新宿西教会オープンチャーチ第二週礼拝説教「神が与える希望」ローマ5:1~5 福田理絵神学生

 

 いつも東京聖書学校や神学生を覚えて祈り支えて下さりありがとうございます。今日、このようにして新宿西教会の皆さまと共にみ言葉を分かち合う機会が与えられますことを心から感謝いたします。神学生の説教で聞き苦しい所があるかと思いますがご容赦ください。

 「神が与える希望」と題しましてお話させて頂きます。

神が与える希望

  • 神との平和

神が与えてくださる希望とは一つ目は神との平和です。今こそ平和が必要な時代です。

平和とは争いがないこと、生命の危機を感じることなく安心して暮らせることです。

私たちの心はどうでしょうか?平和があるでしょうか。安心しているでしょうか。

多くの人に囲まれていても、沢山お金を稼いでも、家庭に争いや、心に苦しみや問題を抱えていたら平和だとは言えません。また、今、「平和」だと思ってもその平和が永遠に続く保証はありません。そのような私たちに神は平和の道を、イエス・キリストを通して与えて下さいました。

1節に「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神に対して平和を得ている。」とあります。

私たちはかつて神を知らないで生きてきました。それは、つまり神と関係なく自分中心に生きてき、神との間に平和がなかったのです。

神との平和がない私たちは、平安がないので自分の力や努力で正しくなろう、義となろうとします。昔、ユダヤ人は律法を守ることが救いだと考え懸命に行いました。しかし、ユダヤ人はイエス・キリストが来た時に自分たちを正しいとし、主イエスを拒絶し、猛烈な妬みと怒りにかられ何の罪もないキリストを十字架につけてしまいました。律法を守ることでは、内に潜む火のような罪を消すことはできないのです。

このように人間は自分の力では神の義に到達することも、人の罪どころか自分の罪も取り除くことはできないのです。

そのような、罪の前に無力な私たちのために、神は平和の架け橋として、ご自分の御子であるイエス・キリストを地上に送って下さいました。

このキリストが私たちの罪、つまり自分を神として生きてしまう高慢さや自己中心、神を信じきれない不信仰、人を許せない、愛せない心、苦々しい心、妬みや憤る心、そのような私たちの罪のために身代わりになって死んで下さったのです。

このキリストを信じる者は、善行や自分の努力によらず、神の恵みによって与えられた神を信じる信仰によって義、つまり正しいとされ、神との平和な関係へと導かれるのです。

平和な関係とは国と国との平和条約がそうであるよう、神があなたの全ての面で後ろ盾となり、共に戦い、あなたの人生の保証人となって下さるということです。

神との平和な関係があってこそ、私たちはあらゆる状況、困難な時代においても平安を保つことが出来るのです。

私たちは、キリストによって義とされ、神との平和な関係が与えられ、神が私たちの人生の後ろ盾となって下さっていることを改めて覚え感謝したいと思います。

  • 真の希望に生きる

次に、神が与える希望は朽ちない希望です。

人間が持つ希望は必ずそうなるという保証はありません。朽ちない断ち切れない希望は神が与える希望です。

3,4節で「艱難をも喜んでいます。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。」 と語られています。

私たちの人生には苦難と言える、私たちが悩み苦しむ試練や問題、病などがあります。キリストを信じたから苦難はないということはありません。また、希望が絶対にかなうというわけでもありません。「艱難は忍耐を忍耐は練達を」とあります。この「練達」とは物事に深く通じ、達人の域であること、火で精錬された金が合格した状態を指します。

主を信じ、主により頼み、苦しみや困難を忍耐持って乗り越えた者は達人の域のような火を通しても朽ちない金のような練達した信仰が与えられるということです。

そして、この練達が希望を生むというのです。

「希望」というと、青少年の特権のような、または空に浮かんでいるフワフワとした漠然としたもののように私たちは感じそうですが実は違うようです。練達を通して朽ちることのない真の希望が生まれるのです。では、練達の先にある希望とはどのようなものでしょうか。5節に「この希望は失望に終わることがない」とあります。

他の訳では「欺かない」「恥をかかせない」とあります。

「神が与える希望は私たちを欺かない、失望で終わらせない」と言われるのです。

私たちには、何があっても神が支えて下さっているという安心感と希望があるのです。

  • 最後に、最高の希望とは

2節で「神の栄光に預かる希望を喜んでいる」とローマ書の著者パウロが語っているように「御国において神と顔を会わせ、神からの栄光を受ける」ことだと言えます。

パウロはこの世の栄誉ではなく、神からの称賛、栄化され、神に似た者とされることを求め、、そこに希望を置きました。パウロは迫害の中、神の言葉を異邦人に伝え、牢獄の中から手紙を書いて人々や教会を教え、励まし支えました。そして、最後を迎え、地上の栄光ではなく、神からの栄誉と栄光を受け取りました。

御国で神と顔を会わせる時に私たちは栄光の体となり、悲しみも、病も苦し

みもない神への賛美で満ちた御国で神と共に永遠に住むという大きな希望と喜びが待っているのです。

私たちはこのように主とお会いすることをゴールとする時に、今生かされている時を、一日一日をより大切に神の前に備え準備し、希望に溢れて生きるようになるのです。

信仰によって義とされ、神との平和が与えられた私たちは、神が与える朽ちない確かな希望を持ってゴールまでしっかりと歩んで行きたいと願います。

5,6節に「この希望は失望に終わることがないのです。なぜなら聖霊によって私たちの心に神の愛が注がれているからです。」 とあります。 

私達の人生にはこれからも問題、試練はあるかもしれません。しかし、心を強くしたいと願います。神が与えて下さる希望は失望で終わることがないからです。主イエスが十字架で死んで三日後に復活されたように神の与える希望は失望で終わることがないのです。

なぜなら、神の愛が聖霊によって今も私達の心に溢れるほどに注がれているからです。神の愛が私たちの希望の保証となるのです。

この溢れるほどの神の愛のゆえに私たちは、希望に満ちて今をそして将来を力強く歩むことが出来るのです。

【祈り】 愛する天のお父様、今朝の神学校日礼拝を感謝いたします。

私たちは信仰によって義とされ、神との平和な関係が与えられ、あなたからの朽ちない希望、永遠の希望が与えられていることを感謝いたします。この溢れるほどの恵みにしっかりと立って揺るがされることなく希望をもってこれからも歩み行く者とならせてください。

「希望は失望に終わることがありません。神が与えて下さった聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

神の愛が私たちの希望の保証となって下さっていることを感謝いたします。今日、新宿西教会に集われましたお一人お一人に主の豊かな希望と恵みがありますよう、今週1週間もこれからもありますよう祝福をお祈りいたします。   アーメン