新宿西教会主日礼拝説教「わたしは命のパンである」ヨハネ6:41~51 深谷春男牧師 2005年7月6日                                                                                                                                                                               

  新宿西教会の1階には「デイリー・ヤマザキ」というコンビニがあります。「山崎パン」は、現在の社長さんご夫妻が熱心なクリスチャン。「山崎製パン」の素敵な香りを受けつつ「命のパン」という主題です。

ヨハネ福音書には、「わたしは・・・である」と言う宣言が7回なされています。これは英語で言えば  “ I am a boy “  というような言葉で、「エゴー・エイミ・・・」という形式で、イエスキリストこそが終末的な神から遣わされた救い主であることを示しています。この表現は以下の7つの表現があり、とても印象的な表現となっています。

  • 「わたしは命のパンである」(6章)、
  • 「わたしは世の光である」(8章)、
  • 「わたしは羊の門である」(10章)
  • 「わたしはよい羊飼いである」(10章)
  •  「わたしは甦りであり、命である」(11章)、
  •  「わたしは道であり、真理であり、命である」(14章)
  • 「わたしはまことのぶどうの木である」(15章)

この二つ表象の中には、「良い」と「まことの」という言葉が加えられ、「排他的かつ挑戦的な主張がなされている」(シュルツ)と言われています。今日は、この言葉の第一の「わたしは命のパンである」というみ言葉から、共に聞いてみたいと思います。

 

【 今日の聖書箇所の概説 】

ヨハネ福音書6章は以下のような内容となっています。特に、主イエスが天から下った命のパンであることが強調されています。

 1~15節 5千人に食べ物を与える。

16~21節 湖の上を歩く

22~59節 イエスは命のパン

  22~33節 わたしは命のパン

   34~40節 神の御心は、命のパンを食べて永遠の命を得ること。   

   41~51節 命のパンを食べる者は、永遠の命を受ける。

   52~59節  わたしの肉はまことの食物わたし血はまことの飲み物

60~71節 永遠の命の言葉

【メッセージのポイント】

1)47 よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。                        (47節)

⇒アーメンアーメンわたしは言う。「信じる者には永遠の命がある」

 主を信じることは、なんと{永遠の命}を持つのです。これは素晴らしいストレートな言葉ですね!主イエスを信じるということは、永遠の命の中を歩むことです!と率直に語ります。

 人生には限りがあり、全ての人に共通するのは、この地上で生まれた人は、必ず、死を経験すということです。でも、主イエスは言われました!「信じる者には永遠の命がある。」いつでも、わたしたちは、主イエスを信じて、この永遠の命の中を歩みましょう!

2)48 わたしは命のパンである。49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。    (48~50節)

 ⇒ 主イエスは言われる「わたしは命のパンである」。

 48節からのところでは、主イエスは言われた。「わたしは命のパンである」と語られ、「天から下ってきた生きたパンである」と語られました。モーセに導かれた出エジプトの体験をした人々は荒野でマナを食べたが、その天から降ったパンであるマナを越えて、主イエスご自身が人生の荒野で食すべきパンなのです。なんという素晴らしいみ言葉でしょう。聖餐式で、主イエスの肉とパンをいただくことは、まさに天から降った、パンをいただくことなのだと。

3)51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。52 そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。          (51、52節)

 ⇒ 主イエスは、「天から下ってきた生きたパンである」。

 主イエスが、「わたしは命のパンです」と告白されました。ここでは「天から下ってきた」、「生きた」パンであると二つの言葉が使用されています。「天から、神様のもとから注がれたパンである」ということと、「生きた」パンであることが強調されています。これを聞いたユダヤ人がこの世の論理で考えたのです。主イエスの永遠の命の事は分からなかった!「どうして、天から下ったなどというのか?」などと言って,主イエスの言葉に躓いてしまいました。この個所では不信の徒となるな!と警告されていますね。

 ここで、榊原康夫という先生が、説教の中で聴衆にこのように語っているの読みました。

「皆さん、主イエス様は、わたしは命のパンである」と語られたのです。「わたしは、命のたくあんだ」と語ったのではありません。

これを読んでびっくりしてしまいました。

「え?命のたくあん??」ですか?さらに読んでいったら、主イエスの「命のパン」は主食ですよ。わたしの肉は命のパンであり、「おかず」といったのではありません。主イエス様は主食です。日本人で言うなら「ご飯です」。主イエス様を頂く信仰者の姿は。主イエスを主食として食べることです。刺身のつまか、パセリのようなものではありません。」「しっかり主食を食べないと、元気な体になりません。と書いてありました。「パセリ」のような、ちょっとしたおかずのように聖餐を受けてはなりませんと教えているのですね。

 

4)53 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。(53,54節)

⇒ 主の肉を食べ血を飲むものには永遠の命がある。そして復活する!

  永遠の命を頂いた者は最後は復活の命を持つのだ!この永遠の命を持ちつつ歩む。「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。」これは何という。強烈で深いメッセージでしょうか?永遠の命の中をしっかり従って歩みましょう。

5)55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。                      (55節)    

⇒ 主イエスの肉はまことの食物、主イエスの血はまことの飲み物!

「まこと」が強調されている。これは先ほどの「真の」ぶどうの木と同じです。わたしたちの食べ物は主イエスの肉と血。これは永遠の、まことの食べ物なのだ!これは先ほどの「主イエスは命の沢庵じゃありません」。「おかずではなく、本当の主食なのですね。

わたしたちは、月一回の聖餐の時を持ちますが、この聖餐こそが、わたしたちの主食なのですね。ハレルヤ

6)56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。             (56節)

  ⇒ 聖餐に与る者は、主イエスの臨在と共に生きる!

  ここには、主の御聖餐に与る者は、主イエスの臨在と共に生きる!と教えられます。ハレルヤ

主イエスの血潮を粗末にせず、わたしのために流された血潮を、毎週礼拝の中で覚えつつ、特に聖餐式のある時はなおさらですが、主イエスの贖いの血潮に、感謝と恐れとをもって歩みたいものです。

主イエスを信じる者には「永遠の命」が与えられる。永遠の命とは、時間的な長さのみならず、絶対的な命、死をも乗り越えた命を意味する言葉です。主イエスを信じるものはこの新しい命、神の命を内に持ち、この命に生き始めるのです。「永遠の命の泉」を宿すのです。「信じる者には永遠の命がある!」

小松川教会の高山松枝牧師夫人の召天の証しに感動しました。布団の上に正座して、花を一輪持たれ、婦人会の姉妹方に最後の挨拶をされました。「わたしは近いうちに天に召されます。皆さん。しっかり信仰を持って、最後まで歩みましょう。どのような時代になっても、最後まで信仰を全うして主イエス様の前に出て、善かつ忠なる僕、よくやったと言われる、主イエスのお褒めの言葉を頂くのですよ」。

【祈祷】 天の御父!2025年、ちょうど半分の7月第一主日礼拝を感謝します。この朝、あなたの愛が良く分かりますように。その中でも、イエス様の流された十字架の血潮、裂かれた御身体を頂きます。赦しの福音、死をも越えた復活の命、永遠の命の「確信」を与えて下さい。この半年間、皆様に祝福を!主の御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会主日礼拝説教「今日、救いがこの家に来た!」ルカ19:1~10 西川穂伝道師 2005年6月29日                                                                                                                                                                               

19章1節、「さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった」。

イエス様は、エルサレムに行く途中、エリコの町に立ち寄りました。そのあと、イエス様は、エルサレムに行き、最終的に十字架にかけられ、葬られ、三日目によみがえられます。その十字架の出来事が近づいている時に、エリコに立ち寄られたのです。エリコは、緑が豊かで、農作物がたくさんとれる所でした。

19章2節、 「そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった」。ザアカイは、人をだましたり脅したりして、無慈悲にカネをゆすり取り、大金持ちになったのでしょう。3節で、「その取税人ザアカイは、イエス様がどんな人かを見たいと思っていた」、とあります。彼は、心の内から沸き立つ情熱をもって、一目だけでもイエス様を見たいと切望しました。取税人とは、イスラエルの国を植民地として支配しているローマ帝国のために、税金を治めさせる仕事を意味しています。同じ仲間であるはずのユダヤ人から、税金を搾り取るので、人々から裏切り者として嫌われていました。ザアカイは、その取税人の親玉として、権力を振るっている人物でした。今日は、ザアカイの悔い改めと聖霊なる神様のお働きとを通して、三つのポイントから、メッセージを分かち合いたいと思います。

昨日、説教の準備をしている時、他の人ではなく、自分こそがザアカイのように罪を悔い改めるべき者である、とい事を聖霊なる神様により示されて幸いでした。

【聖書箇所の概説と内容区分】

1節~4節     エリコを通る主イエス様とザアカイの願い

5節         主イエス様の呼びかけ

6~10節     ザアカイの悔い改め

  •  ザアカイの願い

ザアカイは、イエス様が「取税人や罪人の仲間」と呼ばれていて、また、弟子の中にも取税人の「マタイ」がいるという噂も聞いたことでしょう。罪人である取税人を赦して「再出発させる」という噂を聞いていたので、ザアカイは自分のようなものでも赦されるだろう、という期待感を持っていたのかも知れません。

3節、「背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった」。

ザアカイがイエス様を見ようとした時、群衆は、「あの小さなザアカイなんかに、イエス様を見せてやるものか!」といって、ザアカイを締め出してしまうのです。

19章4節、 「それでイエスを見るために、前の方に走って行って」、とあります。ここに、「この時を逃してはならない」というザアカイの思いがよく現れています。「前の方に走って行って」、という文章は、ザアカイが決して諦めず、「前へ前へと進む」様子が伺えます。そのようにして、ザアカイは、自分の救いの機会を逃しませんでした。ザアカイは、遠慮をして後ろの方に引っ込んでいるのではなく、イエス様を見るために、恥も外聞もなく、全力投球しました。 人生の機会は一度しかありません。 

ザアカイは、自分に来た機会を空しく通り過ぎるままに放置しなかったのです。「前の方に走って行」くと、目の前にいちじく桑の木があり、その木に上り始めました。

2. 主イエス様の呼びかけ 

5節、「イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、『ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから』」。

ザアカイは、歴史上ただ一人、イエス様を上から見降ろした人物でありました。

英語聖書で5節は、I must stay「わたしは、この家に泊まらなければなりません」と訳されます。ここは、父なる神様のご計画と御心から、どうしてもイエス様は、ザアカイの家に泊まらなければならない、そういう神様のご意志が現われております。イエス様から「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。」と声をかけられました。そのように、今日、皆様の一人一人の名前も呼び、世界最大の最高の祝福となる務めを私たち一人一人が置かれている、その場所において与えて下さったのです。。

19章6節、「そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた」。

「家に泊まることにしている」。しかし、これは群衆には受け入れられない事でした。

7節、 「人々はみな、これを見てつぶやき、『彼は罪人の家にはいって客となった』と言った」。イエス様は、ザアカイの罪を決して暴いたりはせず、主の恵みに触れることで、ザアカイの心に深い悔い改めと償いの思いを呼び起こしていきます。

  •  ザアカイの悔い改め

8節、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します」。ここで、貧民とは、命の危険が迫っている餓死寸前の貧しい人々の事を指しています。

9節、 イエスは彼に言われた、「今日、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから」。マンネリ化している今日でありません。 「今日」、父なる神様が私たちに、新しい事、偉大なる事を行われるのです。今日、主の御言葉の語りかけをよく聞いてその希望の御言葉の約束を信じ、主のご栄光のために生きて行こうと祈る時に、「今日、救がこの家にきた。」という御言葉が聖霊なる神様と伴って、私たち一人一人、それぞれのご家族に、その場で大いなる力を発揮するのです。

イエス様は、取税人という最も信仰が遠い者が、アブラハムのような信仰の父の子孫である、と宣言しました。9節後半、「きょう、救がこの家にきた」。イエス様の救いは、個人に与えられるのですが、ここで、救われた家にも救いの恵みが及ぶことを現わしています。ザアカイの家には、家族の他に、数多くの召使がいたことでしょう。イエス様は、彼の家族や召使いにも救いが及ぶことを宣言したのでした。

ここから出発するザアカイの生涯は、その後、どのような生涯になったでしょうか?

ザアカイは、後にペテロからカイザリヤの教会の監督に任命され、教会を導く人になったと伝えられています。収税人という最も信仰が遠い者に救いが与えられ、主イエス様が心に住まわれて、彼を造り変えていったのです(ガラテヤ2:20)。

晩年、ザアカイはエリコに帰って、掃除道具を持ち、イエス様と出会ったあの木のふもとで、毎日雑草や虫を取ったり、ほうきで掃いたりして過ごしていたそうです。彼は、道行く人に、「私は、この木の下で、イエス様に出会い、こんな小さな者も、イエス様に声をかけてもらったんだ…ここが私の人生の『再出発の場所』なんだ!」と証ししたのでした。「私は、アブラハムの子、祝福の子、周囲に祝福を溢れさせ、分かち合い、神様の恵みに生かされたのだ」とザアカイは証ししたのです。

ザアカイは変えれて、神様を心から愛し、永遠の幸いのうちを神様と共に生き、神様をほめうたい、讃美する者となりました。

10節、 「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。

罪人としての自分に気がつき、また、聖なる神様の御前から離れている自分を知って愕然とする時、本格的に聖霊なる神様がお働きになります。

ザアカイのように、自分が罪人であること、また、神様にただ憐れみを求める以外にない自分がいることを知る時、聖霊なる神様が救いのために全力でお働きになります。そういう経験をした人は、他の人を責めることができなくなります。むしろ、他の人を愛し、いたわりの心をもって、接する人間へと造り変えられるのです。

ザアカイは、まさに、自分が、神様の憐れみを求める以外にない存在であるということを知って、木からすぐに降りて、イエス様の招きに答えました。そして、ザアカイは、イエス様を家に招いて、そこで「立って」、今日、食べる物がない命の危険にさらされている、極貧の人たちを思いやる人間へと変えられていったのです。

以上のように、「ザアカイの罪を赦し、造り変えるという働き」は、聖霊なる神様のお働きです。聖霊なる神様は、立派な心に入って下さるのではありません。むしろ、私は最も罪深く、醜いのだ、と打ちひしがれる心に、聖霊なる神様が入って来られるのです。そのように、私が最も罪深く、醜い存在であるということに気が付くのが大切であり、それだからこそ、その存在を神様が無条件で、そのままで受け止めようとしていることを私たちは知らなければなりません。

自分が神様の憐れみを求める以外にはありえない存在であるという事を知る時、そういう時こそが、聖霊なる神様が働かれる一番の好機となるということを、今日、共に覚えたいと思います。

8節で、「ザアカイは、無条件に半分の財産を貧しい人々に施します、その後に不正な取り立てをしていた人には四倍にして返します。」、と言います。ザアカイは、「悔い改めにふさわしい実」(ルカ3:8)を結ぶことを誓うのです

この宣言について、「ザアカイが日々の生活でこの宣言通りに行えるようになったのは、ある程度時間がたってからである」、とそのように言った宣教師がおります。 

まことの悔い改めは、一朝一夕になされる訳ではなく、徐々に進むものです。

立ち上がったと思ったら倒れ、また、立ち上がる。また、転んで、また立ち上がる。まるで、赤ん坊のように遅々たる歩みです。しかし、そのような赤ん坊の歩みを見て、親は喜んでくれるのです。その点においては神様も同じです。そうした親の心、神様の御心を知らされる時、信仰者は、感謝の思いで包まれます。全生活に渡って、神様と人とに感謝して、ご恩返しをする生活へと導かれます。不義と悪、むさぼり、欺きに満ちた、無慈悲な現代社会。文明が発達しているだけにかえってあだとなっている現代社会。そうした現代の競争社会において、感謝に満ちた生活を送ることがいかに大切なことであり、あたたかな光を放っていくことでしょう。

イエス様の福音は、私たち罪人の生き方を変革させる神様の力です。イエス様は、ザアカイのような罪深い者であるにもかかわらず、いや、むしろ、罪深い者であるからこそ、救ってくださるのです。そのように、イエス様により、救われた者は、罪を赦されて、それで終わりではなく、赦されたあと、全生活にわたって神様を喜び、祝う者へと再び作り直して頂けるのです。聖霊なる神様の再創造です。イエス様が、今日も、私たちの為にとりなしており、聖霊なる神様が私たちの為にとりなしております。聖霊なる神様について、ローマ8章6節では、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」と記されております。別訳は、「聖霊の心は今も永遠までも命と心の平和です」。私たちがイエス・キリストを信じる時に、私達の心の内側に、命と平和をもって、聖霊なる神様が永遠に宿って下さるのです。

祈り) 主イエス様、「今日、救がこの家にきた。」という命の御言葉を受け取ります。

 

新宿西教会2025年6月22日講壇交換特別礼拝説教「迫害者サウロの改心」使徒9:1~9 佐々木千沙子牧師(東京新生教会)                                                                                                                                                                               

《新宿西教会主日説教》    「迫害者サウルの改心」    2025.06.22

使徒行伝9章1-9          東京新生教会牧師 佐々木千沙子

 本日新宿西教会と東京新生教会の交換講壇にお招き頂きましてありがとうございます。4月16日は東京新生教会名誉牧師横山義孝師逝去におきまして皆様のご哀悼を心より感謝申し上げます。今日も先生は神様の下で私達を見ておられると思います。福音の前進のために励む者でありたいと願います。

私は、神学校時代は舎監の深谷先生、美歌子先生に教示を受け、そして伝道師時代は東京聖書学校吉川教会でしたので、合計7年先生の下で恩恵にあずかった幸いな者であります。思い出すと優しい先生ご夫妻に甘えていたなと思うことです。そういう中で先生は時に預言者のように導いてくださいました。私は神学校に入学するときは箱根の別荘地に住んでありましたがそこから全寮制の神学校に入学し、半年後に夫が、神学校のある吉川に移住するから家を見つけるようと、云いました。私はそのことを先生に話したところ一言「〇〇」と大きな声でおっしゃいました。美歌子先生は側で「〇〇地域は高いよ」とおっしゃいましたが先生は「いや○○だ」と断言し、結果としてここに住まいを備えられ、私たちの気に入った住まいとなりました。私は家に入るたびに「深谷先生は不思議な力を持っておられる」と思わされております。

1,サウロの改心

本日は皆さんよくご存知の使徒言行録9章サウロの回心の始めのところをお読みいただきました。聖書の小見出しは心が180度回転した回心となっておりますが本日の説教題は「悔い改める意味の改心」としまして、私個人の信仰の証をも延べさせていただきたいと思います。宜しくお願い致します。

サウロは主の弟子たちを迫害する人から、一転して主の働き人へと大転換をとげた人です。彼の生い立ちは使徒言行録22章3節以下にあります。そこにはこう語られています。「私は、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えてきました。」彼はエルサレムから遠く離れた地中海に近いタルソスという町で生まれたユダヤ人です。彼の両親は息子の才能を見込んで、13才位からエルサレムで、当時最高学派のガマリエルも門下生とし、律法の厳しい教育を与えました。彼はモーセの時代からの律法をしっかりと守って、神に仕えて生きることによって、ユダヤ人は「正しい者は律法を守ることによって生きる」と確信して生きていたのです。少し前の使徒言行録7章はキリスト者となったステファノの説教が記されています。その内容はこうです。「イスラエルを神様の民たらしめているのは、律法を守ることではなく、神様の約束のみ言葉を信じる信仰である。モーセが民に遺した最も大切なものは、神がわたしのような預言者をお立てになる時が来るという預言で、その預言が主イエス・キリストにおいて成就した」と。

サウロは、律法こそが重要と言わないステファノは許せない、殺されるべきだ、とはっきり思ったのでした。なぜならユダヤ人が先祖伝来大切にし、民族の誇りとしてきた律法が、このキリストを信じるクリスチャンによって軽んじられ、意味のないものにされては許せない。それはユダヤ人を神様の民でなくしてしまおうとする陰謀にしか見えないと激怒したのでした。ステパノが迫害され石打ちの刑に会った時、サウロ自身は彼に石を投げてはいませんが、そのことを支持し、迫害する人々が石を投げるときに脱いだ上着を預かっていたのです。このステファノの殉教をきっかけに、彼はますます迫害を強めました。

そのために彼は、当時の大祭司から、ダマスコの諸会堂あての手紙「この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行する」という大祭司お墨付きの手紙を書いてもらい、パウロは、まさに意気込んで、250キロの道のり、ダマスコへと向かったのです。そこに近づいたとき、本日の出来事が起ったのです。
 「ダマスコ途上の出来事」と呼ばれるこの出来事は、使徒言行録には第9章と、22章と26章です。三度に亘って語られていることが、この出来事の重要さを示しております。共通していることは、彼が天からの強い光に照らされて打ち倒されたこと。そして「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いたこと。彼が「主よ、あなたはどなたですか」と問うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えがあったこと。そしてダマスコの町に入ってそこでなすべきことが示されるのを待てと言われたこと。起き上がってみると目が見えなくなっていたことなどです。そしてその後ダマスコの町で、アナニアという信仰者との出会いによって彼の目から「うろこのようなもの」が落ち、見えるようになり、洗礼を受け、教会を滅ぼすために来たはずのその町で、伝道を始めたのです。

2,サウロの心の動き

まさに彼は神様に仕える熱心さに何のためらいもなく「意気込んで」信者たちを捕え、獄に送っていました。その時、突然強い光に照らされて地に倒れました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。この語りかけにおいて最も衝撃的なことは何でしょうか。それは、第1が、呼び名でありました。以前の聖書では「サウロ・サウロ」と訳していたのですが、新共同訳と協会共同訳では「サウル・サウル」に訳しております。イエス様は迫害に燃えていたサウロを、子供の時からお母さんに呼ばれていた幼名「サウル、サウル」と二度親しく優しく呼ばれたのであります。サウロには無邪気な子供時代の郷愁の思いが心に溢れたでありましょう。次に「なぜ、わたしを迫害するのか」というところです。あなたはわたしを迫害している、わたしを苦しめ、妨害し、傷つけている、という声を彼は聞いたのです。「なぜ教会を、なぜキリスト信者たちを迫害するのか」ではありません。ここでサウロは、キリスト信者と教会と自らを一体化させている、しかも強い光のなかで語られる「わたし」という方と出会ったのです。その方が彼の前に、彼の道を遮るように立ちはだかったのです。そして、自分がその方に敵対し、その方を迫害しているのだということを知らされたのです。

 それゆえに彼は、「主よ、あなたはどなたですか」と問いかけました。「あなたはどなたですか」。自分の前に今、圧倒的な力を持った「わたし」として現れ、語りかけておられるその方に向かって彼は「あなた」と語りかけ、「あなたはどなたですか」、と問うているのです。その問いに主はお答えになります。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。「わたしはイエスである」。十字架につけられ、殺され、そして復活して天に昇られた、そのイエス・キリストが、今、彼の前に、「わたし」として語りかけておられるのです。その主イエスとサウロとの間に、「あなたとわたし」という人格関係が生まれたのです。そのことによってサウロは、自分が教会を迫害していたのは、主イエスご自身を迫害していたのだ、ということが分かったのです。

この時、彼の目は見えなくなっていました。これまでの彼は信仰者としての祈りの中にあっても知恵や知識のつめこまれた高ぶりの心、自分の目で見、自分で判断して人生を歩んできました。それによって、主イエスを迫害するという致命的な罪に陥ったのです。ヨハネ9:41イエスは言われた。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」

彼に起ったことは、主イエスとの出会いによって、何も見えなくなり、暗黒の世界に落とされたことだったのです。これからのサウロは見えなくなった目に見えたイエス様ご自身、このお方からすべてが始まります。

ここで僭越ですが私の救いの証を語らせて頂きます。

私は青森県で生まれ育ち祖父は神社を守る神官の働きをしておりました。中学3年の時学校の校門でアメリカ人宣教師が二人でキリストの十字架の紙芝居を見せておりました。「キリストは何も罪がないのに十字架にかけられ殺された」という言葉を聴いた時、罪がない人などこの世界におるのだろうか?その時に私の隣で紙芝居を見ていたクラスメートはクリスチャンでした。紙芝居が終わって帰る道、私は彼女の後ろを歩きながら「日本には神道という立派な信仰があるのに外国の信仰をこの国でするとは侵害である。しかもキリストは罪はないというのはキリスト信者の思い込みで、どこかに罪があったから十字架刑に処せられたに違いない。私はこれからキリストが十字架にかけられた原因を探そう」本気でそう思いました。そうして彼女の後姿の影をあえて踏んで迫害の意を表したのでした。

 高校を卒業して神学のために東京に出てきた私は、大きな壁に出会い、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と書いた一枚のキリスト教のトラクトを見て、イエスキリストが今私を招いている、このお招きに、今お応えしなければならないという気持ちになって、自分の足で教会を訪ね、日曜日朝の礼拝から夜の伝道会まで出席しました。そこで教会の先生の導きで生まれて初めて、両手を合わせて天地創造し、私を造られた神様にお祈りをし、罪の赦しを乞いました。その時、頭の中が真っ暗になり、そこに十字架にかけられて血を流しているイエス様が映し出されました。それはあの中学の時に見た紙芝居の絵を思い起こす様でした。イエス様は真っ暗な中でこうおっしゃいました。『私はあなたの罪のために死んだのですよ。』」主はキリストが十字架にかけられた原因を探そう傲慢な私を見捨てず、追い続けて下さって、真っ暗闇に追い込んでくださってお語り下さいました。この時から私は新しくされて1年後に洗礼を受けました。

信仰とは主イエス様と出会い、人格関係が築かれることです。自分が見てきたこと、依り頼んでいることが打ち砕かれイエス様がすべてとなって下さることです。そこで私たちは本当に見るべきものを見ることができるようになります。本当に見るべきものとは、主イエスの十字架と復活によって神様が与えて下さっている罪の赦しの恵みです。それを見つめる目を与えられる時、教会や人を迫害し裁いていくような生き方から解放されるのです。

劇的なサウロの回心と基本的には同じことが、実は私たち一人一人にも起っております。そして、これからも起っていくのです。

《祈り》父なる神様!今日の講壇交換の恵みのひと時を感謝します。迫害者パウロが、あなたに出会い、あなたの証し人になりました。本日、あなたがお語り下さったみ言葉を、しっかりとらえて歩めますよう聖霊の豊かなお助けをお願い致します。私達の信仰が恵みから恵みへ、力から力、命から命へ、栄光から栄光へと導かれていきますように。主の御名によって祈ります。アーメン

 

新宿西教会2025年6月15日三位一体主日礼拝説教「神様の救いの完成」エペソ1:3~14 深谷春男牧師                                                                                                                                                                               

 

わたしは思い起こすと、神学校に入学した22歳のころに、「キリスト教の信仰とは何か?」ということをいつも考えておりました。この世界の1枚の木の葉にも、顕微鏡で見れば、気の遠くなるような植物細胞に奇跡的極微な世界が広がる。さらに拡大すれば分子の世界、原子の世界。この世界はまさに神の神秘に満ち、一枚の木の葉1枚に全世界の深淵なる創造者の英知が宿る。また、キリストがわたしのために罪を赦すために十字架にかかられた。更に死を撃ち砕いて復活された!あの洗礼を受けた日の感激の日々。あれがキリスト教の中心だろうか?はたまた、ある友人は、聖霊の満たしを受けて、天国の恵みがわたしの心のうちにある、という。神学生の一年目の終りから二年生になるころ、カルヴァンのキリスト教綱要とか、キリスト教の歴史を学んで、ああ、これだったかのか!と霊の目が開かれるような体験をしました。今日の説教の主題です。

【聖書テキストと区分】

エペソ1:3-14は、もとの言葉では実は、ほとんど一つの文章で、区切りがなく、代名詞や分詞で次々と文章がつながっています。この手紙はローマの獄中で使徒パウロが口述筆記をさせて書いたものと思われますが、パウロは「ほむべきかな、わたしたちの主イエスキリストの父なる神!」と、語り出したら、神への賛美が止まらなくなってしまって、14節までを一気に語り出したような文章です。パウロらしい文章だと思います。

この箇所は、内容的には、はっきりとした区切りがあります。

3節~ 6節は 父なる神について   創造と救いの計画、選びの恩寵

7節~12節は 子なる神について  十字架の贖いによる神と人との和解

13節~14節は 聖霊なる神について  聖霊の内的確信と救いの完成

が、書かれてあり、それぞれの区切りには、6節、12節、14節に、賛美が添えられていて、父なる神、子なる神、聖霊なる神への信仰がはっきりと示されます。

【メッセージのポイント】

3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。(3~5節)

⇒ 父なる神の創造と救いの歴史計画

3節から6節は、父なる神様の創造と豊かなる選びの恩寵が記されています。4節に「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び」と記されます。わたしたちの救いは、今から二千年前、キリストがこの世界に来てくださった時からはじまったのではなく、それ以前から、それこそアダムやエバの時からはじまつており、いや、ここでは、それよりももっと前、天地創造の前からはじまっていたとあります。人類が生まれる前、世界が始まる前から、神はわたしたちのために救いの計画を立て、その救いの中にわたしたちを選んでいてくださいました。驚きです。

これを「選び」や「予定」と言います。福音を聞き、それを信じるのです。

以前、教会の月刊誌「シャローム」に、神様の創造の恵みの詩を載せて頂きました。

春:遠くの山々にはまだ雪が残っている。けれども立ち枯れのように見えた山々の木が一斉に芽を吹き、萌黄色に変わって行く。命の輝きの季節。

夏:白い入道雲。かっと照りつける強い日差し。真っ黒に焼けた青年たちが叫びながら走って行く。地平線のかなたに伸びるひまわり畑。太陽の季節。

秋:爽やかな紫色の空気の中に、黄色い木の葉や赤い彼岸花が揺れる。ぶどうやりんごなどの果物が食卓をにぎわす。実りの季節。読書の季節。

冬:木の葉がなくなった裸の木の枝が冬空に鋭いシルエット。冷たい北風。しんしんと降り積もる雪。翌朝、ねぼけまなざしで外に出ると、朝日を反射した輝くばかりの一面の銀世界。鋭い剣のようにのびたつらら。幾何学文様のような雪の結晶。冬はこたつの季節。家族の団欒の季節。

  われらの一生も命の萌え出る春があり、太陽の季節の夏がある。収穫の秋があり、やがて冷たい冬が来る。救いの主へ信仰・希望・愛が問われる時。永遠の神の住まいへと飛翔する信仰をしっかりと内に宿したいものです。

2) 7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。   (7節)

⇒ 子なる神の和解と神の救いの計画の実現

7節から12節には、神の計画がキリストによって実行されたことが書かれています。御子キリストは、今から二千年前、この地上に生まれ、十字架で人間の罪の贖いを全うし、三日日に復活して、救いを成就してくださったのです。主イエスの救いは、その十字架を受け入れ、罪を赦され、神の子としての特権を得ることです。

ここには、明確に、主イエスの十字架の贖いと復活を、「神との和解」という言葉で表現されます。7節に「その血によって贖われ、罪を赦されました」という言葉がありますが、キリストが十字架で死なれたのは、私たちを罪から贖い出すためなのです。キリストの救いは「和解」という言葉で表現されます。神と人との和解、人と人との和解が、キリストの十字架の贖いの出来事です。主が贖いを完成してくださったのです。

わたしは洗礼を受けたのが、1969年12月21日。19歳の時のこと。その時のことは忘れられません。わたしの75年間の人生で一番大きな出来事です。聖書の中心はこの「十字架の贖い」を受けて、神の子となることです。

「終(つい)に彼を捨てる」          内村鑑三 

国のためにキリストを信じたる者は終(つい)に彼を捨てる。

社会人類のためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

教勢拡張を思い立ちてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

キリストの人格にあこがれてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

美(よ)き思想を得んとてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

患難苦痛を慰められんためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

 されども、おのが罪を示され、その苦痛に耐えずして、「ああわれ、なやめる人なるかな」の声を発し、キリストの十字架において神の前に義とせらるるの唯一の道を発見し、その喜びに耐えずして彼を信じた者は、かかる者は、よし宇宙は消え失(う)するとも、永遠より永遠まで彼を捨てない。                        

(1916年(大正5年)3月『聖書之研究』)、著作集第12巻

3) 13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。     (13,14節)

⇒ 聖霊なる神は、天国のアラボン(保証)

父なる神は、この世界を創造し、救いの歴史を導かれ、ご自身の御子が十字架においてそれを実現しました。そして、聖霊は、御子が実現した救いをわたしどもに明確に、魂の内側から、確証を持って、与えてくださるのです。聖霊なる神様は、わたしどもの内側に内住されるお方です。聖霊がわたしどもの魂に住まわれる時、救いもわたしどもの内側に深い確信を持ってやって来るのです。13節では、「約束された聖霊で証印を押された」と表現しています。聖霊は、救いの証印なのです。さらに14節で、「聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証」と語ります。この「保証」という言葉は「アラボン」という語で、もともとアラビアの商業用語であったと注解書には解説されます。これは「手付金」とか「頭金」と言われます。そのような意味で、聖霊に満たされた体験は救いの確信へと、導く体験であり、それはあたかも小天国のようだ!という告白なのです。三越本店が日本橋にあるが、池袋にも支店があるように、天国の本店は天にありますが、天国の支店がわたしの心の内にあるという確信です。この地上を去って、やがて父なる神様の天国の恵みに入りますが、この聖書箇所では、この地上生涯を終えてからの天国ではなくて、この地上にあって、天国の恵みの一端に与ることを「天国の保証(アラボン)」だと言っているのです。この地上で歩む信仰の生涯の中で、神様の深い恵みの世界、祈りの中で経験する神ご自身の愛の深さや神様の歴史経綸の驚くべき祝福、その栄光の輝きに打たれてパウロは、まるで生きながら天国のような恵みと充足をいただいた!と叫んでいるのです。

しばらく前の早天祈祷会で、ルカ11章を学びをしました。そこには、天の父はわたしたちに「最も良い物=聖霊を与える」とあり、ある方が内村鑑三の「聖霊を受けし時の感覚」という文章を読んでくださいました。それを聞いてとても驚き、新しい発見だ!あの内村の原動力も聖霊の助けだった!と思いました。その文章です。

「聖霊を受けし時の感はこれである。すなわちこんな良いものは全世界にない。これさえあれば余はなんにもいらない。金はもちろん、位も名誉もなんにもいらない。家庭もいらない(もし神の聖意ならば)。なんにもいらない。成功もほしくない(もし神の聖意ならば)。伝道に従事できなくともよい(もし神の聖意ならば)。なんにもいらない。ただこれ(聖霊)を永久にもっておりたい。・・・これである。しかり、これである。これがキリスト教が人類に与えんとする最大の賜物である・・。」     

 1906年9月「聖書之研究」より

ある集会で、韓国のエバンジェリストの話を聞きました。教会にすばらしいリバイバル(霊的復興)が起こるためには、ひとつの教会に《5人の聖霊の器・信仰に燃えた人》が必要との事でした。5人の聖霊に主権を明け渡し、祈りに献身し、聖書信仰に立って歩む聖霊の人がいると、その教会は必ずリバイバルが起こると世界中を見て来て体験したと言うのです。チャレンジを受けました。聖霊と信仰に満たされた器となって、日本中に福音を満たしましょう!

【 祈 祷 】 天の御父。今日は「父なる神の創造と摂理、主イエス様の贖いと和解、聖霊なる神様の内的証示・救いの完成」について学びました!特に今日は、先週のペンテコステを迎えて「三位一体主日」と銘打っての礼拝です。あなたの御働きにわたしどもの生涯を整え、どうか、わたしどもの鈍い霊の目を開き、この聖書信仰の原点に立つ者として導いて下さい。天来の愛と知恵に満たし、リバイバルのために持ちて下さい。御名によって祈ります。アーメン