新宿西教会オープンチャーチ第二主日礼拝説教「天からの光」使徒9:1~9 深谷美歌子牧師

10月9日「天からの光」

聖書:使徒9:1~9

説教者:深谷美歌子牧師 

 前回の聖書箇所は、この世の命の子孫の希望が無かった、女王の財産全部を管理していた宦官が、お金でも、地位でも買えない、神の子の命を頂き、やがてエチオピアの国がこの命を頂いて行く基になったことを教えられました。彼は、最初からイエスキリストをメシヤ(救い主)と、伝えられた福音に心を開いた人でした。

ところが今日の聖書箇所には、頭から福音を拒絶し、撲滅しようとしていた人のことが書かれています。後のパウロですが、ここではサウロです。

【聖書箇所の概説】

1-2節 サウロ、主の弟子たちの捕縛の権を大祭司から受け取ったこと。

3節  ダマスコ近くに来た時、突然天からの光がめぐり照らした。

4ー6節 地に倒れたサウロとイエス様の会話。

7-9節 3日間、目が見えなくなったサウロ、ダマスコで祈る。

 

【メッセージのポイント】

  • 正義感からの怒りに満たされたサウロ。

1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、 2 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。            1-2節 

 人が怒るのは、自分が正しいと思っている時だと教えられました。確かに怒りをぶつける時は、自分が正しいと思っている時が多いです。間違っているか?と感じながらも、それを認めないと、怒り続けることになります。

 サウロの場合がこれでした。サウロはバリバリのパリサイ人でした。

わたしは・・・律法の上ではパリサイ人、6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。ピリピ 3:5-6 と、律法の一点一画も落ち度なく守って神様を信じていた人でした。

ところがナザレから出てきた大工のせがれが、奇跡を行い、自分を「私が道であり心理であり命である、」などと、自分が罪を赦す権威を持っている神である。と言ったことを知り、十字架刑が当然だったと思っていました。

ところがその弟子達が、十字架につけられたイエス様こそが、神の送られた、救い主、神の独り子だった。主は死を打ち破って復活し、誰でも彼のところに行けば罪赦され、神の子とされる、と伝え始めたのでした。

どんな良いことをしたとしても、自分を神だなどと、人間が言ったとしたら、最高の罪だ、それも十字架に死んだイエスが生きていると吹聴し、この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。使徒 4:12と民衆を惑わしている。その弟子のひとりがステパノでした。彼は石打ちの刑に処せられながらも、輝いて「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言って息を引き取ったのでした。使徒7:56この姿はサウロの心に深く刻まれたと思います。しかし、どこまでも死んだ人間を神とすると言うのは間違っている。この教えを撲滅せねばならないと、大祭司の権限を委譲されて殺害の息を弾ませながら、ダマスコに向かったのでした。 彼は、それが神に仕える事だと信じて行動したのでした。

  • 突然、天から光がさした。

ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。使徒 3-5節

 ダマスコの近くまで来た時、突然、天から光がさして、彼をめぐり照しました。22,26章にもこの経験が述べられています。王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。使徒 26:13とあります。サウロは、自分の意志とは全く関係なく、天からの光に照らされました。このことは使徒行伝だけでも3度も語っていることからも確かに起こったできごとでした。

突然、神様の業が起こされることは、聖書に時々記されています。ペンテコステの時そうでした。神様の時があって、神様がサウロに臨まれました。

(横道ですが、御再臨も、あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。3 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、一テサ 5:2とあります。イエス様が、再臨の前に起こると言われた、天変地異、疫病、戦争これらが地球規模で起っています。目を覚ましていましょう。突然起こります。)

この時は「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。のでした。この形は、アブラハム、モーセ、少年サムエルを神様が呼ばれた時と同じです。サウロも、聖書に通じていましたから、この呼びかけが人間からではないということをすぐに悟りました。それで、「主よ、あなたは、どなたですか」と顕現された神様に対して尋ねました。答えは「あなたが迫害しているイエスである」でした。天からの光は、神様の顕現でしたが、その神様は、イエス様でした。そして、パウロは死んだ「人間イエス」を「宣べ伝えている人々」を撲滅しようとしていたのに、「わたしを迫害している」と語られたのでした。

この一言でサウロは愕然としたことでしょう。弟子達が宣べ伝えていたことは本当だったのでした。今、生きておられるイエス様が、直接語りかけていて、サウロの罪を語りながらも、責めるよりも赦そうとしている口調でした。生ける神、イエス様に出会ったのでした。

わたしも信仰は子供の頃から持っていました。牧師の家庭で育ちましたから、神様の存在は当然のこととして信じていました。でも、自分のものとしていない信仰の表現がありました。「イエス様に出会った」とクリスチャンの証しで聞くと、自分はイエス様に出会ったと言えるのだろうか?と自信がありませんでした。思春期になって、そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。自分がしようと思わない悪はこれを行っているロマ 7:21という自分の姿に気付き、イエス様の十字架がこのわたしの罪の為であったことが解りました。それで洗礼を受けました。が、これでイエス様に出会ったと言えるのでしょうか?

 森山諭先生が新年聖会を毎年開いて下さって、1933年3月28日聖霊に満たされ、聖書が創世記から黙示録まで、開かれた、光が入った。と語られるのを聞いて、神様に出会ったその経験をしたいと願っていました。

高校二年生の11月、自分のこの不確かさは、神様に罪の告白が不十分だからかと、思い出す罪を告白しようとしたのですが、こんがらかって、「神様、ご覧の通りの私です。どうぞよろしくお願い致します。」と祈りました。その時「すべて重荷を負っている者はわたしのもとに来なさいあなた方を休ませてあげよう」マタイ11:28節のお言葉が思い浮かびました。自分は救われたと言いながら、変っていない自分の重荷で悩んでいる。これを主におゆだねしよう。荷物を持ったおばあさんがリヤカーに載せてもらっても荷物を担いでいた話しを思い出して、委ねました。その時、泰山木がうっそうと茂って昼なお暗い学校の中庭が光あふれるのを経験し喜びがあふれました。 

今73歳になって、聖霊様がいつも共にいて下さり、一番信頼できる方が常にいてくださるので、一生で一番感謝と喜びの日々を過ごしています。

 天からの光は、イエス様です。イエス様(神様が)がこの世界に来てくださって、本当に神様が世界を導いておられることを知ることができました。しかも罪の代価を、罪を犯したことのない人間としてご自分が負い、「すべ

て重荷を負っている者はわたしのもとに来なさいあなた方を休ませてあげよう」と語りかけていてくださっているのです。

肉声で声が聞こえないかもしれませんが、「美歌子、美歌子お前の罪の代価は私が負った。わたしのもとに来なさい休ませてあげよう。」と語って下さっているのです。声は聖書のお言葉です。「ありがとうございます。」と応答し心から委ねましょう。特に礼拝は神さまが御臨在し、真理の言葉を語りかけ「そうですね!」と生かされる時で、地上の神の国です。黙示録4:1

  • 祈って待て、なすべきことが告げられる。

6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。7サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。

 8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。   使徒 9:7-9節

 神様を心の底から信じ、異端が破竹の勢いで増え広がっていく、これを何としても撲滅させると怒りに満たされて、ダマスコに来たパウロでした。

 しかし、「あなたが迫害しているイエスだ」と語りかけられて、愕然とし、どうしたらいいのか解らなくなって、ダマスコに連れて行ってもらいました。

そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。とイエス様から告げられていました。

サウロの心は、大揺れに揺れていたことでしょう。正しいと信じて進んできた道が、間違っていた。足元がガラガラと崩れた経験をしたことでしょう。人間的には、自分に期待していたユダヤ人に応えることはできなくなりました。その様な思いが去来する中で、サウロは祈っていると11節にあります。神様に「神様、正しいと信じてここまで来ましたが、間違っていました。それどころか、イエス様を迫害していたとは。十字架に付けたのは、私もその中の一人でした。これから、どう生きたらよろしいのですか」と祈っていたのでしょう。祈りは神さまに繋がるパイプです。

この後を読むと解りますが、神様の大いなる使命が待っていました。迫害者であったものが、赦され、用いられました。どんな人間も神様は一人一人に期待されています。聞き取って、感謝し喜んでそこに生きましょう!

祈り 父なる神様、2000年前イエス様がこの世界に来てくださって、あなたの御臨在を知らせ、思いも及ばない十字架で、罪の贖いの道を備えてくださったことを感謝します。「私をよろしくお願いします」と祈った人を赦し、神様と共に、あふれる命、使命の生涯を導いてください。御名によって。