講壇交換礼拝説教「キリストの中の理想」ガラテヤ6:1~10  細田隆牧師

 昨年も、わたしは交換講壇で、この新宿西教会の礼拝に招かれました。その時の説教の聖書箇所も、このガラテヤの信徒への手紙でした。去年は、ガラテヤという言葉自体について、あるいはこの手紙が書かれた背景といったことから話を始めました。この手紙の中心には、主イエス・キリストの十字架が立っているという事は事実です。パウロはけんめいに、十字架の福音から他の方向に引っ張って行かれそうになっているガラテヤの教会の信徒たちを主イエスのもとに連れ戻そうとしている。それがこの手紙です。中心にある主イエスの十字架の意味から、さらに進んで今日の聖書箇所でパウロは、その十字架に救われたわたしたちは、どういう歩みをして行くべきなのか、またその様な者たちの共同体としての教会の歩みは、どうあるべきなのか述べています。

 キリスト教の信仰は、信仰によって形づくられた「キリストの心」をもって、その生涯を歩んで行くことを教えますが、その歩みは、愛や良心や道徳的な感性と明らかに無縁ではなく、むしろ、それらに基いて可能な限り、神様の前に非難される余地のないよう歩みなさいと、パウロは語っているのです。だから、ある意味で、聖書は非常に道徳的で良心の要求に忠実な教えの書物とも言えます。キリスト者個人が、それで完結していれば、よいのではなく、神様が呼び集めた教会全体が、互いのために、信仰と愛と良心の求めに応じて支え合い、教え合って行きなさい、それがキリストがわたしたちに求める生き方なのだとパウロは語ります。この様な事を教える、このパウロの手紙などを読む時、わたしたちはわたしたちの歩む方向や理想とすべきわたしたちの在り方について光を当てられ、はっきりとした、クリスチャンという人間像がそこに示されているのを見るのです。

 しかし、主イエスの福音の宣教の目的は、人間が不道徳を悔い改め、道徳的になって行くことのためになされたのでしょうか。もしそうであるならば、人を道徳的するものであるなら、必ずしも、十字架や復活の信仰を説かなくてもよいということになります。明らかに、神様の望まれることは、一人の人が愛と真の義さの道を歩むことでもあるわけですが、それがなされる以前に、実は、神様がわたしたちに求められることあるのです。そして、その第一の事がなされないで、人は真に愛に生きることも正義に生きることも可能になることはないのです。では、その第一の事、神様がわたしたちに求められる大前提とは何なのか考えてみます。

 イエス様は、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われました。神の国や神の義と言うのですから、人に属することではありません。と言うより、人をその出発点とする国でも義でもなく、神を出発点とする国であり義の事をイエス様は言っているのです。新約聖書において、人が神のもとに立ち帰ることを、ギリシャ語では、「メタノイア」「悔い改め」と言います。それにあたる旧約聖書の言葉は、ヘブライ語の「シューブ」「立ち帰り」という言葉です。旧約の預言者たちは、神のもとから大きくそれて行くイスラエルの民に向かって「シューブ」「立ち帰れ」と呼び掛けました。

 聖書の信仰の原点は神様であり、人ではありません。人が命を取り戻すために何よりもまずなすべき事は、人がその在り方を神の求めに応じて変化させること、「悔い改め」であり、そのことがなされる目的は、何処に行くよりも、神のもとに立ち帰るためです。人はその創造者であり、魂の父である神のもとに立ち帰って初めて、その命を取り戻すのです。イエス様が教えた神の国とは二重の意味があります。一つは、わたしたちがその信仰の生涯の歩みを終え、向かう天上の住みかです。もう一つは、わたしたちの心の内に神様への全き従順と信仰による神様を求める愛がある状態の事です。その神の国は信仰があることが大前提であり、その信仰によって神様に立ち帰らない限り、神の国はわたしたちの内に現れることはあり得ません。信仰による神様への全き従順と愛がわたしたちの内にある時、わたしたちの内には神の国が来ており、同時にわたしたちは神の国の中にいます。イエス様は、悔い改めて神のもとに立ち帰えり、神の国を求め、神の国の内を生きて行きなさい。それがわたしたちが最初に求めるべきことだと教えられるのです。

 先ほども言いましたように、聖書の信仰の原点は神様であり、人ではありません。聖書には人間賛美はありません。人間の中に神を見い出せるとも言いません。そうではなく、その真逆です。神の中にこそ、人の本当の姿の理想があります。新約聖書の観点から見れば、人間の真にあるべき姿はキリストの中にあります。「旧約聖書には中心がない」と言う人もいますが、わたしはその事について考えたことがありました。一人の小牧師の解釈であり、大それたことを主張するつもりはありませんが、旧約聖書・新約聖書を通して、そのフォーカスがあてられているのは「神と共に歩む人の姿」であるように思えます。神のみでもなく、

人のみでもなく、「神と共に歩む人の姿」です。聖書の信仰は、人は人のみで完結し、より良く生きられるとは言いません。人は神と共に在って初めて人として全き歩みが出来るのです。人は自分の力で生きていると言うより、神様によって生かされています。神から断絶された人は、それだけで大きな欠けを負い、もう決して全き歩みは出来ないと聖書は警告します。だから、聖書が人に求める大前提は、イエス様も神の国を求めよと教える通り、神様のもとに立ち帰ることだと言えます。なぜなら、神なしでは、人の存在は、その存在を支える根拠さえ失うと言えるからです。

 今日の説教題は、「キリストの中の理想」と言う題です。文字通り、キリストの中にわたしたちの理想が示され、その共同体である教会の理想が示されているという事です。わたしたちの住む世界は、本来は死と破壊に向かって進んではならない世界です。今、この世界がそういう状態だとすれば、それは大いに神様を悲しませています。この世界は、決して全体ではないけれど、その理想も方向性も誤っています。この今日の世界のある地域に仕掛けられた戦争も、神の御心が大きく外れたところに理想を求め、神のない世界を前提として突き進んだ結果です。また、この世界の全く理不尽に思える境遇の中で希望を失いかけた人々は、その理想と方向性を誤ったものに求めた事がほとんどその要因です。あるいは、その人が悪くなくても、神と共に歩まない人の横暴に巻き込まれたということもありえます。わたしたちはこの混迷を極めた時代の中で、「幸せ」などと言う言葉は幻だと思い込まされそうになっています。人は、どんな人も幸いに生きたいと思っても、それはかなわない、それが現実なのだと多くの人があきらめつつあります。この国家と国家の闘いや、自然環境への誤った近づき方の結果、大きく傷んでしまったこの世界の元々の所有者は、天地の創造主です。

 この世界は人間の国家の指導者のものでもなく、もちろん悪魔のものでもありません。そしてわたしたち人は神様を父とする、神様に最も丁寧に最後に造られた存在です。神様に最も愛されているはずのわたしたちが、その神様をないがしろにしてその命の道を見出せるでしょうか。2千年前、その神が人として母マリアから生まれ、わたしたちの世に救い主として来たという信仰は、人のねつ造した絵空事ではありません。神が全ての原点だと聖書が教える通り、その信仰の原点もまた神様です。神様がわたしたちに与えた信仰、それがキリストの福音なのです。

 聖書の中で、「主」と訳された言葉は、ギリシャ語の「キュリオス」という言葉です。この「キュリオス」は、ヘブライ語の「アドナイ」「主」という言葉の訳語に使われました。そしてこのヘブライ語の「アドナイ」は神の名前を呼ぶときの代名詞です。だから、「主」「キュリオス」は神様ご自身を指す言葉です。最初期のクリスチャンたちは「イエスース・キュリオス」「イエスは主である」と告白しました。この告白は主イエスを神様と信じる告白だったのです。神であることを証しするその異常な奇跡、人の知恵を超えた教え、当時のユダヤの宗教の指導者達、ファリサイ派や律法学者達はイエス様が怖くてしょうがなかったのです。当時のユダヤ教は、そのまま行ったら、キリストと信じられるイエス様の存在によって、確実に転覆させられたでしょう。当時のユダヤ教の指導者達は自分たちを守るためにイエス様を殺そうとしたのです。ローマ帝国も自分たちの都合を優先させ、ユダヤ当局の要求をのみ、ローマ帝国の極刑、十字架にイエス様を付けたのです。しかし、この悲劇、栄光の救い主の死は、神様の大きなパラドックス(逆説)だったのです。神の子の死がわたしたちを救う、ユダヤ民族もその他の地上のどんな民族も、この十字架によって救われる、この父なる神様の救いの計画は成就したのです。

キリストを信じた人々は迫害にさらされ、教会も迫害されました。しかし、なぜ、そこまで彼らは命をはって信仰を守ったのでしょう。それは主イエスの復活が事実だったからです。復活の主イエスが彼らに現れ、勇気づけ、彼らが主イエスに従って行くことに揺るがない確信を与えたからです。主イエスの復活は主イエスが神であることも、真の救い主であることも、その教えが真実であることも、証しすることとなりました。復活の主イエスは、わずかに時を隔ててパウロにも現れ、パウロは劇的な回心を経験し、キリストの福音の使徒となりました。

キリスト教の信仰は、その原点、前提には神様がいて、人間の嘘はその成立には関与していません。キリスト教は単に人を道徳に回帰させるために宣教されたのではありません。神様ご自身が用意した、人類を救う最後の手立てとしての十字架と復活が不可欠であったため、その事を告げる福音がキリストの使徒たちによって命をかけて宣教されました。この福音は、断絶しかけた神と人を再び結びあわせ、人が神と共に歩めるようにしてくれました。

そして、神と共に歩んで行く人の生き方の理想は、わたしたち全ての主、イエス様の中に示されています。「キリストの中の理想」これがその魂の目でまざまざと見える人は幸いです。

その人は、どんな苦しみも悲しみも乗り越え、あるべき姿を目標にして進んで行くことが出来ます。わたしたちは神様の完全さ、聖なることから恐ろしく隔たっています。しかし、主イエスと共に歩むことによって、常にその欠けと罪は覆われ、その道を踏み外すことはないのです。パウロは彼自身が受けて、彼らに愛と情熱をこめて宣教したキリストの福音をガラテヤの人々に見失ってほしくなかった。愛と怒りの激情に震えるような心で、パウロはこのガラテヤの信徒への手紙をしたためました。パウロの願いは天に聞き入れられ、ガラテヤの信徒たちはキリストの十字架をその魂にしっかりと抱き続け、互いに愛に生き、支え合って、教会も歩んで行ったのです。わたしたちも神と共に歩んで行けるでしょうか。それは困難極まりない事ではありません。あの丘の上の十字架を見てください。あの十字架についた人、あの人がわたしたちの理想です。あの人により頼む時、わたしたちは神の国に在り、その御力に満たされるのです。

祈ります。