《 新宿西教会説教 》 「パーフェクト・ハーモニー」2024,04,28 コロサイ3:12~14 ― 愛と赦しの信仰を持つー 深谷春男牧師 今までに、何度か語りましたが、ここ、45年間、伝道牧会に当たらせて頂き、神様からの一つの課題を与えられてきました。その課題は「勝利に満ちた信仰生涯」ということです。神様から牧会をゆだねられたその教会の兄弟姉妹が、聖書の指し示す信仰を明確に理解し、その救いの恵みをはっきりと体験し、しかも、どのような試練や問題に直面してもゆるがない「勝利に満ちた信仰生涯」はいかにして可能なのか?そのことを、聖書から学び、模索し、また語り続けてきました。それは次の15項目です。 第1は「十字架の福音に立つ」ロマ3:21-26、ガラテヤ2:16、ヨブ19:25 第2は 「聖霊に満たされよ!」使徒1:8、エペソ5:18,ゼカリヤ4:6 第3は「聖書信仰に生きる」 詩篇1編、Ⅱテモテ3:16、詩篇119:11 第4は「熱心な祈り手であれ」エペソ6:18-20 使徒2:1~4, 第5は「主を心からほめたたえよ」 詩篇103:1-5 第6は「神の臨在と共に歩む」 詩篇42篇 23篇 第7は「夢と幻で勝利を勝ち取れ」 箴言29:18 第8は「積極的、肯定的、建徳的に生きよ」マルコ9:23 第9は「終末的信仰に立つ」 ピリピ3:20 第10は「主日礼拝日を喜びの栄光の日と呼べ!」イザヤ58:13-14 第11は「献げる信仰」 ローマ12:1、2 第12は「家庭を愛し信仰の継承を大切に」 使徒16:25-34 第13は「愛と赦しの信仰を持つ」 コロサイ3:12-14 第14は「個人の信仰から共同体の信仰へ」エぺソ4:11-16 第15は「教会の土地と建物を獲得せよ!」サムエル下7章 今日は、13番目の課題、「愛と赦しの信仰を持つ」という題のもとに、信仰生涯の祝福について学びたいと思っております。 【 テキストの概略 】 コロサイ書とエペソ書は大変似ています。エペソ書は教会論を中心に救いとは何かということが描かれています。また、コロサイ書はキリストとはどのようなお方かということが中心的な主題として描かれております。「内住のキリストこそ神の奥義であり、栄光の望みである」と記されており、キリストを宿して歩む人生の豊かさが証しされております。コロサイ1:27.その中でも、今日お読みいただきましたコロサイ書3:12―14は、主イエスの十字架によって罪赦され神の子となり、その愛の豊かさと恵みに満ちて歩む生涯が美しく描かれているところです。 【メッセージのポイント】 1)、12 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。 (12節) ⇒ 神に愛されている者の幸い クリスチャンの生涯は、ある意味で「愛の生涯」と言っていいことでしょう。しかし、知らねばならないのは、まず、神に愛されているという原点から始めねばならないことです。主イエスの十字架の身代わりにより、この愛に値しない者が、主の命を捨てるほどの愛によって救われたこと、この、驚くべき恵みを知ることから始まるからです。ですから、クリスチャンは「愛の生涯」といっても、傲慢にも、自分は、人を愛する力がある、わたしは人を愛しているので救われているなどと言うことはできないと言うことです。 かつて、片平先生の早天祈祷会のメッセージで、先生が高校生のときに、山岳部に入っていて、1699メートルの安達太良山に4人のパーティを組んで登ったそうです。その中の一人が途中でばててしまい、その荷物を分担して持ったそうですが、結局は、皆が体調を崩して、下山せざるを得なかったと言う屈辱を体験したと言う話でした。わたしはこれを聞いて、人間の弱さと言うことを特に示されるような思いをいたしました。つまり、人間は他者の重荷を負うことは実際問題になるとママならないと言うことです。片平先生は、人は人の重荷を負うには限界がある。主イエス様の十字架の、身代わりなしには、わたしどもは自分の罪の重荷でつぶれてしまう、と語られました。それゆえに、ここでは、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と勧められています。 わたしどもは主イエスの十字架の贖いを信じるとは、自分の罪を認め、自分の弱さを認めたものと言う意味であると思います。聖書のいちばん嫌うのは高慢、傲慢だと思います。主の前に、自分の弱さ愚かさを認めて主イエスの十字架の贖いを受け入れるものとしていただきましょう。そのような意味で「キリスト教信仰とは第1に謙遜、第2に謙遜、第3に謙遜」(アウグスチヌスの言葉)です。 クリスチャンの原点は、神に愛され、選ばれていることです。 2)、13 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。 (13節) ⇒ 赦すことのできる幸い 第二番目に、13節から「赦す」と言うことを共に考えてみましょう。主イエスの十字架の贖いを受け入れたものは罪を赦された者という意味です。それゆえに人の罪を赦す者でありたいと思います。主イエスの赦しの心にならってと勧められている。許さないことは自分を牢獄に閉じこめる事でもあります。 人を赦さないと、カッカして眠れないこともあるのです。以前、このような文章を書いたことがあります。 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするため」。(マタイ7:1) いつも輝く命に生きる秘訣は人を憎まないことである。赦しの愛に生きることである。人を裁き、人を憎むとわたしたちの心は曇ってしまう。心の太陽なる聖霊なる神は、愛なる霊である。人を裁き、人を批判し、受け入れることが出来なくなる時、魂にかげりがはじまる。しかし、人を愛し、受け入れ、赦すことはたやすい事ではない。 ナチスの収容所での経験を余儀なくされた、コリー・テンブームさんの証し。彼女が戦後、ドイツで大きなリバイバル集会を開いた。その時に人々が次々と悔い改めて救われた。その救いを求めて講壇近くに出て涙を流している男性がいた。彼女の心は凍りつくようだった。その男性は、自分の両親や愛する姉を収容所に送った責任者だった。「彼だけは許せません!」と彼女は主に祈った。しかし主は「受け入れなさい」と言われた。彼女は聖霊に助けられつつ、そろそろと、彼に許しと和解の手を伸べた。彼女の魂は10歳の若返るような感動を覚えたという。 3)、14 これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。 (14節) ⇒ 愛することのできる幸い ここでは人を愛せよと勧められています。神の驚くべき愛を知った者は人を受け入れていきます。ここでは「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」と語られます。口語訳では「愛は全てを完全に結ぶ帯」であると語られていました。このアガペーの愛(無条件の愛)なくしてどんな衣装もダラリとして締まらない、人生の衣装がすべて乱れてしまうのです。 RSVの翻訳では、この「アガペーの愛」を「パーフェクト ラブ」と訳してありました。すばらしい訳ですね。2000年のキリスト教会の歴史を考えるならば、まさに、アガペーの愛によってわたしたちは完成へと導かれるのですね。 しかし、憎しみと言う問題は大きなものがあります。「人は何故、憎むのか」と言う本を読んだことがあります。ラーシュ・ドージアJr. ピューリツアー賞受賞作家。生物学上から言うと扁桃体の働きだと言っています。人を憎む時、 人は毒素にやられる。血液に毒素を注射しているようなものだと言われます。 あるところに、「人間の寿命」と言う文章が載っていました。 グリム童話の中にある、神が人間の寿命を決定する場面についてです。 まず動物から。 ロバさん、あなたには三十年の寿命をあげよう。神様、結構です。私はロバとして汗水流して働くのに三十年は長すぎます。よし、それなら十八年にしよう。 次は犬さん、あなたにも三十年あげよう。神様、私ももっと短い方がよいです。そうか、では十二年にしよう。 次はサルさん、あなたはどうします。 私は十年で結構です。そうか、それでよいなら十年生きよ。 こんな風に動物の寿命が決められた後に、人間が登場する。 人よ、三十年はどうだね。 とんでもありません。短かすぎます。 そうか、それなら動物たちの寿命をプラスしてあげよう。 そんなことで人間が人間らしく楽しく生活できるのは、若々しい三十年間。その後は、ロバのように働く十八年。その後は犬のようにほえたり、かみついたり、怒ったりする十二年。そして最後は、人の笑いぐさとなり、サルのような余生十年。合計七十年の寿命となる。 童話とはいえなかなか考えさせられる内容ですね。その文章に、このように書かれていました。「あなたはロバの期間か、犬のそれか、サルの余生か。いずれにしても、本当に神が与えた本当の姿ではありません。 神は良い神様です。人間を苦しませ、悩ませるための人生ではありません。神の御旨に従い、主の恵みの愛に支えられ神御自身の温顔を仰ぎつつ、聖霊に満たされて信仰に信仰に生きるならば人間として最高の日を過ごすことができます。 」 愛は聖霊の業なのですね。ハレルヤ 【 祈 り 】 天の父なる神様。今日は、あなたの恵みの礼拝を守る事ができまして感謝を致します。何よりも、あなたの愛と救いをこのところで覚えるものとしてください。そして、あなたの愛で、人々に接し、赦せない思いや、憎しみの捕われから解放し、御霊の満たしの中を、のびのびと恵みに満ちて、生きる者とならせてください。あなたの愛と赦しを与えてください。わたしたちの主イエスの御名によって祈ります。アーメン |