2024年3月31日(日)新宿西教会イースター礼拝説教「安かれ」ヨハネ福音者20:19~29 深谷美歌子牧師

 

 

イースターおめでとうございます!

教会の暦には、いくつかの記念すべき祝日がありますが、その中でもイースターは最も大事なすばらしい記念日です。この日の恵みを今日、皆様と共に頂き、立ち上がる時とされますように。

本日は復活の主に出会った弟子たちのこと。

一回目、そこに居合わせなかった弟子トマスが生かされた記事から学びます。

【聖書箇所の概観】

19-20節 弟子達に顕現されたイエス様が「安かれ」と語りかけられたこと。

21-23節 弟子達に傷を見せて証明し「安かれ、わたしが父から遣わされたようにあなた方を遣わす。」と語られたこと。

24-29節 トマスに特に臨まれ、トマスが確信を持つに至ったこと。

【メッセージ・ポイント】

1)恐れから平安へ

19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

 この日の朝は、女たちが墓に行き、復活の主に出会っています。その報告も聞いています。ですが、それは信じられない出来事だったのでしょう。彼らは、ユダヤ人を恐れて戸をしめていました。

 イエス様に従って来た弟子達は、主が十字架に附けられるとは思ってもいない出来事でした。何度もイエス様が十字架と復活を語っていても、エルサレムに上っていくときも、ぜんぜん解っていませんでした。マタイ20:20にゼベダイの息子の母が「王座におつきになる時、二人の息子を右と左につけてください」と願い出ています。他の弟子達もこの行為を聞いて、憤慨したとあり、大同小異だったことが解ります。ことにエルサレム入場の時は、子供も大人も棕櫚の葉を振ったり上着を道に敷いたりして、王様を迎える歓迎ぶりでした。弟子達は鼻高々でした。ところが一転してイエス様は十字架に付いて死んでしまわれたのでした。それで、従って来た弟子達は、今度は自分たちが主と同じ十字架に附けられるかもしれない、との恐れに捕らわれたのでしょう。息をひそめるようにして戸を閉めた部屋に集まっていました。

 今もこの世界には恐れが満ちています。地球温暖化、それに伴う火災や豪雨による災害、大型台風、いつ起こるとも知れない東海巨大地震、津波。能登の比ではありませんね。戦争、飢餓、家庭崩壊、それらを見ないようにして、今を楽しむとしても、経済や健康といったどうしようもないことが起こります。

 弟子達の恐れの中にイエス様が入って来て「安かれ」と言われたのでした。他の訳では「平和があるように」です。これは、14:27でわたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。と語られたことが成就したできごとでした。信仰者にも同じように恐れが臨みますが、その中に「安かれ」とイエス様が立たれたのでした。

  イエス様がもたらされた「安かれ」は、世の不安、恐れすべてを越えるものです。弟子達もイエス様に出会い、この「平安」を頂きました。

 婦人会連合の機関誌「教会婦人」の冒頭説教に栁沼赦羊子(さよこ)先生が、東日本大震災のその後のことを書いておらます。地域での活動、寄り添いもしていますが、「本当の慰めは、神を仰ぎ安心を得ることです。神以外に本当の慰めをあたえることはできません」。と書かれています。逆に言うとイエス様はどのような恐れに囲まれようとも、そこに平安をもたらすことがおできになるのです。主を見上げましょう。

わたしも長い事、自分(この世の価値)に捕らわれていました。伝道も性格が良くて頭が良い人が用いられるのではないか、などです。しかし、無条件で愛されていること、赦されている事、全てご存知の神様が共いて、ことをなさるのは神様、と気付かされた時、平安と喜びに満たされました。

2)聖霊を受けよ

21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。

22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

 復活のイエス様は「安かれ」と語られた後すぐに父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわすと語られました。その後すぐに「聖霊を受けよ」。と語られました。聖霊が求めて集まっていた全ての人に注がれたのは、使徒行伝の2章ですね。あの時から、弟子達は喜びにあふれて、隠れていた部屋の窓を開け放ち、使2:16 そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、17 『神がこう仰せになる。終りの時には、/わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、/若者たちは幻を見、/老人たちは夢を見るであろう。18 その時には、わたしの男女の僕たちにも/わたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。とある、このことですと語りだしたのでした。聖霊様が心に来てくださったとき、イエス様のことを大胆に語りはじめたのでした。

イエス様の平安は、聖霊様を心の王座に迎えるところから来ます。その喜びに満たされる時、「遣わす」と言われなくても語り始めるでしょう。

3)信じないトマス 

  25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

 26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。  25-27節

復活の最初の日曜日、トマスは皆と一緒にいませんでした。弟子たちにイエス様の顕現があったことは、大ニュースでした。「私たちは主を見た。」と勢い込んでトマスに語ったにちがいありません。「言う」と訳された言葉は、「繰り返して言い続ける」という表現だそうです。しかし聞いた段階ではトマスは信じられませんでした。そのことを「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言葉に出しました。正直であったのでしょう。11章16節では、ラザロが死にそうで、そこに「行く」と主が言われたとき、他の弟子たちは「殺されそうになったところにまたいくのですか?」と反対しました。しかしトマスは「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と言っています。きっとその時も、真直ぐな気持だったのでしょう。自分の気持ちをごまかさない、このトマスの発言は、現¥代に生きる私たちのためにも、復活のできごとが、事実はどうだったのかを知る手がかりとなるものです。ただ鵜呑みで信ずるのでなく、疑問は素直に表し、何が真実かを探求したトマスの発言は、後代の私達に確かさを与えてくれる手がかりになりました。

疑問は課題として持ちつつも、真実を求め続けてください。

4)見ないで信じて知った幸い  

28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。 29節

一週間後、トマスもいるときに、主は現れました。トマスは出会った弟子たちの言葉を疑いながらも、一緒にいたことが解ります。『疑問は課題として持ちつつも、求め続けてください。』と先に言いました。すぐに離れてしまわないでトマスを引き止めたのは、何度も語る弟子たちの確信に満ちた証言でした。

真実を求めていたトマスに、主が出会ってくださったのでした。28節にはトマスの信仰告白が記されています。彼はイエス様が現れ、彼の前に立たれたときに、その手の傷と脇の傷を見せて、「見なさい、触ってごらんなさい」との主の迫りを受けました。疑いようもない復活の主に出会い、臨在の前に膝まづき「わが主よ、わが神よ」と告白しました。

トマスはその時代に生きていて、主が直接出会ってくださいました。その後の時代の人々は、出会った人々の証言を聞いて信じるのです。「見ないで信じる人は幸い」と主は言われました。今日までの歴史を生きた人々は、マグダラのマリアが出会った記事、弟子達に聖霊様が来られた記事、トマスの出会いに至るまでの記事、それらを頼りに信じてきました。

ヨハネによる福音書が書かれた目的は、31節にあります。「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」 主と行動を共にしたヨハネがもう高齢になり、他の弟子たちも召されるようになってきた時、証言者の言葉を書き留めて、伝える必要を覚えて、書き記したにちがいありません。

こうして、ヨハネ福音書は1:1言(キリスト)は神であった」という聖句から説き起こしましたが、今この福音書を閉じるのにあたって「主イエスこそわが主、わが神!」との確信の聖句で終わるのです。

トマスが生ける主と出会って、生きはじめたように、聞くことから始まった私達の信仰も、人格的応答をもって聖霊様を心に迎えて歩み始めるとき「今主は生きておられる。わが内に居られる」と証言するものとされるでしょう。怒涛のような恐れに囲まれても主が立っておられる平安に生かされましょう!

祈り 恐れに囲まれた弟子達の真ん中に立ち「安かれ」「聖霊を受けよ」と語りかけてくださった、復活の主の出来事を聞きました。今も心を開き聖霊様を迎えるものに平安と喜びの命に生かされることを感謝いたします。この命を証言を聞いて頂く方が周りから起こされましょうに。主の御名によって。アーメン

2024年3月24日(日)新宿西教会主日礼拝説教「主イエスを心にお迎えしよう」マタイ福音者21:1~11 深谷春男牧師

 今日は教会の暦では「棕櫚の主日」という日になります。今日から始まる一週間を受難週と呼びます。3月28日が洗足の木曜日、29日が受難日、つまり、主イエスが十字架にかかられた聖金曜日となります。そして、31日の日曜日が復活の日を記念するイースターとなります。この受難週は、特に主イエスの十字架の苦難を偲び、その十字架の意味を深く心にとどめ、一足一足主イエスに従って歩みたいものです。今とくにこの受難週祈祷会は、毎日持たれ、しかも役員の愛兄姉による奨励があることで、楽しみですね。週報のプログラムを参照に毎朝10:30~11:30です。木曜日は午後5:00~6:00になりますが、皆様もぜひ、この祈祷会に出席され、示された受難週の聖書記事を読みながら、主イエス様の愛と救いを深く深く心に刻む時と致しましょう。

そのような意味で、棕櫚の主日の今日は、マタイ福音書から、主イエスのエルサレム入場の記事を共にお読みしたいと思います。

 

【今日の聖書の概説】

受難週の日曜日、主イエス様はロバの子に乗ってエルサレムに入城されました。それまでは、パレスチナ北方のガリラヤ湖の近辺で宣教活動をしてこられた主イエスが、今や、南方にある、神の都エルサレムへと入城されたのでした。人々のホザナの歓声が轟く中で、小さな子ロバに乗って入城されました。その行いは「王権主張」を意味しておりました。旧約聖書ゼカリヤ書9章9節にしたがってろばの子に乗って来られました。そこにはこのように記されています。

「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、

柔和な方で、ろばに乗り、

荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」

それは、柔和な、平和の王としての入城でした。群衆は感激して、棕櫚の枝を取り、「ホザナ」の歓声で、主イエスを迎えました。それを記念して、今日は「棕櫚の聖日」と呼ばれます。しかし、この金曜日には、主は十字架にかかられ、わたしどもの罪の身代わりとなって死なれ、3日目に復活されたました。

【メッセージのポイント】

1)4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。

5 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。(4、5節)。

  ⇒ 主イエスこそあなたの王!  

 このエルサレム入城の主題は、「主イエスの王権主張である」と言われます。神学生になったころ、このエルサレム入城の所を学んでいた時に、神学校の先生が「これはイエスさまの王権主張です」と語られた言葉が、不思議に心に残っています。「王権主張」などという言葉はそれまで聞いたことがなかったからかもしれません。ここで主イエス様は、王であることを主張されました。でも、弟子たちも驚いたのではないでしょうか?ご自分がメシアであることを人々に話してはならないと口止めされていた主イエス様が今は、王であることを主張されて、エルサレム、神の都に入って行かれるのです。これはいったいどういうことでしょうか?しかし、そこには深い、主のお考えがあったのです。 主イエス様は「あなたの王」です。神の国の王です。また、この世界のまことの王でもあるのです。この主イエスのエルサレム入城の背景はゼカリヤ書9章9節です。そこにはこう記されます。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

見よ、あなたの王が来る。

彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、

ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」。

  主イエスは「あなたの王」なのです。

そしてまた、主イエスは「平和の王」です。主は軍馬ではなくろばに乗られるのです。軍事的な指導者としてではなく、和解の使者として来たもう。和解そのものとして来られた方です。神と人との根本的な和解者として来られます。彼はそのため十字架にまでかかってわれらの罪を負われました。ちょうど先週の礼拝で西川神学生によって、ロマ3:21~26を学びましたが、主イエスは、苦難の僕となり、わたしどもの代わりに十字架を負い、わたしどもが義とされるために、彼は死にわたされたのでした。彼は王の王です。そのお方がわれらのために命を投げ出されたのです。

主イエス様を王として心に迎え入れるとき、わたしたちは、神と和解するのです。すなわち自分の内的な罪を主に告白し、罪を赦していただくからです。神と和解するとき、人は本来の自分に帰るのです。そして、赦された自分を知るときに、他者との関係も回復するのです。

今日、主イエスを心に、わたしたちの人生の中心に、王としてお迎えしましょう。「平和の王」「和解の王」「救いの君」として迎えるのです。ここからわたしたちの新しい人生が始まります。わたしたちの心に、平安と解放の喜びの花が、信仰の花が咲きます。永遠の命の光が差し込むのです。先週、西川神学生が説教で、「あなたの義は天にあり」とのジョン・バンヤンの言葉を紹介されました。これはすばらしい言葉です。天において主イエスの十字架は建てあげられた!地上の罪も死も一切を超え、天にて救い定まれり!ハレルヤ!

2)6 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、7 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(6、7節)

  ⇒ 主イエスはいと小さな者を選ばれる!        

 この箇所には主イエスのご性格がよく表れています。主イエスはご自分が王としてこの世界に来られることを明確に示すために、立派な名馬(赤兎馬のような)に、またがってご入城することもできたのでした。多くの人々はむしろそれを望んだのでしょう。しかし、何と主は「不恰好なろばに乗って」入ってこられたのであります。敵対者であるローマの兵隊たちはその滑稽さをあざ笑ったに相違ありません。「ろばにまたがるドンキホーテ、イスラエルの王!」と。しかし主は「世の無学な者を選び、世の無に等しい者、身分の卑しい者や、見下げられている者を選ばれた」(Ⅰコリ1:26)のでした。

人間は皆、弱さを持っています。ハワイで伝道している中野雄一郎先生に前の教会に何度か説教に来ていただきました。その時語られた説教の中で「傷なきは人材にあらず」(荻生徂徠)という言葉が語られました。これは深い言葉だとおもいます。伝道者パウロも「傷」を持っていました。彼は自分の「肉体のとげ」を取ってほしいと三度、主に祈ったと言います。そのとげが何であるかはわたしたちにはわかりません。目の病気であったとか、過去のクリスチャンを迫害した罪責感であるとか、癲癇であったとか、いろいろな説がありますが、はっきりは分かりません。

イスラエルの救国の王ダビデも、「自分はもっとも小さなものですが、主があえて選んでくださった」と感謝をささげています(Ⅱサム7章)。勇者ギデオンももっとも小さな自分を選んでくださったと告白しています。主は小さなもの、なきに等しいものをあえて選ばれるのです。「誇る者は主を誇れ!」

 昔、「みんなで歌おう」という名称だったでしょうか、1970年のころに日本風のゴスペルがはやった事がありました。その讃美集の中に、「ロバの子なんだかさびしい」という讃美がありました。スポーツ大会の後にギターに合わせて皆で歌いました。

 ロバの子なんだかさびしい・・・♪

 この頃 何だかかなしい・・・・♪

 お父さんロバは大きな荷物を背負って働いている。

 ろばの子の僕は ちいさな麦束一個、 何にもできない ちいろば・・・  

しかし、あるとき、イエス様が近寄ってきて、

わたしを運んで欲しいと言った。

ロバの子は驚いて、主イエス様をお乗せした。

ホザナの歓声とどろき 人々イエス様迎える  ♪

がんばれロバの子 イエス様 揺れてる    ♪

がんばれロバの子 よろよろするな・・・  ♪

当時、駆け出しの伝道師だったわたしは、讃美しながら、涙が流れてきたことを思い出します。わたし達は主イエス様をお乗せするロバの子なんですね。

3)3 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。(3節)。

  ⇒ 「主がお入り用なのです」と言いなさい!

 ろばの子を解いて、主が用いたもう時の合い言葉は「主がお入り用なのです」でした。こういえば持ち主も貸してくれるという事になっていました。その通りになったと記されています。主は救いをこの地上にもたらすために来られました。そしてあなたが、救われました。更に、主はこの世界に福音を満たそうとしておられます。「主がお入り用」との言葉は今、主が語っておられるみことばです。主はあなたを最高に用いたいのです。「あなたを!」です。そして主は言われる、「主がお入り用なのです」。

 人生の最終的な意味をわたしたちはここに見ることができます。神様はこの地上に救いをもたらすために、わたしたちに共働の恵みを与えてくださったのです。主は一人で十字架におかかりになって救いを成就されました。しかし、わたしたちの働く場をも提供していてくださり、「わたしは渇く!」と十字架上で語られた方なのです。大阪西野田教会の高橋順先生は、この言葉で献身を決意されました。21世紀、日本で、世界で霊的な枯渇現象が起きています。主はあなたの献身を待っておられ、主のみ身体なる教会を建て上げるのに「主があなたをお入り用」なのです。

【 祈り 】 天の父なる御神。受難週のこの朝、主イエス様のエルサレム入城の聖書箇所を共に読む事が出来て感謝します。あなたこそ「王の王、主の主」です。しかし、あなたが「いと小さなもの(チイロバ)」を選び、救いの業に参与させてくださいます。「主がお入り用」とのお声がかかった時には喜んであなたにこの身をお捧げします。あなたの御用のために用いてください。十字架の贖いの血潮のゆえに、功のないままに救い、聖霊なる神様の住まいとし、信仰と愛を満たして用いて下さい。この受難週、豊かな日々として下さい。わたしどもの贖い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

の僕は ちいさな麦束一個、 何にもできない ちいろば・・・

2024年3月17日(日)新宿西教会主日礼拝説教「イエスキリストの福音を信じるだけで救われる」ローマ人への手紙3:21~26西川穂神学生

 本日の聖書箇所は、ローマ人への手紙3章21~26節までを中心としています。この聖書箇所から、二つのポイントでメッセージをいたします。第一に、「イエス・キリストの福音の恵み」と第二に、「イエス・キリストの復活の恵み」という二つです。本日は、イエス様を信じて守られてきた感謝とイエス様を信じるだけで、本当に罪が赦されて救われて、感謝の生活を送り、天国に行ける素晴らしい世界があるという内容を、私の救いと両親の救いとの証を交えてメッセージをいたします。神様は、本当に真実なお方です。

【聖書箇所の概略】

23節 全ての人は罪人である。

24節 神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

25節 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物

とされた。それは神の義を示すためであった。

1)第一に、イエス・キリストの福音の恵みです。            

ローマ人への手紙3章24節には、「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」とございます。

イエス様が十字架で私の身代りに命をかけて死んで、三日目に復活してくださった、と信じる時、神様は救ってくださるのです。神様の愛をわかりやすく教えている聖書箇所が、ローマ人への手紙5章8節にございます。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。ここで、愛の神様が明らかにされております。私たちは、神様に敵対する罪人なのに、神様の憐れみで、キリストが十字架につけられることによって、神様と和解させていただいたのです。

神様は、ただ信じる者を救ってくださるのです。たとえ、どんな問題をもっていても、何か持っていなくても、信じる者を救うのです。この聖書には、どんな状況でも、どんなに小さくても、単純に信じる者を救う力がございます。

イエス様が十字架で私たちの身代りに命をかけてくださって死んで、三日目に復活してくださった、と信じる時、神様は、私たちの罪を赦してくださいます。

神様は、イエス様を十字架につけ、イエス様を通し、御自分が神様であることをあらわされ、イエス様を通して私たちをご覧になっております。ただ恵みにより、イエス・キリストにある贖いにより、イエス・キリストの福音を信じて救われた、私と両親の証をしたいと思います。

私の父は、植民地時代の台北市生まれで、早稲田大学で国際経済学を教えていました。ゼミ生には、台湾人の留学生が何人かいました。私の父は、スパルタ教育のように厳しかったので、私は、思いやり、いたわり、愛を分かち合う家庭になりたい、と切に思っていました。

1999年、父は、喉頭がんで死を覚悟する生活を病院で送っておりました。その頃、私は、父の教え子の台湾人の女性によって教会に導かれました。その後、2000年1月に私は、洗礼を受ける恵みにあずかりました。私の洗礼式には、その台湾人の女性と宣教師、そして、喉頭がんから癒された父が出席してくれました。父は手を挙げて神様を賛美していたので、私は、心から主イエス様への感謝と喜びで一杯でした。世界最高の幸せの日でした。私は救われて、その後、一歩ずつ、神学校入学へと導かれていきましたが、父と母が救われていませんでした。ですが、福音の種はまかれて、周囲の方がたに祈られてきましたので、2015年、家族が救われるという祈りの課題に愛と真実な神様が応えてくださいました。

2015年の夏ですが、私と父との間で、私も悪かったのですが、行き違いがあって、父が、私の大切なものを処分したということがありましたので、私は、悲しい思いをしました。

その時、父がイエス様を信じるように、神様に執り成しの祈りをしました。不思議な事ですが、神様が祈りに応えて下さり、翌日、父と行ったレストランで和解の時が与えられたのです。私は、尊敬と信頼を言葉で言い表しました。今まで育ててもらったことや父の配慮に対して、真心を持って父に感謝を言い表したのです。

その直後、イエス様は、私に、父へ伝道する機会を与えて下さいました。コリント人への第一の手紙15章3、4節の、「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」、という御言葉を私の後について、父も信仰告白して祈り、イエス様を信じました。私が、父に、「イエス様を信じる?」と尋ねると、「もちろん、信じるよ」、と父が笑顔で 答えました。その時に、父なる神様から伝道の書3章11節の、「神様のなされることは皆その時にかなって美しい。」という御言葉が私の心の奥深くに届きました。

父が言った、「もちろん、イエス様を信じるよ。」という言葉を神様が聞いた証拠でもありました。最高の時でした。ただ父は、イエス様の恵みによって救われたのです。イエス様が、私の罪のために十字架に架かって死んで下さり、三日目に死を打ち破り甦ってくださった、それにより、私たち一人ひとりに永遠の命を与えてくださった」と父はただ信じたのでした。イエス様を信じて祝福されたことにより、父と母に対する関係も祝福されていったのです。その後に、母もイエス様を信じて救われました。

2)第二に、イエス・キリストの復活の恵みです。

イエス様が命を与えたので(ローマ3:25)、私達はその復活の命に生きる喜びを味わうようになります(ローマ5:2)。ローマ人への手紙3章25節には、「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。」とございます。

ここに、私たちの信仰と感謝のみなもとである、イエス・キリストが描かれています。

イエス様は、父なる神様からも見捨てられ、無限大の恐怖を味わい、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」(詩篇22:1)と、私たちの為にお祈りされました。これから、よくなるから嘆いて、ハレルヤといって解決するのも神様の大きな祝福ですが、神様に嘆いて祈ることができるということ自体、神様への深い信仰のあらわれであり、大きな恵みであるといえます。嘆き、涙、呻き、痛み、どうしてですか、という神様に向かって祈る、そのような嘆きの祈りが、深い所ですべてイエス様の十字架につながっているというのは、なんと幸いなことでしょう。私たちは、暗闇に沈むような時でも、イエス様は、私たちの苦しみ、嘆き、重荷を全て背負って、イエス様のみ跡のあとへとついていくようにせてくださるのです。

そして、幸いなことは、私たちの大きな希望は、私たちの死後、天国に住むことがゆるされているという約束です。父がイエス様を信じた、2015年の大晦日、久しぶりに家族で夕食を共にして、その時、父が 笑顔で手を差し伸べて、「ありがとう」と言ってくれました。本当にあたたかい喜びが胸をよぎりました。

2016年に、クリスマスの特別集会を持った時ですが、ある説教者が伝道メッセージをされた最後に、招きをして下さいました。「神様に自分を捧げる人はいませんか」、と説教者は促して、私の父は招きに答え、そっと手を挙げて、再びイエス様に従う決心をしました。うしろから見ていましたが、私はとても感動しました。

2018年10月2日、父は、スペインで学会のような所に仕事で行ったのですが、そのスペインで父が急死したという連絡が私にありました。

その後、私は、スペインに渡り、スペインの遺体安置場で父の遺体を見て、私は、父が 平安そのものの顔しているのを見ました。イエス・キリストの福音によって救われて、本当に、父は、天のお父様の所にいったのであると実感しました。

今まで見たこのない、父のやすらかな顔は、父の救われた大きな証であり、今でも、私にとっては、大きな慰めとして受け止めております。

スペインの遺体安置場で、父の遺体を見ていた私は、父なる神様に次の様に祈りました。「イエス様、私にとって、父は、本当に、最高の父であったことを天国にいる、父に伝えてほしい」。と涙ながらに祈り、私にとって、最高の父を与えてくださった、愛なる神様に感謝を捧げました。父なる神様に祈った後、次のような希望の御言葉が何度も聴こえて私を支えました。それは、「あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます」 。言い換えるならば、「私の父は、きょう、イエス様と共にパラダイスにいます」。

父は、今や天国で、イエス様にしっかりと 受け止められているのが体験できて、涙が溢れて、愛の神様に感謝で一杯でした。

父が死ぬ前の僅か3年間でしたが、イエス様の十字架と復活によって父が救われ、母もイエス様を信じて、お互いが思いやりを持ち、そして、教会で礼拝を捧げる中で、父、母、私との間で感謝の実を結ぶという、真実なイエス様が共に生きている体験をしました。

先週、母と出会いました。金沢アシュラムのメンバーたちと、母のいる部屋で一緒に祈り合い、讃美歌『わが身の望みは』を賛美して、心を合わせてイエス様に母を委ねて、将来、イエス様が母をしっかりと受け止めてくださることを信じてお祈りいたしました。

信仰によって義とされるというのは、どんな状況であっても希望をもって生きていけるようになるということです。死の陰の谷を行くときも、最後は必ずイエス様に受け止めていただける、との約束だからです。私たちも、いつかこの体が死ぬ時を迎えます。しかし、その死は、もはや死んでそれで終わりではないのです。イエス様は死から復活への道を備えております。それがイエス・キリストを信じる道です。

イエス・キリストを信じると、生きるにも死ぬにも、わたしたちは、真実な救い主、イエス・キリストのものであるのです。愛する家族、友人が天国に呼ばれた時には、生きている時間だけではなく、死ぬにもイエス・キリストのものだ、本当にそうだ、と実感することができるのです。生きることと死ぬこと、その境界線をも超えてくださる、主イエス・キリストの大きな慰めの中に、今、私たちはこうして生きているのです。イエス様、そのイエス様を信じるだけで、本当に罪が赦されて、父なる神様に感謝をする生活を送り、天国に行ける、その唯一の希望である、イエス様を一人でも多くの人に、共にこれから宣べ伝えていきましょう。

【祈り】 父なる神様、生きるにも死ぬにも、私達は真実な救い主イエス・キリストのものである、本当にそうだと神様に感謝できる幸いを心より感謝を申し上げます。イエス様の十字架と復活の救い、希望を一人でも多くの人に宣べ伝えることができる様に導いて下さい。主イエス様の尊い御名によって祈ります。アーメン

2024年3月17日(日)新宿西教会主日礼拝説教「イエスキリストの福音を信じるだけで救われる」ローマ人への手紙3:21~26西川穂神学生

《新宿西礼拝説教》イエス・キリストの福音を信じるだけで救われる」 2024,3,17

ローマ3:21―26                     西川 穂

 本日の聖書箇所は、ローマ人への手紙3章21~26節までを中心としています。この聖書箇所から、二つのポイントでメッセージをいたします。第一に、「イエス・キリストの福音の恵み」と第二に、「イエス・キリストの復活の恵み」という二つです。本日は、イエス様を信じて守られてきた感謝とイエス様を信じるだけで、本当に罪が赦されて救われて、感謝の生活を送り、天国に行ける素晴らしい世界があるという内容を、私の救いと両親の救いとの証を交えてメッセージをいたします。神様は、本当に真実なお方です。

【聖書箇所の概略】

23節 全ての人は罪人である。

24節 神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

25節 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物

とされた。それは神の義を示すためであった。

1)第一に、イエス・キリストの福音の恵みです。            

ローマ人への手紙3章24節には、「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」とございます。

イエス様が十字架で私の身代りに命をかけて死んで、三日目に復活してくださった、と信じる時、神様は救ってくださるのです。神様の愛をわかりやすく教えている聖書箇所が、ローマ人への手紙5章8節にございます。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。ここで、愛の神様が明らかにされております。私たちは、神様に敵対する罪人なのに、神様の憐れみで、キリストが十字架につけられることによって、神様と和解させていただいたのです。

神様は、ただ信じる者を救ってくださるのです。たとえ、どんな問題をもっていても、何か持っていなくても、信じる者を救うのです。この聖書には、どんな状況でも、どんなに小さくても、単純に信じる者を救う力がございます。

イエス様が十字架で私たちの身代りに命をかけてくださって死んで、三日目に復活してくださった、と信じる時、神様は、私たちの罪を赦してくださいます。

神様は、イエス様を十字架につけ、イエス様を通し、御自分が神様であることをあらわされ、イエス様を通して私たちをご覧になっております。ただ恵みにより、イエス・キリストにある贖いにより、イエス・キリストの福音を信じて救われた、私と両親の証をしたいと思います。

私の父は、植民地時代の台北市生まれで、早稲田大学で国際経済学を教えていました。ゼミ生には、台湾人の留学生が何人かいました。私の父は、スパルタ教育のように厳しかったので、私は、思いやり、いたわり、愛を分かち合う家庭になりたい、と切に思っていました。

1999年、父は、喉頭がんで死を覚悟する生活を病院で送っておりました。その頃、私は、父の教え子の台湾人の女性によって教会に導かれました。その後、2000年1月に私は、洗礼を受ける恵みにあずかりました。私の洗礼式には、その台湾人の女性と宣教師、そして、喉頭がんから癒された父が出席してくれました。父は手を挙げて神様を賛美していたので、私は、心から主イエス様への感謝と喜びで一杯でした。世界最高の幸せの日でした。私は救われて、その後、一歩ずつ、神学校入学へと導かれていきましたが、父と母が救われていませんでした。ですが、福音の種はまかれて、周囲の方がたに祈られてきましたので、2015年、家族が救われるという祈りの課題に愛と真実な神様が応えてくださいました。

2015年の夏ですが、私と父との間で、私も悪かったのですが、行き違いがあって、父が、私の大切なものを処分したということがありましたので、私は、悲しい思いをしました。

その時、父がイエス様を信じるように、神様に執り成しの祈りをしました。不思議な事ですが、神様が祈りに応えて下さり、翌日、父と行ったレストランで和解の時が与えられたのです。私は、尊敬と信頼を言葉で言い表しました。今まで育ててもらったことや父の配慮に対して、真心を持って父に感謝を言い表したのです。

その直後、イエス様は、私に、父へ伝道する機会を与えて下さいました。コリント人への第一の手紙15章3、4節の、「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」、という御言葉を私の後について、父も信仰告白して祈り、イエス様を信じました。私が、父に、「イエス様を信じる?」と尋ねると、「もちろん、信じるよ」、と父が笑顔で 答えました。その時に、父なる神様から伝道の書3章11節の、「神様のなされることは皆その時にかなって美しい。」という御言葉が私の心の奥深くに届きました。

父が言った、「もちろん、イエス様を信じるよ。」という言葉を神様が聞いた証拠でもありました。最高の時でした。ただ父は、イエス様の恵みによって救われたのです。イエス様が、私の罪のために十字架に架かって死んで下さり、三日目に死を打ち破り甦ってくださった、それにより、私たち一人ひとりに永遠の命を与えてくださった」と父はただ信じたのでした。イエス様を信じて祝福されたことにより、父と母に対する関係も祝福されていったのです。その後に、母もイエス様を信じて救われました。

2)第二に、イエス・キリストの復活の恵みです。

イエス様が命を与えたので(ローマ3:25)、私達はその復活の命に生きる喜びを味わうようになります(ローマ5:2)。ローマ人への手紙3章25節には、「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。」とございます。

ここに、私たちの信仰と感謝のみなもとである、イエス・キリストが描かれています。

イエス様は、父なる神様からも見捨てられ、無限大の恐怖を味わい、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」(詩篇22:1)と、私たちの為にお祈りされました。これから、よくなるから嘆いて、ハレルヤといって解決するのも神様の大きな祝福ですが、神様に嘆いて祈ることができるということ自体、神様への深い信仰のあらわれであり、大きな恵みであるといえます。嘆き、涙、呻き、痛み、どうしてですか、という神様に向かって祈る、そのような嘆きの祈りが、深い所ですべてイエス様の十字架につながっているというのは、なんと幸いなことでしょう。私たちは、暗闇に沈むような時でも、イエス様は、私たちの苦しみ、嘆き、重荷を全て背負って、イエス様のみ跡のあとへとついていくようにせてくださるのです。

そして、幸いなことは、私たちの大きな希望は、私たちの死後、天国に住むことがゆるされているという約束です。父がイエス様を信じた、2015年の大晦日、久しぶりに家族で夕食を共にして、その時、父が 笑顔で手を差し伸べて、「ありがとう」と言ってくれました。本当にあたたかい喜びが胸をよぎりました。

2016年に、クリスマスの特別集会を持った時ですが、ある説教者が伝道メッセージをされた最後に、招きをして下さいました。「神様に自分を捧げる人はいませんか」、と説教者は促して、私の父は招きに答え、そっと手を挙げて、再びイエス様に従う決心をしました。うしろから見ていましたが、私はとても感動しました。

2018年10月2日、父は、スペインで学会のような所に仕事で行ったのですが、そのスペインで父が急死したという連絡が私にありました。

その後、私は、スペインに渡り、スペインの遺体安置場で父の遺体を見て、私は、父が 平安そのものの顔しているのを見ました。イエス・キリストの福音によって救われて、本当に、父は、天のお父様の所にいったのであると実感しました。

今まで見たこのない、父のやすらかな顔は、父の救われた大きな証であり、今でも、私にとっては、大きな慰めとして受け止めております。

スペインの遺体安置場で、父の遺体を見ていた私は、父なる神様に次の様に祈りました。「イエス様、私にとって、父は、本当に、最高の父であったことを天国にいる、父に伝えてほしい」。と涙ながらに祈り、私にとって、最高の父を与えてくださった、愛なる神様に感謝を捧げました。父なる神様に祈った後、次のような希望の御言葉が何度も聴こえて私を支えました。それは、「あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます」 。言い換えるならば、「私の父は、きょう、イエス様と共にパラダイスにいます」。

父は、今や天国で、イエス様にしっかりと 受け止められているのが体験できて、涙が溢れて、愛の神様に感謝で一杯でした。

父が死ぬ前の僅か3年間でしたが、イエス様の十字架と復活によって父が救われ、母もイエス様を信じて、お互いが思いやりを持ち、そして、教会で礼拝を捧げる中で、父、母、私との間で感謝の実を結ぶという、真実なイエス様が共に生きている体験をしました。

先週、母と出会いました。金沢アシュラムのメンバーたちと、母のいる部屋で一緒に祈り合い、讃美歌『わが身の望みは』を賛美して、心を合わせてイエス様に母を委ねて、将来、イエス様が母をしっかりと受け止めてくださることを信じてお祈りいたしました。

信仰によって義とされるというのは、どんな状況であっても希望をもって生きていけるようになるということです。死の陰の谷を行くときも、最後は必ずイエス様に受け止めていただける、との約束だからです。私たちも、いつかこの体が死ぬ時を迎えます。しかし、その死は、もはや死んでそれで終わりではないのです。イエス様は死から復活への道を備えております。それがイエス・キリストを信じる道です。

イエス・キリストを信じると、生きるにも死ぬにも、わたしたちは、真実な救い主、イエス・キリストのものであるのです。愛する家族、友人が天国に呼ばれた時には、生きている時間だけではなく、死ぬにもイエス・キリストのものだ、本当にそうだ、と実感することができるのです。生きることと死ぬこと、その境界線をも超えてくださる、主イエス・キリストの大きな慰めの中に、今、私たちはこうして生きているのです。イエス様、そのイエス様を信じるだけで、本当に罪が赦されて、父なる神様に感謝をする生活を送り、天国に行ける、その唯一の希望である、イエス様を一人でも多くの人に、共にこれから宣べ伝えていきましょう。

【祈り】 父なる神様、生きるにも死ぬにも、私達は真実な救い主イエス・キリストのものである、本当にそうだと神様に感謝できる幸いを心より感謝を申し上げます。イエス様の十字架と復活の救い、希望を一人でも多くの人に宣べ伝えることができる様に導いて下さい。主イエス様の尊い御名によって祈ります。アーメン