主日礼拝説教「高い山での経験」マタイ17:1~8  深谷春男牧師

今年は、3年間続いたコロナの時が終わり、少しほっとした中で、暑い夏を迎えております。今年の夏の暑さも連日、39度を越えるような猛暑が続いていますね。まだ、コロナに関しては、ポスト・コロナの感覚でいないといけないこともありますが、それでも、ほっとしているところです。       

すでに先週は7月16日(日)五日市教会との「夏の講壇交換」がありました。17日(月祝)午前は信徒前進宣教会・東京大会がお茶の水キリスト教会館で、また、午後1時からは赤羽教会でホーリスネの群首都圏夏期聖会があり、2回の聖会が開催されました。翌、18日は松戸の永川兄弟姉妹のお宅で家庭集会が開かれ、19日は、青山朝祷会で説教と、連日、恵みの集会が持たれました。久しぶりにお会いした兄弟姉妹と挨拶を交わし、祈りあって、主にある恵みの集会が続いています。

コロナ前では2019年までは、修養会や聖会がたくさん持たれておりました。2泊3日で熱海や湯河原で開催されておりました。コロナ前では、夏が来ると、いつでも夏のプログラムが来た!と備えてやってきました。夏のプログラムはキリスト教会では「修養会」や「聖会」が次々とやってきました。わたしたちの教会でも、プログラムがたくさん用意されています。熱中症等に気をつけながらも豊かな恵みの時を過ごして参りましょう。

 さて、皆さんはいかがでしょうか?わたしは自分の生涯を返り見ますと、多くの特別の「修養会」「聖会」で深い恵みの時を過ごしました。あるところで聞きましたが、毎日の忙しい生活に小さなピリオドを打ち、神様の前に出て、自分の生涯を、霊的に整えて頂く時を持つことは、大切なことであると思います。今日は皆さんと共に、主イエス様と3人の弟子たちが、高い山に登り、霊的な体験をしたことを共に学んでみたいと思います。

 

 【変貌山での出来事】

  今日の聖書箇所は「山上の変貌」と呼ばれる有名な記事です。

この聖書箇所は、前の16章の「ピリポ・カイザリアの告白」から続いています。16章16節に、ペテロの信仰告白があります。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白したところから、新しい生涯に入って行かれました。16章12節まではガリラヤを中心とする伝道の働きでありましたが、16章13節からはエルサレムをめざしての旅行に、変わります。主イエスさまの眼差しは、真っすぐ、ゴルゴタの丘の十字架を見つめることになります。その意味で、ペテロの信仰告白は大変重要な働きをしていることが分かります。主イエスはこれからははっきり十字架のうえで、すべての人の罪のために、身代わりの死を遂げることこそがご自分の使命であることを悟られ、黙々と進んで行かれました。その初めの出来事が「山上の変貌」でした。

  主イエスさまは高い山に登られたと記されています。たぶん、これからの十字架にむかう罪の身代わりという一大事は、父なる神様のみ旨にかなったことなのか?それを深く悟るために、地上での雑事をさけて、霊的な整えの時を持ったのでありましょう。その時、弟子の中からペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを特別に選びまして、4人で登ったと書かれています。

  ところが山の中で主イエスの姿変わってしまいました。顔は太陽のように、衣は光のようになったといいます。すると、不思議なことに律法を代表するモーセと預言者を代表するエリヤが、主イエスの前に現われて、なにかを話し合っていました。ルカ9章によれそれは「エルサレムで遂げようとしている最後のこと(エクソダス)についてであった」と説明がついています。

 ペテロが三人のために小屋を作るといっているうちに輝く雲がお弟子たちを覆い、雲の中から神様の声がしたので、お弟子たちは恐れおののきつつひれふしていると主イエスが「恐れることはない」といって彼らを起こしました。弟子たちが顔をあげて見ると、主イエスひとりのほかはだれも見えなかったといいます。今日はこの箇所より三つの事を共に考えてみましょう。

 

【メッセージのポイント】

 1)、1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。 (1~2節)

⇒ 日常性を蹴る。

  一節に「高い山に登られた」とあります。まずわたしたちはこの聖句に注意してみましょう。

  先程も少し触れましたが、主イエスはこれからのエルサレムでの十字架の出来事にむかって行くことが、果たして正しいことなのかどうかを深く悟りたくて、数人のお弟子と共に、山に登られたのでしょう。

 わたしたちに、この小さな聖句は大切なことを語っています。すなわち、「日常性を蹴れ!」ということです。日常性のなかでわたしたちは生活せざるを得ません。しかし、時にはわたしたちは、日常性すなわち、この世的な生き方を忘れて、神様に直面することがとても大事であろうと思います。

  日曜日に主の前に出でて、礼拝を捧げるということはある意味で日常性を蹴ることです。また、毎日の生活のなかで、祈りの時を持つことは、神の前に出て自分自身を見つめることになります。

  セザンヌという画家は完成が間近になると、ひと筆加えるのに一時間ぐらいかかったといいます。

 日常性を決定的に蹴ることを余儀なくされた方々にハンセン氏病の方々を見ることができるでしょう。彼らは日常性から病のために締め出され、ただ神様と直面せざるをえない中に生きています。以前、ある姉妹からハンセン病患者の女性の信仰生活を綴った証しを頂いて感動のなかで読んだことがあります。井戸の底からは真昼でも星が見えるように、彼らはこの世の深い闇を越えて、主イエスの光をはっきりと見ています。わたしどもも、永遠の世界の中から自分の生活を見る習慣を身につけましょう。

 2)、3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、」

⇒ 旧約聖書の成就としての主イエスを見上げよう。    (3~5節)

  モーセとエリヤが主イエスのそばに現われて話をしていたというのは、深い信仰告白であると思います。これは主イエスの十字架のあがないは、モーセの最終的にめざしたものであり、また、エリヤのめざしたものであるとの信仰告白です。すなわち、律法と預言者(旧約聖書)は主イエスにおける罪と死の解決に最終的な結論があることをここで語っています。ルカ九章では彼らが語っていた内容は「イエスがエルサレムで遂げようとする最後についてであった」説明が加えられています。「最後のこと」と訳された語は「エクソダス」という語で「脱出」「出エジプト」を意味する語です。人類の新しい「脱出」の道が主イエスのゴルゴタの十字架から始まったことが告白されています。

  そして、さらに、輝く雲の中から響く神様に声で、主イエスの十字架のあがないこそ神ご自身の深い御旨であることが確認されました。

聖書の最も重要な聖句、ロマ3:21~26でも同じようにパウロによって福音が語られています。 「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによって証しされてあらわされた」律法と預言者とに証しされて現われた福音はまさに山上の変貌の出来事と同じ構造を持っています。

3)、5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せ

た。7 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。8 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。(5~7節)   

⇒ これはわたしの愛する子、これに聞け!

ペテロが、「小屋を三つ建てましょう!」などと感激の中で口走り、まだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。旧約聖書を読みますと、神の臨在は「輝く雲に」被われた中に示され、そこから神御自身が語られたと記されています。弟子たちは輝く雲の中に、神御自身の臨在を覚えて非常に恐れ、顔を地に伏せた。その時「これはわたしの愛する子。これに聞け!」。これは、はじめの頃に記したように、16章16節のペテロの信仰告白、「あなたこそ生ける神の子、キリストです!」という告白に対する、神様からの承認の言葉です。つまり、これから起こる「十字架と復活」の出来事の中に、神御自身の救いの計画の完成が宣言されていることになります。そして雲が晴れたとき、モーセとエリヤは去っており、イエスだけ!がおられたと言います。「ONLY JEJUS!」というメッセージがここにあります。信仰生涯は最終的には「主イエスのほかはだれも見えざりき」という聖句に行かねばならないと思います。そして、主イエスと共に行く身は、すべての問題、困難にも勝ち得てあまりある恵みの生涯であるということです。ハレルヤ。

  私自身も自分の信仰生涯を考えてみますと、主に深く取り扱われた時は、苦しみや試練の中で日常性を蹴って、主の御前に出た時でした。最初に行った浜名湖のバイブルキャンプで主イエス様の十字架を受け入れました。美術系大学をめざして絵を描き続けているとき、献身の招きを受けました。詩篇108編を通して主はわたしの魂に語りかけてくださいました。ホーリネスの群の聖会、愛知県民の森の聖会等、忘れられない「臨在の聖会」がたくさんあります。もちろんいつもの「主日礼拝」「聖研祈祷会」「早天祈祷会」も、日常性を蹴り、臨在の主にお会いする、「栄光の時」ですね。ハレルヤ

【祈祷】 栄光の主よ!山上の変貌の記事を感謝します。この世の多忙さの中に埋没しやすいわたしたちですが、日常性を蹴り、高い山に登り、あなたの臨在に触れ、主イエス様の輝く栄光のお顔を拝し、御言葉を握って、勝利の生涯に導かれますように。この夏、わたしたちの生涯を栄光から栄光ヘと、あなたと同じ姿に導いて下さい。新宿の地から、救われる者を起こし、リパイバルの業を行って下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン