                                                     

1)主イエスの言葉、「わたしは良い羊飼いである。」(11節)

   ⇒ 主イエスは良い羊飼い。             

  ここにも、きっぱりとした主の宣言文があります。「わたしは良き羊飼いである」という宣言です。主イエスこそ、わたしどもを導き、救う、神からの良き羊飼いだからです。  

 ここ数週間は、ヨハネ福音書にある「わたしは・・・である」と言う宣言が7回なされていることを学んでいます。イエスキリストこそが終末的な神から遣わされた救い主であることを示している表現と学びました。その7つ、皆さんと共に、声に出してお読みしてみましょうか。ここに聖書語る、神様の救いと愛の宣言がある。

「わたしは命のパンである」(6:48)、

「わたしは世の光である」(8:12)、

「わたしは門である」(10:9)、

「わたしはよい羊飼いである」(10:11)、

「わたしは甦りであり、命である」(11:25)、

「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)、

「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)。

  これらの言葉は暗唱しましょう!

霊的な飢えや渇きを覚えたら・・・・⇒ キリストこそ命のパン!

人生の試練にあって、真っ暗な時・・・⇒ キリストこそ世の光!

人生の荒野で地に迷った時・・・・・⇒ キリストこそ人生の門!

誰の声を聞いたらいいのか分からない時・⇒キリストこそが牧者!

人生で親しい人の死に出会ったら・・・⇒キリストこそ復活の命!

道に迷い、真理、命の不明の時・・⇒キリストこそ道、真理、命!

自分の所属、平安、成長、霊的命の源泉・⇒キリストこそ葡萄の幹

                   ハレルヤですね。

 ご存じのとおり、聖書には羊と羊飼いの話がよく出てきます。創世記12章の聖書の信仰者の出発は、アブラハム。彼は職業は羊飼いでした。その子イサクも、イサクの子ヤコブもまた羊飼い。モーセはミデアンの地で羊飼いをしている時に神の召命を受け、ダビデも若い時は羊飼。羊はユダヤ人にとってなじみの深い動物でした。
 また聖書では指導者が羊飼い、民が羊として描かれることも多くあります。更に旧約聖書で重要なことは、羊は人間の罪を代わりに担う贖罪の羊として、犠牲として捧げられました。キリストが十字架で死なれた時、人々は自分たちの代わりにキリストが血を流されたと理解し、彼を「贖罪の子羊」と呼んだのでした。


2.いろいろな羊飼いがいる

主イエスははっきりと「わたしは良い羊飼いである。」と言われました(ヨハネ10:11)。主イエスが活動された時代は、ローマがユダヤを支配しており、ユダヤの人々は、ローマの植民地支配に対して複雑な思いを持っていました。パリサイ派は、いわば、民族派・国粋派で、異邦人であるローマの支配を快く思わず、いつの日か、メシヤが現れてローマを追放すると期待していました。熱心党などは、メシヤを待たずに自分たちの武力でローマを倒そうと考えていたようです。体制派のサドカイ派は積極的にギリシャ・ローマの文化を取り入れ、ローマとの円滑な関係を築こうとしていたようです。また、エッセネ派と呼ばれる人々は、現実の世界から離れ、荒野に逃れ、隠遁生活を行っていました。これらの多くの考えが一つの方向に流れ出し、反ローマで一致し、ユダヤはローマに反乱を起こし紀元66-70年「ユダヤ戦争」が起こり、ユダヤの国は、ローマによって完全に滅ぼされてしまいました。この時代、あまりに多くの指導者がいて、いろいろなことを言うので、右往左往していた時代でもあったようです。

ヨハネ10章の羊と羊飼いはこのような文脈の中で語られています。羊は群衆、羊飼いは指導者です。

ある方はここに、三種類の羊飼いが出てくると言います。

第一の「羊飼い」は、「盗人」であり「強盗」と言われる人々です。これらの指導者は、民のことよりも利益を図るために人々をむさぼっていたパリサイ人やサドカイ人を指しています。いつの時代でも世の指導者はこのようなものですね。この間の参議院選挙などは、日本においても、様々な意見の対立で、選挙は、大変でした。
 第二の「羊飼い」は「雇い人」の羊飼いです。雇い人は報酬のために働くのです。彼の関心は報酬であり、羊ではありません。だから狼が来るような、困難な情況になると逃げてしまうのです。


3.良い羊飼い

第三は、「良い羊飼い」ですね。良い羊飼いは自分の羊のことをよく知り、羊もまた羊飼いを慕う(10:15)。 

わたしたちはこの良い羊飼いの姿にイエス・キリストを見る。

  • 主イエスは良い羊飼い。羊と共に生き、そばにいて守られる。

 主イエスはベツレヘムの馬小屋に生まれ、ナザレの貧しいうちに育ち、弟子たちと共に生き、多くの群衆に語り、病んでいる人を癒し、神の国の福音を語り、共に歩んでくださいました。

  • 主イエスは良い羊飼い、羊のために命を捨てる。

この所では「良い羊飼い」は「羊のために命を捨てる」と4回(11,15,17,17節)も言われて強調されています。これはイザヤ53章の「苦難の僕」、ロマ書3;21~26の「キリストの十字架の贖い」、「救いの御業」が語られます。救いはキリストの十字架にあり!アーメン

  • 主イエスは良い羊飼い、永遠の命を与える。

主イエスが来られたのは、羊に命を与え、豊かに与えるためです(10節)。この言葉はキャンパス・クルセードの「4つの法則」に引用されており、わたしの若い時からの暗唱聖句です。更に29節で「わたしは彼らに永遠の命を与える。だから彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪いさる者はないい。」と語られました。ヨハネ3:16,14:2,3。参照

  • 主イエスは良い羊飼い。この囲いにいない羊も導かれる。

「この囲いにいない羊も導かれる。」主イエスは、ユダヤ人々だけでなく、異邦人と言われる全世界の人々をも救いに導かれる。韓国でも、中国でも、インドでも、ナイジェリアでも、日本でも、すべての人が、罪と死の呪いの世界から救いを得るのです。この間インドの「毎週30万人が礼拝に集う教会」のYouTubeを見ました。

今日、はっきりと告白しましょう。「主イエスはわたしは良い羊飼いです!」と。 

【祈祷】主よ、今日も、素晴らしい御言葉を感謝します。「わたしは良い羊飼いである」との御言葉を感謝します。主イエスの十字架の救いの正門から入って、救いの道をまっすぐに歩ませてください。特にこの8月3日は、礼拝においてネパールの留学生、マノズ兄が洗礼の恵みに与ります。彼の人生を導いてください。恩寵充満の日々を歩ませてください。命をも捨てたもうほどに、われらを愛して下さる主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会特別礼拝説教「信仰による第一歩」ヨシュア記3:9~17 佐々木良子牧師(4月までドイツケルンで日本人教会宣教師9年間:現在・京都復興教会協力牧師) 2025年7月27日(日)

ヘブル人への手紙4 章14-16 節         

 本日の聖書の箇所はヨシュア記だが、ヨシュアという人、そしてヨシュアに率いられるイスラエルの民も、一つの大きな時代の区切りに立っていた。彼らをエジプトから導き出したモーセという偉大な指導者は世を去った。神によって新しい指導者ヨシュアが立てられた。目指してきた約束の地は、ヨルダンの向こうに広がっていた。

 イスラエルの民の40年間の放浪の旅は終わり、いよいよ最後のクライマックス。一つの時代が終わり、新しい時代が始まろうとしていて、大きな決断が迫られていた。彼らはそこにおいて神からいったい何を聞いたか。彼はその言葉にどのように応えたのか。
私たちは毎週日曜日毎に聖書に耳を傾け、神の言葉を求めてここにいる。

復活して今も生きておられる主の御言葉を求めている。しかし、私たちが本当に「神の言葉」を求めているかどうかは、繰り返し自らに問わねばならない。神の言葉が、神の言葉として求められ、聞かれるところにおいて、神の御業が豊かに現わされる。

                                                                                                                                                                                          聖書の言葉を外から眺めるかのように宗教一般の話をしている限り、人間にとって無茶で不可能なことでしかない。しかし、イエス様に従おうとする者として、この「わたし」に語りかける言葉として、その中に身を置いて聞く時に、いろいろ見えてくることがある― その中に身を置かなかったら分からない。

自らの身を置かなければ分からない。外から眺めていても分からない。

しかし、その人が自分自身に関わる神の言葉として聴き始める時、他ならぬ私に対して語られている神の言葉として聴き始める時、事態は変わってくる。

自分の身を置いて、初めて見えてくることがある。

本日の箇所も、過去の旧約時代の出来事として外側から聞くのではなく、今日、この今、私たちにもどのような決断が迫られているのかを共に見てみたい。

私たちの人生もいつも、決断が迫られている。究極、私たちの人生は小さな決断から大きな決断の連続といえる。その時、どのように対応していくのか。


このヨシュア記は次のような言葉から始まる。1:1‐2(新共同訳)

「主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。『わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい』」

そのように、「ヨルダン川を渡れ」という主の命令から始まる。
それから彼らは三日をかけてヨルダン川を渡るための準備をした。ついに3

章に入り、ヨルダン川を渡るために彼らはシティムを出発する。

ところが3章の冒頭には次のように書かれている。

「ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した」(1節)。
 宿営地シティムからヨルダン川まで、10キロほどの道のり。朝早く出発したから、どんなにゆっくり歩いても午前中には到着したはず。しかし、彼らはその日のうちにヨルダン川を渡らなかった。そこには「野営した」と書かれている。その次に「三日たってから」と、三日間、ヨルダンの岸辺で野営していた。
  なぜそこに三日も留まっていたのか。渡りたくても渡れなかった。

15節には「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていた」と書かれている。春の刈り入れの時期というのは、遠いレバノン山の雪が解け、ヨルダンの水かさが増し、両側の低地に水が溢れる時。その濁流泡立つヨルダンを前にして、彼らはどうすることもできなかった。民の中のには老人たちや子供たちもいる。皆が渡ることは極めて困難なことだった。
 主は「ヨルダンを渡れ」と言われる。ヨシュアも民も従いたいと思っている。

しかし、現実にはそこに渡れない川が。

「ヨルダンを渡れ」と主が言われることがある。主が向こう岸を指し示しておられる。主が与えようとしているものを指し示しておられる。そのために従うことを求められる。御言葉に従いなさい。ハードルの高いヨルダンを渡りなさい、と。そして、私たちも分かっている。御言葉に従うことが最善であると。しかし、現実には、ヨルダンの川の水は堤を越えんばかりに満ちている。ヨルダンを渡ることは極めて困難に思える。

ヨルダンの岸辺に野営していた三日間。「現実」を前にした三日間。そこにおける心の葛藤。私たちにも覚えがある。もしかしたら、三日間ではなく、もう長い長い間ヨルダンを前にして野営している人がいるかもしれない。
 濁流泡立つヨルダンを前にすると、いろいろ言い訳したくもなる。

「聖書はそう言っているかもしれないけれど、現実にはそうはいかないよ」。

「説教で語られていることは分かるけれど、実社会ではそんなことばかり言っていられないですよ」。「時が悪いよ、時が。」 

そう言って従うことを後回しにし、先送りにしたくなる。

そして、やがては生ける神が語りかけられる言葉を求めなくなる。そうではなくて、自分の現状を肯定してくれる言葉ばかりを求めるようにもなることも起こる。

 自分自身を聖別せよ!
 三日経った時、ヨシュアは民にこう言った。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる」(5節)。

困難が目の前にある時こそ、神の驚くべき御業を見る時でもある。しかし、その前にヨシュアは言う。「自分自身を聖別せよ」と。
 自分自身を聖別するとは、元来神のために、神のものとして取り分けることを意味する。自分自身を完全に神のものと見なし、神に自らを捧げるということ。
 私たちはいったい何ものなのか。私たちは主のもの。

キリストの血によって贖われた私たちにとっては、なおはっきりと示されている。

そのように「自らを聖別する」こと。そのようにして自分自身が何ものであるのかをはっきりさせること。主の民であるということをはっきりさせること。

それこそが、ヨルダンを前にして立ち、決定的な時代の区切りに立った彼らに求められていたこと。それがあってこそ「主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる」という言葉も続く。それがあってこそ主の御業を見る。

そのように語ったヨシュアに、主はこう言われた。「あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい」(8節)。これは、ある意味で無茶苦茶な命令。

ヨルダン川の中に立ち止まれるくらいなら、とうの昔に皆渡っているはず。

水かさは増し、まさに水は堤を越えんばかりに満ちている。そのような中に入って行ったら、たちまちのうちに足をすくわれてしまう。しかも、これを契約の箱を担いで行えと言う。大事な契約の箱が流されてしまったらいったいどうするのか。

無謀に私たちだけで行けとはおっしゃらない

10節「生ける神があなたたちの間におられて・・・」

11節「主の契約の箱があなたたちの先に立って・・・」

それは、神が共にいてくださるから、踏み出すことができる。

本日の聖書箇所はもう一カ所、へブル書が読まれた  4:14‐16

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」

神の御子であるのに、弱さを身にまとう人間の一人として生きてくださった。そして自らは罪のない御方であるのに罪人と同じところに立ち、私たちと同じように死を免れぬ人間として生きてくださった。人間の一人として苦しみを味わってくださった。キリストは叫んだ。泣いた。父にすがりついた。

私たちが信仰によってキリストの復活に目を向けることができるなら、確かに希望を失うことはない。なお神様に信頼して従順であり続けることは時としてとても困難である。しかし、そのような私たちのために大祭司なるキリストがいてくださる、とヘブライ人への手紙は語る。わたしたちと同様に試練に遭われた。だから分かってくださる。私たちの苦しみも分かってくださる。私たちが無知で迷いやすい者であるということも分かってくださる。そして、この大祭司が分かってくださるならば、生きていける。耐え忍ぶことができる。苦しみの時を、従順を学ぶ時としても受けとめていくことができる。たとえ迷ったとしても、そのような大祭司が執り成してくださるから、今一度立ち返り、神に信頼して生き始めることができる。多くの苦しみによって従順を学ばれた御方と共に、父なる神に信頼し、従っていくことができる。


主はそこで、あえて信仰の一歩を踏み出すことを求められる。具体的に一歩

を踏み出すことを求められる。

ヨシュアは民にいった。13節「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう」。 ここにはっきりと語られている。「祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると」。言い換えるならば、祭司たちの足がヨルダン川に入るまでは何も起こらないということ。祭司たちが濁流の中に一歩を踏み出すまでは何も起こらない。決定的に重要なのは、神に信頼して踏み出すこの信仰の一歩だということ。この信仰の一歩を踏み出した時、人は神の御業を見る。それが人々に与えられた神の約束の言葉だった。


これを聞いて、イスラエルの民は14節に「ヨルダン川を渡るため、民が天幕を

後にしたとき」。感動的な言葉。確かにここには「ヨルダン川を渡るため」と書か

れている。どれほど困難に見えようが、どれほど不可能に見えようが、彼らは「ヨ

ルダンを渡るため」に川へと向かった。一部の祭司たちだけが向かったのでは

ない。皆、祭司たちと共に信じて、決断して、実際に立ち上がった。天幕を後に

してヨルダンへと向かった。祭司たちだけではなく、皆共に、ヨルダン川を渡る

ための信仰の一歩を踏み出した。

 朝日を背に受けた祭司たちの小さな行列が、ゆっくりとヨルダン川に近づく。

濁流が音を立てて流れるその川には何も起こらない。「驚くべきことを行われる」

とヨシュアは言った。しかし、何も起こらない。水が引く気配すら見えない。しか

し、祭司たちは立ち止まらない。人々も立ち止まらない。そして、ついにその足

が水際に浸った。すると驚くべきことが起こった。15節「川上から流れてくる水

は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った」


聖書の強調点は、その不思議な出来事そのものではない。

そうではなく、祭司の足が水の中に踏み出された時に起こった、ということ。信仰の一歩を踏み出した時、今までなかった道が開かれたということ。その結果「民はエリコに向かって渡ることができた」と書かれている。彼らは約束の地に入ることができた。

一つの時代が終わった。

主の言葉に従ったところから、イスラエルの民に新しい時代が始まった。
私たちが信仰の一歩を踏み出す時。その時に、私たちの前には今まで見え

なかった道が開け、新しい時代へと踏み出していくことになる。

新宿西教会主日礼拝説教「わたしは門である」ヨハネ10:7~10 深谷春男牧師 2005年7月20日                                                                                                                                                                               

  

「わたしは門である」と主イエスは語られました。素晴らし言葉ですね!

皆さんは「門」と言われるとどのようなイメージが浮かぶでしょうか?

わたしは「門」ということでさ~っと頭をかすめたのは、夏目漱石の小説「門」でした。この小説は、親友の奥さんを奪ってしまう過去の罪が主題。

創世記28:17のヤコブの驚き。「ここは、神の家、天の門だ!」と叫ぶ場面。ヤコブが長子の相続権をめぐる問題で兄の殺意を逃れ絶望の石を枕にした時の告白。自分の罪に気づき真っ暗闇から天を仰ぐ、そこが天国の入り口。

詩篇100:4「感謝しつつ主の門に入り、ほめたたえつつその大庭に入れ。」礼拝の喜びと開放。それは天国が開けるような神の臨在と将来への希望。

使徒行伝12:10 「門はひとりでに開いた」。ペテロの投獄と迫害の試練のただ中から、天使に導かれて、外に逃れるとき、牢獄の門はひとりで開いた。

黙示録4:1 「わたしが見ていると、見よ、開いた天にあった。」ヨハネはパトモス島で祈っていた時「天に開いた門」を見つけ、玉座に座る神を見た。などと、「門」に関するイメージがたくさん浮かびました。

【今日の聖書箇所の概説】

今日の礼拝で取り上げるヨハネ10章というところは、たいへん有名な箇所の一つでも、もありますねで、イメージの強い箇所です。主イエス様は、ご自分を「羊の門である」と語られました。そしてそれから、「わたしは羊飼いでである」とも語られました。詩編23編の新約篇のようなものですね。

一見すると、それは牧歌的なうららかな信仰の告白のように見えますが、しかし、この個所を丁寧に見ると、実は9章の「盲人の癒しの奇跡」とその盲人が迫害を受けて、ユダヤ人の共同体を追われる、という出来事、そして、主イエスとユダヤの宗教的なリーダーたちとの論争の結論のようになっています。主イエスが「本当の門」であり、「永遠の命を与える良き羊飼い」であり、ユダヤのリーダーたちが、「盗人、強盗」(1,8,10節)であると宣言され、彼らは怒って「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、石を取り上げた」(31節)と報告されている厳しいところです。この10章の概略は以下のよう。

  1~6節  門から入るものが羊飼い。門から入らないのは盗人、強盗。

7~10節  主イエスは門。そこから入門すると「救いを得、豊かに得る」。  

11~18節 主イエスは良き羊飼い。良き羊飼いは羊のために命を捨てる。

19~42節  これを聞いたユダヤ人は、主イエスを拒絶し、殺そうとする。

今回の説教は、このヨハネ福音書10章の主題の一つ、主イエスが「わたしは門である」と語られた内容をご一緒に考えてみたいと思います。

先週、先々週で、ヨハネ福音書には、「わたしは・・・である」と言う宣言が7回なされていることを学びました。イエスキリストこそが終末的な神から遣わされた救い主であることを示している表現と学びました。その7つ、皆さんと共に、声に出してお読みしてみましょうか。ここに聖書語る、神様の救いと愛の宣言があるからです。

「わたしは命のパンである」(6:48)、

「わたしは世の光である」(8:12)、

「わたしは門である」(10:9)、

「わたしはよい羊飼いである」(10:11)、

「わたしは甦りであり、命である」(11:25)、

「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)、

「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)。

今日は「わたしは門である」との内容を学びましょう。

メッセージ・ポイント】                                                    

1)、1 よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。2 門からはいる者は、羊の羊飼である。3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。(1~3節)

 ⇒「門」から入る、まことの羊飼い。「盗人、強盗」についてゆくな!

 この「羊の囲い」とか「羊の門」の理解は、ある程度の当時の羊たちが飼われていた状況とか、行動がわからないと混乱してしまいます。注解書などには、当時の牧羊の状況などが記されています。多くの羊を飼っている牧場は、「羊の囲い」が石などで作られており、夜になるとその囲いの中に羊を入れます。門番がいて、門の開け閉めをしてくれて、羊飼いが羊たちを連れてやってくると門を開き、中に入れる。そしてまた門を閉じます。羊飼いは羊たちの責任を負い、丁寧に愛をもって羊たちの健康や傷の有無や出産など、万般にわたって面倒を見ます。その責任のある羊飼いは、必ず門から出入りする。しかし、たまにやってくる、羊泥棒などは、門からではなく、隠れて、門以外の所から入ってくる。それはまさに「盗人であり、強盗なのですから、気をつけなさい」と語られています。

現代においても、「わたしは再臨のキリスト」とか「現代の預言者」とか言って、多くの人を惑わす人物がおります。数年前にいわゆる統一教会の教祖が亡くなり、組織が崩れて、多くの混乱があり、わたしたちの教会にも、それらの流れの中にあった集会から、誘いがありますので、気を付けましょう。

2)7 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。 (7-9節)

  ⇒ 主イエスこそ、「門」であることを知れ!

この箇所で、大事な主イエスの宣言があります。「わたしは門である」(9節)また、「わたしは羊の門である」(7節)との宣言です。

「門」というのは、入り口を意味します。羊の囲いの門のことです。主イエスを通って入るものは救われると聖書は宣言します。主イエスを信じ、その十字架の贖いの門から、入りなさいと語られています。自分の罪を赦され、贖われて、新しい人生に歩む。その人は門を出入りして、牧草を見つけるのです。

「門」( ギリシャの言葉ではthura = 英語ではdoor あるいは gate)」というのは、唯一の入り口を意味しています。羊の囲いの入り口のこと、「羊の囲い」というのは、羊が飛び越えられないように高く積み上げられた石垣、唯一の入口が門でした。ここでは二つのことが言われる。一つは、「真の牧者は、キリストという門を通って行かねばならない」。キリストの門から入らないのは、盗人であり、強盗である。これは暗にユダヤ教のパリサイ人をさしている。二つ目は「全ての人はキリストという門を通って救われるのである」ということです。即ち、主イエスの十字架の贖いのめぐみを知り、へりくだって、信仰の告白をもって、その門を通過するのである。それは狭き門なのです。自分がが罪人であることを認めねばならないし、おのれの醜さを十字架の上に見つめねばならない。それはキリストの十字架の門です。「この門を通って入るものは救われる」と聖書は宣言します。主イエスを信じ、その十字架の門から入る者、自分の罪を赦され、贖われて、新しい人生を発見する者、それを、「救われ、出入りし、牧草を見つける」と表現しているのです。

3)、わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(10節)

  ⇒ 主イエスの十字架の門を通って、神の永遠の命をの充実した生活を! 

主イエスがこの地上に来られたのは、「羊が命を受け、しかも豊かに受けるためである」。この言葉は、アメリカのビル・ブライト師が主宰される、キャンパス・クルセードのパンフレットの最初の方に出てくるので印象に残っています。主イエスがこの世界に来られたのは、わたしどもが命を受け、それを豊かに受けるためであるというのです。

【まとめとして】

  • 夏目漱石の小説「門」でした。この小説は、親友の奥さんを奪ってしまう過去の罪が主題。 ⇒ 罪の認識
  • 創世記28:17のヤコブの驚き。「ここは、神の家、天の門だ!」と叫ぶ場面。ヤコブが長子の相続権をめぐる問題で兄の殺意を逃れ絶望の石を枕にした時の告白。自分の罪に気づき真っ暗闇から天を仰ぐ、そこが天国の入り口。   ⇒ 神からの一方的救いの光を知り受け入れる。
  • 詩篇100:4「感謝しつつ主の門に入り、ほめたたえつつその大庭に入れ。」礼拝の喜びと開放。それは天国が開けるような神の臨在と将来への希望。    ⇒ 神を礼拝することの喜び。
  • 使徒行伝12:10 「門はひとりでに開いた」。ペテロの投獄と迫害の試練のただ中から、天使に導かれて、外に逃れるとき、牢獄の門はひとりで開いた。 ⇒ 神様は、試練の中で脱出の道を備えたもう。

黙示録4:1 「わたしが見ていると、見よ、開いた天にあった。」ヨハネはパトモス島で祈っていた時「天に開いた門」を見つけ、玉座に座る神を見た。

       ⇒ 最後は、霊の目が開けて、天国の門を見る!

【祈祷】主よ、今日も、素晴らしい御言葉を感謝します。「わたしは門である」。主イエスの十字架の救いの正門から入って、救いの道をまっすぐに歩ませてください。恩寵充満の日々を歩ませてください。命をも捨てたもうほどに、われらを愛して下さる主イエス様よ。この週も導いてください。イエスよ、あなたはわたしたちの「救いの門」です!御名によって祈ります。アーメン