新宿西教会主日礼拝説教「救いをもたらす光」使徒13:44~52 深谷美歌子牧師 2026年2月22日

 1月の使徒行伝13:38-43の礼拝説教では、恵みにとどまるようにとパウロ達が付いてきた人々に勧めたところを学びました。礼拝は命です。御言葉を悟らせてくださいと祈って(みことばを)いただいてください。引き続き神の恵みにとどまる秘訣です。

できれば早天祈禱会で、御言葉を頂いて下さい。木曜日は聖書研究祈り会をしています。御言葉を頂いた後で、皆様のお分かちを頂くと恵みが倍増します。恵みにとどまり続けましょう。とお勧めしました。

本日は、1週間後、再びパウロ達が語ってくれるというので、町中の人々が多く集まってきたという個所から学びます。

【聖書箇所の概説】

44-46、50節 パウロの話を、全市をあげて聞きに来た時、ユダヤ人は妬みに燃えて迫害した。

47-49、51節 パウロたち異邦人への宣教への決断。

52節  弟子となった人々は、喜びと聖霊に満たされていた。

【メッセージのポイント】

  • ねたみは祝福を見失わせた。

44 次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。45 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。

50 ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた。               44-45・50節

 一週間前、パウロ達が突然会堂に訪ねて来て、イエス様が約束のメシヤであったと語った時、ユダヤ人も好意的に聞いたようでした。付いてきた人々は、大勢のユダヤ人と、信心深い改宗者とありますね。 

あまりの感動に、次の週もこれと同じ話をしてくれるようにとしきりに願ったのでした。

ところがその週の間に、よほどこの感動が伝わったのでしょう、全市をあげて、神の言葉を聞きに人々が集まってきたのでした。

するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。50 ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた。となったのでした。理由は、ユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思いとあります。

自分たちはこつこつと神に仕えてきた律法を守って。

信心深い貴婦人については前回学びましたが、当時の男性が倫理的に横暴なのに対して、ユダヤ教が清潔な教えを守っているので帰依する貴婦人がいたのでしょうと見ましたように、彼女達もユダヤ教の教えを守って来たでしょう。ところが、パウロ達が、「イエス様が全ての罪を負ってくださった。信じる者は皆救われる」。と語った時、今まで会堂に来たことも無く、律法も守っていなかった群衆が押し寄せてきて、会堂がいっぱいになってしまったのでした。

 ねたむというのは「他人の幸せや、長所をうらみ、憎らしく思う」ことです。聖書では、ガラテヤ書 5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。とあります。ねたむというのは信仰の働きではなく、自分が中心にいたい、肉の思いですね。

 先週頂いた、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、39 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。38-39節という恵みをいただいて、ここにとどまるように、と語られたことを無にしてしまったものでした。

主のもたらした恵みの命をいただくために、自分がねたみとか、肉の思いに捕らわれていないか吟味しましょう。

2)パウロ達、全ての民への光であることを確信

口46 パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。

47 主はわたしたちに、こう命じておられる、/『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。イザヤ49:6の引用48 異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。49 こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。 51 ふたりは、彼らに向けて足のちりを払い落して、イコニオムへ行った。        46―49、51節

 多くのユダヤ人がせっかくの福音を無にして、口ぎたなく反対した、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた。とき、パウロ達は、イザヤが預言した、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためということが、今自分達の使命となったのだと確信して立ち上がりました。そしてこの福音を聞いて永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。のでした。

 この言葉は、永遠の命にあずかるように定められていた者がもう決定されて定まっているように思えますね。尾山礼二先生の文章を紹介します。「永遠のいのちに定められている人たち」という言葉を何か宿命論に解すべきではありません。永遠の神は、時間の中におられるのではありません。神がわたしたちを「永遠の昔のことではなく、過去も、現在も将来もない永遠の今なのです。わたしたちのほうから言えば、今、定められていると言ってもいいわけです。・・・神は、今わたしたちがとる態度によって、わたしたちの運命を決めてくださると言ってもいいのです。ですから、聞かされたとき、信じたら、救いにいれられるのです。

 パウロ達は、使命を確信した時、大胆に福音を語りました。その時、迫害の中にも関わらず、受け入れる人々が起こされ、こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。のでした。

3)喜びと聖霊に満たされ、光となる

52 弟子たちは、ますます喜びと聖霊とに満たされていた。 52節

 今イザヤの預言した地の果てまで救いをもたらすものとされた。とパウロが確信して宣べ伝えた結果、異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。49 こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。ことを見てきました。その結果の人々の姿が52節です。パウロから聞かされてイエス様がもたらした命に生かされた人々は弟子となっています。

イエス様が復活後、40日にわたって弟子たちにあらわれ、昇天される時、マタ28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよと言い残されました。イエス様が地上におられた時の弟子たちは、使徒と呼ばれて一番に伝道者になりました。しかしイエス様のご命令はすべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよでした。そしてこの時パウロたちから伝えられてイエス様の命を頂いた人々もみな弟子になったのでした。それで、パウロ達がいなくなっても主の御言はこの地方全体にひろまって行った。のでした。

 彼らが「光となって」語っていたのです。その姿がますます喜びと聖霊とに満たされていたとあります。先のガラテヤ書は、肉の働きが書かれていました。そのあとには、5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制であって・・と、肉の命から、イエス様の命を頂いた者の姿があります。聖霊様に心の王座を開け渡すとき、解放されて、喜び生きるものとされます。それが光の姿です。

 一テサ5:16 いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。19 御霊を消してはいけない。これがクリスチャンのスタンダードな姿です。これが命令形だと教えられて、見えるところ喜べない、感謝できないと思う時も「感謝します」と生きるようにしています。確かにヨハ 16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。とありますが、祈っても直ぐ答えられないときもあります。

小さな証し 先週は北支区の総会の出席者が出ていないと支区書記から電話があり、とりあえず議員はお知らせしました。しかし、議員資料が送られてるはずなのに、見た覚えがないのです。事務所はもとより、深谷の部屋、美歌子の部屋、パソコンのあたりと探しましたがありません。でも「感謝します」と祈りました。3,4日見つけることのできない間も、感謝して祈っていました。金曜日に、今年は会場で渡すことにしたのだと知らされました。そうだったのかと、感謝しました。

大きな証し 川村兄の姿。ヨブのすがた。

祈り 神様、イエス様を信じた者に罪の赦しと永遠の命が与えられる福音を、自分も受け取ったと証言しながら語ったパウロでした。ユダヤ人の迫害にあって、追い出されたとき、自分は、全世界に出て行って光を伝えるものとされたと自覚して伝えました。その伝えに応答した人々も弟子となり、聖霊様に満たされ喜びに満ち光となって伝えた時、福音が広まっていきました。この街にもあなたの命を必要としている人々が大勢います。真の喜びに生きる方が次々と起こされ光とされますように。御名によってアーメン

新宿西教会主日礼拝説教「無尽蔵の富」エペソ3:7~12 深谷春男牧師 2026年2月15日

 エペソ人への手紙は、「パウロの神学の冠」とか「新約聖書の冠」と呼ばれると解説をしてまいりましたが、今日の聖書箇所などを見ると実にそのように思われます。パウロはここでは、「キリストの無尽蔵の富」と表現しています。去る2月11日の「第57回の城北アシュラム」の主題も、「内住のキリスト・栄光の希望」という題で、持たれました。わたしも助言者として、同題でメッセージをさせていただきました。特に、昨年の4月16日に天に召された横山義孝先生を偲ぶメッセージで、98歳6ヶ月の長寿を全うされた聖霊充満の横山先生の「遺言」と語られたコロサイ1:27から語り、恵まれた時となりました。市川市の「山崎製パン」のクリエイション・センターでの集会で、約64名の方々の参加で、素晴らしい時でした。

【今日の聖書箇所の概略と区分】

 さて、今日与えられている聖書箇所は、エペソ人への手紙の中心的な内容のひとつで、「無尽蔵の富」とか「秘められた計画」とか「奥義」とか言われております。パウロは神様から示されて、聖書の指し示す大事な内容をここで語ります。ここでの中心は「異邦人の救い」ということと「教会」ということです。しかし、ここにはキリスト信仰の中心的な内容が語られています。

1、異邦人が救われること  1- 9節

2、神の計画を示す教会  10-12節

  これが今回の内容です。

【メッセージのポイント】

1こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロ―― 2

わたしがあなたがたのために神から賜わった恵みの務について、あなたがたはたしかに聞いたであろう。3すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。

(1-3節)     

⇒ 信仰の奥義が、わたしに啓示された

ここでパウロは率直に語ります。「3 初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました」と。

「秘められた計画」がわたしに啓示されたというのです。啓示というのは、隠れているものが明らかにされることです。ちょうど、モーターショーなどで新車発表のときなど、布が掛けられてあるのを、はげしい音楽と共に「これが新しいモデルです!」と興奮した声で紹介されるようなものです。神様は、パウロに、その「世界救済の計画」を示されたというのです。

わたしたちも教会に来て、多くのことを学びます。その中でも神様の語られる、「秘められた計画」、(これはムステーリオンという言葉でここから英語のミステリーという言葉が出ました。)これは口語訳聖書では「信仰の奥義」と訳されております。神様の奥まったところにある「この世界の救済の計画」「神の奥義の世界」の開示がここで始まるのです。長い人類の歴史の中で、神ご自身の「救済計画」とはいったいどういうことなのでしょう。わたしどもクリスチャンは神ご自身の心の奥でお持ちになっている福音の奥義をしっかりと理解してゆくことはとても大切なことです。

それでは、パウロに示された人生の最大の奥義、神ご自身の御思いの「奥義」「秘められた計画」とはいったい何なのでしょうか?

それは、パウロがこのエフェソ書で書いていることです。

  • 父なる神の、天地創造と歴史経綸の教え。
  • 子なるキリストの、和解の業。十字架と復活。
  • 聖霊なる神の、救いの完成の業。聖霊の助けによって人は救われる。
  • この救いが、今や、世界中の人々に与えられるということ。
  • それが、教会を通して語られるということです。

 信仰は聖書を言葉を聞くことから始まります。ですから、まず聖書の言葉を聞かねばなりません。今日の言葉で言うならば、わたしたちは神様の用意された、教会の最高の奥座敷で神の言葉を聞くことなのです。そこで、初めてわたしたちは神の救いの「秘められた計画」を悟ることができるのです。

クリスマスにはいろんな方々が教会に来られました。その中の一人、東條進さんが今入門コースをして、主イエスを心に迎え、新しい出発をしようとしています。秘められた神の奥義が、良くわかりますように祈りましょう。

森山諭先生がよく言われましたが、聖霊様に助けられ、魂に「光が入る」と、聖書の創世記から黙示録までが、地下道を通じて全部つながって、その内容がわかるのです。新しい年に向けて、この福音の本質をしっかり握って歩みましょう。

2)4あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。5この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。6それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。7わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。8すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、9更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。(4-9節)

⇒ 異邦人の救いの道を語る!

最初の箇所で語りましたが、聖書の福音は、父なる神、子なる、聖霊なる神様の三位一体の神様の救いを知ることと、その中心となる十字架の救いの中心をしっかりと理解し、体験することです。そしてそれはユダヤ人だけの救いではなく、「異邦人の救い」、すなわち、「全人類の救い」という、神様のご計画を知ることとなりました。救いの奥義は、主イエスの救いを信じ、そして救いを受けることでありますが、それが、全人類に及ぶということです。すなわち、「異邦人の救い」ということです。自分が救われると、そのことがよくわかるのです。

「5 この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」とパウロは5節で語ります。全世界の人々が救われる計画は聖霊によって、使徒たちによって語られる者となりました。さらに6節では「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」と語り、異邦人が神の救済の約束に預かることが語られます。そしてパウロは自分が「神の恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださった」と神様に感謝を捧げています。彼は深くへりくだって、「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに」それが与えられました、と感謝を捧げています。そして、自分の使命は説教の中で、「わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、9 すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。」と語ります。

皆さん、霊の目が開かれ、全世界の人々が主の救いの中に招かれ、新しい人生に招かれていることを知りましょう。ハレルヤ

やがて全世界的にリバイバルが起こるのです。

3)10それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、11わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。12この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。(10~12節)

⇒ 教会にあって、確信をもって、大胆に神に近づく!

そして、パウロは、神のご計画を指し示す教会の存在の大切さを語ります。これは大切なことです。もともとこのエフェソ信徒への手紙は、「教会論」が中心であるといわれます。コロサイ信徒への手紙もよく似ていますがそちらは「キリスト論」が中心になっています。

ですから、10節で 「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになった」と語ります。教会に来て、わたしたちは聖書のメッセージを聞きます。そしてそれは11節で「これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。12 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と語ります。キリストへの信仰により、大胆に神に近づくことができると語っています。最後は13節で 「だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」という言葉を最後に語ります。 

どのような試練があっても信仰者は主イエスと共に、また多くの教会の兄弟姉妹に支えられて、勝利の中に歩むのです。

新年は教会生活を整え、確信ある生涯、大胆に信仰の道を歩む、すばらしい一年といたしましょう!

【祈り】全能の父なる神様。今日は、「神様の秘められた計画」「信仰の奥義」を学びました。どうぞ霊の目を開いて、神様のご計画がはっきりとわかりますように導いてください。神様の創造から始まり、人間の罪を十字架と復活において解決し、聖霊によってそれを明らかにし、ついに、全世界の救いに到る恵みの計画を心にしっかり焼き付けてください。そしてそれが、教会を通して語られることをおぼえて、わたしどもの歩みを導いてください。教会のかしらなる主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会主日礼拝説教「ヨーロッパに春が来た!」使徒16:25~34 深谷春男牧師 2026年2月8日

                                          

神様はこの地上に命を送る際に、夫婦、そして家族という単位で、愛をもって育てるようにと、不思議な計画をされました。さてわたし達は1978年5月3日、結婚式をあげました。その時、司式の小出忍先生が「天国を見たければ愛し合う家族を見なさい。地獄を見たければ憎しみ合う夫婦を見なさい」というマルチン・ルターの言葉を語って下さいました。わたしは地獄のメッセージで結婚生活を始めました。あれから約48年の年月が経ちました。

【聖書個所の概説】

さて、今日の聖書箇所、使徒行伝16章はキリスト教の歴史の中では記念すべき章です。なぜなら、福音が初めてヨーロッパに渡った記録が載っているからです。パウロは最初、アジアの方に伝道に行こうと計画したようですが、聖霊なる神はそれを許しませんでした。パウロはアジアの果て、トロアスまで導かれ、そこで、マケドニア人の幻を見て、ヘレスポント海峡を渡って、ギリシャの北部・マケドニアからその宣教を始め、ピリピの町に福音を伝えました。ピリピの町はアレクサンダー大王の父親フィリップス2世の名前をとってそう名付けられましたが、その前はクレニデス(春、泉)と町の名前でした。ヨーロッパの最初の宣教の町がピリピであったということは大変、象徴的です。この町は、きれいな春の花がそこかしこに咲き、いたるところに泉がわく町だったそうです。今、春と呼ばれたピリピの町に福音の春がやってきました。偶像礼拝と道徳的混沌と憎しみの冬の世界が去り、キリストの愛と命と赦しの福音の春がやってきました。ヨーロッパの二千年に及ぶキリスト教の歴史はここに始まります。しかも、ここには聖書の信仰の三大特徴が記されています。それは二千年の教会の信仰の姿勢に思えてなりません。

【メッセージのポイント】

1)25 真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。 (25節)

⇒ 試練の時こそ、主に祈り、賛美せよ!            まず第一に、「真夜中の祈りと賛美と」という言葉に注目しましょう。この聖句はわたしどもクリスチャンへの永遠の模範であります。

パウロとシラスは真夜中に賛美しておりました。そこはピリピの牢獄です。真っ暗な世界で、彼らは静かに賛美を始めたのです。前の部分を読むと、彼らは何も悪いことをしたわけではない、哀れな占いの悪霊につかれた奴隷の少女を助けたために、鞭打たれ、牢獄に入れられたのでした。背中はムチで打たれてズタズタに皮膚は裂け、血だらけで、はれあがり、寝ることもできなかったのであろうと思います。彼らはその苦しみのさなかに、賛美をはじめました。このできごとはキリスト教の歴史の縮図です。教会は迫害の中で、苦しみの中で、暗やみの支配のまっただ中で、祈り、賛美し、勝利していったのです。

 試練は不思議なものです。ある方が「試練は、恵みの仮面だ」と言いました。試練を通過すると、人は本当は変わってゆくのです。試練を越えて讃美する!これは神への摂理信仰に立つときにできるのことなのですね。「摂理」のことを英語で「プロビデンス」と言いますが、ラテン語の「プロ・ビデオ(前を見る)」からきています。わたしたちは目の前に10円玉にさえぎられると、前にあるものが見えないのです。目の前の試練を越えてもっと先を見るのです。神の歴史支配、不思議な神様の御計画を見るのです。そして、その恵みのお方を賛美するのです。

ある米国の大学で教えておられる韓国のクリスチャン医師が、赤羽で持たれたある半徹夜集会で言われました。「人間の体には一日に4千個のがん細胞が発生している。笑い、感謝すると、1回で約200個のNK細胞が発生してがん細胞を食い尽くす。フラグメンチンという酵素の働きです。」一日20回は神を讃美し、感謝せよ。「喜び、祈り、感謝せよ!」。これはクリスチャン人生の三面鏡です。

試練の時こそ、「神に祈り、讃美せよ!」です。アーメン

 

2)25 真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。(26節)。

⇒ 御業は突然!起こる。祈れ!祈りは奇跡の導火線。

第二に「突然」と言う言葉に注意してみましょう。パウロとシラスが祈りと賛美をしていると、「突然!」、大地震が起こりました。牢の土台が揺れ動き、牢の戸が開いてしまいました。そして、囚人の鎖も外れてしまいました。これはわたしどもに、主の御業は突然、起こることを告げています。神への祈りと賛美は奇跡的な力を持つのです。大いなる逆転が起こりました。それも「突然」起こったと聖書は伝えます。ちょうど、ダイナマイト爆発のように「突然」(!)爆発は起こるのです。

使徒行伝にはよく「突然」という語が使用されます。ペンテコステの時(2:2)、パウロの回心の時(9:3)、ペテロの脱出の時(12:7)、そしてこのピリピの牢獄で(16:26)。重要な出来事の描写のときには、著者はそれが「突然!」起こったと告げます。

しかし、実際に聖書を読むとその突然の出来事の背後に、必ず、祈りがあったことが分かります。2章では弟子たちの10日間の祈りがありました。9章の背後にはアナニヤたちの祈りがありました。12章のペテロの脱出の時にも教会の篤い祈りが、そして今日の16章、フィリピの牢獄でも、パウロとシラスの祈りと賛美がありました。祈りと賛美はやがて起こる大いなる業のための導火線のようなものです。導火線に火がついているとある時、突然、爆発が起こるのです!賛美は恐ろしい獄の門も、鉄の鎖をも解き放つのです。

わたしの場合、28年の祈りの中で、ようやく母が88歳で洗礼の恵みに預かりました。田舎で、母に洗礼を授けてから車を運転して帰ってきたのですが、途中で涙が止まらなくなってしまいました。また、昨年4月にすぐ上の兄が80歳で洗礼を受けました。涙が流れます!ハレルヤ

また、赤羽教会の会堂建築の時も皆で「主よ、必要を満たしてください!」と祈っておりました。皆の祈りが主に届いた時、40年前に洗礼を受けた方が「これをお使いください!」と多額のものを捧げてくださいました。祈りと賛美は、ダイナマイトの導火線です。皆さん、祈ってゆきましょう!奇跡は起こるのです。

3)31 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」 (31節)

⇒ あなたもあなたの家族も救わはれる!    

教会は家庭を大切にしてきました。信仰の継承はいつの時代でも最大の課題です。モニカの熱き祈りによって巨人アウグスチヌスが生まれ、信仰の家庭ウェスレー家からイギリスを変えたジョンとチャールズが出ました。個人の変革は家庭の変革へとつながります。31、32、33、34節と4回も連続して「家族」という語がでてきます。家族一同が「救われ」「御言葉を聞き」「バプテスマを受け」「皆でよろこんだ」のです。 家族の救い!これは最大の問題の一つです。家族のため祈りましょう。兄弟団の毛戸健治先生のお証しを紹介します。

奈良に住む「愛さん」はある時に毛戸牧師に尋ねました。「先生、御

言葉に例外はありますか?」 牧師は一瞬たじろいだが「姉妹、ないと私は信じますが?」「実は先生、わたしの家族はわたしが毎日祈っていても聞いてくれないんです!使徒行伝16:31の聖句は、我家では例外なのではないでしょうか?」「姉妹ね、祈り続けなさい。目が黒いうちか白くなってからかは分からないが、祈りは聞かれますよ」。「目が黒いうちか・・? 目が白くなってからか・・・・?なるほど。解りました。先生、信じながら、祈り続けます。」それからしばらくして、ある親族の結婚式の花嫁入場の直前、愛さんは倒れてしまいました。帯をきつく巻きすぎたというのです。彼女はそのまま病院に運ばれましたが、召されてしまいました。翌日は前夜式。その時に、毛戸先生が説教で愛さんの祈りに触れると家族は泣き出して、前夜式は伝道会のようになりました。ご主人と子供さん方はこのときに主イエスを受け入れ救われたそうです。皆さん、信仰を持って、愛のうちに、祈り続けましょう。

ある教会でこの話をしたら、すごい信仰を持っている御夫人がおりました。「世界中の人が救われてもうちの主人だけは無理でしょう・・」。

ある韓国の女性はご主人の救いのために早天祈祷会でいつも祈りました。でも救われません。彼女はついにご主人の靴を持って早天祈祷会で祈ったそうです。「主よ、主人の靴だけ持って来ました。本人もいつか来れますように!」。ある朝、主人は靴がないので、不思議に思って奥様をあとをつけていったら彼女が自分のため涙を流して祈っているのに感動し、「ほら、靴の本体が来たよ」と言い、救いを受けたというのです。皆さん、来週からはご主人の靴をもって礼拝に来ましょう!! 

わたしの愛唱聖句は次の三つで、早天祈祷会でも良く祈ります。

「主イエスを信じなさい。あなたも家族も救われます」使16: 31

「わが家と我は主に仕えん」ヨシュア24:15     

「千代に至る祝福」出エジプト20:6

家庭が危機に瀕しています。真っ暗闇の試練の中でも、信仰をもって祈り、賛美し、奇跡を期待しましょう。御業は突然起こる!ハレルヤ

【祈り】天の父なる神様。主にあるすばらしいお交わりを感謝します。わたしどもは、真夜中にあなたを賛美します。あなたの御業は突然起こることを信じて賛美し祈ります。どうぞ、わたしどもの愛する家族、親族に救いの業を来たらしてください。御名によって祈ります。アーメン。

新宿西教会主日礼拝説教「神の恩寵の充満」ー神の全知・臨在・全能ー 詩篇139篇 深谷春男牧師 2026年2月1日

                                          

今年は、不思議な神様の恵みのうちに、新年の1月を導かれました。

アドベント特別礼拝、「新しい契約に生きる」エレミヤ31:31

元旦は、「喜びにあふれた一年を!」1テサロニケ5:16~18

4日は、「平安・将来・希望を与える計画:エレミヤ29:11.

11日は、「恵みをもて年の冠とせり」「神の川に水満ちたり」詩篇65篇

18日は、「恵みにとどまれ」 使徒行伝13:43

25日は、「恵みの再出発」ヨナ3:1~4:3

祈祷会は。「7つの雷」詩篇29篇

そして、今日は「網の恩寵の充満」詩篇139篇と恵みの連続でした。

【本詩の概略と内容区分】 詩篇139篇は「知恵の詩」に分類されます。神の創造と摂理の不思議を歌い上げた、恵みあふれる詩です。フランシスコ会注解では、「旧約聖書の中で最も優雅な詩篇」と呼んでいます。またこの詩は「詩篇の冠」とも評すべきもので、旧約聖書中で最も優れた詩の一つであると絶賛しています。また、榊原康雄は、新聖書注解で、「本編は詩篇が前提し、歌い上げる神と人との人格的関係と親密感とを、最も美しく歌い上げた傑作である」と語っています。全体の内容は次のように区分できます。

  1ー 6節  全知なる神   すべてを知りたもう神

  7ー12節  臨在なる神   どこにでもおられる神    

 13ー18節  全能なる神   神の創造と守りの素晴らしさ

 19ー24節  神への祈り  悪への憎しみ 悪しき道から永遠の道へ

ある方がこの詩篇139篇は、ユダヤの哲学者、マルチン・ブーバーの「我と汝」に象徴される人格的な神との交わりを示唆していると語ります。

【メッセージのポイント】

1)、1 主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。3 あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。4 わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。(1―4節)。

   ⇒ 主なる神は全知の御方である!

  ここで詩人は、「すわる」「立つ」「歩く」「伏す」という表現で、人間のするあらゆる行動をさし示しています。1-4節では「神の全知」が強調されます。わたしどもは、自分のすべてを知っておられる方がいたら、行動しにくいのではないでしょうか。しかし、神様は愛のゆえにわたしたちに関心を持ってくださいます。それは例えて言えば「母の愛」のような愛ゆえの関心です。本郷中央教会の牧師であった武藤健先生の説教集に「知られたる我」というのがあります。自分の人生を信仰の目をもって振り返れば、全ては神様の奇跡的な恵みです。

2)、7 わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。8 わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。9 わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、10 あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。11 「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、12 あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。(7―12節)      

 ⇒ 主なる神は臨在される御方である!

 神の摂理のみ手は不思議で、わたしが逃げていったところでも神が招いておれる事となります。たとえ、わたしたちの意志が神様に反抗しても、最後は神のみ手の中にあることとなります。これは不思議な神の歴史支配、主の御恩寵によるところの摂理の信仰です。

 ここでは詩人は、「どこに行けば神様から逃れることができるのだろうか?」と問うています。彼は5つの世界を語っています。 「①天ですか? 天国はまさに神様のおられるところです。②陰府ですか?陰府の世界に身を横たえようともあなたはそこにおられます。③東の果てですか?太陽のような、曙の翼を駆って東の果てにまで行っても、④地中海の果て。スペインのような世界。何とあなたのみ手はそこでわたしを招いておられるではありませんか。⑤ああ、それでは暗闇はどうだろう?真っ暗闇の只中にいれば神から逃れることはできるのだろうか?でも、考えてみれば、人間の暗闇もあなたには通用しない。暗闇でもよく見える赤外線のめがねのように、わたしの姿は丸見えです。考えてみれば、永遠の光におられる神様にとって、夜も昼のように輝き、闇も光も変わることがありません。」との結論です。

 新幹線の中では進む方向に座っても、眠っていても、目的地に着きます。

 旧約の傑作、「ヨセフ物語」はこの摂理の深みを教えてくださいます。ヨセフを憎んだお兄さんたちは、ヨセフをエジプトの奴隷に売ったのに、主はヨセフと共にいて彼の生涯を祝福し、総理大臣として立てて、飢饉で民族絶滅の危機に瀕するイスラエルの民を救うことになりました。「あなた方は悪をたくらんだが、神はこれを善に変えた」(創世50:20)とヨセフは兄たちに語ります。 先週、学んだ「ヨナの物語」も同じような主題を持っています。主への反抗を示すヨナは、陰府の腹なる「大魚に呑まれ」、神様のご計画に降参して、結局はみ旨に従います。大いなるリバイバルの御業でした。。

11ー12節でも語ります。闇に隠れても、神の目から隠れることはできない。神には闇も暗くはなく、夜も昼のように輝く。神にとって闇も光も異なることはない。長谷川保著の自叙伝「夜も昼のように輝く」にも同じ信仰が告白されています。長谷川先生は、身の置き場のない結核患者と共に寝起きして共に歩み、聖隷事業団を作られました。「神、共にいませば、まっ暗闇の試練の中でも、恵みの光を得る」と証ししておられます。

3)、14 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日の/まだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。17 神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。18 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。(14-18節)

  ⇒ 主なる神は恐るべき、全能の御方である!

 14節からは神の全能の力が語られます。神様は「恐るべく、くすしきお方」です。詩人はここで自分の命のことを語ります。神様の全能の力、神秘の力の中でいのちを受け、お母さんの胎内で織り成されます。そして、わたしどもの人生は神の恵みの書物の中に、豊かに計画なされたと言うのです。神様の「御計らい(=ご計画)」は、何と貴いことでしょう。は改めて驚いています。そして18節の言葉は、直訳では「わたしが目覚めるとき、なお、わたしはあなたと共に(います)」です。昔からここにはわたしどもの人生の全てが歌われていると言われてきました。  生命の授与 ⇒ 母親の胎内での成長 ⇒ 地上での恵みの人生 ⇒ そして永遠の命への目覚め、復活(18節)の時を示す  と言うのです。文語訳や口語訳では18節に「わたしが目覚める時」と訳します。神の恐るべき、くすしき力、神の全能性は「人間の創造」に現れています。人間の心臓はこぶし大の圧力ポンプですが、毎日、10万Kmの血管に輸送し続けています。  1日で、8トン(ドラム缶40本分)の血液を送っているといわれます。1日10万回もの鼓動を繰り返しています。肺は、その壁を広げると表面積はテニスコートの広さになると言われます。 一人の人間の血管を毛細血管まですべてつなぐと地球を一回りすると言われます。また、最近の遺伝子の研究によると、人間の60兆の細胞からDNAの紐をつないで伸ばしてゆくと、一人の人間分で、太陽系の半径、つまり太陽から冥王星の距離になると言われます。実に、人間は小宇宙といわれますが、この体の中に宇宙の広がりを持つのです。

4)21 主よ、わたしはあなたを憎む者を憎み、あなたに逆らって起り立つ者を/いとうではありませんか。22 わたしは全く彼らを憎み、彼らをわたしの敵と思います。23 神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを/知ってください。24 わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。

⇒ 悪しき道から祝福の道へ                 (21-24節)

 この詩は、激しい罪への憎しみをもって締めくくりとします。わたしどもの生涯は、「神に近づくほど、罪から遠ざかり、また、罪と汚れは、わたしたちを聖書、祈り、教会から遠ざける」と言われています。特に、24節の「御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください」と言う祈りはわたしどもの心すべき祈りです。「迷いの道」は「デレク・オーツェーブ」ということば。もともとの言葉の意味は「痛みの道」です。「偶像の道」とも訳されています。罪を憎み、神の恵みを慕って歩んでゆきましょう!

【祈り】詩篇139篇を感謝!あなたこそ、全知、臨在、全能なる、創造と摂理(=歴史支配の力)をもたれるお方です。主よ、あなたに絶対的な信頼をもって歩ませてください。あなたにある生涯は、夜も暗闇も、昼のように光のように輝く人生です。主にあってどのような困難をも乗り越えて、天空を翔る鷲のような勝利の生涯を、歩ませてください。偶像礼拝、殺人、姦淫、嘘と決別し、恩寵充満の祝福の道へと導きたまえ!御名によって。アーメン

新宿西教会主日礼拝説教「恵みの再出発」ーヨナの場合ー 西川穂伝道師 2026年1月25日

ヨナ1節には、「主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った」、 とあります。

ヨナは、北イスラエル王国の預言者で、ナザレ出身のイエス様と同じ、ガリラヤ地方の出身です。紀元前722年、北イスラエル王国は、アッシリアに滅ぼされました。ヨナは、その北イスラエル王国の預言者です。当時、アッシシリアが行った残虐な行いは歴史上の国々の中でも群を抜いていたといいます。やがて、ニネベは、アッシリアの首都となり(紀元前705年)、世界第一の都市となりました。

2節主から、「あの大きな町ニネベに行き」、とヨナは命じられます。ヨナは、「主の前を離れて」(1:3)、二ネベとは反対のタルシシ、今日のスペイン、当時の「世界の果て」と思われていた場所ですが、タルシシ行きの船に乗って逃げます。 

ヨナはタルシシまで行けば、神様の眼差しは届かないであろうと思ったのです。

パウロは、イスパニア、即ち、スペインに行って異邦人を伝道しようと思いまし

た。主の命令に反抗したヨナとパウロとでは大違いです。1章4節では、ヨナの不従順のゆえに主が起こされた大きい嵐により、船が沈没しそうになります。船員は、嵐の原因であるヨナを海に投げ入れ、そんなヨナを救ったのは、神様が備えられた魚でした(1:17)。その魚によって飲み込まれたヨナは、三日三晩、その魚の中にいて悔い改めと助けられた事を感謝する祈りへと導かれます(2章)。

【今日のメッセージポイント】

  • 第一に、裁きを思い直す神様 (ヨナ書3章1~2節)

、「主の言葉が再びヨナに臨んで言った」、 、「大きな町ニネベに行き」

ヨナは主の命令どおり、今度は、直ちにニネベに向かって行きました。    

1節にある、「再び」という言葉に込められた、「神様の恵み」に着目します。

タルシシへ逃れようとした、ヨナに「再び」、神様の召しがありました。

神様は、ヨナに最初の時の事をとがめずに、将来におけるヨナの可能性に期待しておられたのです。

カ22章32節、イエス様は、十字架につけられる前、ペテロがイエス様を三度裏切る事を既にご存知でした。「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とイエス様はペテロの為にとりなしのお祈りをして、再び

ペテロに宣教の使命を与えました。ペテロと同様に、神様は、ヨナが裏切る者であることを知っていながら、彼の立ち直る将来に期待し、使命を与えられたのです。私達には弱さがあるかも知れません。しかし、イエス様は、天の神様の傍らで私達の為にお祈りをしてくださっているのです。ヨナとペテロのように、私達が道を踏み外しても、神様は、そのご計画の中に、常に引き戻してくださるのです。

  • 第二に、民族を超えた、神のプロジェクト (ヨナ書3章3~10節)

4節、「ニネベは滅びる」。この短い言葉で、二ネベの人々は、神様を信じました。二ネベの人々は、自らの悲惨な状態を嘆き、悔い改めへと導かれるのです(3:7~9)。二ネベにいる王をはじめとする人々の悔い改めを見て、神様は、裁きを取り止めたのです(3:10)。「滅びる」には、「ひっくり返す」という意味があります。岩波訳では、同じ事柄を受け手の側から、「ひっくり返す」→「ひっくり返される」と訳しています。つまり、①悔い改めないで、「滅びる」という意味で、「ひっくりかえす」という否定的な意味と、②悔い改めて全てが新しくなるという肯定的な意味の「ひっくりかえす」という二重の意味があります。         

「ニネベは滅びるぞ、滅びるぞ!」とヨナは叫んで回ったつもりが、実際には、「二ネベは悔い改めるぞ、悔い改めるぞ!」という預言をしたのでした。ヨナとしては滅びを宣告しているつもりでいたのに、実際には、同じ言葉が否定的な意味と肯定的な意味との二つの意味をもっていたので、二ネベは滅びることなく、悔い改めの恵みを受けていたのです。詩編29編のように、御言葉は力と輝きをもって人々に響きます(詩29:4、新共同訳)。伝道では、福音を手渡す人と福音を受け取る人双方がそこで主と出会うのです。その時、キリストが輝くのです。

証) ある先生からの言葉が印象に残っています。それは説教では、とにかく、御言葉を繰り返し語りなさい。御言葉には力があり、御言葉に神様の御心が明らかになり、聖霊なる神様が御言葉と共に力強く働くからという言葉でした。

ヨナ書における、異邦人への開かれた神の愛は、ルツ記にも見られます。

ルツ記1:16、ルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」。  

ユダヤ人・ナオミが夫と二人の息子たちと共に、ユダからモアブに住みました。しかし、そこで夫と二人の息子たちも死に、息子たちがめとった、モアブ人の妻二人オルパとルツ、ナオミの三人だけが残されます。ナオミは、二人の嫁オルパ、 

ナオミと共に故郷ユダに戻ろうとし、途中で嫁二人を帰らせようとしました。

モアブ人・ルツは、ナオミに、「わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。」と言って離れませんでした。そして、ナオミはルツと二人でユダに帰りました

ルツは、危機の中、全部を捨て、まことの神様だけに命をかけて信じました。ここから出発するルツの生涯は、どのような生涯だったでしょうか?ルツの決断が、やがてボアズとの結婚に導かれ、オベデ、エッサイ、ダビデ王を通して救い主イエス様がお生まれになります。ダビデ、救い主の系図に入るという思いもよらなかった祝福を受けたのです。イエス様の家系にモアブ人・ルツがいる事は、福音の本質が差別や偏見を取り除くものである事を明らかにしています。

次のように、パウロは、ローマ書10章12~14節で書いています。「ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか」。ユダヤ人と異邦人が共に和解して、主を礼拝するという事は、初期の教会にとって重要な課題でした。

ローマ書10章では、 民族の壁を超え、主を共に礼拝し、「イエスは主です」と共に宣べ伝える伝道の大切さが書かれています。ヨナ、ルツの「開かれた神の愛」とローマ書の恵みによってのみ救われるとは相互に響き合っているのです。

その神様の偉大なプロジェクトは、私達の足元から少しずつ始まっております。

証)先月24日の祝会では、日本人の高校生と留学生たちが主を共に賛美しました。ある留学生はアルバイトの同僚を伝道し、ある留学生はルームメイトを連れてきました。日本人と留学生、社会人も共に主を賛美したのです。主を共に賛美し、伝道していくという神様のプロジェクトの一端を見るようで、感動しました。

  • 第三は、知的関心だけの祈りと命をかけた祈り (4章1~3節)

ヨナ書4章2節後半、ヨナは、主に、「なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。」と祈りますヨナは、命令を退けて反抗していました。しかし、神様は、ヨナに対しても思い直されたのでした。一番忍耐とあわれみを受けていたのはヨナ自身でした。神様を単に知識の対象として知るだけではなく、始めに神様を信じて、交わりをもって、神様が恵み深く、あわれみ深い神様であり、怒るのに遅く、災を思いかえされることを私達も知る必要があります。

ここで、私達は、自らに対して神様が本当に恵み深く、あわれみ深い神様であることを知っているのか、ということが問われているのだと思います。

4章3節、「それで主よ、どうぞ今私の命をとってください。私にとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」とヨナは怒ります。言葉は同じでも、ヨナの祈りとローマ書でパウロが覚悟をもって命を捨てる事を願った祈りとでは異なります。

ローマ書9章2、3節、すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」。とパウロは祈りました。

証)ドイツのルドルフ・ボーレン先生が牧師研修会で講演なさった時の話です。

品川の講演会の時に、「あなたがたが礼拝の講壇に立ったならば、そこに集まる会衆の為にいつでも命を捨てる覚悟で講壇に立ちなさい」と語ったそうです。

ボーレン先生が講演をした時、一人の若い牧師が、会衆のために命を捨てることができません、と語ったそうです。

その時、ボーレン先生は毅然とした態度で次のように答えたそうです。

この聖書の中にある、神の命は今日の時代までそれが脈々と流れ続けている。なぜ、神の命が流れてきたのかといえば、この聖書の御言葉に命をかけてきた人達がいたからである。

あなたが、もしそういうのであれば、あなたは、この『神の命の伝達者』となることは決してできません!」とボーレン先生は語ったそうです。

また、ロバート・キンローという先生も、「キリストの十字架と復活の福音は、あなたが伝えようと思うその人のために、自分の命を代わりにしてでも、この人に伝えたいという思いがなければ、伝わりようがない福音だ」という話をされたそうです。

主イエス様と交わって行く時、主と同じ心が与えられて、そして、愛する者の為に祈り、福音を伝えるその時、この尊い福音を手渡すことができる、と信じます。

私達の罪の為に滅びる事を望まれない、父なる神様が、独り子イエス・キリストを十字架につけて捧げる事により、神様は恵み深く、あわれみ深く、怒ること遅く、いつくしみが豊かである事がその十字架で明らかにされました(ヨナ書4:2)。証

【祈り】 神様は命がけで私達を救ってくださったのですから、私たちも、パウロのように、キリスト者として神様の愛にお答えし、「神の命の伝達者」として、御言葉を宣べ伝えるものでありたい、と思っています。