新宿西教会オープンチャーチ第三週礼拝説教「神様からのラブレター」マタイ4:4 小林則義牧師

 

 

今日は3つのお話をします。最初は「握手」という私のトラクトに書かれていたお話です。

私は握手について恥ずかしい思い出があります。中学2年生の時でした。ある女の子と握手をしたのです。その子は可愛い女の子でした。髪は三つ編みで、みんなからとても好かれていました。どうして握手をしたのか理由は忘れてしまいました。ドキドキしながらその女の子の手を握りました。

ところが、手を握ったとたん私はびっくりしました。女の子の手が何とごわごわだったのです。ゾウの皮のような手をしていたのです。

何故?どうして?頭の中が一瞬混乱しました。私はショックを引きずりながら気の置けない友人に相談してみました。

「どうしてあの子はあんな手をしているのだ?」

しばらくして、その理由が分かりました。その女の子はよく家でお母さんのお手伝いをしていたのです。だから、手がごわごわだったのです。

それからは、私はその女の子を好きだというより、むしろ尊敬するようになりました。女の子はもう大人の手をしていたのです。

最近、私は自分の手を見て、自分の手もやっとあの女の子のような大人の手になったのだなと思いました。手は変わっていきます。手は成長していきます。まず自分のことは自分でするようになります。次に働く手、人のために役立つ手になっていきます。そして最後には育てる手、愛する手、祈る手へと変えられていきます。

カルバリの丘の十字架上の主イエスに目をやると、主イエスの手が釘づけられているのが分かります。その手から血潮が流れています。それは、私たちの過ち、罪、孤独、心の傷を背負うためでした。私は、この手によって愛され、この手によって癒されたのだと思うと同時に、私の手もこの主の手の代わりをさせていただきたいと願わずにはいられなくなりました。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」(Ⅰヨハネ3章16節)

 私たちは本当の愛に触れなければなりません。偽りや裏切りのない本当の愛に触れなければなりません。

「たしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」(Ⅰヨハネ3章10~12節)

聖書は十字架上に愛があると言っています。わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」と言っています。神様は御子をこの地上に送ってくださいました。このイエス・キリストが十字架上で死んでくださいました。それは私たちの罪のためでした。

みなさん、聖書は神様からのラブレターです。それは本当の愛に満ちています。

高校時代、私は電車通学をしていました。あるとき、ひとりの小柄な女子高生が私の前に立っていました。私は気にも留めず、お気に入りの本を読んでいましたが、彼女は突然、私に白いものを差し出し、電車が止まると同時に、逃げるように降りて行きました。それは紛れもないラブレターでした。

私が彼女と交際していた、ちょうどその時、私は通学の車中で旺文社文庫の「新約聖書」を読んでいました。たまたま兄が持っていたこの本をもらい、通学の車中で読んでいました。しかし「新約聖書」を読んでもよく分かりません。でも何かためになることが書いてないかと思って我慢して読んでいくと一箇所だけ惹かれることばがありました。そこに赤線を引いておき、それで読むのをやめにしてしまいました。

その後、この「新約聖書」から彼女のラブレターより強烈なラブレターを受け取るとは思いもしませんでした。

 それは私が大学の受験勉強をしていた時のことです。何年か社会人生活を送った後、やはり勉強しなくては、勉強したいというという思いに駆られ、会社を退職して受験勉強をしていた時のことです。私は、食事、トイレ、お風呂以外全ての時間を勉強に当てました。一日に十数時間勉強したでしょうか。でも、とうとう勉強が続かなくなり、力尽きてしまったのです。頼れるものが何もかもなくなり、自分がガタガタと崩れていくのがわかりました。学力ない、お金ない、頼れる人ない、本当に目の前が真っ暗になり、もう駄目だと思いました。

自分の部屋で悶々としていると、あることばが思い出されました。それは高校時代に車中で読んだあの「新約聖書」のことばでした。それは闇の中から光を帯びてくるように私に迫ってきました。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」    (マタイ4章4節)

愛に満ちた諭しのことばでした。私は全く新しくされ立ち上がることが出来たのです。大学に入ることより大切な人生の意味と目的を教えられたのです。こんな強烈なラブレターは他にあるでしょうか

 聖書は神様からのラブレターです。それは私たちに人生の意味と目的を教えてくれます。

私たちの人生は、病気になるとか、事故に巻き込まれるとか、突然失業してしまうとか、思いがけない出来事が起こります。そういう時、私たちはどういう態度を取ればよいのでしょうか?

牧師にとって思いがけない出来事、それは、お元気だった信徒の方が突然天に召されるということです。私が群馬の渋川教会に赴任して3か月が過ぎた時、突然、ある姉妹が天に召されました。それは、まさに青天の霹靂でした。姉妹はお体が不自由でしたが、1週間前の礼拝には元気に出席されていたのです。お連れ合いの兄弟から夜中の午前3時頃お電話をいただきました。何はともかく、祈りました。そして葬儀の流れを確認しました。そして役員の方に連絡をし、朝、ご自宅に向かったと思います。次の日はもう前夜式でした。当時、教会には冷房設備がなく7月の蒸し暑い中での前夜式でした。マイクも故障で使えず、司式をすべて肉声で行ったことを覚えています。何とか、前夜式、そして次の日の告別式を執り行うことができました。

 聖書は、私たちに「成長するように」と促しています。「成長するために」私たちは何をすればよいのでしょうか?私たちは、まず、何はともかく、祈りましょう。聖書を読みましょう。それは「成長するための」第一歩です。

「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入(い)るようになるためである」(Ⅰペテロ2章2節)

神様が私たちを成長させてくださるのです。聖書は神様からのラブレターです。ラブレターは私たちを成長させてくださるのです。

それでは、みなさん、突然の出来事の最大のものは何でしょうか?それは私たちが天に召されることです。この地上の生涯を終えることです。

 私は今年の4月、重篤な肺炎を患いました。1か月の闘病生活でした。胸が苦しく、呼吸困難になり、夜は眠れませんでした。病院に入院する時「もう家には帰れない」「天に召されるかもしれない」と思いました。その時ヨブ記のことばが与えられました。

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ1章21節)

 体の激しい痛みはあったのですが、何故か心は落ち着いていました。私は、クリスチャンは死に直面しても死を恐れないと聞いていました。イエス・キリストが十字架の死と復活を通して、罪と死に打ち勝ち、永遠のいのちを与えてくださったと信じていました。この時、私は「天に召されるかもしれない」という思いの中でも平安があることに、救いの確かさを強く思わされました。

「生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」(ピリピ1章21節)

「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」(ローマ14章8節)

 このパウロの心境がよく分かりました。もはや生と死の境目はない。生と死が続いている心境です。もう天の御国にいるという心境です。

しかし、病院での治療は厳しく、余りにも辛いので大声で泣いたこともありました。祈っても「神様!」「神様!」と叫ぶだけでした。後のことばが出てこないのです。

入院して2週間目でしょうか。何と激しい痛みが治まってきたのです。はじめてぐっすり眠れました。その時「あ~神様と祈れる方を知っていてよかったな~」と思いました。それからは神様からのラブレターのラッシュです。次々と聖書のみことばが与えられました。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」詩編23編4節)

この時、私はいやされるという確信を与えられました。入院して思わされたこと、それは、神様からのラブレターは救いの確信を与えてくれるということです。