主日礼拝説教「教会を造り上げ言葉を言葉を」Ⅰコリント14:1~5島隆三牧師

説教  「教会を造り上げる愛の言葉を」

聖書   Ⅰコリント14:1~5

説教者  島 隆三 牧師(東京聖書学校・神学教師)  

 今日の説教には、前置きが必要です。7月最終の日曜日は30日でしたが、その2,3日前に深谷先生からお電話が入りました。他の要件もありましたが、実は今日の礼拝のことです。思いがけないことになり、大変困っているとのこと、そこで、私も自分の状況を述べた。それは7月29日、30日と西川口教会アシュラムが開かれ、金田佐久子牧師から私が助言者になるように命じられている。30日の礼拝はアシュラムの最後の充満の時を兼ねて、助言者が説教することになっていると話したら、「その説教を、新宿西でもやってください」と上手に説得された。本当は、御教会から招かれたら、説教を準備するのが当然だが、間もなく30日の週報に予告するので、聖書と説教題をと言われて、考える余裕もなく、先生の言われるままにお答えしたのが今日の説教です。この素敵な題は、金田牧師がアシュラムの主題として決められたもので、私はこんな素敵な文学的な説教題はつけない。聖書箇所も、アシュラムの静聴のときに皆でじっくり聞いた御言葉(第一コリント12~14章)です。

   そういう訳で、何か借り物で説教するような後ろめたさがないわけではないが、お許しください。一言祈りましょう。

祈り。(広島に原爆投与された記念日)

 今朝は、14章の初めのところをお読み願ったが、14章全体は使徒パウロが預言と異言の問題を扱っている。12章に記されてあるように、預言も異言も聖霊の賜物で、教会に与えられている賜物だ。すべての人が預言や異言を語った訳ではないが、個々の信者を成長させ、また、教会を成長させるために大事な賜物だった。(コリントの教会には、預言と異言を語る人が多かったらしい)

(新約の預言と異言の違いについて)

 この14章のキーワードは「造り上げる」という言葉、ギリシャ語でオイコドメオー、もともと建築の用語で、家を建てるとか、土台を据えるという意味で、そこから「徳を建てる、高める、人間を成長させる」という意味が派生した。

 3節に、「(預言する者は)人を造り上げ、励まし、慰めます」とあり、個人を造り上げ、励まし、慰めるとともに、4節では「預言する者は教会を造り上げます」とある通り、個人だけではなく、教会を造り上げることの大切さをパウロは語っている。教会では、信徒の一人ひとりが造り上げられることが大切であり、それは言うまでもないが、それとともに教会が造り上げられていくことがもっと大切であるということです。

 クリスチャンアシュラムを始められたスタンレー・ジョーンズの名言に、「私から始まらないキリスト教は始まらないが、私で終わるキリスト教はお終いだ」。まさにその通りです。聖書は、私など、どうでも良いとは決して言わない。主イエスがかけがえのない者として選んでくださった「私」です。この私から始まらなければ、キリストの救いも何もありません。しかし、それは私だけが目標(目的)ではなく、そこで終わってしまったらお終いなのです。神は絶えず、共同体の形成を目指している。これは聖書に一貫しているから、旧新約聖書に親しんでおられる方はすぐわかる。私達の場合、共同体はキリストにある共同体、すなわち、教会です。だから、初めは「私」にしか関心がなかったとしても、教会に連なる間に、自然に共同体意識に目覚め、「教会を造り上げる」ことの大切さに誰しも目覚めるはずだ。では何が教会を造り上げるか、です。

 教会という場合、言うまでもなく建物ではありません(我々も簡単に「教会に行ってくる」と言い、世間の人は「あそこに◯◯教会がある」などと言う。)。それは教会堂のことを教会と言っているが、本当は違う。では教会とは何ですか。教会とは私達、皆さん一人一人、パウロは12章で、「一つの体、多くの部分」ということを体と手や足、目、耳に譬えて、巧みに語っている。有名なパウロの教会論です。

 しかし、今朝、私はあえて建物である教会の話からいたします。教会は建物ではありませんが、建物はどうでも良いとは言っていない。私の老牧師であった更生教会の安倍豊造師は、教会堂の大切さをよく語っておられた。日本のような異教社会において、「建物が伝道する」というのです。そして、中野の更生教会の場合、前大戦で会堂を消失し、新しい会堂を建てねばならなくなったとき、苦心惨憺して妙正寺川という小川の河川敷(湿地帯)を安い値段で買い求めて、そこに小さな白い会堂を建てた(1949年)。戦後の荒廃した世の中で、夢のような可愛い会堂だった。地域の人々は、小川のほとりに何が出来るのだろうと興味津々で、写真を取りに来たと聞いた。そして、その小さな教会堂が大いに用いられた。(だんだん、拡張されて、ノアの箱舟をイメージした会堂)

 わたしたちが伝道師として更生教会に招かれたのは1969年だったから、もう最初の会堂建設から20年が過ぎ、雨漏りが酷くて、礼拝中でも強い雨が降ってくると、バケツや雑巾を置かねばならない始末。そこで、幼稚園もやっていたのだから、新会堂の建設は焦眉の課題で、私は安倍先生と主任牧師を交代したとき、教会創立50周年(1979年)に新会堂を建てようと皆さんに訴えて、皆で献金に励み、会堂建設の具体的な計画が進められていった。

 ところが、その計画が暗礁に乗り上げた。志木教会に1級建築士の兄弟がおり、その兄弟に会堂と園舎の設計を依頼した。そして、教会員には、どんな会堂を建てたいか、アンケートを取ったりして進めていったが、教会員からの要望が色々あり(青年会、婦人会、壮年会、聖歌隊、教会学校、幼稚園・・・)それぞれが希望を出す、敷地と予算は限られているから、それらの希望をどこまで実現できるか、設計者も随分苦労したが、役員会に建築士の兄弟も陪席してもらって話し合いを持った。ところが、ある役員会で、教会の中心的な役員と建築士との間で意見が衝突して、「それなら私は設計を下ろさせていただきます」と突然辞任された。計画がストップしてしまった。最後は、牧師の責任です。牧師の不手際で、教会全体をまとめることが出来なかった。私もまだ30代半ばでいかにも未熟であった。随分苦しみました。

 その時、私の大きな力となり、励ましとなったのは、教会の古くからの3人の役員の兄弟たち(棚井、堀内、三井)。もちろん、他にも支えてくれた兄姉は何人もあったが、その3人の役員の兄弟たちのことは忘れることが出来ない。多くを語るわけではないが、若い私を全面的に信頼して、支えてくれた。「どうぞ、先生の信ずるままになさってください。私達は先生を支え、ついていきますから」この一言は、若い未熟な牧師を励まし、立たせる十分な力があった。

 「教会を造り上げる愛の言葉を」ということは、具体的にはそういうことではないか。何も立派なことを言う必要はない。心から心配して言ってくれる一言、その心が伝わります。ここにある「愛」は、アガペーの愛で、13章にある通りだ。

「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、・・・」と15の特質をパウロは挙げている。これらの愛の言葉が、本当に人を励まし。立ち上がらせる。今は、私の例で申し上げたが、決して、牧師だけではなく、教会員同士で、また、牧師と教会員の間に愛と信頼があるときに、その何気ない一言が、相手を生かし、教会を生かすのだ。

もちろん、預言は、ただ、人を励まし、慰めるばかりではない。24節を見てください。預言の言葉は、人に「非を悟らせ」「罪を指摘し」「心のうちに隠していたことが明るみに出され」結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と言い表して、神に栄光を帰する、それが聖霊の賜物である預言の力です。24節は、「皆が預言しているところへ」とあるように、だれか特別な人が預言を語るのでなく、教会の皆が預言をすることが出来たら、どんなに幸いでしょうか。だから、14:1では「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と勧められている。14章は、預言と異言に絞って、パウロは語っているが、言葉の大切さ、その重みということを、改めて教えられる。

 

6月13日に敬愛する絵鳩彰牧師が天に召された。師の追悼文をホ誌に載せることになり、私にお鉢が回ってきた。実は、師が献身して聖書学校に入学した頃、私は西川口教会の牧師で、絵鳩師は、日曜派遣生として、西川口教会で奉仕された。さらに、卒業後事情があって3年間、信徒伝道者として協力していただいた。特にCSに使命感を持って、よく奉仕された。さて、追悼文に何を書くか、心に浮かんだのは、私と近しい交わりがあった数年間で、彼が誰かの悪口を言ったり、他人を批判するのを聞いたことがないということ。本当に他人の悪口を言わない人でした。それは彼の性格でもあり、長年のお役所仕事で身についたことかもしれないが、しかし、あそこまで悪口や批判をしないことは、並の人間にできることではなく、あそこまで徹すれば偉いものです。それは、聖霊の賜物と言って良いのではないか。

最後に、もう1箇所、パウロが教会について語っている大事なところ、エフェソ4:11以下を読みます。

12節「キリストの体を造り上げてゆき(オイコドメオー)」・・・特に16節「キリストにより、体全体は・・・」「体を成長させ、自らは愛によって造り上げられて(オイコドメオー)ゆくのです。」

 

祈り。