新宿西教会主日礼拝説教「金で買えない宝」使徒行伝8:9~25   深谷美歌子牧師

8月28日(日)主日礼拝説教「金で買えない宝」

聖書:使徒行伝8:9~25  

説教者:深谷美歌子牧師

  嵐の海で遭難し、やっと漂流していた二人の事を聞いたことがあります。一人が持っていたオレンジを「お願いだ、そのオレンジとこのダイヤを交換してくれないか」と頼んだとき「お断りします。今、ダイヤがあっても何の役にも立たない。」と断られたと言う内容でした。

「お金でかえないもの」このタイトルで、シャローム誌にも載せました。小林則義先生の自作のトラクトの題でした。買えないものリストに、自分を変える事、人を変える事、愛情、天候、健康、命、過去、とお金で買えないものが、たくさんある事を教えられました。

 本日の個所には、お金で、手を置けば聖霊を授けられる権威を買おうとした人物が出てきます。見てまいりましょう。

 

【聖書箇所の概説】

9-13節 魔術師シモンが、イエス様を信じ、ピリポについて行った。

14―18節 ペテロとヨハネが遣わされ、祈るとサマリヤ人も聖霊を受けた。

19―25節 シモンは金で、聖霊を授ける権威を買おうとした。

 

【メッセージのポイント】

1)シモンも信じた福音。

9 さて、この町に以前からシモンという人がいた。彼は魔術を行ってサマリヤの人たちを驚かし、自分をさも偉い者のように言いふらしていた。

10 それで、小さい者から大きい者にいたるまで皆、彼について行き、「この人こそは『大能』と呼ばれる神の力である」と言っていた。

11 彼らがこの人について行ったのは、ながい間その魔術に驚かされていたためであった。12 ところが、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた。13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、それから、引きつづきピリポについて行った。そして、数々のしるしやめざましい奇跡が行われるのを見て、驚いていた。        9―13節

 ピリポの伝道によって、多くのサマリヤの人々がイエス様を信じました。サマリヤについては、前回お伝えしましたが、復習します。(キリスト時代のパレスチナの地図参照)722年のアッスリヤへの捕囚によって、北イスラエル(サマリヤ)に残された人々は、送りこまれたアッスリヤ人と雑婚をしたので、純粋な神の民ではなくなりました。その後586年にバビロンに捕囚になったユダヤ人達は、決して雑婚をしなかったので、サマリヤ人を軽蔑していました。イエス様がサマリヤ人の村を歩まれた時、歓迎しなかった彼らに、弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。ルカ9:54と言いました。この言葉から弟子のヨハネにも敵意があったと感じられます。ですが、この時はそのサマリヤの人々が福音を受け入れたと聞いて、ヨハネは遣わさてきて彼らのために祈っています。

 シモンという人は、そのサマリヤ人の間で、魔術を行って、さも偉いもののように言いふらして、みんながついて行き、「神の力である」と言っていたとあります。別の訳では「もしかしたら救い主ではないかと考えていた」と訳されています。雑婚したとはいえ、彼らも救い主がくるという約束を待っていて、シモンが魔術で驚かせていたので、この人が救い主かもと考えて居たらしいのです。そのシモンも、ピリポの伝道によって信じたのでした。たぶん多くのしるしを見て、彼が行っていた魔術よりすごいわざであると認めて、信じたのでしょう。

 

2)聖霊を受けるように祈った。

 エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。15 ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。16 それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。17 そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。 14-17節

 改めてこの記事を読みました。ペテロとヨハネが遣わされた時、彼らはまだ誰にも聖霊が下っていなかったと記されています。聖霊は、ペンテコステの時、待ち望んでいた120名の弟子達に来られましたが、福音を信じたと言っても、聖霊に満たされていないということがあると言うことです。

 それがペテロとヨハネには解りました。ここで、エルサレムにいた使徒たちが何をしていたかを考察します。サマリヤで伝道したピリポは、執事として選ばれた、クリスチャンでした。なぜ彼らが選ばれたかというと、ペテロが聖霊に満たされて大胆に「あなた方が十字架につけたイエス様は神からつかされたメシヤ(救い主)だった」と語って、3000人もの人が悔い改めてイエス様を信じたのでした。その人々は喜びに満たされて教会(神の国)の家族になりました。そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。使 2:42のでしたが、あまり多くの人が救われて、この人たちの世話を使徒たちがしていると、祈りと御言葉の御用ができなくなってしまったのでした。それで、聖霊と信仰に満たされた執事が選ばれたのでした。

 ですから、エルサレムに残った弟子達は、もっぱら祈りとみ言葉の御用に当たっていたと思われます。そして、御再臨が近いと思って、エルサレムにとどまっていたのではないでしょうか?しかし、離れていても、散らされていった兄弟姉妹のために祈っていたでしょう。そして救われる者が起こされたと聞き、遣わされたのでしょう。サマリヤに来た時、確信の聖霊を受けるように祈ったのでした。

 誠志会病院の高木先生のお話を思い出します。病院付の教会ですから、病院に入院していて、イエス様を信じて、癒されることが起こるそうです。しかし、病の癒しを求めていた人は、それを得てしまうと信仰から離れてしまうと言うのです。もっと素晴らしい命が与えられているのにそれを受けないで、離れてしまうというのです。

 聖霊を受けた人々がどうしてそれが解ったか書いてありませんが、奇跡以上の確信に満たされたことが、誰の目にもわかったのでしょう。条件によらない命の喜びは、聖霊様を心の王座に迎えると与えられます。

 

3)神の前に正しい心

18 シモンは、使徒たちが手をおいたために、御霊が人々に授けられたのを見て、金をさし出し、19 「わたしが手をおけばだれにでも聖霊が授けられるように、その力をわたしにも下さい」と言った。

20 そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。21 おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない。22 だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない。

 23 おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、わたしにわかっている」。 24 シモンはこれを聞いて言った、「仰せのような事が、わたしの身に起らないように、どうぞ、わたしのために主に祈って下さい」。

 25 使徒たちは力強くあかしをなし、また主の言を語った後、サマリヤ人の多くの村々に福音を宣べ伝えて、エルサレムに帰った。 18ー25節

 シモンにも、聖霊が授けられた人々が変えられたのが解りました。そしてそれが、弟子達が持っている権威であると思いました。

 信仰告白をしたペテロが特別な存在で、ローマ教皇は罪を赦すその権威を受け継いでいる。だから教皇が定めた免罪符を買うと、罪が許されるという考えはそこから出たのだと言われてなるほど、と思いました。それと似た考えではないでしょうか?シモンはお金を差し出して、「その権威をわたしにもください」と申し出たのでした。

 もちろん聖霊が注がれるのは、神様の一方的な恵みです。お金をいくら積んでも受けられません。先週は早天で、ナアマンのらい病が癒された記事を学びました。彼は何億もの価値ある贈り物を携えてやってきて、預言者エリシャがうやうやしく手を置いて祈って、癒すのだろうと思っていました。お礼をいくら捧げても良いと思っていたに違いありません。ところが、「ヨルダンに行って7度身をひたせ」という伝言だけでした。彼は支配している国の大将に対する礼もない、ヨルダンなどより、ダマスコのアバナとパルパルの川の方がよほどよい川だと、怒って去ろうとしました。が、家来の進言を受け入れ、伝えられた言葉に従った時、らい病が癒されました。エリシャは贈り物を一切受け取りませんでした。

 イエス様の十字架によって、罪が赦される道が備えられました。無償です。しかも、聖霊がすべの人に注がれましたが、この恵みも無償です。病気の癒しや、悪霊からの解放も起こり得ますが、これらは添えて与えられる恵みです。過去も現在も、未来も変えられます。

 神の前に正しい心というのは、自分が偉いものになることを求めるのではなく、へりくだって、罪と言う不治の病をイエス様に癒して頂き、聖霊様を迎えてこの世界で神の命を生き始める心です。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。二コリ 4:7この命を頂きつつも、この世界に生きる時、誘惑や、苦しみも起ってきます。毎週日曜日、礼拝で、神様に出会い、神の家族に出会い、神の国を味わいましょう。聖研や早天やデボーションで神様に聞き、聖霊様に常に心の王座を明け渡しましょう、そして同胞の為祈りましょう

 先週の「幻を語る会」で、近藤勝彦先生が「今回初めてのように気がつきました。私たちは天上でイエス様と一緒に王座についているものです」と頬を紅潮させて語っておられました。祈りは執り成しです。神様が全ての人が救われて真理を悟る事を望んでおられますが、この神様の思いを共有し、世界の同胞の救いを、信仰を持って祈ることが、天上の王座につかせられている者の最高の特権です。この宝の命を生き続けましょう!