説教「言・命・光」

2019年12月1日 主日礼拝
聖書箇所:ヨハネ福音書1:1~5
説教:深谷牧師

 今年も、アドベントの時季を迎えました。教会暦で行くと、このアドベントから一年が始まります。アドベントは、もともと adventus というラテン語(ad-へ + venire-来る +tus 過去分詞語尾=「-へ来ること」から「到着」の意味)です。キリストの到来、出現を待つ時期という意味です。これからクリスマスまでの時、わたしどもは主イエスに会う備えの時といたします。王の王、主の主なる恵みのお方が来られる。教会暦にはひとつの教えがあります。人生が真実に始まるのは、主イエスを心に迎えるための「備え」から始まるのです。また、このアドベントという言葉から adventure(冒険)という言葉が出たと言われます。神様が御子イエスをこの世に送って冒険をしてくださった。そして、主イエスを心に迎えるクリスチャン生涯は、素晴らしい可能性に満ちた愛と信仰の冒険であることを語っているのです。

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説教「慰めの時が来ました」

2019年11月24日 主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝3:17~26
説教:深谷美歌子牧師

 去る22日に、「みさよはうす富久」という新宿に最近できた、特別養護老人ホームに講演会があり、行ってきました。新宿は日本の他の地域に比べると高齢者の割合は少ないですが、独り暮らしの方が割合的には多いそうです。認知症になっても、周囲の理解と、手助けがあれば暮らしやすいということで、手助けの寸劇を職員の皆さんがしてくれました。参加者の中からも、と言われ、元来、消極的な者で、黙っていたのですが、後ろの方に「あなたどうですか」と言われて、神様の声かと思い、やってみました。好評をいただけました。人は思いやりがあって、生かされるのを思いました。  続きを読む 説教「慰めの時が来ました」

説教「神ご自身の訪問」

2019年11月17日 主日礼拝
聖書箇所:創世記18:1~8
説教:深谷春男牧師

 しばらく前のことになりますが、月一回の北支区の祈祷会で、若い牧師が説教しました。クリスマスも近づいている頃だったと思いますが、この説教がとても難しかった。神学校出たばかりで、神学者の名前や神学用語が多くて、理解するのが困難でした。この先生は、クリスマスのことを説明しようとしたのは分かったのですが、ルカ福音書の1章とか2章のクリスマスの話ではなく、創世記18章の今日の個所を読んで、話をされたのです。

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説教「わたしは全能の神」

2019年11月10日 主日礼拝
聖書箇所:創世記17:1~8
説教:深谷春男牧師

 われは全能の神なり。汝 わが前を歩みて全き者であれ。
                      創世記17:1(文語文)

 知人の佐藤繁牧師は、若い時に神様に祈っている時に、深い霊的経験をされました。深い祈りの中に導かれた時に、天から、神様の大きな声が聞こえたというのです。「我は全能の神なり。汝わが前に歩みて全ったかれ」でした。それが今日の聖句の文語訳です。

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説教「わたしを見ておられる神ーベエル・ラハイ・ロイの神ー」

2019年11月3日 主日礼拝
聖書箇所:創世記16:7~16
説教:深谷春男牧師

創世記16:7-16  ― ベエル・ラハイ・ロイの神 ― 深谷 牧師

うちの子供が小さいころに読んであげた絵本はなかなか印象深いものがあります。その中に、アフリカの奥深いジャングルにある不思議な井戸の物語がありました。滾々と湧き出る森の中の泉。その泉の下に集まる動物達。青い煌々とした光が照らすアフリカのジャングルの奥に、静かに湧き出し続ける泉の話はこどもたちのこころの奥深くにしまわれて、これから生きてゆく様々な問題課題に直面したときに、渇きを癒し、力を与えてくれるイメージを与えてくれるのではないでしょうか?きれいな絵本のイラストと共に、波紋の広がる森の中の泉、月の光に照らされて、滾々と地下の深いところから湧き出す、透明な清水のイメージは、わたしどもの心の奥深くから湧き出る、聖霊の恵みのイメージに良く似ていると思います。

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説教「一万タラントの借金」

2019年10月27日 主日礼拝
聖書箇所:マタイ8:20~35
説教:深谷春男牧師

今日は永眠者記念礼拝です。この日、新宿西教会ではすでに天に召された先輩方を覚え、写真を会堂にかざって、その記念とし、礼拝の時を持ちます。わたしは昨年の4月に赴任となったものですから、あまり、多くの方を存じ上げません。しかし、生前の方々を知っておりましょうとも知らなかったとしても、聖書の信仰に立って歩まれた方なら、罪の赦しと永遠の命への信仰を持ち、天国を見上げながら、召されていったのだと思います。ここに飾られた写真の方々、そして、今朝、ここにはそれぞれの愛する家族や友人の方々も沢山集まっておられます。わたしどもはやがて主の御前に立つのです。先輩たちと共に、死を超えた永遠の世界を見つめてゆきましょう!

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説教「神の顔を見る」

2019年10月13日 主日礼拝
聖書箇所:創世記32:22~32
説教:深谷春男牧師

 神様はヤコブの生涯に二度、決定的な出会いをなさいました。それは、生涯忘れることの出来ない体験として残りました。一回目は「べテルの体験」です。そして二度目は「ぺニエルの体験」です。一度目の体験は、前回見ましたように、神との出会いの体験であり、それは「石の枕と逆さはしごの物語」というべき、絶望のただ中で神に出会い、新生の体験、天の門が開け、霊の目が開かれ、十字架の贖いをさとる体験でありました。そして、二度目の出会いは「ぺニエルでの体験」です。それは「聖化の体験」であり、今回の説教題「もものつがいと神の顔」に代表される、自我の砕きであり、神ご自身の御顔を見るような体験です。「太陽が彼の上に昇った!」という体験です。 

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説教「上を向いて歩こう」

2019年9月29日 ファミリーサンデー礼拝
聖書箇所:創世記28:16~22
説教:深谷春男牧師

「上を向いて歩こう!」。今回の説教題は、ファミリーサンディということで、いつもと違った感じで付けさせていただきました。坂本九ちゃんのこの歌は1962年の大ヒット曲でしたね。ネットで調べてみたら、出てくるわ、出てくるは・・・・。いやになるほど、いろんな情報が書き込まれておりました。この曲がつくられたのは1961年7月。坂本九ちゃんのデビューの時に、ぶっつけ本番で、2時間前に手渡されて、歌った歌だとか。作詞が永六輔さん、作曲が中村八大さん、歌ったのが坂本九さん。「6」「8」「9」と数字が続いていますね。1961年はわたしは11歳。小学校5年生か6年生の頃ですね。「うへをむ~ひて、あ~るこほ~ほ~。」なんて言う歌いまわしでしたね。何かで、夜遅く、ひとりで夜道を歩く時、「涙がこぼれないように・・思い出す、春の日。一人ぼっちの夜~」。懐かしい小学生のころから、中学生の頃など思い起こしておりました。この歌は、とても豊かな内容を持っていますね。 

【テキストの解説】

今日、お読みしました聖書の箇所、創世記28章は、イスラエル民族の先祖となったヤコブという人が、真の神様に出会うと言う場面です。わたしはこのあたりの「ヤコブ物語」が大好きな個所で、18歳の時に初めて聖書を読み始めた時から、「天のはしごの夢」とか、「天使との相撲」とかが心に残っております。

ヤコブの生涯は、まさに民族の象徴でありましたね。彼は人を『おしのける者』(ヤコブにはこの意味がある)と言う名前でした。彼は人間の知恵の限りを尽くして、お兄さんのエサウから財産の相続権を奪いました。レンズ豆一杯で現在で言えば、数億、数10億の巨額な財産の相続権を手に入れました。「レンズ豆」はお汁粉のようなもの、あるいはコーヒー豆のような飲み物だったと想像されます。だます方もだます方だが、だまされる方もだまされる方です。へブライ書では「エサウのように不品行な俗悪な者になるな」(12:16)と言われています。そして年老いた父をだまして『祝福』を奪い、最後には兄の激怒を買い、殺されそうになってハランの町にまで逃げるはめになりました。この28章は聖書の傑作で、多くの聖書の中心主題が描かれるので、いくつかポイントを絞って考えてみたいと思います。 

【メッセージのポイント】

1)10 さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、11 一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。(10,11節)

⇒石の枕    人生の苦難

こには「石の枕」というメッセージがあります。ある地点に着いた時、もう旅の空もとっぷりとくれ、彼は野宿することとなりました。硬い、冷たい石を枕にして寝ました。「石の枕」とは絶望の一つの表現ですね。

改めて考えてみますと、イスラエル民族の歴史は苦難の歴史です。彼らはしばしば石を枕にするような苦難を受けました。エジプトでの奴隷生活、アッスリアの支配、バビロンへの捕囚、ペルシャ、ギリシャの支配下での苦しい生活、そしてロ-マの支配。彼らは先祖ヤコブの石を枕にする姿と、自分の苦しみに満ちた生涯を重ねあわせて見ていました。

皆さんは石を枕にしたことがありますでしょうか?私は自分の生涯を考えると、実に多くの石の枕の時があったことかと思います。小学生の3,4年の頃にいじめに会いました。中学生のころや高校生のころ自分の惨めさ、罪深さに失望していました。高校を卒業してからは、浪人に継ぐ浪人でした。4浪までやりました。石の枕のような青春でした。

「上を向いて歩こう」の曲が、朝鮮戦争で孤児となった少女を題材に描いた映画のバックミュージックに用いられたという内容が記されていました。それを読んだ時に、ああ、いつの時代にも、悲しくて、淋しくて、「涙がこぼれないように」上を向いて歩いていた人々がいた、と思いました。

2) 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。(12節 )

さかさはしごの夢

彼の見た夢は「はしご=スラム=階段」の夢でした。天から地へとはしごが伸びており、神の使いが上りおりしていました。普通のはしごは地から天に向けてかけられるものです。しかし『神のはしご』は天から地へと向かうのです。ある旧約学者の説によるとこれは「さかさはしご」であると言います。絶望の石を枕とするわれらの現実に、主は天から『さかさはしご』をかけられた。天の高みから、われらの地の低さまで降られる神の姿がここには描かれます。それは『地獄の一丁目までも出張する神』(北森嘉蔵)の姿なのです。

これは新約聖書の主イエスキリストの十字架を指し示すできごとです。ヨハネ1章の終わりで、主イエスのもとにやってきたナタナエルに主イエスは、「人の子の上に、み使いが上り下りするのを見るであろう」と言われました。主イエスこそ天と地をつなぐ神からのはしごだったのです。神様の豊かな祝福は、主イエスの十字架の贖いとなり、復活となって、わたしどもの生涯を新たに変える神のはしごとなったのでした。

3)15 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。

⇒ わたしはあなたと共にいる!     神の臨在

この「ヤコブ物語」の中心にあるのはこの15節の「わたしはあなたと共にいる」と言うメッセージだと思います。「わたしはあなたと共にいてあなたを守る。わたしは決してあなたを捨てない!」と、神様はヤコブに語られました。この「神の臨在」と言う主題は聖書のあらゆるところに出てきます。アブラハムの物語、イサクの物語、ヤコブの物語、ヨセフの物語、モーセの物語すべてに出てきます。イザヤの預言にも「インマヌエル物語」が出てきて、新約の主イエス様の記事にも出てきます。主イエスの名前がインマヌエルでもあります。

今年の9月5日に、東京神学大学の学長、大住雄一先生が召されました。主にある交わりの中で、一番強烈だったのは、旧約学の大住先生が、詩篇23篇の主題が、「主の臨在である」との教えでした。この詩篇の中心が、「げにあなたがわたしと共におられる(キー アッター イマディ)」という言葉を中心に、構成されているというメッセージでした。わたしたちの人生は、過去も、未来も、現在も、主の深い臨在と愛に支えられていると言う信仰です。

4)16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。17 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。

⇒ ここは天の門だ。神の家だ!

ヤコブは叫びました「ここはなんと言う驚くべきところだろう。ここは神の家だ。天の門だ!」と。ヤコブはイスラエル民族の先祖となった人です。「ここは天国の入り口だ!」(リビングバイブル訳)と叫んだのです。ヤコブは「天国の入り口」を発見したのです。

わたしは礼拝堂のことを考えると、このヤコブの出来事、創世記28章の物語をいつも思い起こします。ヤコブはこの時に40歳になっていました。おじいちゃんのアブラハム、お父さんのイサクと続いた信仰の家系です。彼は小さいときから、礼拝に出席していたのに違いないのです。でも、彼はようやく、40歳にして、神様の世界に目覚め、そして叫んだのです。「ここは天国の門だ、天国の入り口だ!」と。

わたしは2005年の赤羽教会の献堂式の時にこの所から、説教しました。礼拝堂とはまさに「ここは何という恐るべきところだろう。ここは神の家、天国の入り口だ!」というヤコブの驚きの体験を、追体験する所です。驚きの体験、臨在の体験、深い恩寵の体験をする所ですと語りました。上をむいて歩くとは、礼拝で、天のお父様の御顔を見上げつつ歩むことではないでしょうか。

5)18 ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、19 その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。20 ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、21 安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。22 またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。     (18~22節)

 ⇒ 十分の一献金の誓約

20節でヤコブは、眠りからさめて、枕の石を取ってその頂きに油を注ぎ、そこで神様に誓いを立てて、神様と契約を結びました。

「神様、わたしは今、無一文です。兄に殺されそうになって何一つ持たずに逃げているところです。これから行く母の兄、ラバンおじさんのもとに行きます。わたしの過去は真っ暗!罪だらけです。わたしの将来も五里霧中、霧に閉ざされて何も見えません。しかし、あなたが共におられ、わたしの行くこの波乱に満ちた人生で、わたしを守ってくださり、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主よ、わたしはあなたをわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家、べテルとして礼拝所を建てましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。

森山諭先生は、これは自己中心の契約だ!と書いています。でも、わたしは大変、賢い、聖書的な内容を含んでいると思います。「天上の神様がわたしを守ってくださるなら、地上の生活も関心を持ってくださることでしょう。わたしは自分の具体的な生活を、あなたへの信仰で満たします。わたしの歩みの祝福となってください!」これが、石を枕にした、ぎりぎりのヤコブの祈りだったのでしょう。上を見上げる生涯は、地上でも豊かな実を結ぶのです。

【祈り】 主よ、今日は「上を向いて歩こう!」ということを学びました。わたしたちは、この世で生きておりますので、様々な問題で一杯になり、下を向いてしまいます。自分自身の醜さや、自分の弱さや人間の限界。石を枕にするところまで落ちてしまうこともあります。でも、そのような時に、天を見上げて歩むことが出来ますように。あなたの御顔を見ることが出来ますように!特にあなたがわたしたちを愛し導いておられる「救いのはしご」、「主イエスの十字架の恵み」を知ることが出来ますように。また、あなたの臨在を知り、礼拝であなたを拝し、あなたの言葉を聞くことが出来ますように。あなたの顔を見、臨在に触れ、あなたの贖いの恵み、あなたの歴史計画を知り、豊かな実を結ぶ人生としてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

説教「信仰の一致を求めて」

2019年9月22日 修養会主日礼拝
聖書箇所:ピリピ2:1~5
説教:深谷春男牧師

今日はわたしどもの教会では「一日教会修養会」の時を持ちます。昔は、都会の喧騒から離れ、静かな大自然の中で、神様の懐に抱かれるような体験として、一泊して、御言葉を聞き、また主にある神の家族の親しさを深める時としました。今年は、教会の中ですが、すばらしい修養会の一日としましょう。

【今日の聖書箇所の概説と内容区分】

さて、今日示されている箇所は、ピリピ書2章です。2章全体は以下のようにまとめることができます。

1~ 5節 パウロの信仰と情愛のこもった一致の勧め

6~ 8節 キリストの「謙卑の姿」

9~11節 キリストの「高くされる姿」

12~14節 主に従順になり、救いの達成に務めよ。

15~18節 不平不満から解放され、星のように輝くクリスチャン。

19~24節 テモテ、確かなキリストの証し人。

25~26節 エパフロディト、兄弟、協力者、戦友。

27~30節 エパフロディト、キリストの業のため命を懸ける。

これらのどの箇所をとっても、深い信仰の味わいのある言葉で、わたしたちの信仰生涯を、深く考える導きとなります。 

【メッセージのポイント】

1)1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、     (1節)

⇒ キリストによる勧め、アガペーの愛、御霊の交わり、憐みの心!  使徒パウロは、このピリピ信徒への手紙を通して、ピリピの教会の兄弟姉妹に心からの愛情と感謝の思いを込めて、優しく語りかけてきました。そして、前回学んだ1章27節からは、「キリストの福音にふさわしく生きよう」という勧めを語り、そのためには「27bあなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と、ひとつ心で歩むことの大切さを語っておられました。そして今日の箇所では、更に一歩進んで、ピリピの教会に語るべきことを示されたようです。ひとつ心で歩むことにピリピ教会に課題があることを示されたのでしょう。

もとより、彼はピリピの教会員を心から愛し、信頼していましたので、彼らを叱りつけているのではありません。彼らは、福音から大きくずれてしまったガラテヤの教会とは違い、純情な信者たちで、パウロの教えに従っていた愛すべき人々です。そのような意味で厳しく勧める必要はなかったようです。ただ彼らの間に、相互間の良き理解、信仰と愛、協力があるようにとパウロは訴えています。

新約学者の松本卓夫先生はここをこのように説明しています。

「これはなんという真実のこもった、しかも、深みがあり、霊味豊かな、いかにも、愛情あふれる牧者らしいことばであることか。これは、パウロの書き記した数々の手紙の中で特に私共の心に深くしみる愛のことばです。」

パウロはこの1節で、4つの項目を語っています。それも、非常に、慎重な、そしてことの重要性を強調した表現です。

愛情と信頼に満ちた言葉で、ここではその4つの言葉を中心に考えてみたいと思います。

まず、「そこで、あなたがたに、・・・いくらかでも、あるなら」と語られますが、これは「あるかどうかわからない」という言葉ではありません。「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみ」が、あなた方の中にあるはずです。わたしはそれに基づいて、あなた方に訴えまた、お願いします、と言っているのです。 

「キリストによる勧め(エン クリストー パラクレーシス)」とは、「キリストの中に」という言葉と「慰め・励ます」というパラクレーシスという言葉で成り立っています。その意味は、キリストを信じ救われ、キリストのそば近くへと呼び寄せられて、親しく教えを受けているという意味の言葉です。パラクレーシスは、そば近くに呼び給うという意味です。

「愛の励まし(パラムシオン アガペー)」とは、神の愛が与える慰めという意味です。パラクレーシスもパラムシオンも、同じような用語で、「そば近くに呼び寄せ、真近かで語る」という言葉で、神様が毎日の生活の中で祈りを通し、生活を通してなされる「親しい愛の語りかけ」を意味しています。

「御霊による交わり(コイノニア プニューマトス)」とは、聖霊によるまじわり、豊かな愛の共同体を意味します。キリストを信じ受け入れた者は、皆、深い霊的な体験をしているはずですから、その霊的な体験によって深められて信仰に基づく交わりに訴えてお願いします、という意味です。

「慈しみや憐れみの心(スプランクナ ・ オイクチルモイ)」。スプランクナとは、内臓(心臓、肺臓、肝臓 等)を意味する語で、人間の深い情緒を表わす語です。この語は1:8でも用いられ、口語訳では「熱愛」と訳されていました。ここでは神の熱愛、1:8ではパウロの熱愛の意味で使用されています。

さあ、これらの4つの言葉、濃縮してあるのでその内容の真意を把握するには少し、解説が必要なようです。丁寧に表現すると、次のようになります。

「そこで、わたしはあなたがたにお願いします。それは、あなた方がすでに、すばらしい主の救いと、聖霊の導きによる霊的な祝福とを知っている者だからです。あなた方のキリストを信じた時の救いの喜びと毎日の生活の中で体験するキリストの臨在による慰め、また神様のアガペーの愛を通して示された恩寵の豊かさと神のそば近く呼び寄せられた驚くべき恵み体験、ぺンテコステ以来経験した聖霊様によるところの愛と慰めの共同体としての教会の交わり、また、わたしたちが経験した聖霊なる神の内住からくる霊的な成長の数々、このような愚かな者のために涙を流し、血を流されたというあの内臓が痛むまでの熱愛と深い憐み・・。そのような体験をされたあなた方は、神様の愛もキリスト様の愛も聖霊様の愛も知っておられるので、わたしはお願いします。その、神様から受けた御恩寵を、教会の交わりに生かしてください。あなたの友にその愛で接してください。毎日、出会うあなたの隣人にその愛を注いでください。あなたを冷たい目で見るあの人に、また、ひょんなことでいがみ合ってしまって心が通わなくなっているあの人に、今、主の和解と愛を注いでください。その相手の方も、キリストの救いを知っている方なのですから・・・2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」

という意味になります。

使徒パウロは、ピリピの教会員の間に、意見や行動の分裂の現れているのを伝え聞き、心から憂えて、この手紙を書いたようです。ピリピの教会は分裂には至りませんでしたが、パウロは丁寧に、そのよう不幸に陥らないように切実な、お願いの手紙を書いたのでした。

2)2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。(2~4節) 

⇒ 相手を自分より優れた者と考えよ! パウロの勧めは、1節で見たように、大変深い、そして、救いの体験、また、日常のイエス様との深い臨在体験。霊的な恵みの経験を背景にしてのことばであることを学びました。「教会の一致」はこのような霊的な体験を背景としています。そして、それは、主イエスの「愛と謙遜」にあるとパウロは語ります。「何事も利己心や虚栄からするのでなく、へり下って」とあります。自分の姿を偏見を取り除いて、主の目から見ると、わたしどもは自分の罪と愚かさに唖然としてしまいます。更に「へりくだる」とは「他者を自分より優れた者と考えること」だとパウロは語ります。

以前、「首都圏キリスト教大会」という大会が青山学院の講堂を通して何度か開催されました、ある年の講師は、滝元明先生でした。先生の説教は「幸福になる道」という印象的な講演でした。誰でも幸福になる道があります。それは「謙遜になる事」です。自分が青年の時に大人を馬鹿にしていた時に、皆から嫌われていたこと。キリストに出会って、真の謙遜を学んだことが語られました。多くの方々が主イエスを心に迎えられました。

 

3)5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。      (5節)

⇒ 汝らキリストイエスの心を心とせよ!

さらにパウロは言います。「教会の一致は、イエス様の生涯そのものである」と。そして教会の霊的な一致は、イエスキリストへの信仰からわき起こって来るのであると言う。6節以降は初代教会の信仰告白「キリスト賛歌」と言われる部分です。初代教会の信仰告白は「謙遜」のメッセージでした。そして、十字架にまで下る「謙遜」は、教会に最強の「一致」という賜物をもたらしたと語ります。文語訳聖書は「汝らキリストイエスの心を心とせよ」と訳しています。これが一番、直訳に近いものです。

【祈り】 恵みの主よ。この一週間の旅路も、疾風怒濤の、荒波がわたしたちの生活の中にも入ってくるようなただ中にあっても、あなたが支えてくださいました。また、何よりも、わたしたちにキリストにある愛と祈りの一致の大切さを教えていただきました。キリストからくる愛は一致をもたらすもの、愛の絆です。しかし、粗暴な言葉や憎しみの思いは共同体を破壊してしまいます。どうぞ、わたしたちを点検し、御霊の一致、愛の一致を与えて下さい。そして、主よ、あなたが望まれる、愛と慰めの共同体である、教会を建てあげるために、喜んで、自分の生涯を捧げる者とならせてください。わたしたちの救い主であると共に、教会の頭なるお方、主イエスの御名によって祈ります。アーメン

説教「喜びに満ちて」

2019年9月15日 敬老主日礼拝
聖書箇所:1ヨハネの手紙1:1~4
説教:深谷美歌子牧師

今日は敬老礼拝です。75歳以上の神の家族の皆様をお祝いいたします。人生100年時代と言われますが、喜びに満ちた毎日でありますように。説教題も「喜びに満ちて」です。が、これは年齢に関係なく、すべての兄弟姉妹がそうあってほしいことです。そして4節に「喜びが満ち溢れるためです」とこの手紙の目的がそのことですと書かれています。皆でいただく日とされますように。

ヨハネの手紙は公同書簡と呼ばれ、特定の宛先は挙げられていませんが、「わたしの子たちよ」とか「愛する者たち」等、親しみを込めた呼びかけがなされています。この言葉から、これまで信仰の導きをして、親しく知っている兄姉を思い浮かべながら書いたことが伺われます。

そして、全ての人々がこの喜びの交わりに入れられますようにと願って書かれ、それは現代に生きる私たちにも語りかけられている内容です。

【聖書の概説】

1・2節-伝えるのは「いのちの言」イエスキリスト。それはヨハネが聞いたもの、よく見て、手で触れたものであると証言する。

3節-伝える目的は、父なる神とイエスキリストとの交わりに入れられるため。

4節―この交わりの結果、わたしたち(読者と自分達)の喜びが満ち溢れるようになるため。

【メッセージのポイント】

1)いのちの言が現れた

このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――(2節)

「永遠のいのちが現れた」と書いています。これは何を言っているのでしょう。

ヨハネの福音書には「言は神と共にあった。言は神であった。この言にいのちがあった。言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と書かれています。永遠の神、イエスさまがこの世界に来られたことを現しています。そのことをここでも言っているのです。「現れた」という言葉はRSVではmanifestという言葉が使われ、明らかにする、証明するなどの意味があります。ギリシャ語では不定過去形で書かれていて、過去のある時期に起こった出来事を現しています。つまりキリストが、肉体を持って、人間の歴史に出現したことです。突然出現したのではなく、約束が現れたのでした。政治家が選挙の時manifestするといったら、前回の約束した公約をどの程度達成したかを公表することです。聖

なる神がこの世界に現れたことを伝えることです。そしてそれをヨハネはよく見た。手で触れた。と証言します。

よく見たとこの聖書は訳されていますが、新改訳では「じっと見て」と訳されています。これは、何気に見たというより、観察するように確かめる見方、意味を、熟視しようと見る見方を現わしています。いつも一番そばにいてイエス様を見ていたヨハネの証言です。

手で触れたとは、復活のイエスさまが現れた時、その場にいなかったトマスが「そんなことはあり得ない、釘あとに指を入れなければ信じない」と語ったところ、次の週、イエスさまはトマスも一緒にいるところに現れて、「指を入れてごらん。まさしくわたしだ。」と語りかけられて、驚いたことがありました。40日にわたって復活のイエスさまに出会い、ヨハネは触ったこともありました。幻想ではありませんでした。

聖書は人間が考え出したお話しを書いているのではなく、歴史に起こった事実を告げているのです。このイエス様は信じる者に、永遠の命を

あたえてくださったのでした。

 

2)御子イエスキリストとの交わりを持つようになるため

すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。(3節)

わたしたちとの交わりに入らせるためと聞くと、なんとなく教会の兄弟姉妹との交わりに入るためと言っているように思います。しかしここでいう交わりは、父なる神と、イエスキリストとの交わり、つまり神様との交わりに入ることが一番の目的です。

神の御存在を知っておられるでしょうか?今も生きて働いておられる人格としての神を知ることは、二千年前のイエスキリストが何をしてくださったかを知り、自分が真の神を信じてこなかった現実を認め、今も生きたもうイエスキリストを救い主と受け入れることによってです。

7月に来て下さった、籐井圭子先生は、尼僧になってまで救いを求道して、得られなかった救いの確信を、イエス様に「私を救ってください」と祈った時、救われ、自分が変えられて、証言者になりました。

交わりという言葉は「コイノニア」という言葉ですが、もともと財産を共有する者同士のことを言うそうです。ここでは永遠の命の共有者とされ、神様との交わりを持つことができるものとなることを言っています。祈りによって、御言葉を生きることによって、今も生ける神を知ることができます。

そしてこの神様との交わりを頂いた者同士は、神の家族として、互いに愛し合い、赦し合う交わりにも入れられます。

 

3)喜びが満ち溢れるようになるため

これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。(4節)

「これらのことを書くのはわたしたちの喜びが満ち溢れるようになるため」とありますが、「わたしたち」を「あなたがた」と書いている写本もあります。だからここの「わたしたち」は書いている側だけではなく、読んでいる人々を含めたわたしたちと考えます。この手紙を書いたのはイエスキリストを知って喜びに満ち溢れることを願ってのことです。「満ち溢れる」の前に「全き」と新改訳にありますが、完全な完成した喜びです。人が愛の、赦しの神がおられることを知り、この方との交わりに入れられることは、なにものにも代えられない喜びです。

先週の木曜日の聖書研究祈り会の学びはマタイによる福音書5章21-26節まででした。パリサイ人の義に勝る義をイエス様がもたらしてくださったと学びました。イエス様の求める義は、パリサイ人は見える殺人だけを裁いているが神様の前では、心で兄弟を馬鹿にした、つまり、人格を否定するものは、神の裁きでは地獄の火に投げ込まれるという、表面に出る殺人を犯さないでも心の中で人格を否定したら殺人したのと同じという厳しいものでした。

しかも、兄弟が自分に何かうらみを持っていたら、仲直りをしてからでなければ礼拝に行って捧げものをしても受け入れられない。というものでした。最後の1コドラントを払いおえなければという厳しいものでした。人生70年生きて来て、心にかかることを全部きれいにしなければ神様の裁きで地獄の火に投げ込まれると言われたら到底できません。

しかし、イエス様はそのように厳しく仲直りを求められました。が、「天国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」とご自分の命を十字架にかけて、拭いきれない仲直りの代価を、イエス様が用意してくださったのでした。最後の1コドラントまでです。パリサイ人の義に勝る義

を用意した上でこう言われたのでした。なんとありがたいことでしょう。イエス様を救い主と受け入れ、悔い改めるなら、もう、心に咎められ

ることはないのです。もちろんその後でお友達とも仲直りができたら、

素晴らしいですが、もう代価は払われたので、もしかしたら人間からは

赦されないことがあっても、神様の前では、天国に入れて頂けるのです。

礼拝で、神様に受け入れられ、主にお会いすることができるのです。

今から感謝して喜んで生きましょう。そしてこのいのちをまだ受けていないすべての人のために、祈り、語る時が与えられたら、お伝えしましょう。迫害や、貧困、病気、別れ。未来に何が起ころうとも、永遠のいのちの交わりの中で喜びに溢れて歩み続けましょう。ハレルヤ!

守部さんの命の水の働きをいつも祈って支えてくれた大西はるえさん。若い時に、親の借金のかたに売られて辛い生涯でした。九州で小さなお店を開いていた時に、イエス様に出会って以来、忠実に礼拝し、生きてきました。四国の老人施設に入っていた時に、守部さん御夫妻が訪ねたそうです。生活保護でベッドと、小さな台が全ての持物でした。でもそこで、皆から嫌われているような方の話にじっと聞き「あなたは優しい人なのね」といたわり、生涯で一番幸せだった時は?との質問に「今です」と即、返事されたそうです。何歳になっても「今、喜びに満たされています」との生涯を歩んでまいりましょう。ハレルヤ!

【祈り】

イエス様が肉体をとってこの世に来られたこと、よく見て、手で触ったヨハネが証言してくださったことを感謝します。そしてイエス様に赦されて、神様を礼拝し、御言葉をいただき、祈りが聴いて頂ける者とされていることを心から感謝します。兄弟姉妹とも愛し合い、赦されあって交わりに生きる喜びがいつも満ちあふれる主の証人とされますように導いてください。 主イエス様の御名によって祈ります。アーメン!