2024年1月7日(日)新宿西教会2024主日主日説教「汝の信仰、汝を救へり!」ヨハネ福音書3:16 深谷春男牧師

この1年初めの主日礼拝で何を語りましょうか?と祈っていたら、この言葉が、心に浮かびました。「あなたの信仰があなたを救った。」 

昨年の暮れに、ある姉妹と話しておりましたら、「わたしの信仰は、あまり深くはありませんが、マルコ5章にある言葉、長血を癒やされた女性へのイエス様の言葉「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5:34)わたしの信仰は、この言葉につきます。」ハレルヤ

愛する、兄弟姉妹!今朝の御言葉ははっきりしています。

「あなたの信仰があなたを救った!」。アーメン

それじゃあ、聖書で言う「信仰」とは何か?

旧約聖書は、ヨブ記19:25 イザヤ53章。

新約聖書は、ロマ3:21~26。ガラテヤ2:16。

これはいつも語っている。

そうだ!この日は、聖書で言う、小聖書と呼ばれる、ヨハネ3:16を読んでみよう。ここに全てがある。ハレルヤ!

【 今日の聖書箇所の概説 】

 このヨハネ3章16節は宗教改革者マルチン・ルッターによれば「小福音書」。これは聖書66巻の要約。福音の最も短い宣言。人間の語った言葉の中で最も尊い言葉。ここには黒崎幸吉先生によれば、7つの聖書の中心課題がつまっているというのです。             

①救いの源は「神」、

②救い主は「神の独り子(=イエスキリスト)」

③救いの対象は罪深い「世」、

④救いの方法は独り子を「与える(=十字架のあがない)」こと、

⑤救いの動機は「愛」、

  • 救われるためにすべきことは彼(=イエス)を「信じる」こと
  • 信じた結果は「永遠の命」を得ること。 

【メッセージのポイント】

  • 16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 (3:16)

⇒ 神は世(=あなた)を愛された。

 16節はギリシャ語の言語では3つに分かれています。その第一は「愛された、神は、世を」という語です。世とは神の創造された世界の意味です。特に被造物の中の人間の世界をいう言葉です。神は人間とその住む世界を深く愛された。父母が子供を慈しむように、包み込む、限りないやさしさをもって愛された。この「世」という所に、名前を当てると良いと言われますね。神は「深谷春男」を愛されたと言う意味です。

 最近は年を取ったせいもあってか、涙もろくなってますね。数年前、結婚式で田舎に帰り、久しぶりにあった兄弟達と夜おそくまで、幼い頃の思出や、すでにこの世を去った父や長兄の思い出などを話したことがありました。貧しい中で自分たちを精一杯育ててくれた両親や一緒に育った兄弟の愛を深く感じました。翌日、一番早い新幹線で帰ったが注がれた愛の恵みに涙が流れてとまらなかったことがありました。    

 最近は年を取ったせいもあってか、静かに祈る時に、神様の愛が深く深く心に迫る時があります。聖書の語る救いは、この「なつかしい父母の愛」を思い起させる、否、この父母の愛を更に浄化した「神の愛」を知ることに始まるのですね。

「君は愛されるため生まれた」という讃美があります。66歳の誕生日の時に与えられた恵みの賛美でもありました。「わたしの目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4。「わたしは限りなき愛をもて、あなたを愛している」エレミヤ31:3。驚くばかりの神の愛!これが聖書の語るメッセージです。アガペーの愛です。

  • 16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 (3:16)

⇒ 神の愛(アガペー)、その第一は、罪の赦しです。    

 神の愛(アガペー)は限りない愛です。それは人間の理解を越えた深い、真実な愛です。それは神の独り子イエスキリストをくださるほどの愛、すなわち、わたしどもを罪から立ち帰らせるためにご自身の独り子、主イエスキリストを十字架にかけられたほどの愛です。  

 自分の子供は可愛いものです。自分の分身でもあり、小さい頃から心の交流があるのでいとおしさとなつかしさとが入り交じった感情が伴うものです。神は反逆する人間を愛してご自身の独り子を犠牲にされたのです。ここに神の深みと人生のすべての問題の解決があります。十字架こそ神の知恵と愛の結晶なのです。

数年前のケズィック・コンベンション東京大会で講師のカンビル先生がこのような話をされました。「わたしたちの生涯は主イエス様の十字架の血潮で贖われた生涯です。主の尊い御血潮をないがしろにしてはいけません。あるお母様のことを聞きました。このお母様は、息子を交通事故で亡くされました。事故のことを聞いて息子さんの事故現場に駆けつけました。その時はまだ息子さんは車の下で命があったそうです。でもこの息子さんの血が道路に溜まって、血だまりになっていました。そしてついに息子さんは亡くなりました。やがて事故現場の整理がされて通行が元に戻ると息子さんの血だまりだったところを多くの車が走り去りました。お母さんは思わず「わたしの息子の血、わたしの息子の血を粗末にしないで~!」と叫んだというのです。

「息子の血を粗末にしないで下さい!」これは天の父である神様の心からの叫びでもあります。           

 以前、吉川で牧会していたとき、転入会された韓国の姉妹の証しが載っていました。それを読みながら、感動を新たにさせられました。プロポーズをされた時に、結婚の条件を二つ出されたというのです。

  • 一緒にまことの神、主への礼拝を守ること。
  • 頂いたお給料の中から、収入の十分の一を捧げる。

 K兄はそれをうけいれて新しい歩みに入ったと証しされております。

主イエスの血潮を粗末にせず、わたしのために流された血潮を、毎週礼拝の中で覚えつつ、特に聖餐式のある時はなおさらですが、主イエスの贖いの血潮に、感謝と恐れとをもって歩みたいものです。

  • 16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 (3:16)

⇒ 神の愛(アガペー)、その二つ目は、永遠の命です。              

 ここには「すべて彼(イエス)を信じる者の永遠の命を得るために」とあります。主イエスを信じる者には「永遠の命」が与えられる。永遠の命とは、時間的な長さのみならず、絶対的な命、死をも乗り越えた命を意味する言葉です。主イエスを信じるものはこの新しい命、神の命を内に持ち、この命に生き始めるのです。「永遠の命の泉」を宿すのです。

しばらく前に、祈祷会で詩篇16篇を読みました。この詩篇、黄金で書きつけるべき、ミクタムの歌と言われますが、そこには、永遠の命なる神の恩寵経験があまりにも鮮やかで、「主の慈しみに生きる者は墓穴 を見ない!」と歌います。神の命の中を歩む者にとって、「死」は実に恵みの現実と合わないのです。聖書の信仰は、永遠の命の確信と喜悦充満の世界です。

ヨハネ6:51にも次のような言葉があります。 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 これは聖餐式の主題でもあります。今日は説教後に、千沙子牧師による初めての聖餐の司式があります。共に恵みに与ると共に、罪の贖いと永遠の命を深く覚えましょう。6:47にも「信じる者は永遠の命を得ている」とあります。「信じる者には永遠の命がある!」。

わたしどもの先輩たちを見ると永遠の命を得ている方々の証しです。

わたしの尊敬する伝道者、藤井武先生は、最後などは、布団の上に寝かされていたが、走るような姿だったと矢内原先生は書いています。

三室泰平兄は池袋の病院にお見舞いに行った時に、もう声も出ませんでしたが、天を指差し、「天国でまたお会いしましょう!」と、地上の最後の挨拶とされました。

小松川教会の飯寄ます姉の証しは、高山松枝牧師夫人の召天の証しでした。布団の上に正座して、花を一輪持たれ、婦人会の姉妹方に最後の挨拶をされました。「わたしは近いうちに天に召されます。皆さん。しっかり信仰を持って、最後まで歩みましょう。どのような時代になっても、最後まで信仰を全うして主イエス様の前に出て、善かつ忠なる僕、よくやったと言われるお褒めの言葉を頂くのですよ」。

【祈祷】 天の御父!2024年初主日礼拝感謝します。この朝、「汝の信仰、汝を救へり」の御言葉を感謝します。ヨハネ3:16の信仰に立たせてください。あなたの愛が良く分かりますように。その中でも、イエス様の流された十字架の血潮の、赦しの福音を深く理解できますように。また死をも越えた復活の命、永遠の命の「確信」を与えて下さい。能登半島に地震に被災者を守って下さい。ウクライナ、パレスチナの戦火の中にある人々に救いと命を!主の御名によって祈ります。アーメン

2024年1月1日(月)新宿西教会2024年元旦礼拝礼拝説教「権勢によらず、能力によらず、わが霊によって!」ゼカリヤ4:6 深谷春男牧師

 権勢によらず、能力によらず、わが霊による。

  ゼカリヤ 4:6

 今年、2024年の新年の元旦を迎えました。今年は、ゼカリヤ書4:6の御言葉に励まされて歩みたいと思っております。昨年は、「主イエスを仰ぎつつ歩もう」(ヘブル12:2)と言う御言葉に励まされて歩みました。

今年は、この聖句と共に、歩みたいと思います。

今日はゼカリヤ4:6―10を学び、aらしい出発をしたいと思います。

【テキストの解説】

ゼカリヤの時代は困難な民族の復興の時期でした。紀元前586年バビロン大帝国の野蛮な仕打ちにより、イスラエル民族は滅び、精神的支柱であった神殿も壊されてしまいました。イスラエル民族の指導者たちはバビロンに捕囚として引かれてゆきました。その後、紀元前539年にバビロンは倒れて、ペルシャ王キュロスが地中海一帯を治めることになりました。538年、キュロスは解放令を出してユダヤ人に帰国を許し、神殿再建を許しました。希望に燃えたユダヤ人は約束の地であるパレスチナへ帰ってきました。しかしそこで見たのは無残にも崩壊したままであったソロモンの神殿と荒廃した世界でした。ユダヤ人は、すぐに、まず精神的支柱である神殿再建に着手します。しかし、すでに住んでいたユダヤ人と帰還したユダヤ人との摩擦、飢饉や、異邦人の妨害により再建工事はすぐに中断してしまいました。およそ18年間の空白ののち、紀元前520年にハガイとゼカリヤが預言活動を開始し、民を励まし、ついに515年の3月に神殿は完成しました。その時の大祭司はヨシュア、政治的な指導者はゼルバベルでした。

4章は新共同訳聖書では「第五の幻」と表題があります。それは「燭台と尽きない油」の幻でした。

【メッセージのポイント】                                               

  • 7 大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる。                       

(7節a、b)      

⇒ ガレキの山に向かって叫べ!「大いなる山よ。お前は何者か!」と。                                                             

  ゼカリヤたちが捕囚となっていた異郷の地から帰ってきた時、神殿はガレキの山と化して数十年経っていました。累々たるガレキの山。その上にはちりが積り、ガレキの中には殺された人骨も埋れているままです。彼らにとって、このガレキの山は絶望的に見えたに相違ありません。しかし、このガレキを前にして、預言者ゼカリヤに神の言葉が臨みました。そらは、7節の言葉です。

 「大いなる山よ、おまえは何者か、おまえはゼルバベルの前では平らにされる。」

わたしたちの過去にも、時として、神のさばきの結果であるようなガレキの山があります。チリと灰と死臭のたちこめる過去。処分不可能に見える過去。しかし、われらの人生をくもらすこれらのガレキの山に向かって、叫ぶようにと預言がなされました。

「大いなるガレキの山よ!おまえは何者か!主の前に平地となれ!すでに主イエスは十字架の上にわれらの罪をあがない、師を打ち砕いてよみがえったのだ。新しい世界を始まったのだ!平地となれ!」と。

  • 彼は『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼ばわりながら、かしら石を引き出すであろう」。                                     (7節cd)

⇒ 賛美しつつ土台を据えよ!

「『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼ばわりながら、かしら石を引き出す」と記されます。これは新共同訳では「見事、見事」と訳されます。賛美しつつ、働くひとたちのかけごえです。関根正雄訳では「いやさか、いやさか」と訳しています。これは全能の主をたたえつつ、それをかけごえにして、主の宮を築いた姿を生き生きと伝えるものです。わたしどももまた、主をたたえつつ、宣教の業に励み、教会の建築のために、主の御業をなし続けるのです。   

信仰生涯の勝利の秘訣は『ハレルヤ、主よ、感謝します!』と主をたたえつつ歩むことです。つらいこともあります。心が痛む時もあります。疲れ果てて、起き上がることのできないような時もあるのです。しかし、すべてを最善に導きたもう主を信じ、全てのことをその全能の神にゆだねつつ、感謝する習慣をつける時、どんな環境も変えられてゆくのです。不満とつぶやきで地獄を作ってはなりません。神様によって救いを受けたわたしどもは、感謝と賛美の中で天国を作って行くのです。神の愛と神の命の満ちた神の国を形成してゆくのです。9節に「彼自身の手がそれを完成する」とあります。神の霊に満ちて歩んで行くと、やがて素晴らしい、完成の時が来るのです。

試練は不思議なものです。ある方が「試練は、恵みの仮面だ」と言いました。試練を通過すると、人は本当は変わってゆくのです。試練を越えて讃美する!これは神への摂理信仰に立つときにできるのだと思います。摂理のことを英語で「プロビデンス」と言いますが、ラテン語の「プロ・ビデオ(前を見る)」からきています。わたしたちは目の前の10円玉にさえぎられて、前にあるものが見えないのです。目の前の試練を越えてもっと先を見るのです。そうです神の歴史支配、不思議な神様の御計らいの世界を見るのです。そして、その恵みのお方を賛美するのです。
 ある年のホ群首都圏新年聖会で講師が語られました。

「人間の体には一日に4千個のがん細胞が発生している。笑い、感謝すると、1回で約200個のNK細胞が発生してがん細胞を食い尽くす。フラグメンチンという酵素だそうです。」これは韓国のアメリカのガン研究の最先端の教授からも同じ事を聞いたことがあります。
 「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのこと、感謝せよ!」。

これはクリスチャン人生の三面鏡です。

讃美しつつ、主のみ業の基礎を整えましょう。ハレルヤ

  • 6 万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。 (6節  )

  すべては聖霊に業によることを知れ!

   ここに有名な言葉が語られます。彼らの取り組む困難な働きは、人間的な「武力(=ハイル)」にはよらない。これは政治的権力や軍隊、富などに使う言葉です。また「権力(=コーアハ)」によらない。これは人間の「能力」を指す言葉です。ここで聖書が、わたしどもに最終的に言おうとしているのは、神殿の再建(=究極的には神の民の再建、神の御旨の達成)は人間の力によるのではなく、神の霊によるということです。

  ワーシップ・ソングに

 「権勢によらず、能力によらず、神の霊によって

  この山は移らん この山は移らん

  神の霊によって」

  という讃美があります。

  わたしどもは新しい年、主の御業の前進のために、新しい歩みをしようとしています。

 この大きな戦いを始めてゆくときに、まず代々の神の民と共に、心から、信仰を持って、讃美しつつ、主のみ業を担ってまいりましょう。

「権勢によらず、能力によらず、神の霊によって

  この山は移らん この山は移らん

  神の霊によって」と大声で讃美してゆきましょう!

かつて御殿場で開催された青年宣教大会で、マイク・マッキントッシュという牧師が講師で招かれたことがありました。彼は恵みにあふれてすばらしい御用をされました。彼の証しは感動的でした。彼は、幼い時に両親が離婚し、中学を卒業すると働きに出ました。やがて、彼は悪い友人と飲み歩き、ついに若くしてアルコ-ル中毒となってしまいました。そして更に覚醒剤、麻薬に手を出し、いつも幻覚に悩む青年となってしまいました。ある時、彼は非常に強いLSDを飲んだ時に、後から誰かにピストルで撃たれ、その衝撃で、顔の半分が吹き飛んでしまったという幻覚に捕えられました。それから2年間、鏡を見ても顔が無かったと語っておりました。精神科に通い、苦しい日々が続く中で彼は教会に行くことになりました。牧師に祈って頂いた時、主の臨在に触れ、癒される経験をしました。彼は洗礼を受けてクリスチャンとなり、ついに献身して神学校に行き、今は牧師になって今世界に多くの働き人を送る神の僕となりました。彼の牧する教会は1990年代で5000~7000人の人が毎週、礼拝に集うと証しされておりました。40代なかばで大学院を卒業されたとのことでした。主は御自分の霊によって、今も働かれるのです。ハレルヤ!

 今、わたしどもは、自分の愚かさと限界を知っております。それゆえに、へりくだりつつ、神の霊に深く信頼して、信仰の歩みをいたします。聖霊なる神様に主権を明け渡してその生涯を歩む者は、必ず主の栄光を見ることになります。「初めはささやか」(10節)で、嘲笑されても、やがて主のすばらしい完成の時が来るのです。

わたしどもは今、2024年の元旦礼拝を迎えるにあたり、古えの預言者と共に、また、代々の聖徒と共に祈り、宣言しましょう。

大いなるがれきの山よ!主イエスの前に平地となれ!

「恵みあれ、これに恵みあれ」と呼ばわりながら、頭石を引き出す!

権勢によらず、能力によらず、わが霊によって!    ハレルヤ!

【祈り】 天の父なる御神!2024年の新しい年を感謝します。わたしどもは、人間の力の限界を体験し、あなた御自身をより頼むべきことを学んでまいりました。古えの預言者と共に、また、代々の聖徒と共に祈ります。大いなるがれきの山よ!主イエスの前に平地となれ!「恵みあれ、これに恵みあれ」と呼ばわりながら、かしら石を引き出すものとなさしめ給え!実に 御業は「権勢によらず、能力によらず、わが霊によって!主の聖名によって祈ります。アーメン

2023年12月31日(日)新宿西教会2023年末感謝礼拝説教「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのこと感謝せよ!」Ⅰテサロニケ5:16~22 深谷美歌子牧師

今年も最後の聖日を迎えました「光陰矢の如し」とは、若い頃はあまり思いませんでしたが、この頃は、「確かに」と思います。それでも、今年も皆様と共に、礼拝を捧げ、聖研祈禱会や早天でもみ言葉を頂き、それぞれのお分かちを頂いて、生かされてまいりました。北支区の祈り会や、讃美集会、朝禱会でも、信仰の言葉に接することができ、生かされました。神様のみ言葉は真理で、わたしたちの拠りどころですね。

 その中で、教会の神の家族がも様々な出来事に出会い、その度に祈り合って過ごしてきた一年でもありました。

深谷牧師が「一年の締めくくりだから、それに沿った箇所がいいよ」。というので、本日は1テサロニケ5章16-22節を開かせていただきました。

パウロがテサロニケに滞在したのは、三週間ほどでありました。使徒17章にそのことが書かれています。17:1 一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。2 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日(約3週間ですね)にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、3 キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。のでした。ところがユダヤ人たちのねたみで、暴動がおこり、そこを去らざるを得なかったのでした。それで伝えられた福音に立って兄弟姉妹たちが守られているか励ますためにテモテを遣わし3:2、 3:6 ところが今テモテが、あなたがたの所からわたしたちのもとに帰ってきて、あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつもわたしたちのことを覚え、わたしたちがあなたがたに会いたく思っていると同じように、わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもたらした。7 兄弟たちよ。それによって、わたしたちはあらゆる苦難と患難との中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた。のでした。そして、信仰に立って歩む生き方を書き送ったのがこのテサロニケの手紙でした。私達も信仰者として、それを聞いてまいりましょう。

【聖書箇所の概略】

16節 いつも喜んでいなさい

17節 絶えず祈りなさい。

18節 すべての事について、感謝しなさい。

19-22節 聖霊の火を消してはいけない。識別しなさい。

1)いつも喜び、すべてのことについて感謝しなさい。  

16 いつも喜んでいなさい。

18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。16、18節

常に喜ぶ、感謝する。ということは、人間では取り去ることのできない罪を、イエス様の十字架による贖いを信じて赦され、神様の命に入れられて、できることです。それがキリスト・イエスにあってという意味です。

 すべての事についてとは、当時は迫害が迫ってきている中で送られた言葉でした。そんな中でも喜べ、感謝せよと。

それほどの困難でなくとも、この恵みが良く解るまでは「どんなことにも、感謝する」ことはできない者でした。目前に起こってくる課題、病気とか、別離とか、家族の問題とか、人前で恥をかいたとか。わたしは従来、性質が、くよくよするタイプでしたから、問題が起こったときに、喜び感謝なんてできないと思いました。

しかし今は、今の課題が解決したから感謝するのではなく、どんな状況の中でも、神様の赦しの中にあり、善にして善をもって守り導いて下さる神様が解って、感謝するようになりました。

 出来事に目を注いでいたら喜べませんね。先週、聖書研究祈り会で詩篇27篇を学びました。詩 27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。5 それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。とありました。 同じ主題で67篇も前日早天で学びました。その時のお分かちで「家の中の課題で、子供とやりきれない思いで、旅行に行った。あるところにいた時、振り返ると子供の後ろに虹がかかっていた。それを思い出した」。と語られた方がありました。心の目を主に向けますと「わたしはあなたを贖った、あなたはわたしのものだ」とイエス様がいてくださいます。詩篇23編も23:4 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。とあります。この主に信頼して、喜び感謝しましょう。私は課題が起った時、まず「感謝します」と声に出して言うようにしています。

2)絶えず祈る

17 絶えず祈りなさい。

常に喜び感謝するために、絶えず祈りなさいと命じられています。現状を訴え、もっともよい解決をしてくださる方を知っていることは喜びですね。

「こころの友」この教会では「バルナバ会」ですが、佐藤雅文先生の「祈祷の生涯」を少しづつ読んでいます。この書は、雅文先生が召されて16年後に出版され、小原十三司師の序文に、今日ほど神の教会は祈りに人を要している時代はないとあります。その出版からもう52年も経っていますが、イエス様がこの世を去るに当たってヨハネ 14:12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。と言い残されました。何という恵みでしょう。絶えず期待して祈って行こうではありませんか。

北九州復興教会の前任の山中日出刀先生は、信徒の方が「先生に相談したいことがあります。伺ってもよろしいですか?」とお電話があると「いいですよ」と返事をして、その方が来るまで、祈って待っていたそうです。すると相談に来た方が「もう解決しました」と言ったそうです。全ての解決は、神様の答えを求める祈りからです。

 世の人々は自分の目先の必要を求めるのが祈りだと思っています。キリスト者は、神の御心を求めるのが、祈りです。見えるところの困難は日々起こってきますが、まず神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、他の必要は添えて与えられます。との御言葉に信頼しつつ、神様の答えを求めて祈りましょう。

またある時は叫びの祈りをしてもいいのです。射祷と言う方もあります。

マタイ8:26に、弟子たちがイエス様に従って湖に乗り出したとき、大嵐になって、沈みそうになりました。そのとき弟子たちは「主よ起きてください、わたしたちが死にそうです」と叫んでいます。時になりふり構わず「主よ助けてください」と叫ぶとき、主は起き上がって「信仰はどこにあるのか」とおっしゃりながらも「静まれ黙れ」と波を沈めてくださるのです。

喜べない、感謝できないと思うことが起った時こそ祈りましょう。

3)御霊を消してはいけない。識別せよ。   

19 御霊を消してはいけない。  20 預言を軽んじてはならない。

21 すべてのものを識別して、良いものを守り、

22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。19-22節

神様は一人一人が聖霊様に心の王座を明け渡し、喜びの中を歩むことを望んでおられます。イエス様が天に帰られる前に、「聖霊を送るから待っていなさい」と言い残されました。弱かった弟子達に聖霊が来られて満たされて、神様の命を大胆に味わって生きられるようになりました。

ところが御霊を消してはいけない。とここに書き送られています。消されることもあるのですね。預言を軽んじてはならないとありますから、示されたことを語る人と考えても良いでしょう。語られたことが正しかったのに拒絶すると御霊を消すことになるとか、落胆(信仰の反対?)、怠惰、不道徳、思い煩い、を挙げている方もあります。 

そして語られた内容が、イエス様がもたらせた福音であるか、識別せよともあります。吟味せよと訳されている聖書もあります。吟味するのも聖霊様に聞くことです。

それと、自分が聖霊に満たされると、自分の確信にもなりますが、教会が生き生きと建ち上がってていくための満たしでもあります。1コリント12章では、はっきり、その究極の目的は、それぞれが結び合わされて、神の国が教会に現れるためです。と述べています。1コリント12:7-11各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。8 すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、9 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、10 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。とあります。神様が私に何を望んでおられますか?と聞いて、教会で用いられます。 

天国はあなたがたのただ中にある、とイエス様が語られました。教会でその訓練をして生かしあい、愛し合い、その他の全ての人-自分の家庭や職場、地域に仕えるようにと遣わされて行きます。世界が神の国になるために聖霊に明け渡し満たされ続けましょう。  ハレルヤ!

祈り 父なる神様、今日は信仰の勝利の歩みを、年度最後にお導き下さりありがとうございました。イエス様によっていただいた命、何があっても喜び、感謝することができる命を感謝します。常に祈って、聖霊様に聞きつつ歩みます。まだこの命を知らない人のために遣わしてください。御名によって。

2023年12月31日(日)新宿西教会2023年末感謝礼拝説教「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのこと感謝せよ!」Ⅰテサロニケ5:16~22 深谷美歌子牧師

今年も最後の聖日を迎えました「光陰矢の如し」とは、若い頃はあまり思いませんでしたが、この頃は、「確かに」と思います。それでも、今年も皆様と共に、礼拝を捧げ、聖研祈禱会や早天でもみ言葉を頂き、それぞれのお分かちを頂いて、生かされてまいりました。北支区の祈り会や、讃美集会、朝禱会でも、信仰の言葉に接することができ、生かされました。神様のみ言葉は真理で、わたしたちの拠りどころですね。

 その中で、教会の神の家族がも様々な出来事に出会い、その度に祈り合って過ごしてきた一年でもありました。

深谷牧師が「一年の締めくくりだから、それに沿った箇所がいいよ」。というので、本日は1テサロニケ5章16-22節を開かせていただきました。

パウロがテサロニケに滞在したのは、三週間ほどでありました。使徒17章にそのことが書かれています。17:1 一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。2 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日(約3週間ですね)にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、3 キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。のでした。ところがユダヤ人たちのねたみで、暴動がおこり、そこを去らざるを得なかったのでした。それで伝えられた福音に立って兄弟姉妹たちが守られているか励ますためにテモテを遣わし3:2、 3:6 ところが今テモテが、あなたがたの所からわたしたちのもとに帰ってきて、あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつもわたしたちのことを覚え、わたしたちがあなたがたに会いたく思っていると同じように、わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもたらした。7 兄弟たちよ。それによって、わたしたちはあらゆる苦難と患難との中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた。のでした。そして、信仰に立って歩む生き方を書き送ったのがこのテサロニケの手紙でした。私達も信仰者として、それを聞いてまいりましょう。

【聖書箇所の概略】

16節 いつも喜んでいなさい

17節 絶えず祈りなさい。

18節 すべての事について、感謝しなさい。

19-22節 聖霊の火を消してはいけない。識別しなさい。

1)いつも喜び、すべてのことについて感謝しなさい。  

16 いつも喜んでいなさい。

18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。16、18節

常に喜ぶ、感謝する。ということは、人間では取り去ることのできない罪を、イエス様の十字架による贖いを信じて赦され、神様の命に入れられて、できることです。それがキリスト・イエスにあってという意味です。

 すべての事についてとは、当時は迫害が迫ってきている中で送られた言葉でした。そんな中でも喜べ、感謝せよと。

それほどの困難でなくとも、この恵みが良く解るまでは「どんなことにも、感謝する」ことはできない者でした。目前に起こってくる課題、病気とか、別離とか、家族の問題とか、人前で恥をかいたとか。わたしは従来、性質が、くよくよするタイプでしたから、問題が起こったときに、喜び感謝なんてできないと思いました。

しかし今は、今の課題が解決したから感謝するのではなく、どんな状況の中でも、神様の赦しの中にあり、善にして善をもって守り導いて下さる神様が解って、感謝するようになりました。

 出来事に目を注いでいたら喜べませんね。先週、聖書研究祈り会で詩篇27篇を学びました。詩 27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。5 それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。とありました。 同じ主題で67篇も前日早天で学びました。その時のお分かちで「家の中の課題で、子供とやりきれない思いで、旅行に行った。あるところにいた時、振り返ると子供の後ろに虹がかかっていた。それを思い出した」。と語られた方がありました。心の目を主に向けますと「わたしはあなたを贖った、あなたはわたしのものだ」とイエス様がいてくださいます。詩篇23編も23:4 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。とあります。この主に信頼して、喜び感謝しましょう。私は課題が起った時、まず「感謝します」と声に出して言うようにしています。

2)絶えず祈る

17 絶えず祈りなさい。

常に喜び感謝するために、絶えず祈りなさいと命じられています。現状を訴え、もっともよい解決をしてくださる方を知っていることは喜びですね。

「こころの友」この教会では「バルナバ会」ですが、佐藤雅文先生の「祈祷の生涯」を少しづつ読んでいます。この書は、雅文先生が召されて16年後に出版され、小原十三司師の序文に、今日ほど神の教会は祈りに人を要している時代はないとあります。その出版からもう52年も経っていますが、イエス様がこの世を去るに当たってヨハネ 14:12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。と言い残されました。何という恵みでしょう。絶えず期待して祈って行こうではありませんか。

北九州復興教会の前任の山中日出刀先生は、信徒の方が「先生に相談したいことがあります。伺ってもよろしいですか?」とお電話があると「いいですよ」と返事をして、その方が来るまで、祈って待っていたそうです。すると相談に来た方が「もう解決しました」と言ったそうです。全ての解決は、神様の答えを求める祈りからです。

 世の人々は自分の目先の必要を求めるのが祈りだと思っています。キリスト者は、神の御心を求めるのが、祈りです。見えるところの困難は日々起こってきますが、まず神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、他の必要は添えて与えられます。との御言葉に信頼しつつ、神様の答えを求めて祈りましょう。

またある時は叫びの祈りをしてもいいのです。射祷と言う方もあります。

マタイ8:26に、弟子たちがイエス様に従って湖に乗り出したとき、大嵐になって、沈みそうになりました。そのとき弟子たちは「主よ起きてください、わたしたちが死にそうです」と叫んでいます。時になりふり構わず「主よ助けてください」と叫ぶとき、主は起き上がって「信仰はどこにあるのか」とおっしゃりながらも「静まれ黙れ」と波を沈めてくださるのです。

喜べない、感謝できないと思うことが起った時こそ祈りましょう。

3)御霊を消してはいけない。識別せよ。   

19 御霊を消してはいけない。  20 預言を軽んじてはならない。

21 すべてのものを識別して、良いものを守り、

22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。19-22節

神様は一人一人が聖霊様に心の王座を明け渡し、喜びの中を歩むことを望んでおられます。イエス様が天に帰られる前に、「聖霊を送るから待っていなさい」と言い残されました。弱かった弟子達に聖霊が来られて満たされて、神様の命を大胆に味わって生きられるようになりました。

ところが御霊を消してはいけない。とここに書き送られています。消されることもあるのですね。預言を軽んじてはならないとありますから、示されたことを語る人と考えても良いでしょう。語られたことが正しかったのに拒絶すると御霊を消すことになるとか、落胆(信仰の反対?)、怠惰、不道徳、思い煩い、を挙げている方もあります。 

そして語られた内容が、イエス様がもたらせた福音であるか、識別せよともあります。吟味せよと訳されている聖書もあります。吟味するのも聖霊様に聞くことです。

それと、自分が聖霊に満たされると、自分の確信にもなりますが、教会が生き生きと建ち上がってていくための満たしでもあります。1コリント12章では、はっきり、その究極の目的は、それぞれが結び合わされて、神の国が教会に現れるためです。と述べています。1コリント12:7-11各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。8 すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、9 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、10 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。とあります。神様が私に何を望んでおられますか?と聞いて、教会で用いられます。 

天国はあなたがたのただ中にある、とイエス様が語られました。教会でその訓練をして生かしあい、愛し合い、その他の全ての人-自分の家庭や職場、地域に仕えるようにと遣わされて行きます。世界が神の国になるために聖霊に明け渡し満たされ続けましょう。  ハレルヤ!

祈り 父なる神様、今日は信仰の勝利の歩みを、年度最後にお導き下さりありがとうございました。イエス様によっていただいた命、何があっても喜び、感謝することができる命を感謝します。常に祈って、聖霊様に聞きつつ歩みます。まだこの命を知らない人のために遣わしてください。御名によって。

2023年12月17日(日)新宿西教会礼拝説教「その名はインマヌエル」マタイ1:18~25 深谷春男牧師

「激突する神の愛」

今年の、新宿西教会のクリスマス集会のチラシは、長谷川武国兄が、作って下さいました。そこに大きく「愛の激突!」とコピーが載っています。

しばらく前になりますが、2014年に「北東京シティクリスマス」という集会でメッセンジャーとして招かれ奉仕しました。31年間、北東京の赤羽で伝道し、「北東京シティクリスマス」を赤羽、王子、十条の先生方と開催し、何回か実行委員長もしておりました。集会の数か月前に、「説教題を教えてください」と言われて、祈って示されたのは「激突する神の愛」という題でした。過激な(?)題だと思います。

クリスマスって何の日か?という根本的な主題を、もう一度自分自身への問いとして突きつけられた思いが致しました。

考えてみますとわたしが小学生4年生のころ、神主の息子でとても親しかった友人の克紀君が、「深谷、クリスマスってキリストの誕生日だって?知ってた?」と急に聞くのです。小学生のわたしは、「えー?まさか?クリスマスってアメリカのお祭りじゃないか?」と答えました。彼は「神主の父ちゃんが言うのだから間違いがないよ」と確信を持っておりました。     

高校3年の時、自分で「信徒の友」とか「月刊 キリスト」という雑誌などを買って読んでいたこともあって、クリスマス・イブの日に、姉の家に夕食で招待され、その帰り、もう9時近かったと思うのですが、聖書の話を聞きたいなと思って中学時代の恩師、渡邊正夫先生のご自宅を訪ねました。そこで聖書の話や、内村鑑三や倉田百三の話を聞きました。帰り白河駅のそばを通ったのは夜更けでした。那須おろしの身を切るような冷たい風に吹かれながら、心の中は暖かで、星を見上げつつ「天地を造られたお方よ。全世界の人々に平和と幸福を与えて下さい」と祈ったのを覚えています。

そして18歳の時に、初めて川崎の教会でクリスマスを祝いました。9月から伝道所に行っていたのですが、クリスマスに本教会からはがきが届きました。「クリスマス・イブの礼拝と祝会があります。お出かけください。」そして「すべての人を照らすまことの光があって世に来た」と聖句が書いてあり、ろうそくのカットが描いてありました。夕方から礼拝が始まり、その後に交わりやゲームが楽しく続けられました。とても楽しく、クリスチャンの方々の暖かな心に触れた思いがしました。帰り教会の役員さんに車で送っていただき、車の中も盛り上がっていました。アパートの前で車から降りると、冷たい冬の夜更けの濃紺の空に満天の星が輝いています。月明かりに白い雲が薄くたなびいていました。ああ、こんな美しい空があったのだ!神様への感謝と喜びが心のうちから湧きあがりました。

そして次の年、19歳の時のクリスマス!時は1969年12月21日。この日はわたしの洗礼の時でした。この時わたしは、はっきりとクリスマスの意味が解りました。

天地創造の全能の神が、このような愚かな自分のために独り子イエスを下さった。この独り子主イエスが、わたしの罪も死も呪いもすべて贖ってわたしを救い、神の子としてくださった!わたしは神と和解して、永遠の命を生きる!

わたしは、この神の愛に触れ、ついに洗礼の恵みに与ることとなりました。この19歳のクリスマスから、「激しい神の愛」が、いよいよ深まってゆきました。創造主の愛が、被造物である人類の歴史に「激突」!わたしの生涯はこの19歳の洗礼の日から新しい歩みへと変えられてゆきました。クリスマスは皆様にとっても祝福された人生への始まりの時です。

ここに「激突する神の愛!」というメッセージがあります。 

この宇宙よりも大きな天地創造の神様が、小さなゴマ粒のような地球に住む、微生物のような人間に、雷のように激突された。この聖書のクリスマスメッセージは「人類歴史の最大のできごと」なのです。人類の歴史にはいろんなことがありました。

古代のエジプト大帝国の繁栄、バビロニア帝国の栄華、アレキサンダーの世界征服、ローマ大帝国の支配、マルチンルッターの宗教改革、啓蒙主義の台頭、フランス革命の勃発、ロシアや中国での共産革命・・・・。

でも、聖書の語る「神の子の誕生」というクリスマスメッセージは、「人類歴史最大のできごと」として語られております。

・人類の暗闇の世界に、神の光が激突したのです。

・被造物の世界に、創造者なる神自身が突入された。

・時間・有限世界に、永遠が激突されたのです。

・憎しみと悲しみの世界に、神の愛と喜びが激突したのです。

・人間の罪と死の世界に、今、救いと永遠の命が激突したのです。

この聖書のメッセージがわたしたちの人生を根底から作り変えるのです。

【今日の聖書箇所の解説】

 今日の聖書の箇所は、有名な処女降誕の場面です。創造の神が人間の世界にまで降りてこられ、処女マリヤの胎にお宿りになられました。そこには永遠の神が、時間(人間の歴史)に突入されることにより起こるところの、戸惑い、恐れ、危機があります。

 しかし、神のみわざは不思議な神の導きの中で完成へと進みます。

「インマヌエル」とは「神ともにいます」というヘブル語です。クリスマス

は全能の神がわたしどもを見捨てないとの宣言なのです。

【メッセージのポイント】

1) 18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。・・・・・20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。(18~20節))

⇒ 聖霊によって!       《救いの業は聖霊による》

 マタイの福音書はややこしい系図がまずあって、次にキリスト誕生の記事が続きます。そこでは神が人の世界の悲惨さをあわれみ、ご自身の独り子イエスをこの世に降し、救いを完成させるとのメッセージが語られます。そこでまず、強調されるのは「聖霊によって」(18、20節)という言葉です。聖書はわたしたちを、人間の努力という世界から、神ご自身の恵みの充満の世界へと向かわせます。救いの業は、創世記に記される創造の業と同じく神の圧倒的な介入で始まります。

 聖霊なる神はわたしどもの思いを越えて働きたもう。自分が主イエスを信じようと思ったことも、今考えてみれば背後に神様の導きがあったからに他なりません。聖霊によらないでは誰もイエスは主なりとは言えない。

また、聖霊に助けられることは恐れからの解放でもあります。神御自身の介入によっておこるさまざまな危機的状況。しかしそれを「恐れるな」と語られる。マリヤが聖霊によってみごもると、そこには多くの危機が待ち受けていました。性的な潔癖を尊重するユダヤの社会では姦淫は石打の刑。いいなずけのヨセフは離縁を考えました。マリヤも多くの誤解を身に受けねばなりませんでした。しかし、「ヨセフよ、心配するな!」とみ使いを通して神は語られました。クリスマスの響きのひとつには「恐れるな!」という調べ。み使いの出現に恐れをなした羊飼いへの宣言のように「恐れるな!」と主はわたしたちに語られます。 恐れは様々な形でわたしどもを襲います。恐れと不安にとらわれると、わたしどもはあらゆることに失敗してしまいます。アブラハムやヤコブなどは実に、その祈りのときに神様から繰り返し、「恐れるな」とのメッセージを聞きました。

2) 21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(21節)

⇒ 罪から救う!     《救いは御子イエスの十字架以外にない》    

 み使いはヨセフに言う「その子の名前はイエスと名付けよ」と。イエスという名前は「主は救う」の意味です。マタイは「彼はおのれの民をそのもろもろの罪から救うからである」とみ使いの言葉を解説しています。「罪からの救い!」。これこそ聖書の中心的なメッセージです。神の救いのわざが今、もっとも根本的な人間の真の敵である罪と死に向けられます。十字架はクリスマスのメッセージでもその中心を占めています。

数年前、スウェーデンのチェリスト、べアンテ・ボーマンさんが友人のフィンランドのチェリスト、ラッセルさんの証しをしてくださいました。イエス様とラッシーとの会話。主イエス様「お金をくれないか」。ラッシー「いやだ」。「お前の才能をくれないか」「いやだ」、「お前の命をくれないか」「いやだ」。それから「お前の罪をくれないか」「あ~、罪なら喜んであげるよ。持っていてくれ」。その時、救いの恵みが分かった!罪と交換に、新しい神の子の命をいただいた彼は、今、教会で牧師にまでなっているとのことでした。

3) 23「見よ,おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。(23節)

⇒ インマヌエル!    《神の臨在こそわが救い》   

 マタイはイザヤの預言を引いて言います。「その名はインマヌエル」と。インマヌエルとは「神われらと共にいます」という意味です。その意味するところは限りなく深い。神は、人間の罪の現実に絶望しつつ、なお、われらを見捨てられない。最愛のひとり子、主イエスをあがないの犠牲としてまでも、わたしたちを愛し、受け入れられる。この天の父が共にいませば、全人類は平安の中を歩む。「臨在こそわが救い」はBFバックストン先生の愛誦句。

クリスマスとは神がわたしたちの破れを共に負い、肉体を取ってわれらの悲しみを共有するためにベツレヘムの馬小屋にまで降られたできごと。それは「驚くべき神の愛の激突」。それは聖霊なる神のなさる業、十字架の罪の贖いと、インマヌエルの臨在信仰に生きることを示します! ハレルヤ

【祈り】 全能なる御神。人類の不信仰と反逆を見捨てることなく、驚くばかりの愛をもってわれらを受け入れ、救うためにあなたは来られました。わたしどもの霊の目を開き、聖霊の助けによって救いに導かれ、御子の十字架の贖いにより罪から救われ、父なる神の聖臨在をもって魂に平安を与えて下さい。われらを罪から救う主イエスの御名によって祈ります。アーメン